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大浦川川直し・大浦川川直しの碑  南種子町平山 ( 鹿児島県 )

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大浦川川直し・大浦川川直しの碑  南種子町平山

サイト「近世以前の土木・産業遺産」鹿児島県リストによるデータは、次のとおり。県道75号南種子町平山郵便局手前の田の中の車道を右折して進む。三叉路の分岐あり。案内標識の矢印どおり右奥へバラス農道を奥まで行くと、大浦川と出合い、ここに「大浦川川直しの碑」(写真では右端のよう)がある。所在図参照。

大浦川川直し おおうら
(熊毛)南種子町(種子島) 大浦川 付替え 長200m,幅10m 万延2(1861) 現地解説板 /WEB(みさき道人) 保存状態良好 安政4(1857)に竣工した松寿院の代表的な事業/平山から熊野へ行く道は大浦川の潮が満ちると人馬の通行が困難で、満潮時には海から入った潮で農作物は塩害を受けていた→松寿院は、大浦川を拡幅・直線化することで解決 1 B

大浦川川直しの碑 おおうら
(熊毛)南種子町(種子島) 平山北小浦上 石碑 万延2(1861) 町有形 (歴史資料) WEB 原位置(写真の右端) 松寿院の業績を称え、平山の人々が万延2に大浦川の旧河道と新河道の分岐する土手の上に建立 1 C

南種子町HPの教育・文化による説明は、次のとおり。

松寿院の安政の川直しの碑と水天之碑
町指定文化財 平成20年4月28日指定
松寿院の安政の川直しの碑は、種子島家第23代久道の夫人松寿院の業績をたたえ、平山の人々が、万延2年(1861)に大浦川の旧河道と新河道の分岐する土手の上に建てたものです。当時、平山から熊野へ行く道は大浦川の潮が満ちると、人馬の通行が困難で、満潮時になると海から潮が入り農作物も甚大な塩害を受けていました。
松寿院は、この潮害の原因が、川が蛇行しているからだと考えて、川幅を広げ、まっすぐな川を新たに作る工事を行いました。この工事によって、満潮時の洪水の害を防ぐことができるようになり、荒れ田であったものが立派な美田となりました。この大事業は、安政4年(1857)10月はじめに完成しました。その年の12月、川直しの大工事が無事完成し願いがかなえられたことに感謝して、松寿院は、祠をつくり宝光権現と名づけ祀りました。また翌年の2月には、水天之碑を建立しています。

大浦塩田・跡  南種子町平山 ( 鹿児島県 )

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大浦塩田・跡  南種子町平山

サイト「近世以前の土木・産業遺産」鹿児島県リストによるデータは、次のとおり。県道75号が阿嶽川マングローブ林展望所を過ぎると南種子町に入り、すぐ島宿HOPEがある。この手前、県道右側に「大浦塩田跡」の案内標柱があり、奥へ進むと塩田跡である。

大浦塩田・跡 おおうら
(熊毛)南種子町(種子島) 大浦川・河口の湿地帯 塩田 安政4(1857) 町選定 WEB 残存施設は昭和9のもの 種子島で初めて塩田式の製塩が始められた場所/松寿院(第23代島主種子島久道夫人)が当時最新の方法で製塩を実践 4 C

南種子町HPの教育・文化による説明は、次のとおり。

大浦塩田跡(おおうらえんでんあと)
町選定文化財
大浦塩田跡は、大浦川の河口に広がる湿地帯にあり、種子島で初めて塩田式の製塩が始められたところです。それまでは、浜で海水を焚いて塩を取る方法でしたが、量がたくさん取れないため塩が不足していました。松寿院は、この塩不足を憂い、塩田開発に取り組みました。松寿院が安政3年(1856)、調査させたところ、ここが塩田に最適であることがわかり、翌年夏から製塩を始めました。最新の製塩法を導入し、さらに塩田の拡張工事を行ったので、大量に生産できるようになりました。
その後、明治27年に塩田拡張のため大規模な埋め立て工事が行われましたが、資金に困り、土地を売り渡してしまいました。しかしその後、平山の有志22名が土地を買取り、昭和9年、動力ポンプを取り付けた近代的な大塩田を完成させました。将来を期待されましたが、昭和27〜28年頃になると塩の輸入が盛んになり、また値段も下がり採算が取れなくなったため中止されました。これにより、種子島における製塩の歴史に幕が降ろされたのです。

種子島阿嶽川のマングローブ林  中種子町大字坂井池之角 ( 鹿児島県 )

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種子島阿嶽川のマングローブ林  中種子町大字坂井池之角

鹿児島県HPの教育・文化・交流による説明は、次のとおり。中種子町中心から県道75号を南下、坂井池之角の国道沿いに展望所がある。
国道58号を通ったときは、「歴史の里坂井公園」から左折し下ると、県道75号へ出る。

種子島阿嶽川のマングローブ林
国指定天然記念物
指定年月日 平成27年10月7日
所在地 熊毛郡中種子町大字坂井池之角
概要
中種子町の阿嶽川河口にはメヒルギの群落が発達しています。メヒルギは潮間帯にできる森林(マングローブ)をつくる植物として東アジアでは最も緯度の高いところまで分布し,種子島は自然分布として北限にあたります。
周辺はウバメガシ林やイヌマキ林に囲まれ,ハマジンチョウやハマボウ,ヒトモトススキなどの汽水性の植物も多く落ち着いた森林景観です。

古市家住宅  中種子町坂井字門ノ原 ( 鹿児島県 )

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古市家住宅  中種子町坂井字門ノ原

中種子町HPの教育・文化による説明は、次のとおり。中種子町中心から国道58号を南下、「歴史の里坂井公園」まで行くと、史跡案内標識があるので、左折して少し下る。

■国指定重要文化財(建造物)  古市家住宅
所有者:古市一英氏(千葉県在住)
平成6年7月12日指定
中種子町の南部、本村集落に建つこの建物は、平成6年7月に国の重要文化財に指定されました。建物に残されていた棟札から、1846(弘化3)年に建てられた事が分かっています。この家を建てた古市源助氏は、坂井村で庄屋や横目といった重要な役職を努めた郷士(ごうし)でした。
建物は座敷部と土間部からなり、平面はL字型をしています。簡素によくまとまった中規模な住宅で、種子島を代表する民家建築と言えるでしょう。また、住宅を取り巻く環境も良好で、住宅とともに歴史的風致を形成しています。
平成13年・14年解体修理工事が行われ創建当時の姿に復元されました。
周辺は国道改良工事に伴い「歴史の里坂井公園」として整備され、近くの「日本一の大ソテツ」などとともに名所となっています。 

坂井神社の大ソテツ  中種子町坂井本村 ( 鹿児島県 )

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坂井神社の大ソテツ  中種子町坂井本村

現地説明板は、次のとおり。中種子町中心から国道58号を南下、坂井本村の「歴史の里坂井公園」のところに坂井神社の入口がある。境内にはアコウの大木もあった。

坂井神社の大ソテツ  昭和55年3月 町文化財(記念物)指定
いつ頃ここに植えられたかは定かではありませんが、樹齢は600年を越すと推定され、日本一のソテツとして大切に育てられています。この雌株のソテツは樹高7m、樹長10m、根回りは2m以上あります。
ソテツは雌株で株が異なり、夏にそれぞれ雌花、雄花をつけます。裸子植物に属し、性質はシダ植物に近いとされています。冬季に霜よけなどで越冬させることができ、かなり北方でも植えられていますが、開花結実するのは静岡県以南の暖地に限られます。
この坂井神社に限らず、各地の社寺、庭園に栽培された老木は天然記念物として保護されているものが多くあります。ソテツは鉄を好み、衰弱したとき鉄分を与えると回復するという言い伝えがあり、蘇鉄の名前はこれから出たと言います。
中種子町教育委員会・中種子町自然保護審議会

国指定天然記念物「松屋寺のソテツ 大分県日出町日出」は、本ブログ次を参照。
https://misakimichi.com/archives/2959
どちらも「日本一の大ソテツ」とあったが、中種子町坂井神社のは、入口鳥居前の説明銘板どおり「高さにおいて」であろう。

西之山の御新田  中種子町油久西之山 ( 鹿児島県 )

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西之山の御新田  中種子町油久西之山

サイト「近世以前の土木・産業遺産」鹿児島県リストによるデータは、次のとおり。中種子町中心から国道58号を南下。美座バス停先から右折し西之山へ向かう。約800mほど進むと御新田バス停のところに、「御新田の池」がある。所在図参照。

西之山の御新田 にしのやま
(熊毛)中種子町(種子島) 水田 安政年間 (1854-60)? WEB 松寿院(第23代島主種子島久道夫人)が溜池を作り、それを水田に引き入れて整備を行ったと言われている 2 C

御新田の池に移設されている「屋床の平の御新田碑」の碑文は、次のHPを参照。
http://www.furusato-tanegashima.net/hi/na/gosindenhi.html

雄龍岩・雌龍岩  中種子町納官浜津脇 ( 鹿児島県 )

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雄龍岩・雌龍岩  中種子町納官浜津脇

現地説明板は、次のとおり。種子島の西側、国道58号が中種子町へ入って、星原小学校に出る手前、おじゃりもーせ龍星館のところの海岸にある。

雄龍岩、雌龍岩
昔、崖の上の小学校の地に、達五郎と達江という仲のよい夫婦が住んでいた。ある夜、嵐のために崖くずれにあって、二人は家もろとも海に投げ出された。それ以来、二人の姿を見かけたものはいなかった。数ヶ月が過ぎて、いつの間にか二人が投げ出された海の所に、仲良くよりそうように大きな岩が立っていた。人々はいつしかそれらの岩を、達五郎と達江の生まれ変わった姿ではないかというようになった。
そして、達五郎と達江の名前に因んでこの二つの岩をオタツ岩、メタツ岩と呼ぶようになった。
「種子島研究 第十八号」より    
中種子島自然保護審議会  中種子島文化財保護審議会

漣 痕(れんこん)  西之表市住吉 ( 鹿児島県 )

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漣 痕(れんこん)  西之表市住吉

現地説明板は、次のとおり。種子島の西側、国道58号により西之表市住吉の集落をしばらく過ぎた国道沿い左側の崖面にあった。

西之表市指定文化財(天然記念物)  漣 痕(れんこん)  昭和48年2月1日指定

漣痕とは、地層の成層面上に残っているさざ波状のでこぼこをいい、水の流れ、波や風によって地積層物の表面につくられたもの(リップル)が、そのまま地層の中に保存されたものである。
この露頭にみられる熊毛層群(数千万年前)の壁面の漣痕は、浅海で海水の揺れ動くさざ波の形がそのまま残り、その後、地殻変動により、地層が垂直になったものと考えられ、地質学上貴重な資料である。
漣痕のことを最近では「砂紋」とか「リップルマーク」ということもある。
平成26年6月  西之表市教育委員会

住吉のガジュマル防潮林  西之表市住吉 ( 鹿児島県 )

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住吉のガジュマル防潮林  西之表市住吉

現地説明板は、次のとおり。種子島の西側、国道58号住吉交差点から漁港の方へ下る。ガジュマル防潮林は、住吉港の堤防沿いに植えられていて、史跡説明板のあるガジュマルの大木は、港の右側奥に生える。

西之表市指定文化財(天然記念物)  ガジュマル防潮林  昭和34年8月10日指定

熱帯性のクワ科植物で常緑喬木で茎から多くの気根を生じ、独特の美しさを呈する。北限は、種子島といわれるが、本土の最南端佐多岬にも自生樹がある。
標準名の起源は、琉球でこの樹を「かぜまもる」といったことによるといわれる。その名の通り潮風に強く、また根は四方へ張っているので、防風・防潮・護岸の効用がきわめて高い。
このガジュマルは、沖縄から移植されたもので、明治初年に右の目的をもって計画植樹されたもので、植齢はいずれも100年以上である。自然の景観と人工の林相が特異な風光を作り出している。
平成12年1月  西之表市教育委員会

西之表市役所前のさざれ石  西之表市西之表 ( 鹿児島県 )

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西之表市役所前のさざれ石  西之表市西之表

現地説明碑は、次のとおり。国道58号東町交差点から左折し、市役所南から駐車場へ上がる。
Naked Heart – Gooブログには、”学生の頃に読んだある本には、「君が代」の歌詞に関して、「細石が巨岩となって苔がむすという、自然の摂理に反した反実仮想の歌であり、馬鹿げている」と書かれていましたが、実在するんですね。驚きました。”とある。

さざれ石

さざれ石の学名は、石灰質角礫岩である。石灰岩が長い年月の間に雨水等で溶解し、その粘着力の強い石灰質の駅が周りの小石を固めて、自然に巨岩となったもので、一般的に成長する石といわれ、国家「君が代」にも歌われている、めでたい石である。国内では、岐阜県をはじめ数か所で産出されるが、岐阜県春日村産のさざれ石は岐阜県の天然記念物に指定されている。
このさざれ石は、重量約二.九屯で、中西教一(本市出身)より寄贈されたものである。
平成十二年三月  西之表市長 落合浩英