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鹿児島県のアーチ式石橋 福平の橋  鹿児島市下福元町

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鹿児島県のアーチ式石橋 福平の橋  鹿児島市下福元町

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」によるデータは、次のとおり。最後の写真は、国道225号川辺峠近くから見た鹿児島市街の眺望。

№1,526  福平の橋

鹿児島市下福元町
草野川
橋長:7.0m  橋幅:14.7m  径間:3.5m  拱矢:1.9m  環厚:48cm

国道225号線と国道226号線の分岐点、影原交差点から国道225号線を川辺方面へ300mのところに架かっています。
観察ポイントは上流側です。
下流側は降りるのが難しいです。下流側はボックスで拡幅。

清泉寺跡の磨崖仏群  鹿児島市下福元町草野

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清泉寺跡の磨崖仏群  鹿児島市下福元町草野

鹿児島市「谷山市民会館だより」平成25年10月号による記事は、次のとおり。

校区の文化財紹介シリーズ 第3回目は福平校区の清泉寺跡磨崖仏を紹介します。

国道225号線の向原バス停から、海の方向に五分ほどくだったところに清泉寺跡があります。川辺の宝福寺の末寺である清泉寺は、慈眼寺と同じように百済(韓国)の日羅上人が開いたといわれています。寺の本尊は日羅上人の作と伝えられている高さ約2・7メートルの阿弥陀磨崖仏です。隣りに「建長3(1251)年と刻んだ鎌倉時代の小磨崖仏もあります。
寺は一時すたれましたが、応永年間(1394〜1427)に覚卍和尚によって再建され、さかえました。しかし1869(明治2)年の廃仏毀釈で廃寺になりました。寺跡一帯は、うっそうとした樹木におおわれ、岩間から清水がわき出し、清泉の名にふさわしい所です。
寺跡には石垣、覚卍和尚の墓、板碑群、五輪塔群、2メートルを越える磨崖仏など、昔の面影を残しています。

鹿児島県のアーチ式石橋 影原橋(仮称)  鹿児島市下福元町影原

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鹿児島県のアーチ式石橋 影原橋(仮称)  鹿児島市下福元町影原

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」によるデータは、次のとおり。

№1,510  影原橋(仮称)

鹿児島市下福元町影原
野頭川
橋長:10.5m  橋幅:13.0m  径間:3.7m  拱矢:1.5m
架設:不詳

国道225号線と国道226号線の分岐点、影原交差点から国道225号線を280m北に架かっています。
上流側はコンクリートで拡幅してあります。
内壁には数字と図形が書き込んでありました。工事の準備でしょうか?
ちょうど下流側の家の方が出てこられましたので、お話をお伺いしました。
この橋は日露戦争の頃からあるそうで、現在はこの家と共にかなりかさ上げしてあるそうです。

慈眼寺公園の石橋群  鹿児島市慈眼寺町

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慈眼寺公園の石橋群  鹿児島市慈眼寺町

一般社団法人 九州地域づくり協会HP「土木遺産in九州」による説明は、次のとおり。 そのほか公園内で見かけた小さな桁橋なども写した。

慈眼寺公園の石橋群  鹿児島市

所在地・完成年等 施設の形式・諸元
●所在地:鹿児島県鹿児島市慈眼寺町
●完成年:(遊仙橋)1927年(昭和2年)、(稲荷橋、洗心橋)不詳、(澄心橋)1929年(昭和4年)
●設計者:不明
●施工者:不明
●管理者:不明
●文化財指定等:市指定文化財

【遊仙橋】
●橋長:8.66m ●幅員:2.32m  ●支間:2.5m(3連) ●形式:石桁
【稲荷橋】
●橋長:12.3m ●幅員:2.45m  ●形式:石桁(5連) 
【洗心橋】
●橋長:9.85m ●幅員:2.29m  ●形式:石桁(5連)
【澄心橋】
●橋長:10.15m ●幅員:3.73m  ●形式:1連石造アーチ橋

遺産の説明(社会的背景・歴史的・文化的価値など)
慈眼寺は飛鳥時代(約1300年前)百済の名僧日羅によって開基されたと伝えられ、日羅がつくった観音像が安置されていました。その後、1542(天文11)年、島津家15代貴久のとき改宗して福昌寺の末寺となりました。坊津の一乗院、志布志の宝満寺とともに薩摩の三ヶ寺と言われて有名でしたが、1869(明治2)年の廃仏毀釈により取り壊されました。慈眼寺跡は1974(昭和49)年に名勝として鹿児島市の文化財に指定されています。現在は、慈眼寺公園として市民の憩いの場所となり、園内には4つの石造橋が残されています。

交通アクセス
JR指宿枕崎線の慈眼寺駅まで徒歩で約10分。慈眼寺公園バス停より300m

鹿児島県のアーチ式石橋 澄心橋  鹿児島市下福元町 慈眼寺

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鹿児島県のアーチ式石橋 澄心橋  鹿児島市下福元町 慈眼寺

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」によるデータは、次のとおり。

№610  澄心橋

鹿児島市下福元町 慈眼寺
和田川
橋長:10.2m  橋幅:3.7m  径間:9.0m  拱矢:3.1m  
架橋:昭和4年

洗心橋から国道225号線に戻り、谷山港区入口から600m南進、大御堂バス停より右折、870m先左折、指宿枕崎線のガードをくぐり、すぐ右手に慈眼寺入口。

慈眼寺跡と慈眼寺公園  鹿児島市下福元町

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慈眼寺跡と慈眼寺公園  鹿児島市下福元町

ウィキペディアフリー百科事典による説明は、次のとおり。石橋群は別掲。

慈眼寺

慈眼寺(じげんじ)はかつて鹿児島県鹿児島市下福元町に存在した曹洞宗の寺。現在は市営の「慈眼寺公園」となり、桜や紅葉の名所として市民に親しまれている。

沿革
『三国名勝図会』等によると百済の僧侶・日羅によって飛鳥時代の頃に建立されたと言われるが、その後の経緯は明らかではなく、存在が確実になるのは応永年間に島津久豊によって再興されたときからである。天文11年(1542年)には島津貴久によって福昌寺18世・代賢和尚を新たに開祖として迎えて伽藍が建立され、曹洞宗寺院へと転じた。その後、18代当主島津家久の菩提寺となって「慈眼寺」と改名する。
実質的な薩摩藩祖の菩提寺と言うことで大変に栄え、一乗院、宝満寺と共に「薩摩三名刹」と言われた。しかし、明治期の廃仏毀釈の為に完全に破壊された。現在では跡地は公園となり、入り口に残る仁王像や公園に点在する石仏ぐらいしか跡を偲ぶ物は残っていない。
昭和49年(1974年)、名勝・慈眼寺跡として、市の文化財に指定。

施設
そうめん流し 期間:3月中旬〜10月末時間:10:00〜17:30(日祝10:00〜18:30、7・8月10:00〜19:00)

鹿児島県のアーチ式石橋 洗心橋  鹿児島市和田町和田

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鹿児島県のアーチ式石橋 洗心橋  鹿児島市和田町和田

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」によるデータは、次のとおり。

№609  洗心橋

鹿児島市和田町和田
和田川
橋長:8.6m  橋幅:3.8m  径間:8.0m  拱矢:2.9m
架橋:大正6年

潮見橋の約100m先右手、妙行寺・谷山幼稚園の前に架かっています。

鹿児島県のアーチ式石橋 潮見橋(撤去)  鹿児島市和田町和田

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鹿児島県のアーチ式石橋 潮見橋(撤去)  鹿児島市和田町和田

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」によるデータは、次のとおり。河川改修事業で2006年撤去された。

№608  潮見橋(撤去)

鹿児島市和田町和田
和田川
橋長:32.0m  橋幅:5.0m  径間:10.3m  拱矢:3.5m
架橋:明治23年

照国神社から国道225号線を10.5Km南下、谷山港区入口交差点を直進(国道225号線は右手にカーブしている)50m先に架かっていました。

寿昌寺の仁王像  薩摩川内市入来町副田

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寿昌寺の仁王像  薩摩川内市入来町副田

入来麓武家屋敷群の北側から橋を渡って、国道328号線へ出る。その国道沿い。現地説明板は、次のとおり。
最後の写真は、県道328号で鹿児島市へ戻る。入来峠手前で見た清浦ダム上の大谷山(標高444.7m)か。

寿昌寺の仁王像

仁王は、釈迦に仕え仏法やその聖域(寺院や仏壇)を守護する執金剛神が阿形・吽形二体に分化したもので、「二王」とも呼ばれています。また、裙(裳)を腰に纏うだけの上半身裸形で、筋骨隆々とした姿で表されることから「金剛力士」とも言われます。
この仁王像は下半身がありません。ある人が切り取って石臼を作ったためで、その人は後に仏罰を受け歩けなくなったそうです。製作年は不明ですが、江戸時代初期のものではないかと言われています。
寿昌寺は、入来院氏の菩提寺であり、領内随一の寺院として明治維新の廃仏毀釈まで尊崇されました。
平成23年2月  薩摩川内市教育委員会

鹿児島県のアーチ式石橋 新大橋  薩摩川内市入来町浦之名

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鹿児島県のアーチ式石橋 新大橋  薩摩川内市入来町浦之名 

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」によるデータ及び鹿児島県教育委員会HPの「鹿児島県の文化財」による説明は、次のとおり。
後ろの写真は、新大橋の後川内川上流、「船越橋」の昔の親柱。県道42号船越公民館前に残されていた。

№588  新大橋(しんたいばし)

入来町浦之名
後川内川
橋長:24.7m  橋幅:4.1m  径間:10.9m  拱矢:4.4m
架橋:明治42年

船越橋より県道42号線に戻り1.5Km先左手に架かっています。現役の2連橋です。
3年3ヶ月ぶりの訪問。国登録有形文化財に指定されていました。
登録有形文化財  新大橋
「この橋は、後川内川に架けられており、県道蒲生線(現在の川内加治木線)の開通に伴い寄付金を集めて、当時の工費250円にて架橋されました。
昭和34年(1959)3月には、自動車等の普及による橋の拡幅工事が行なわれました。また、近くにある記念碑は、正面に由緒が記され、両側面と裏面に建設資金の寄付者名が記されています。」
指定日 平成16年(2004)11月8日

新大橋 しんだいばし

所在地:薩摩川内市入来町浦之名蒲生原
構造規模:石造2連アーチ橋,長24m,幅3m
竣 工:明治42(1909)年
町の中央部を東西に流れる後川内川に架かる道路橋。橋長24m,幅員3m,径間長11mの石造2
連アーチ橋。壁石は布積(水平積み)で築く。近世以降蓄積された石造技術を生かしつつも,道路交通
に配慮した反りのない直線的な形状で,近代性が表れている。
登録有形文化財:46-0016 平 1611.8 登録
登録基準:国土の歴史的景観に寄与しているもの