月別アーカイブ: 2016年8月

高崎町前田の里程標  都城市高崎町前田 ( 宮崎県 )

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

高崎町前田の里程標  都城市高崎町前田

前記事の都城市高崎町前田の石敢當(谷川の石敢當)を訪ねた際に見かけた里程標。国道221号都城市前田交差点から、旧国道に入り約1kmの右側にあった。
気まぐれトンビ:高崎町前田の里程標 – livedoor Blog(ブログ)による2013年08月18日記事は、次のとおり。

高崎町前田の里程標

60基目となる里程標は、都城市高崎町前田の旧国道沿いに立っていました。
所在地…都城市高崎町前田607‐6付近。
詳細…国道221号都城市前田交差点から、旧国道に入り約1キロの右側。
西→東方向
旧国道西側からの画像。里程標は中央付近左寄りに立っています。
里程標(表)
距宮崎元標拾九(里)…
深く埋まっていますが、恐らく19里の里程標でしょう。7.7キロ先に立つ小林市堤の21里とも線で繋がりました。
※20里は西諸県郡高原町西麓3043付近に立っていたと思われます。
高さ 71.2センチメートル
幅  24.2センチメートル
里程標(右)
高崎ヘ ……
右面は判読困難です。
里程標(左)
高原ヘ 参拾町拾四間壹…
里程標(裏)
明治三十六年八月

高崎町前田の石敢當 (谷川の石敢當) ほか  都城市高崎町 ( 宮崎県 )

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

高崎町前田の石敢當 (谷川の石敢當) ほか  都城市高崎町

サイト「近世以前の土木・産業遺産」宮崎県リストによるデータは、次のとおり。都城市高崎町の現地を私が訪ねたかぎり、いずれも所在不明となっているようだったので、都城市教育委員会に調査をお願いしたい。
後ろに「民族信仰 日本の石敢當」慶友社2004年刊と、「高崎町史」の関係頁を載せる。 

高崎町前田の石敢當 (谷川の石敢當) たかざき、まえだ
都城市 谷川公民館・前 石敢當(砂岩) 高25㎝,15㎝角 江戸中期 日本の石敢當p131/市教委(高崎町史) 移設/砥石に使用されたらしく背部は磨り減っている (正面)「(梵字)石敢當」 3 –

(谷川の石敢當)は、大字前田字谷川の谷川自治会公民館前にあるとあるが、現在地の新しい公民館前のは、石敢當ではなかった。地元で調べると、公民館は以前、谷川バス停角の現在、草地の駐車場のところにあった。近くの田の神にある集落案内板によると、確かにここに「石敢當」と表示されているが、その後、この石敢當がどうなったか、聞き込みは得られなかった。(写真1〜6)

高崎町大牟田の石敢當3 (荒場の石敢當) たかざき、おおむた
都城市 (荒場) 石敢當(凝灰岩) 高48㎝,幅25㎝,厚10㎝ 江戸末期 日本の石敢當 p130/市教委(高崎町史) (正面)「石敢當」 –

(荒場の石敢當)は、大字大牟田字4520の荒場義雄家の氏神様と並立しているとある。荒場の入口の該当地番を訪ねるが、名前が変わり、近所で聞き込みが得られなかった。

高崎町大牟田の石敢當2 (西村の石敢當) たかざき、おおむた 都城市 (西村) 石敢當 高55㎝,幅24㎝,厚20㎝ 江戸後期 日本の石敢當 p130/市教委(高崎町史) (正面)「奉修石敢當」 –

(西村の石敢當)は、大字大牟田字西村前3670 福原家の屋敷内(三叉路突き当たり)にあるとあるが、ここも新住宅地となっているようで、石敢當の確認はできなかった。(写真7〜8)

紙屋関所跡の井戸  小林市野尻町紙屋 ( 北海道 )

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

紙屋関所跡の井戸  小林市野尻町紙屋 

サイト「近世以前の土木・産業遺産」宮崎県リストによるデータは、次のとおり。小林市から東方に国道268号により野尻町紙屋まで向かい、紙屋大橋手前から左折する。紙屋小学校前を過ぎ、すぐ左の急坂を登ると、校庭プール側の反対角の石垣上が「紙屋関所跡」で、鉄板で蓋した「紙屋関所跡の井戸」が残る。

紙屋関所跡の井戸 かみや
小林市 野尻町紙屋<肥後街道> 石井戸 17世紀 市史跡 市教委 鉄板で蓋 薩摩藩の9つの関所の1つ紙屋関所に残る唯一の遺構 2 –

野尻城跡の井戸  小林市野尻町東麓  ( 宮崎県 )

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

野尻城跡の井戸  小林市野尻町東麓 

サイト「近世以前の土木・産業遺産」宮崎県リストによるデータは、次のとおり。小林市の東方、国道268号野尻町光雲寺角の東仲町交差点から県道42号に入り、約1kmほど南下すると、右側の市道分岐に「野尻城跡の井戸」の案内標識がある。右折してこの道を城之下橋を渡り登って行く。田に出て右側の農道を案内標識によりUターンするように登って進むと、やがて「野尻城跡の井戸」に着く。

野尻城跡の井戸 のじり
小林市 野尻町東麓 石井戸 中世 市史跡 市教委 枠石は江戸期のもの 野尻城・新城の第2郭のほぼ中央(居館跡と推定)にある井戸 3 C

現地説明板は、次のとおり。

市指定史跡 野尻城井戸跡   指定年月日 平成元年11月4日
この井戸跡は、南北朝時代から天文年間(戦国時代の末期)に造られた貴重な遺構である。
伊東48城の1つで、西諸地域における守備の拠点としての役割を持っていた野尻城「新城」の第二郭のほぼ中央にあり、素掘りの井戸で、井桁もなく江戸初期の廃城令後も数百年放置されたままであったが、小林市(旧野尻町)教育委員会が、往時の古井戸の役割を想像し、昭和62年11月に現在の保存状態に改善したものである。
この井戸が存在する位置などから、城内の居住者たちに清涼な飲料水を供給したと推察されるが、井戸内の遺物や水質など詳細は不明である。
平成26年10月  小林市教育委員会

広原の石敢當  高原町大字広原字井手ノ上 ( 宮崎県 )

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

広原の石敢當  高原町大字広原字井手ノ上  

サイト「近世以前の土木・産業遺産」宮崎県リストによるデータは、次のとおり。小林市から県道405号により
JR吉都線広原駅入口の高原町広原交差点まで行く。広原小学校の校庭側道を回り込んで進むと、王子神社前の三叉路に着く。王子神社の参道口石段右側に立つのが、広原の石敢當である。

広原の石敢當 ひろわら
(西諸県)高原町 (井手上) 石敢當 高50㎝,幅25㎝,厚6㎝ 天明5(1785) 日本の石敢當p127 不詳 –

享保用水路  えびの市大字大河平  ( 宮崎県 )

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

イメージ 14

イメージ 15

イメージ 16

イメージ 17

イメージ 18

イメージ 19

享保用水路  えびの市大字大河平  

サイト「近世以前の土木・産業遺産」宮崎県リストによるデータは、次のとおり。国道221号えびの市五日市交差点から、川内川の上流「クルソン(狗留孫)峡」の方へ向かうと、林道脇に享保用水路が流れる。享保水路地図参照。
クルソン大橋分岐に「享保水路説明板」があり、これからバラス林道に入り石床の立石林業(株)山林詰所近くに「享保水路記念碑」、しばらく先に進むと「享保水路井堰」があり、ここが川内川からの取水口である。
下流側の「享保水路太鼓橋」は、前記事とした。国道221号八幡岳公園入口のところに「享保水路改修之碑」があった。一部当時のままの区間があるようだが、どこかわからなかった。

享保用水路 きょうほう
えびの市 川内川 用水路 長6.8㎞,幅2.1m 享保17(1732) WEB 昭和7-10、54-60に大改修/一部当時のまま 川内川上流から取水し、飯野平野一帯の水田を潤す用水路/言い伝えによると、瑞山寺の僧が水利計画を思い立ち、村民の総意を得て、測量器具のない時代、提灯をあちこちに置いて土地の高低差を測り、苦労をして造られたとされる 3 C

文化遺産オンラインによる「享保水路井堰」の説明は、次のとおり。

享保水路井堰 きょうほうすいろいぜき

近代その他 / 明治 / 九州
宮崎県
明治/1906/1914・1926-1988改修
石造、堤長31m、堤高2m
1基
宮崎県えびの市大字大河平字石床地先
登録年月日:20040217
上方土地改良区

登録有形文化財(建造物)

享保水路へ用水を取り入れるために川内川上流に築かれた取水堰。堤長31m,堤高2mで,下流側の法勾配を約1割とした布積の石造堰に石張の水叩が連続する精緻なつくりの石造構造物。えびの市東部316haの農地を潤してきた灌漑用水の要となる施設。

享保水路太鼓橋  えびの市大字大河平 ( 宮崎県 )

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

享保水路太鼓橋  えびの市大字大河平  

サイト「近世以前の土木・産業遺産」宮崎県リストによるデータは、次のとおり。国道221号えびの市五日市交差点に「めがね橋」案内標識あり、有馬川の左岸上流へ向かう。公園の左下に前記事の「めがね橋」が架かり、「めがね橋」からさらに約400mほど上流に進むと、「享保水路太鼓橋」がある。享保水路地図参照。

享保水路太鼓橋 きょうほう
えびの市 (大河平) 享保水路/有島川 石アーチ橋(水路) 長34m(A),幅9.6m 明治3(1870) 国登録 WEB(石橋) 1850頃に架設され、明治3に大修理が加えられたと書いてある場合も多いが、ここでは明治3の「大修理」が石アーチ化された時期と判断する→対象外

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」宮崎県の石橋によるデータは、次のとおり。

№25 享保水路太鼓橋

えびの市大字大河平 字土川
有島川
橋長:34.0m  環厚:50cm
完成:明治3年(1870年)

国道221(268)号線道沿いに「めがね橋」案内標識あり。
そこから県道404号線へ入り、約300m先案内板の立っているところより右折
道なりに進み約1.3Km、左手に「めがね橋」あり。
そこから約400m進むと左手にあります

享保水路太鼓橋 国登録有形文化財
太鼓橋の歴史
「太鼓橋は、110×50×50cmの石を積み上げた用水路兼農道専用の橋で、この地に江戸末期(1850年ごろ)構築されたと言われています。
それ以前は大雨のたび、有島川を横断する水路が流失していました。しかし、この橋を架けてからは、その心配もなく、現在でも飯野平野を潤す享保用水路の重要な一部を担っています。」
えびの市耕地課・宮崎県農村建設課

「太鼓橋は、享保水路の途中にある有島川を越えさせるための石橋で、橋の中央を幅1.6mの水路が通り、両側に幅西3.5m東4.5mの農道がついている。
この橋ができる以前は、約200mほど上流を木桶で通水していたらしいが、もっと多量の通水を可能にするために、この橋が造られたという。
二重積みアーチ型で、橋の壁石は、勾配をつけて積み上げられていて、しかも、勾配の途中で段差がつけられていて、珍しい型とされている。
建造年月日は不明であるが、“忠義公資料”に“此溝筋ヲ今三四尺程モ相弘メ・・・本陣原堀続キ、中途太鼓橋一ケ所ヲ架シ、谷合ヲ越シ、溝ニ仕建(此橋凡長十四・五間位)候得バ・・・”とあり、一方、“西諸懸郡誌”によると、明治3年に鹿児島藩は飯野卸蔵米全部を支出して大修繕を加え・・・とあり、市来正右衛門の建議後四年にして架橋が実現したとみるのが妥当である。
大正八年の“飯野村村治要綱”の中で、クルソン山端山寺の古文書“開田恩賞の墨付”について、水路成功の恩賞たるを知るべし・・・とあり、さらに、明治三年薩藩は飯野卸蔵米全部を支出して大修繕を加えたり、大河平太鼓橋の如き就中大工事なりき・・・・。と記されている。」
えびの市教育委員会

享保用水路の歴史
「本用水路は、川内川上流(旧飯野村大河平通称いいのフランス山上流約200m)に井堰を設け、飯野平野一帯の水田を潤す水路として、享保17年(1732年)に完成しました。
伝説によれば、瑞山寺のある僧が水利計画を思い立ち、村民の総意を得て、私財を投じ、工事は実行にうつされたそうであります。総延長6,800m、幅21mの工事は、途中随道が5ヶ所もあり、当時は測量器具もなく、夜に提灯をあちこちに置いて土地の高低を測り、大変な苦労をして造ったといわれています。
その後、災害を受けたり、古くなったため、昭和7〜10年と昭和54年〜60年にかけて、井堰と用水路の大改修が行なわれました。
この水路の運ぶ水のおかげで、現在でも、「えびの」米で有名な米を中心にさまざまな作物が作られ、地域の発展に大きく役立っています。」
えびの市耕地課・宮崎県農村建設課

めがね橋(月乃木川拱橋)  えびの市大字大河平 ( 宮崎県 )

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

めがね橋(月乃木川拱橋)  えびの市大字大河平

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」宮崎県の石橋によるデータは、次のとおり。国道221号えびの市五日市交差点に「めがね橋」案内標識があり、有馬川の上流へ進む。所在図参照。

№10  めがね橋(月乃木川拱橋)

えびの市大字大河平
国登録有形文化財
形式:3連石造アーチ
橋長:58.2m  径間:14.7m+28.8m+14.7m  橋幅:2.3m(全幅3.16m)  橋面高:17.2m(アーチ天端まで
15.2m)
完成:昭和3年
(串木野村)福田休太郎
下青木 某・小門 某

国道221(268)号線道沿いに「めがね橋」案内標識あり
そこから県道404号線へ約300m先案内板の立っているところより右折
道なりに進み約1.3Km、坂を上ったところ左手に案内板あり

国登録有形文化財
「この橋は川内川最上流の大平官行から吉都線飯野駅までの約30キロのトロッコ軌道の一部として、熊本営林局により木材搬出用に造られたものである。石造3連アーチをもち、正式には「月の木川橋」といい、昭和3年(1928)に完成した。木材でやぐらを組み、それに基づいて50センチ角の石を積み重ね、アーチの一番真中に親石として五角の石が組み込まれている。
鹿児島県串木野の肥田佐兵衛氏が請負、切石は、この有島川の上流から木馬で運び出されたと言われる。軌道は、昭和37年(1962)に廃止され自動車が通るようになったが、安全上の理由で通行止めとなり、現在、人だけ通る道となっている。」
えびの市教育委員会

飯野の大イチョウ  えびの市大字原田 ( 宮崎県 )

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

飯野の大イチョウ  えびの市大字原田  

えびの市HPによる説明は、次のとおり。国道221号えびの警察署入口交差点の手前からえびの市飯野出張所へ入る市道に左折する。

飯野の大イチョウ

島津義弘が病で亡くなった長男鶴寿丸の供養に植えた供養樹で、市役所飯野出張所の敷地内にあります。
江戸時代には、地頭仮屋(役所)がおかれていましたが、明治には小学校として改称。その後、西南の役で戦火に遭いイチョウも幹の一部が焼けてしまいましたが、今なお健在です。秋には巨木に茂るその葉が美しい黄金色に染まります。県指定文化財。

原田の石敢當  えびの市大字原田   ( 宮崎県 )

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

原田の石敢當  えびの市大字原田  

サイト「近世以前の土木・産業遺産」宮崎県リストによるデータは、次のとおり。国道221号えびの警察署入口交差点の手前からえびの市飯野出張所へ入る市道に左折する。原田の石敢當は、えびの市飯野出張所の東側敷地の道路角に立つ。
裏面に「元禄二年」の銘があるが、これは写し忘れのため、同サイトから画像を借用する。左横のは庚申塚という。 

原田の石敢當 はらだ
えびの市 えびの市飯野出張所・前 石敢當 高112㎝,幅53㎝ 元禄2(1689) 市有形 日本の石敢當p121/WEB 原位置? 大法師盛意により建立/日本で2番目に古い紀年銘をもつ石敢當(現時点での日本最古は、鹿児島県の松山町泰野の石敢當の元和2(1616)) 1 A