福岡県」タグアーカイブ

瀬戸の渡し  桂川町瀬戸 ( 福岡県 )

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瀬戸の渡し  桂川町瀬戸

サイト「近世以前の土木・産業遺産」福岡県リストによるデータは、次のとおり。国道200号の桂川町瀬戸交差点から県道473号に入り、すぐの橋先からJR篠栗線の踏切を渡り、泉河内川の右岸の道路を南に進むと、「瀬戸の渡し」に着く。
長崎街道と秋月街道の分岐点で、追分碑と案内標識がある。瀬戸の渡しは「10間ばかりの川幅」で、旅人達は泉河内川を歩いて渡った。渡りの傍らの川波家が当時の「川庄屋」で旅人はここで休息したと伝えられている。

瀬戸の渡し せと
(嘉穂)桂川町 泉河内川 渡渉場 江戸期 町教委 土手にくぼみが残る 参勤交代の大名も通った渡渉場 3 C

郡境石・カクメ石古墳石室  飯塚市柏の森 ( 福岡県 )

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郡境石・カクメ石古墳石室  飯塚市柏の森

飯塚市柏の森の飯塚市歴史資料館の庭に屋外展示中。内容は説明板のとおり。郡境石は、横25×幅20×高さ150cm。明治の標石でもともとあった場所は、現在の市東南部「鶴三緒」付近の嘉麻郡と穂波郡の郡境界という話。明治19年両郡は「嘉穂郡」となった。

飯塚宿の舫石  飯塚市柏の森 ( 福岡県 )

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飯塚宿の舫石  飯塚市柏の森

サイト「近世以前の土木・産業遺産」福岡県リストによるデータは、次のとおり。飯塚市柏の森の飯塚市歴史資料館に展示。資料館は新飯塚駅の東、国道201号立岩交差点から県道402号に入るとすぐ右方にある。
舫石は2本あり。大は、横25×幅10×高さ180cm。小は、横22×幅18×高さ145cm。

飯塚宿の舫石 いいづか、もやい
飯塚市 遠賀川 船繋石 江戸期 市有形民俗 市教委 飯塚市歴史資料館に移設 宿場町と遠賀川水運の接点 3 C

芦屋海岸の洞山  芦屋町山鹿 ( 福岡県 )

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芦屋海岸の洞山  芦屋町山鹿

芦屋町HPによる説明は、次のとおり。芦屋橋から国道495号により北東へ進み、芦屋歴史の里(芦屋町歴史民俗資料館)手前の洞山入口交差点から左折し海岸側へ出る。堂山の先に洞山の島がある。

洞  山

手前に堂山、沖に洞山と2つの岩地が連なった島です。もとは満潮時には、離れた2つの島でしたが、現在はともに地続きとなっていて、総称で洞山と呼ばれています。
洞山には、永年の風化でできた高さ10m、幅12m、奥行30mの洞穴があります。周辺は、千畳敷と呼ばれる平らな岩盤が連なり、また釣り人の姿も多く見られ、干潮時には家族で磯遊びが楽しめます。

川筋道道しるべ(元・山鹿の道標)  芦屋町山鹿 ( 福岡県 )

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川筋道道しるべ(元・山鹿の道標)  芦屋町山鹿

サイト「近世以前の土木・産業遺産」福岡県リストによるデータは、次のとおり。芦屋町役場近く、国道495号芦屋橋西から遠賀川を下流側へ行き、光明寺入口へ坂道を上がった先に、火切地蔵堂がある。この角に「筑前蘆屋宿搆口の跡」碑があり、「川筋道道しるべ」(追分石)が立つが、現在の標石は新しい御影石である。
芦屋町が平成7年頃、置き換えたもので、現物は芦屋町歴史民俗資料館の収蔵庫に保管されていた。砂岩製で破損の恐れあり、町がこのような措置を取ったということであったので、資料館で現物の標石を写させてもらった。

川筋道道しるべ かわすじ
(遠賀)芦屋町 <唐津街道> 石道標 高52㎝(欠損),18㎝角 文久元(1861) 町教委 欠損 「新町/濱口道 川筋道」 4 –

HP「お寺めぐりの友」による芦屋宿の川筋道道しるべ(追分石)の説明は、次のとおり。 

芦屋宿 あしや   旧:遠賀郡蘆屋村 現:遠賀郡芦屋町 ASHIYA STA.

概要
ここでは芦屋宿より海老津を経由し赤間宿に至るルートを紹介する。
ここに『筑前國続風土記』巻之14 遠賀郡上 ◯蘆屋あしやの項の内容を引用する。
「民家多く町頻すこぶる廣ひろし。富家も亦また多し。 岡の湊の南のほとりにあり。 むかひは山鹿がの里也。 遠賀川其間をへだつ。 旅船おおく出入して、交易の利多く、民家にぎはへり。 (以下略) 」
芦屋は「葦屋」「蘆屋」とも書き遠賀川の河口に位置し、流域の産物の集散地であった。
芦屋町の歴史については、芦屋歴史民族資料館に、かなりの遺物が保存されている。

ルート
渡船場跡 → 光明寺前 → 構口 → 芦屋小学校 →(以下略)

渡し場跡
渡場跡のすぐそばには、芦屋大橋がある。当時の渡船場の痕跡は何も残っていない。芦屋大橋のたもとにある石碑の裏に書いてある内容を書く。
「筑前21宿の1邑であった芦屋と山鹿間の往来は、渡船によって永い間行なわれていたが、 明治40年1907には町営となった。 当時の渡船料は大人が6厘、牛馬1頭口付1人共1銭1厘、 自転車は乗人共1銭であった。 渡し場は幅約8メートルの石畳の斜面 になっていて、福岡までの距離を示す元標が立っていた。大正6年4月旧芦屋橋が架けられると同時に渡船も廃止された。」

光明寺前
ここまで北上してきた街道はここで90度左にカーブする。 ここより西構口までは上り坂である。 光明寺は浄土宗のお寺で境内にはイチョウの古木がある。

構口
構口には、祠と梵字石それに追分石がある。梵字石の裏には弘化2年18465月吉日の銘がある。
追分石には「左濱口通 川筋道」 と刻まれている。(文久元1861銘)  この追分石は、真新しい御影石でできているが、近年置き換えられたのであろう。

(2015月11月28日 追 記)
サイト「近世以前の土木・産業遺産」福岡県リストによるデータは、次のとおり更新された。 

元・山鹿の道標 やまが
(遠賀)芦屋町 町歴史民俗資料館 石道標(砂岩) 高52㎝(欠損),18㎝角 文久元(1861) 町教委 収蔵庫内に保管/頂部欠損 (正面)「… 濱口道 川筋道」、(右面下部)「新町」 4 –

藍 島(2)  北九州市小倉北区藍島    ( 福岡県 )

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藍 島(2)  北九州市小倉北区藍島   

藍島(あいのしま)は北九州市の北4.2kmの響灘にあり、南北に細長く起伏の小さな平坦な島。面積0.68㎢、周囲13.2km。JR小倉駅北東側の砂津港ターミナル浅野乗り場から、北九州市営「こくら丸」により約35分で、馬島に寄り藍島港に着く。1日3便、料金は片道400円。
(1)は、藍島本村港から島の北部、千畳敷までの往路、(2)は、千畳敷と復路の島の東南部の風景。最後の藍島地図は、福岡県広域地域振興課ポータルサイトから。

藍 島(1)  北九州市小倉北区藍島 ( 福岡県 )

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藍 島(1)  北九州市小倉北区藍島   

藍島(あいのしま)は北九州市の北4.2kmの響灘にあり、南北に細長く起伏の小さな平坦な島。面積0.68㎢、周囲13.2km。JR小倉駅北東側の砂津港ターミナル浅野乗り場から、北九州市営「こくら丸」により約35分で、馬島に寄り藍島港に着く。1日3便、料金は片道400円。
(1)は、藍島本村港から島の北部、千畳敷までの往路、(2)は、千畳敷と復路の島の東南部の風景。最後の藍島地図は、福岡県広域地域振興課ポータルサイトから。

藍島遠見番所旗柱台  北九州市小倉北区藍島 ( 福岡県 )

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藍島遠見番所旗柱台  北九州市小倉北区藍島   

サイト「近世以前の土木・産業遺産」福岡県リストによるデータは、次のとおり。藍島(あいのしま)は北九州市の北4.2kmの響灘にあり、南北に細長く起伏の小さな平坦な島。JR小倉駅北東側の砂津港ターミナル浅野乗り場から、北九州市営「こくら丸」により約35分で藍島港に着く。1日3便、料金は片道400円。
本村の藍島隧道手前から左の千畳敷方面の高台道に入ると、10分ほど歩いた途中に「遠見番所旗柱台」案内標識があり、左のピーク原へ行く。近くの民家が遠見番所跡地のよう。
最後の藍島地図は、福岡県広域地域振興課ポータルサイトから。

藍島遠見番所旗柱台 あいのしま
北九州市(小倉北区)(藍島) 遠見番所の旗柱台(花崗岩) (2本)高2.4m,45㎝×62㎝ 享保6(1721) 県史跡 WEB 石柱2本と基盤石のみ残る 狼煙場は多いが、旗柱台は非常に珍しい/密貿易船を発見すると、紺地に白く染め抜いた三階菱の大旗をこの旗柱台に掲げて、中原の境鼻見番所(注 小倉北区中井浜、櫓山荘跡)に急報した 3 B

松江の郡境石(築城・上毛郡境石)  豊前市松江舟入 ( 福岡県 )

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松江の郡境石(築城・上毛郡境石)  豊前市松江舟入

サイト「近世以前の土木・産業遺産」福岡県リストによるデータは、次のとおり。豊前市の北西側、県道113号が国道10号と合流する舟入交差点まで行く。集落に入りすぐ右方の旧道を見ると、小橋の脇にこの郡境石が立つのが見える。
地元の話では、もともと橋手前右岸にあった(1枚目写真の右下にコンクリート跡あり)。一時、今空き家の門扉内庭に移され、市がその後、現在の橋を渡った左岸赤道上に立てたと言う。

松江の郡境石(築城・上毛郡境石) しょうえ
豊前市 (船入)<豊前道> 境界石 高200㎝,20.5㎝角 江戸期 市史跡 市教委/WEB(筑前国境石散歩) 移設→個人宅→再移設 (正面)「從是西 築城郡」、(右面)「從是東 上毛郡」/築城郡〜上毛郡 2 B

なお、地名が「舟入」というとおり、このあたりまで港だったらしい。国道の自動車学校となった川の下流側に古い築堤の石垣が残っていた。

宇島港12号護岸(地波止)・宇島港2号波除堤(新波止)  豊前市宇島港 ( 福岡県 )

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宇島港12号護岸(地波止)・宇島港2号波除堤(新波止)  豊前市宇島港

サイト「近世以前の土木・産業遺産」福岡県リストによるデータは、次のとおり。県道113号JR宇島駅前の東側、東八幡交差点から踏切を渡り、県道222号により宇島港へ出る。
まず「宇島港12号護岸(地波止)」は、宇島神社や宇島地先工業団地の入口道路一帯で、古い港跡の石防波堤を確認できた(写真1〜10)。
次の「宇島港2号波除堤(新波止)」は、これがどこなのか。新岸壁の先端へ行き釣り人に訪ねると、西対岸豊前発電所側沖の赤灯台あたりの波除堤を指し、松林地先から0,1,2,3と数えると言う。大分県の巡視艇ぶんごの職員も、地波止は教えてくれたが、2号波除堤は知らなかった。
正確な場所がわからず、とりあえず対岸の遠景なども写してきた(写真14〜18)。遺産サイトに確認をお願いしたところ、資料は不明だが現地写真の状況から、やはり手前岸壁の地波止反対側、巡視艇が係留しているあたりだろうとなった(写真12)。 

宇島港12号護岸(地波止) うのしま
豊前市 宇島港 石防波堤 文政8(1825) 市教委/歴史的な港湾施設資料集 埋立により天端部分のみ現存しているが、放置されている 外側に、根切り石を護る捨石として無数の巨石を敷設/米運送のための舟着場の整備と、諸国廻りの船舶の難波防止のため建設 3 C

宇島港2号波除堤(新波止) うのしま
豊前市 宇島港 石防波堤 弘化3(1846) 市教委/歴史的な港湾施設資料集 外形が残っているが、前面と天端部分はコンクリート被覆 4 C