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大博通りの「おポンプ様」と「金印」  福岡市博多区店屋町ほか ( 福岡県 )

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大博通りの「おポンプ様」と「金印」  福岡市博多区店屋町ほか

博多「大博通り」歴史の散歩道を、蔵本から博多駅まで歩いていて見かけた「おポンプ様」と「金印」。店屋町三井ビル前「おポンプ様」の現地説明板は、次のとおり。
有名な後漢書に出てくる奴の国王の「金印」。志賀島で発見された金印「漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)」の福岡市博物館に展示してある大きなモニュメントは、博多駅寄りの歩道反対側にあった。
大博通りには、また13世紀の船の「錨石」。現在の日通ビル付近から出土。実物のようだが、完全にベンチ扱いとして展示しているらしい。

おポンプ様
このポンプは本体に鋳型で彫り込まれた文字から「二聯ケーボ號津田式」と判読される。この二連式手押ポンプは第2次世界大戦頃から昭和27〜28年頃に全国的に愛用されていたポンプで、この30数年間全く製造されていないようで、当時のメーカーも今はない。単式のものは製品として残存するが、このニ聯(常用漢字では「二連」)式は非常に珍しいものです。

HP「博多の魅力」博多の豆知識による説明は、次のとおり。

大博通りに おポンプ様!?
大博通りに設置されている,その名も“おポンプ様”。
現在は使用されていないのですが,1945年の福岡大空襲にも耐え,1978年の福岡大渇水の時にも活躍。その後,通りの拡張工事で撤去される予定だったところ,市民の働き掛けで保存されることになったそうです。
“おポンプ様”という名前を付けるところから,博多っ子のユニークさや歴史を大切にする心意気を感じますね。
場所は,博多区店屋町1−35 博多三井ビルディング2号館 前です。

東 長 寺  福岡市博多区御供所町 ( 福岡県 )

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東 長 寺  福岡市博多区御供所町

HP「福岡市の文化財」による説明は、次のとおり。JR博多駅から北西に大博通りを祇園町交差点の先まで行くと、右側の御供所町に東長寺はある。「福岡大仏」は参拝無料だが、撮影禁止だった。

東長寺  博多区
指 定  その他
区 分  その他
種 別  その他
所 在 地  福岡市博多区御供所町2−4
時 代  平安、江戸、その他
所 有 者  宗教法人 東長寺
紹介文
真言宗九州教団の本山。山号は南岳山。本尊は弘法大師。寺伝では大同元年(806)、唐から帰国した空海(弘法大師)が海辺の地に一伽藍を建立、密教東漸を祈ったと伝える。近世、その地を勤行町(行町)と称した。後、兵火による焼失で、二代福岡藩主黒田忠之が現在地に再建した。
千手観音像(藤原時代)は重要文化財。輪蔵と覆屋からなる六角堂は形態的・機能的に優れた仏殿で市指定建造物。寺内に黒田忠之、光之(三代藩主)などの墓があり、黒田家墓所として市指定史跡となっている。
平成4年には「福岡大仏」が完成し、その横には宝物展示室もある。

博多遺跡群内石塁遺構  福岡市博多区奈良屋町 ( 福岡県 )

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博多遺跡群内石塁遺構  福岡市博多区奈良屋町

サイト「近世以前の土木・産業遺産」福岡県リストによるデータは、次のとおり。JR博多駅から北西へ大博通りを蔵本交差点まで行く。昭和通り側、博多小学校南門に石塁遺構展示室入口があり、地下に展示している。
同展示室は、毎週土・日曜日10〜17時のみ公開。無料。最後の「この石塁はなんだろう?」は、見学者配布用の資料から。

博多遺跡群内石塁遺構 はかた
福岡市(博多区) 博多小学校・石塁遺構展示室 石塁 長53m,高1.4m,幅3.3〜3.5m 建治2(1276)? 市教委/現地解説板 発掘物の展示/毎週土・日曜日10-17時公開 運動場の地下2mで発見/標高3.5m砂の上に、大小の石を積み上げて築いている/元寇防塁の可能性が高い 3 C

HP「福岡市の文化財」による説明は、次のとおり。

博多小学校石塁遺構展示室  博多区
指 定  その他
区 分  埋蔵文化財
種 別  埋蔵文化財
所 在 地  福岡市博多区奈良屋町1-38
時 代  鎌倉
所 有 者  福岡市
紹介文
平成10年から約1年をかけて行われた博多小学校の発掘の結果出土した石塁(石垣)を学校校舎の地下に展示している。
発掘調査では、鎌倉時代の石塁、室町時代から江戸時代はじめころの屋敷跡、井戸、溝などの遺構が見つかった。また、中国、朝鮮製の陶磁器や銅銭、日本製の土器、瓦などの遺物が大量に出土した。
展示室中央の石塁は、標高約3.5mの砂の上に、大小の石を積み上げて築いてある。発掘では、西側の幼稚園の下から東の体育館の方向に全長53mが見つかり、一直線にのびていることから石塁遺構と名付けられた。幅は3.3〜3.5mで、両側に大きな石を積み上げ、その間には小さな石を詰め込んでいる。
石の積み方や規模が、西区の今津や早良区西新に残っている元寇防塁に良く似ていること、また博多小学校の位置が、旧地形を復元すると海岸部の砂丘に当たることから、博多に築かれた元寇防塁ではないかと推測されている。

宗像大社(辺津宮)  福岡県宗像市田島 ( 福岡県 )

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宗像大社(辺津宮)  福岡県宗像市田島

連休に帰省した長男の途中下車の旅。2016年5月3日撮影。ウィキペディアフリー百科事典による説明は、次のとおり。
筑前大島の宗像大社(中津宮)は、本ブログ次を参照。 https://misakimichi.com/archives/2883  

宗像大社

宗像大社(むなかたたいしゃ)は、福岡県宗像市にある神社。式内社(名神大社)で、旧社格は官幣大社。日本各地に七千余ある宗像神社、厳島神社、および宗像三女神を祀る神社の総本社である。祭祀の国宝を多数有し、裏伊勢とも称される。

概要
「宗像大社」は沖ノ島の沖津宮、筑前大島の中津宮、宗像市田島の辺津宮の三社の総称であるが、現在では辺津宮のみを指す場合も多い。地図上で辺津宮から11km離れた中津宮、さらに49km離れた沖津宮を線で結ぶと、その直線は145km離れた朝鮮半島釜山の方向に向かう。古代から半島と大陸の政治、経済、文化の海上路であった。古くから海上・交通安全の神としての神威にちなみ、信仰されているが、現在では海上に限らず、陸上・交通安全の神として信仰を集めている。そのため、福岡県内では宗像大社のステッカーを貼った自動車が多数見受けられるほか、新車を購入した際に御祓いを受ける人も非常に多い。また、車に装着する交通安全のお守りは宗像大社が発祥である。

海上交通の要所に位置する沖ノ島に祀られている沖津宮は、「おいわずさま」と呼ばれ島全体が御神体である。そのため現在でも女人禁制であり、男性であっても上陸前には禊を行なわなければならない。昭和29年以来十数年に渡り沖の島の発掘調査が行われ、4・5世紀から9世紀までの石舞台や古代装飾品などの大量の祭祀遺物が発見された。このことから、沖の島は俗に「海の正倉院」と呼ばれており、古代から信仰の対象とされていたことが偲ばれる。現在は、台風などの緊急避難港に指定されている。

近年、沖ノ島を世界遺産にする運動が起こり、2009年1月5日に沖津宮・中津宮・辺津宮及び沖津宮遥拝所と沖ノ島全体を含めて、『神宿る島・宗像・沖ノ島と関連遺産群』の構成遺産として世界遺産暫定リストに追加掲載された。2015年には推薦候補となる事が決定した。なお審査は2017年に行われる予定である。

能 古 島  福岡市西区能古 ( 福岡県 )

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能 古 島  福岡市西区能古

能古島(のこのしま)は、博多湾の中央に浮ぶ面積3.95km² 周囲12kmの島。福岡市営渡船(フェリー)が、福岡市西区の姪浜旅客待合所(能古渡船場)と能古島を結ぶ。1日23便(日祝日は21便)、所要時間約10分、片道運賃大人230円。 
福岡市HPの文化財による説明は、次のとおり。散策地図は、西区役所編集・発行から。

6.能古島歴史ロマン散歩

博多湾内に浮かぶ西区能古島は、東西2km、南北3.5kmの南北に長いナスビ形の島で、全体が台地状を呈し、最高所の標高は195mである。これまでの調査で弥生時代の遺跡や古墳群が見つかっており、奈良時代の『万葉集』には遣新羅使や志賀白水郎の歌のとして能古島の名が登場する。歌からはこ の島に防人が配置されていたとわかる。平安時代には牛牧が置かれ(『延喜式』)、1019の刀伊の入冦の時には大きな被害を受けた(『朝野群載』)。近世の 能古島は廻船の基地として栄え、また福岡藩の鹿狩りの猟場であった。

現在の能古島は、島の南部に能古島博物館、北部の也良崎に能古島アイランドパークが整備されており、周遊コースは歴史とロマンに浸り、島の自然を楽しむ1日コースである。島へは姪浜港からの市営渡船で約10分。

能古島の古土手  福岡市西区能古 ( 福岡県 )

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能古島の古土手  福岡市西区能古

サイト「近世以前の土木・産業遺産」福岡県リストによるデータは、次のとおり。「能古島の鹿垣」は前記事とした。これは牛や馬を放牧していたときの名残と言われている「古土手」である。
山頂の平坦部にあるというから、展望台付近の雑木林内を探したが見つけきれない。付近の農家に聞くと、自宅のミカン畑の裏手尾根にあると、畑奥へ案内してくれた。

そこは展望台入口と思索の森入口との間の「小平谷」というバス停手前の電柱付近。バス通りからまっすぐな坂の農道(民家脇にも土塁を確認できる)と、それに続く山道が上がり、左側に古い土塁跡を確認できた。土塁上はもう大木となった木が茂り、これが山頂の方へ続いていると言う。
鹿垣説明板の中にあったオレンジ横線が、「古土手」の位置なので、「小平谷」のここも間違いないだろう。

能古島の古土手 のこのしま、ふるどて
福岡市(西区)(能古島) 馬垣(石塁) 約350m 江戸期 WEB 当初の長さは不明 牛や馬を放牧していたときの名残と言われている/鹿垣の北約600mに東西に走る 3 B

能古島の鹿垣  福岡市西区能古 ( 福岡県 )

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能古島の鹿垣  福岡市西区能古

サイト「近世以前の土木・産業遺産」福岡県リストによるデータは、次のとおり。能古島(のこのしま)は、博多湾の中央に浮ぶ島。福岡市営渡船(フェリー)が、福岡市西区の姪浜旅客待合所(能古渡船場)と能古島を結ぶ。1日23便(日祝日は21便)、所要時間約10分、片道運賃大人230円。
「能古島の鹿垣」説明板は、2箇所にある。能古渡船場から展望台入口に上がるバス通りの途中と、その先から左へ案内標識により奥に入る。福岡ひまわりの里への車道であるが、こちらが壮観だった。

能古島の鹿垣 のこのしま、ししがき
福岡市(西区)(能古島) 鹿垣(土塁,石垣) 東西約2㎞,高2mの土盛りの北側に30〜50㎝大の石,その前面に幅3mの溝 天保7(1836) 市教委 現存するのは長600m程度 福岡藩の鹿の狩猟場/田畑への鹿の被害が著しかったため、島を南北に分断する石垣を築いた 2 B

福岡市HPの文化財による説明は、次のとおり。

鹿 垣  西区
江戸時代の後期、能古島は黒田藩の鹿の狩猟場であった。ところが田畑への鹿の被害が著しかったため、東の北浦から西の白鳥までの東西約2kmにわたり島を南北に分断する石垣を築いた。これが現在も残る鹿垣で、天保7年(1836)に完成したという。
その構造は高さ2mの土盛りの北側に30〜50cm大の石を積み、その前面に幅3mの溝を掘ったもので、これで鹿が島の南部に出るのを防いだ。幕末にはグラバー(1838ー1911)なども訪れ、狩猟をしたというが、昭和20年頃を境に鹿は全滅した。
能古小・中学校と展望台入り口の間の道で鹿垣が切れた場所に説明板が設置されている。また鹿垣の北側、島の中央頂部に東西約350mにわたって土塁が残り、島の人は「古土手」と呼びならわしている。

櫛田神社  福岡市博多区上川端町1丁目 ( 福岡県 )

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櫛田神社  福岡市博多区上川端町1丁目

ウィキペディアフリー百科事典による説明は、次のとおり。櫛田神社は場所がわかりにくいが、国道202号中州新橋交差点から北の裏通りに入る。境内の大銀杏の根元には、蒙古碇石(前記事)もある。

櫛田神社 (福岡市)

櫛田神社(くしだじんじゃ)は、福岡市博多区にある神社である。
概要
櫛田神社は、古くより博多の氏神・総鎮守として信仰を集めている神社である。7月の博多祇園山笠や10月の博多おくんちなどの祭事をおこなう。5月の博多松囃子(博多どんたく)は厳密には櫛田神社の祭事ではないものの、松囃子一行は櫛田神社から出発するしきたりになっている。旧社格は県社。地元の博多の人々からは「お櫛田さん」と愛称で呼ばれている。
祭神
祭神は大幡大神(櫛田大神)、天照皇大神、素盞嗚大神(祇園大神)の三神で、正殿に大幡主神、左殿に天照大神、右殿に素盞嗚神が祀られている。
その他
境内には、通例祭り期間中にしか見ることができないはずの博多祇園山笠の飾り山が、歴史を伝えるために唯一常設されている。これは、昭和35年(1960年)から『走れ!山笠』を放送し続けている九州朝日放送(KBC)が奉納している(平成22年(2010年)のKBC枠放送で紹介された)。これらもあってKBCは他局に比べ比較的有利な条件で中継を行っている。また、境内の入り口付近には「櫛田の銀杏」とよばれる樹齢約1000年の銀杏の木がそびえる。「博多祝い歌」にも謡われ、県の天然記念物に指定されている。

上川端町の碇石1・2(蒙古碇石)  福岡市博多区上川端町1丁目 ( 福岡県 )

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上川端町の碇石1・2(蒙古碇石)  福岡市博多区上川端町1丁目 

サイト「近世以前の土木・産業遺産」福岡県リストによるデータは、次のとおり。福岡市博多区上川端町1丁目の櫛田神社大銀杏の根元に屋外展示。場所がわかかりにくいが、櫛田神社は国道202号中州新橋交差点から北の裏通りに入る。
今、3枚目の銀杏写真の根元を見ると、前後にたしかに碇石は2本ある。私はどうやら折損修復している「上川端町の碇石2(蒙古碇石)」の方は、写し忘れたようだ。

上川端町の碇石1(蒙古碇石) かみかわばた
福岡市(博多区) (1丁目)櫛田神社 碇石(凝灰質砂岩) 長252㎝ 10-13世紀 県考古資料 WEB 屋外展示 出土地:不明/中央部から先端にかけて直線的に細くなる/弘安の元冠時に元軍軍船使用の碇石(櫛田神社の解説板による)〔平安期の日宗貿易時の宗船の碇の可能性も排除できない〕 2 B

上川端町の碇石2(蒙古碇石) かみかわばた
福岡市(博多区) (1丁目)櫛田神社 碇石(花崗岩) 長226㎝ 10-13世紀 県考古資料 WEB 屋外展示/左1/3で折損→修復 明治40に聖福寺の山門の前で井戸を堀っていて地下5mから発見 2 C

井相田の碇石(蒙古碇石)  福岡市博多区井相田2丁目 ( 福岡県 )

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井相田の碇石(蒙古碇石)  福岡市博多区井相田2丁目

サイト「近世以前の土木・産業遺産」福岡県リストによるデータは、次のとおり。福岡市博多区井相田2丁目の福岡市埋蔵文化財センターに展示。国道202号外環状道路の井相田1丁目交差点から県道112号に入り、板付中学校の方へ向かうと、中学校手前に市埋蔵文化財センターがある。

井相田の碇石(蒙古碇石) いそうだ
福岡市(博多区) (2丁目) 市埋蔵文化財センター 碇石(凝灰質砂岩) 長209㎝→178㎝ 10-13世紀 県考古資料 WEB 重量測定の際に折損 出土地:博多港中央阜頭西200m、水深5m/中央部から先端にかけて直線的に細くなる/全体的に加工仕上げは粗く、機能的な面のみ強調 3 C