月別アーカイブ: 2014年12月

高  岩  佐世保市江迎町小川内 ( 長崎県 )

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高  岩  佐世保市江迎町小川内

ウィキペディアフリー百科事典の「平戸八景」による説明は、次のとおり。松浦鉄道高岩駅近くから全景が見える。長崎新聞県内トピックス(2014年11月27日更新)も参照。

1.高巌(たかいわ)
種類:崖
概要:佐世保市江迎町小川内(江迎川下流)に位置する高さ30mほどの断崖。現在では「高岩」と書く。古くより知られた断崖で設定当時の平戸往還は崖の真下を通り抜けていたが、崩落が相次いだため、往還は川の対岸に移設された。現在でも補強処理を施していないため恒常的に崩落しており、直下の道路は通行止めにはなっていないが、通行者はほとんどいない。
最寄の交通機関: 松浦鉄道西九州線高岩駅 – 駅ホームから断崖を眺めることができる。
西肥バス「高岩」バス停 

旧正興寺の古井戸と墓地  佐々町神田免 ( 長崎県 )

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旧正興寺の古井戸と墓地  佐々町神田免

サイト「近世以前の土木・産業遺産」長崎県リストによるデータは、次のとおり。
場所がわかりにくいが、佐々町の北東部。国道204号ダイレックス角から松浦鉄道神田駅に向かい、橋を渡って途中から左に佐々神田保育所の方へ入る。墓地説明板から50mほど行った住宅地の右奥(保育所側)にフェンス囲いの古井戸が見える。

旧正興寺古井戸 しょうこう
(北松浦)佐々町 <正興寺> 石井戸(石積) 径1.2m,深3m 正応3(1290) 町史跡 WEB 保存状態良好/飲用不適 井戸の内壁を人頭大の玉石で築き上げる 1 B

佐々町教育委員会編「佐々町郷土誌」平成16年発行の町史跡568頁及び現地説明板は、次のとおり。正応年代に違いがある。

六 旧正興寺の古井戸(昭和48年3月指定)
所在地 神田免156
正応2年(1289)正興寺の井戸として現在まで伝えられている。昔から水が枯れたことはないといわれ、町内最古の堅井戸と思われる。深さ3メートル、口径1.2メートル。

正興寺古井戸     (現地説明板)
正応3年(1290年)正興寺の井戸として現在に伝わるもので、深さ約3m、井戸の口径1m20cm、井戸の内壁を人頭大の玉石で築きあげた技法は、大したものである。
昔から渇れたことなく町内最古の井戸である。
佐々町教育委員会

大悲観大文字  佐世保市小佐々町小坂 ( 長崎県 )

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大悲観大文字  佐世保市小佐々町小坂

小佐々町の大悲観公園を訪ねた。現地説明板は、次のとおり。後ろ側に大悲観岩陰遺跡もあった。小佐々町は、2006年3月31日に佐世保市へ編入している。この項は、本ブログ次を参照。
平戸八景3ヵ所を国の名勝指定へ  https://misakimichi.com/archives/4292

小佐々町指定文化財(第1号) 昭和52年11月8日指定
大悲観大文字
第十代平戸藩主(松浦家三十五代)松浦肥前守源朝臣(観中公)は、徳川幕府から長崎番所諸事心得を命ぜられ、度々平戸・長崎間を往復し、その途中、大別当御茶屋にも立ち寄った。その縁でこの巨巌に「大悲観」の大文字を書いて彫らせ、その下に観音を祀ったものである。観中公は当時大名の中でも屈指の書家として知られていたという。
ここは、古来平戸八景の一つとして、また霊地としても世に知られてきた地である。
平成9年2月  小佐々町教育委員会

高島遠見番所狼煙台・跡  佐世保市高島町 番岳山頂 ( 長崎県 )

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高島遠見番所狼煙台・跡  佐世保市高島町 番岳山頂

サイト「近世以前の土木・産業遺産」長崎県リストによるデータは、次のとおり。

高島遠見番所狼煙台・跡 たかしま
佐世保市(高島) 番岳山頂 狼煙場 文化5(1808)以降? 市教委 半壊状態(狼煙台跡という可能性が推定できる程度) 狼煙台の設置はフェートン号事件(1808)以降と推察(遠見番所自体は寛永17(1640)に設置) 3 C

高島は、長崎県北部の北松浦半島の南西の海上にある島。全島が佐世保市に属する。番岳(標高136.1m)は江戸時代に平戸藩が沿岸警備のための番所を置いたことが名の由来となっている。
島へのアクセスは、黒島旅客船(ニューフェリーくろしま) 相浦港〜高島〜黒島 ※相浦から高島まで所要約
30分、1日3往復運航(ウィキペディア)。

資料の市広報紙は、佐世保市の高橋氏が市立図書館で調べてくれた。番岳山頂は、太平洋戦争時に海軍が高射砲台を築いた。現在は公園となって南側展望台近くに「狼煙台」がある。
資料写真には「番岳山頂ののろし場(移転復元したもの)」とあるが、島の古老の話では、軍砲台で一時期撤去されたが、もともとこの場所にあったのが復元されたと言う。
画像は全部、高橋氏が12月9日島を訪ね撮影してくれた。「海軍用地 二二〇号」の標石は、昔の港近くの草原で見つけている。

錐崎の狼煙台跡と砲台跡  佐世保市針尾東町 ( 長崎県 )

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錐崎の狼煙台跡と砲台跡  佐世保市針尾東町

サイト「近世以前の土木・産業遺産」長崎県リストによるデータは、次のとおり。
西海橋を渡り西海パールライン料金徴収所先の「切崎バス停」から、東に錐崎半島の先端の方へ向かう。集落最奥の住家の右上ピークに「狼煙台跡」、左上ピークに太平洋戦争時の「砲台跡」 があったと聞いた(写真2)。

錐崎の狼煙台・跡 きりざき 佐世保市
狼煙場 文化5(1808)以降? 市教委 崩壊が進行 設置はフェートン号事件(1808)以降と推察 4 C

一帯はみかん畑内の農道や畑となって、一部遺構しか確認できない。狼煙台跡(写真3〜9)は、ここ(針尾東町1820番地)が地元で伝える「ひごや」「ひがま」とか言う場所。道脇の雑木内に石囲いのくぼ地が半分くらい残っていた。

太平洋戦争時の砲台跡(写真10〜14)は、対面小山の大木あたりにあったが、今は跡かたもない。コンクリート工作物の一部は、畑奥の斜面や雑木内に確認できた。
資料は、佐世保市の高橋氏が市立図書館で調べてくれた。奥付は不明だが、歴史散歩のような図書である。

旧佐世保無線電信所(針尾送信所)施設  佐世保市針尾中町 ( 長崎県 )

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旧佐世保無線電信所(針尾送信所)施設  佐世保市針尾中町

国指定文化財等データベースによる説明は、次のとおり。太平洋戦争の開戦を告げた「ニイタカヤマノボレ1208」を送信した施設として有名だが、そのことに関する資料はなく、送信したかどうかは不明とされる。
西海橋を渡り西海パールライン料金徴収所近くに、広域農道へ入る施設案内板がある。

名称: 旧佐世保無線電信所(針尾送信所)施設
ふりがな: きゅうさせぼむせんでんしんじょしせつ
棟名: 無線塔
ふりがな: むせんとう
員数: 3基
種別: 近代/産業・交通・土木
時代: 大正
年代: 大正11年
西暦: 1922

構造及び形式等: 1号無線塔、2号無線塔、3号無線塔の3基よりなる各鉄筋コンクリート造、建築面積102.56㎡、
創建及び沿革:
棟礼、墨書、その他参考となるべき事項:
指定番号: 2593
国宝・重文区分: 重要文化財
重文指定年月日: 2013.03.06(平成25.03.06)
重文指定基準1: (二)技術的に優秀なもの
重文指定基準2: (三)歴史的価値の高いもの
所在都道府県: 長崎県
所在地: 長崎県佐世保市針尾中町382番地
所有者名: 国(文部科学省)
所有者種別: 国
管理団体・管理責任者名: 佐世保市

解説文:
旧佐世保無線電信所は、佐世保市南部の針尾島に所在する海軍が建設した長波無線通信施設で大正11年に竣工した。三基の無線塔を一辺300mの正三角形の頂点に配置し、その中心に通信局舎である電信室を配置する。設計は佐世保鎮守府建築科により、工事監督を吉田直(のぶる)が担当した。<br> 無線塔は、円形平面の鉄筋コンクリート造の塔で、基部の直径12.1m、高さ136mを測る。きわめて精巧な施工のコンクリート打放し仕上げとし、大正期におけるわが国のコンクリート技術の高さを伝える。電信室は半地下式の建物で、正面と背面を石張で仕上げ、内部には通信業務を担う発電機室や送受信機室などが設けられる。<br> 旧佐世保無線電信所施設は、わが国現存唯一の長波無線通信施設として、高い歴史的価値が認められる。また、大正時代におけるわが国最高水準のコンクリート技術を示すものとして、土木技術史上においても重要である。<br>

長崎警備の拠点—深堀  第25回佐賀城下探訪会から ( 長崎県 )

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長崎警備の拠点—深堀  第25回佐賀城下探訪会から

さが城下まちづくり実行委員会主催「第25回佐賀城下探訪会」は、平成26年12月7日(日)、テーマ”長崎警備の拠点—深堀・諫早”として、約100人が参加。貸し切りバス2台で来崎された。
午前中の深堀の現地講師は、江越弘人、平幸治、午後の諫早は織田武人の各先生だった。私も取材のため深堀分のみ参加させてもらったので、この状況を写真により報告する。

グラバー園 冬夜のイルミネーション  長崎市南山手町 ( 長崎県 )

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グラバー園 冬夜のイルミネーション  長崎市南山手町

”gonbeyaの部屋”氏からの便り。長崎グラバー園のきれいな夜景を紹介する。

「寒いですね」
gonbeでーす。このところ冷え込みが厳しいですね。
さきほども窓の外は冷たい雨・・・・気温は4度といってます。体調に気を付けないといけないです。m(_ _)m

暖房用に石油ストーブを使ってますが、燃料を補給しようと給油ポンプを使ったら何故か作動しない。Y(>_<、)Y
昨年は異常なく使えたのに・・・・何故だろう?? 電池を新しいのに変えてもやはり作動しない。
仕方なく手動ポンプを使いましたが、ずっと動かさないといけないので面倒くさい。
家の外に灯油タンクを置いてるので、この寒い中辛い・・・・(*ノ_<*)エーン

先日の夜、長崎の有名地、グラバー園へ行ってきたんです。
冬場のイベントでLED電球をたくさん使ったイルミネーションがとても綺麗でしたよ。
グラバー園からは長崎港内の夜景も見えるし、眼の下には大浦天主堂の屋根も見え、本当にいい場所です。(~▽~@)♪♪♪ 夜でもたくさんの人で賑わってました。
ではでは、また〜(^^)/〜〜〜

防災情報新聞Webで公開された「昭和19年の海難 近海丸殉難者之碑」記事 ( 長崎県 )

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防災情報新聞Webで公開された「昭和19年の海難 近海丸殉難者之碑」記事

防災情報新聞Web 2014年12月の周年災害/日本の災害・防災年表(「周年災害」リンク集)
http://www.bosaijoho.jp/reading/years/item_6871.html を参照。掲載内容は、以下のとおり。
出典として本ブログ「昭和19年の海難 近海丸殉難者之碑 長崎市向町淡島神社境内」記事が、リンクされた。
https://misakimichi.com/archives/2449

○連絡船近海丸、定員の4倍乗せ激浪のため転覆沈没、これも戦争の犠牲なのだ(70年前)
1944年(昭和19年)12月24日
太平洋戦争(1941年:昭和16年12月〜)の末期、戦局が厳しくなり、新聞も大幅にページ数が減り大きさも小さくなっていた頃である。毎日新聞12月25日付き2面に1段10行ほどの記事が掲載された。
“連絡船沈没”“【長崎発】廿四日午後一時頃長崎汽船会社所有長崎大波止−西波瀬戸町間連絡船近海丸(二六トン)が瀬戸町(現・西海市)より長崎に帰航中福田村(現・長崎市)小浦沖合にさしかゝった際突如激浪のため転覆沈没し乗客百五十名は行方不明となった、長崎水上署及び地元警防団(現・消防団)員ら現場に急行、午後五時までに判明せる死亡者は十一名である”
毎日新聞はその後も追跡記事を掲載、27日付では“原因は定員超過 近海丸遭難で積載制限の御達し”と見出しを付け、監督官庁から乗船定員を守るよう、各旅客船会社等に通達が出たことを報じている。
1994年(平成6年)12月24日、遭難50年を期して、近海丸殉難者之碑が長崎市向町の淡島神社境内の海の見える高台に建立された。この神社の高台からは式見の街と港が足下に見え、殉難者之碑の台座には、大きく手を天に広げている若い女性像が立ち、碑には殉難者の氏名と追悼の記が刻まれ、追悼の記は遭難の状況と背景を伝えている。そこで、この追悼の記を抜粋し、遭難の真相をお伝えする。
“午後1時頃、長崎交通船株式会社の連絡船近海丸(26トン)が、当時、西彼杵郡福田村小浦沖合いに差しかかった際、激浪を受けて転覆沈没した。近海丸は三重式見から長崎市大波止に帰航中、乗客、乗組員は疎開学童、婦女、老人らを含め計338人。戦争故に殊のほか食糧欠乏の時局下、乗客の殆どは食糧買い出しで乗船していた。(中略)救助者僅かに65人。死亡、行方不明者は実に273人にものぼった。長崎水上署、稲佐署、地元消防団の懸命の救助活動も遂に及ばない悪天候下のこと、まさに痛恨の極みというべき一大海難事故ではあった。原因は激浪のなかで定員の4倍もの乗客が背負い荷ともども右舷に傾いて均衡を失ったためとわかった”
当時、この近海ではアメリカ海軍の潜水艦が横行していた。沿岸航路とはいえ、魚雷攻撃される危険があったのだろう、また燃料オイルなども不足しており、運行回数も平和な時にくらべ少なかったと思われる。食べるものがない時代なのだ。無理をして手に入れた食料がここにある。殉難者名を見るとほとんどが女性である。家庭の主婦ではないのだろうか。船が出るからそれにぜひ乗ろう……。という気持ちが働き、船員たちもそれを止める事が出来なかったのではないか。
碑文にあるとおり“家族肉親のため幾許かの食糧を背負い、夕餉の楽しさに心はずませ”と、はやる気持ちが無理をさせたのだろう。正月前である、久しぶりのお餅も……、碑文はいう“あの憎むべき戦争なかりせば碑名の遭難者の犠牲はあり得べきものではなかった”と。
(出典:昭和19年12月25日付け毎日新聞」、「27日付け毎日新聞」、ブログ みさき道人「長崎・佐賀・天草etc風来紀行>昭和19年の海難 近海丸殉難者之碑 長崎市向町淡島神社境内」。参照:2006年3月の周年災害「巡航客船金華丸沈没事故」)

西道仙が揮毫した門柱 最初の建立場所は「祝捷山」 ( 長崎県 )

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西道仙が揮毫した門柱 最初の建立場所は「祝捷山」

長崎新聞2014年12月1日文化欄の記事は、次のとおり(写真1 記事写しはズーム拡大)。

「明治期に長崎で活躍した医師、西道仙(1836〜1913年)が揮毫(きごう)した文字がある石柱2本の、不明だった最初の建立場所が、道仙が命名した「祝捷山(しゅくしょうざん)」(同市上小島5丁目)の入り口だったことが、長崎史談会原田博二会長らの調べで分かった。
2本の石柱は昨年5月、史談会会員が同市大山町の小道脇で発見。道仙の号「賜琴石斎(しきんせきさい)」の文字があったため、同市内に住むひ孫家族の手で今年10月、道仙ゆかりの地である琴の形をした石「琴石」(同市鳴滝1丁目)のそばに移設された。…」という。

この項は、本ブログ次を参照。

田上の徳三寺近くに明治44年「祝捷山登口」碑が見つかる  2007年6月の記事
https://misakimichi.com/archives/5435
…この石らしい記録は、昭和13年「長崎市史地誌編名勝舊蹟部」祝捷山の項で見つけた。
「西北なる小島、田上方面よりの入口には各石柱を対立せしめ小島口には日耀千旗影、山呼萬歳声と刻し、田上口には武威揚海外、義気貫天中と刻す、西道仙の題する所である」。
碑の背面に刻字はないようだが、別のところの石とは考えられない。旧茂木街道沿いから祝捷山へは両方の登り口があった。

「祝捷山」とは、日露戦争の戦勝を記念し西道仙が命名。田中直三郎が整備した。山頂の自然石にも大正3年山名が彫られ、現在運動公園となって隅に移設(写真7〜9)されている。「祝捷山登口」碑はこれより年代が古い。西道仙書の田上口の1本「武威揚海外」も、この横に移設現存(写真8)して立っていた。

土井首から鹿の岳(仮称)、大山へ  2014年5月の記事
https://misakimichi.com/archives/3951
…大山教会へ出た。あとは大山入口のバス停へ下る。
途中、大山の集落で駐車場車止めに使用している石柱2本。よく見ると「西道仙」書である。長崎史談会原田先生の話では、長崎市中の有名なところから移している石柱で、歴史的価値が高いらしい。

以上は関連の記事だった。うっかりしていた私は、やっと今、思い出した。
大山集落の石柱2本(写真4〜6)は、ずっと以前から存在は知っていたが、深く調べていなかった。集落豪邸の石と思っていた。「日耀千旗影」「山呼萬歳声」との刻みは、田上の徳三寺近くに明治44年「祝捷山登口」碑(写真2〜3)が見つかった2007年当時、この石らしい記録は、昭和13年「長崎市史地誌編名勝舊蹟部」祝捷山の項で見つけていた。

大山集落の石柱2本が、東山手の学校の門柱だったという説は、「祝捷山」が戦後、海星学園の所有地であったところから出ているようであるが、現在は道仙ゆかりの家族の手で、鳴滝の「琴石」のそばに今年10月すでに移設されている。
今回の長崎新聞記事でわからないのは、取材で徳三寺境内「祝捷山登口」碑にも案内されながらこの碑を紹介していない。そして、いったん鳴滝の「琴石」そばにすでに移設された2本の道仙石柱を、もともとあった小島側の「祝捷山入口」に戻す計画がないのだろうか。
徳三寺の碑(左面に「道仙松在此山中」?と刻む。道仙の字のようにも見える)とも3本は、入口という場所の確認で変わってくるが、小島側に並立も考えられる。

私たちが今更、いろいろ要望しても始まらないが、これまでの文献調査と対処は、いささか手落ちがあったように思う。ところで「長崎市史」の記録。西道仙書の田上口あと1本の石柱「義気貫天中」は、以前として所在不明のまま。どこにあるのだろうか。

地元の昔を知る方から記憶のコメントが今、次のようにあっているので追記する。
「うろ覚えですが、昭和40年半ば頃、合戦場の小島口(南高側)フェンスを入って右手に二本、田上口(徳三寺側)入り口を入ってグランド右隅に二本立っていたと思います。この頃は祝捷山の記念石(大石)も平地にあり、上り放題、上に祠なんぞ建っていませんでした。(と思います)
長崎市史地誌編記載の門柱は、明治38年の公園化と同時に敷地内に設置されたもので高さも2.4mあり、登山口標石は後々整備した折のもののようですね。」