月別アーカイブ: 2016年8月

西之表市役所のガジュマル・チシャノキ  西之表市西之表 ( 鹿児島県 )

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西之表市役所のガジュマル・チシャノキ  西之表市西之表

巨樹・古木 – 鹿児島の自然と食 – Gooブログによる説明は、次のとおり。国道58号東町交差点から左折し、市役所南から駐車場へ上がる。

市役所のガジュマル  2007-06-18 | 巨樹・古木

種子島の西之表市役所入り口に、ガジュマルの大木が2本あります。かつては正面玄関の左右にありましたが、建物が建て替えられたため、今は裏口になっています。
これが入り口の右側にあるガジュマル(クワ科)。左側にあるガジュマル。市役所の正面玄関は、後ろの建物の反対側にある。
案内看板によると、昭和32年に、高さ2m、直径20cmの枝を挿し木したとありますから、それから50年しかたっていません。古木というほどではありませんが、ガジュマルは成長が早いため、気根がたくさん垂れ下がり、うっそうと茂って大樹となっています。

チシャノキ  2007-06-19 | 巨樹・古木

昨日紹介した種子島 西之表市役所のガジュマルの隣にチシャノキがあります。西之表市の名木・古木に指定されている木です。
チシャノキ(苣の木)ムラサキ科 落葉高木で、樹高10〜15mになる。樹高5m、幹回り1.5mでそれほど大きい木ではありませんが、幹のゴツゴツしているところはいかにも古木という印象です。幹は白い色をしています。
チシャノキとは、若葉が食べられ味が野菜のチシャ(レタスのこと)に似ていることから名付けられたそうです(食べたことはありませんが)。

西之表港の波止  西之表市西町 ( 鹿児島県 )

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西之表港の波止  西之表市西町

サイト「近世以前の土木・産業遺産」鹿児島県リストによるデータは、次のとおり。種子島の西之表港高速船・フェーリ発着場突堤の手前付近。北側に新波止(沖の岩岐)、対岸に旧波止(築島)が望める。

西之表港の波止 にしのおもて
西之表市(種子島) 沖の岩岐 石防波堤 文久2(1862) 市教委/WEB 波止先端部に建造当初の石積が保存 松寿院(第23代島主種子島久道夫人)の主な事業の一つ/布積くずし風に積まれた見事な巻石防波堤 2 B

高樋の里程標  姶良市西餅田 ( 鹿児島県 )

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高樋の里程標  姶良市西餅田

現地説明板は、次のとおり。姶良市役所近く国道10号宮島北交差点から北西に市道をまっすぐ進む。九州自動車道ガード下をくぐり、しばらくすると、西餅田で市道は左へカーブする。ここで中溝の水路を跨ぐが、右下流側に五社神社が見える。神社鳥居前にこの「高樋の里程標」がある。寸法は、23cm×23cm×90cm。

高樋の里程標
碑文には、「□鉄道重富停車場 壹里」とあります。最初の文字は不明ですが、「距」の字を当てると、「鉄道重富停車場(現在のJR日豊本線重富駅)を距ること一里(約4キロメートル)と読めます。
重富駅は明治34年(1901)鹿児島〜隼人間が開通した時に開設されました。明治42年には門司港駅から人吉経由鹿児島まで全線開通し、当時これを鹿児島本線と呼んでいました。
当時はまだ帖佐駅がなく(大正15年開設)、この道は重富駅と帖佐・山田を結ぶ幹線として、多くの乗合馬車や荷馬車が往き来していました。この碑は、明治34年以降に重富駅を利用する人々の目印として建てられたものです。
平成9年3月建立  姶良町教育委員会

中 溝  姶良市城下・西餅田ほか ( 鹿児島県 )

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中 溝  姶良市城下・西餅田ほか

サイト「近世以前の土木・産業遺産」鹿児島県リストによるデータは、次のとおり。姶良市教育委員会によると、寛文4年に開削された新溝を、地元では中溝・下溝と区別して呼称している。
中溝となると、県道446号総合運動公園入口近くとなるファミリーマート城下店のところ(写真1〜4)、その下流側では、西餅田の五社神社のところ(写真5〜8)の水路が撮影に適するだろうとのことで訪ねた。

中 溝 なかみぞ
姶良市 恩川→別府川 用水路 長11㎞ 寛文4(1664) 市教委 C改修 薩摩藩第2代藩主・島津光久/重富・帖佐方面の灌漑用 3 C

この項は、本ブログ次も参照。
片子嶽隧道・跡、片子嶽隧道修理の碑、上溝・跡  姶良市平松
https://misakimichi.com/archives/5050

油 津 港  日南市油津 ( 宮崎県 )

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油 津 港  日南市油津

ウィキペディアフリー百科事典による説明は、次のとおり。

油 津 港
油津港(あぶらつこう)は、宮崎県日南市にある太平洋に面した港湾。古くは油之津(あぶらのつ)とも呼ばれていた。重要港湾に指定されている。南東に開けた入り江であり東側に大節鼻(尾伏ノ鼻)と呼ばれる岬が伸び、南方海上に小場島と大島(日向大島)が並ぶ。

主な施設

堀川運河  江戸時代に地域の名産品である飫肥杉を輸送するために掘削された運河。石造アーチ橋などが残されており観光名所になっている。
宮崎海上保安部(第十管区海上保安本部宮崎海上保安部)  1948年(昭和23年)5月、海上保安庁の設立に伴い油津海上保安署が設置され、1950年(昭和25年)6月に油津海上保安部に昇格、2007年(平成19年)4月に宮崎海上保安部へ改称した。
チップヤード  港の南東部にあり日南市内の製紙工場で使用する木材チップを荷揚げ・保管するための集積所。木材チップ及び紙製品は油津港で取り扱う貨物の主要品目である。

歴史

宮崎県宮崎市田野町甲の天建神社縁起書に、百済の王が油津に漂着した伝説が記載されている。遣唐使の時代から日本と中国大陸をつなぐ貿易の中継地であり、倭寇の拠点としても利用されていた。戦国時代においては港の支配権をめぐって伊東氏と島津氏が争っていたが、羽柴秀吉の九州征伐以降は伊東氏による支配が確立した。南蛮貿易における寄港地の一つであり、当時ポルトガル人が使用していた海図にも記載されている。文禄の役では伊東氏の拠点港として利用された。

江戸時代に入ると南蛮貿易は終息したが、代わって需要が高まった木材(飫肥杉)の積出港となった。木材運搬のために北方を流れる広渡川と油津港とを結ぶ堀川運河が飫肥藩によって掘削され、1686年(貞享3年)に完成している。油津港の北に広がる日向灘は当時の海上交通における難所であり、風見(天候調査)のための長期滞在者が多く港町として賑わいを見せた。歌川広重の名所絵『六十餘州名所圖會』に「日向油津ノ湊飫肥大島」として描かれている。

1882年(明治15年)頃に近畿地方へ直行する航路が開かれ、南九州における輸送拠点の一つとなった。1900年(明治33年)頃からブリ漁が盛んとなり、1913年(大正2年)に漁港の指定を受けた。1933年(昭和8年)から1940年(昭和15年)にかけてマグロ漁が盛んとなり日本各地から約500隻の漁船が集まり、1日の水揚げ金額が1億円に達したこともあった。この時期に防波堤や岸壁の整備が進んでいる。太平洋戦争において特攻兵器回天が配備された。

1954年(昭和29年)9月、台風13号の強風によって港内に停泊していた船29隻が沈没し死者10名の被害が発生した。これをきっかけとして整備された外洋防波堤において日本で初めてテトラポッドが使用されている。1960年(昭和35年)5月24日早朝、チリ地震津波により潮位が約1.5m変動し木材や漁船が流出する被害を受けた。1963年(昭和38年)に港の東側に石油基地が建設された。1973年(昭和48年)以降、宮崎港の整備が進むのに伴い、輸送拠点としての地位を失いつつある。

参考文献
・日南市産業活性化協議会編 『油津 −海と光と風と−』 鉱脈社、1993年。
・日南市史編さん室編 『日南市誌』 日南市、2005年。

堀川橋(乙姫橋)  日南市油津 ( 宮崎県 )

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堀川橋(乙姫橋)  日南市油津

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」宮崎県の石橋によるデータは、次のとおり。日南市街の南東部、国道222号が国道220号と合流する春日町交差点から堀川運河沿いへ入る。堀川運河に面して祀られている吾平津神社(乙姫神社)前に架かる石橋で、「乙姫橋」とも呼ばれる。

№101 堀川橋(乙姫橋)

日南市油津
国登録有形文化財
堀川運河
橋長:33.0m  橋幅:4.0m  径間:22.0m  拱矢:8.5m
架橋:明治36年(1903)8月
石工:石井文吉
旧飫肥鵜戸線
国道220号線を宮崎方面から市内に入り、春日町交差点で国道222号線と交差しますが、直進して約150m先

堀川橋(乙姫橋) 登録有形文化財
「明治36年(1903)、石工の石井文吉が、堀川運河の油律上町と対岸の材木町を渡すとともに、吾平津神社の参道橋の役割も兼ねて架けた単アーチの石橋である。長さ21m(欄干の両端間)、幅5.65mを計り、現存する石橋としては南那珂地区最大の規模を誇る。
江戸時代前期に掘られた堀川運河とともに油律を代表する景観である。平成5年(1993)には、映画『男はつらいよシリーズ第45作−寅次郎の青春−』の舞台となった。」

高城町穂満坊の石敢當 (七日市の石敢當)  都城市高城町穂満坊 ( 宮崎県 )

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高城町穂満坊の石敢當(七日市の石敢當)  都城市高城町穂満坊

サイト「近世以前の土木・産業遺産」宮崎県リストによるデータは、次のとおり。都城市高城町市街地の県道47号から高城小学校の南側まで入る。所在地図を参照。「修栄工業」の看板があった。
「民族信仰 日本の石敢當」には、所在地が「高城町大井手七日市74」とあるのは、「高城町穂満坊七日市74」の間違いであろう。

高城町穂満坊の石敢當(七日市の石敢當) たかじょう、ひまんぼう
都城市 石敢當(自然石、凝灰岩) 高90㎝,幅70㎝ 江戸期? 市教委(高城の石塔・石碑・石仏たち) 山崎家のブロック塀中に割れた石片を継いで修復されている 藩政時代の高城地頭館を囲む武家屋敷外入口の要衝の地点で、薩摩街道七日市の突き当たりにある/旧街道にあるので、江戸期の建立と推定される 3 C

高崎町縄瀬の石敢當2 (蔵元の石敢當)  都城市高崎町縄瀬 ( 宮崎県 )

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高崎町縄瀬の石敢當2 (蔵元の石敢當)  都城市高崎町縄瀬

サイト「近世以前の土木・産業遺産」宮崎県リストによるデータは、次のとおり。国道221号都城市高崎町江平口交差点の2つ東南の三叉路市道を東へ。霧島大橋に向かわず次の三叉路も左折して蔵元へ進む。蔵元バス停の約50m手前、左側の電柱脇に「蔵元の石敢當」が立つ。

高崎町縄瀬の石敢當2 (蔵元の石敢當) たかざき、なわぜ
都城市 (蔵元) 石敢當 高55㎝,幅23㎝,厚13㎝ 文化6(1809) 市教委(高崎町史) 移設 (正面)「石敢當」 2 –

高崎町縄瀬の石敢當1 (小牧の石敢當)  都城市高崎町縄瀬 ( 宮崎県 )

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高崎町縄瀬の石敢當1 (小牧の石敢當)  都城市高崎町縄瀬

サイト「近世以前の土木・産業遺産」宮崎県リストによるデータは、次のとおり。国道221号都城市高崎町江平口交差点の1つ東南の市道を東へ。県道414号を横切りさらに直進して行くと小牧バス停に着く。左折して橋を渡ると小牧公民館があり、そのすぐ先の左角畑地の一隅に「小牧の石敢當」が立つ。

高崎町縄瀬の石敢當1 (小牧の石敢當) たかざき、なわぜ
都城市 (小牧) 石敢當(自然石) 高70㎝,幅60㎝,厚20㎝ 宝暦6(1756) 市教委(高崎町史) 移設 (正面)「石敢當」 2 C

高崎町大牟田の石敢當 (原村の石敢當)  都城市高崎町大牟田 ( 宮崎県 )

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高崎町大牟田の石敢當 (原村の石敢當)  都城市高崎町大牟田

サイト「近世以前の土木・産業遺産」宮崎県リストによるデータは、次のとおり。国道221号都城市高崎町切藤交差点近くの切藤バスから市道を南に下ると、原村営農研修館とその奥に原村公民館がある。原村営農研修館の右手フェンス角に、ブロック塀で囲まれた移設された「原村の石敢當」が祀られている。

高崎町大牟田の石敢當 (原村の石敢當) たかざき、おおむた
都城市 (原村) 石敢當 高34㎝,幅33㎝ 天保3(1832) 市教委(高崎町史) 移設 (正面)「石敢當」 2 –