月別アーカイブ: 2012年12月

長崎の古写真考 写真の開祖上野彦馬 130P 小菅造船所

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長崎の幕末・明治期古写真考 写真の開祖上野彦馬 130P 小菅造船所

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

産業能率短期大学出版部「写真の開祖 上野彦馬」 130〜131P

227 — 小菅造船所 明治10年代(1880)撮影。フランス人、ワンサン・フロランの指導のもとに着工し、明治15年5月完成。エントツの建物はポンプ室。現在の三菱造船所。

目録番号:3863 立神ドック(1)
〔画像解説〕   超高精細画像
この写真は、長崎市街地の長崎港を挟んで西岸の立神にある、三菱会社の立神ドックである。写真右側の海の向こうに東山手居留地が遠望できるが、東山手の丘の上にすでに活水学院の明治15年創建のラッセル館が見えている。明治10年(1877)代後期の写真である。目録番号4729(整理番号93-21)の写真は、ほぼ同じ角度から撮影した写真であるが、施設の整備状況からみて、こちらの写真が5年程経たものである。ドックハウスが完成し、ドックの周りにさまざまな施設が整備されている。ドックには修理のために、戦艦が入っている。立神ドックは明治7年(1874)、フランス人技師ワンサン・フロランの指導によって構築され、明治12年(1879)に竣工した。長さ135.7m、幅33.4m、深さ、11.6mの本格的なドックである。明治17年(1884)7月長崎造船局は三菱に払い下げられ民営になった。写真は明治20年(1887)代の、三菱会社に払い下げられた後の立神ドックを撮影した写真である。

■ 確認結果

「写真の開祖 上野彦馬」は、「小菅造船所」と解説しているが、目録番号:3863「立神ドック(1)」のとおり、「立神ドック」が正しい。
長崎港を挟んで、立神の対岸側が小菅であり、ソロバンドック(小菅修船場)がある。

長崎の古写真考 写真の開祖上野彦馬 122P 寺町晧台寺後山の墓地

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長崎の幕末・明治期古写真考 写真の開祖上野彦馬 122P 寺町晧台寺後山の墓地

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

産業能率短期大学出版部「写真の開祖 上野彦馬」 122P

212 — 寺町晧台寺後山の墓地 明治10年(1877)頃撮影。彦馬の墓所でもある。

目録番号:767 長崎の墓地(1)
〔画像解説〕   超高精細画像
F.ベアトによる書き込みに1866年3月とあって、撮影者と時期が判明する。ベアトは長崎では墓地をよく撮影していたが、これは春徳寺墓地の一葉である。春徳寺は、もとトードス・オス・サントス(ポルトガル語で諸聖人の意)という永禄12年(1569)に創設された長崎最初のカトリック教会があった場所で、現在は県の史跡に指定されている。この教会が慶長19年(1614)に破壊されたあと、寛永17年(1640)にそれまで岩原郷にあった寺を移転して創建したという、臨済宗の寺院である。その墓地は、境内から裏山に広がり、そこには著名な「東海の墓」(県指定有形文化財)もある。現在は墓域が再整備されているため、画面の位置を特定することは難しいが、地形からすれば「東海の墓」の裏手あたりか思われる。左上の樹叢が長崎氏の城跡「城の古趾」に連なるのであろう。ベアトの別の一葉の解説では、春徳寺を「“SPRING VIRTUE” TEMPLE」とも訳していた。

■ 確認結果

撮影された長崎の墓地が、「写真の開祖 上野彦馬」では、寺町「晧台寺後山の墓地」、ベアトコレクションでは、夫婦川町「春徳寺墓地」と解説が異なっており、現地調査した。
双方が見落としているのは、目録番号:767「長崎の墓地(1)」を超高精細画像で見るとわかるが、墓地背後に大きな谷間の集落があり、上まで耕された山の稜線がうっすらと写っている。
どの山だろうか。確認が必要ではないか。
現地へ行っても、どっちもどっち。はっきりした確証が得られない。カメラがこのように立てたか、墓地の地形も問題となる。

私の感じでは、背後の稜線から鍛冶屋町「大光寺墓地」が、最も考えられる(写真6)。上野彦馬はベアトと大光寺を訪ねた写真が残る。このあたりから小島養生所方面も写している。
筑後町「福済寺墓地」は、少し違うようである(写真7)。
古写真左下に写る地蔵の列の道や、墓碑で明らかに読める「足巌良正居士」「圓徳院殿興岳永隆居士」が残っていないだろうか。撮影場所となった墓地の研究をお願いしたい。
ベアト撮影では、別の次の写真を長崎蛍茶屋の墓地と確認している。
https://misakimichi.com/archives/2829

長崎の古写真考 写真の開祖上野彦馬 118P 高島礦業所二子坑立坑 ほか

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 長崎の幕末・明治期古写真考 写真の開祖上野彦馬 118P 高島礦業所二子坑立坑 ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

産業能率短期大学出版部「写真の開祖 上野彦馬」 118〜121P

208 — 高島礦業所二子坑立坑、現在の三菱高島礦業所 明治初年撮影。
209 — 高島礦業所二子坑、石炭積込み桟橋、船は石炭積取り船、手前は坑内で使用する坑木 明治初年撮影。
210 — 高島二子坑、石炭積込み桟橋、右前方は沖之島 明治初年撮影。(掲載略)

目録番号:2415 高島炭鉱南洋井坑

目録番号:3232 高島炭鉱石炭船積場

■ 確認結果

長崎県立図書館に郷土資料として、「写真の開祖 上野彦馬」があった。産業能率短期大学出版部が昭和50年発行。上野一郎氏も監修。上野彦馬研究の第一級機関である。
古い写真集で、今ごろ取り上げるのはどうかと思うが、解説の疑問を数点、説明する。ほかの写真集が、この間違いをいつまでも引きずり出版されている。
地元長崎として困っているので、写真所蔵先日本大学芸術学部とも、早く本元において研究をお願いしたい。

この項は、本ブログ次を参照。
https://misakimichi.com/archives/3480
https://misakimichi.com/archives/2763
https://misakimichi.com/archives/1619

208「高島礦業所二子坑立坑」は、「南洋井坑」ではないか。
209「高島礦業所二子坑、石炭積込み桟橋」は、「尾浜坑の石炭積込み桟橋」ではないか。
210「高島二子坑、石炭積込み桟橋、右前方は沖之島」は、「北渓井坑」の石炭積込み桟橋「南風泊港」ではないか。したがって右前方は「飛島」、左後方が「沖之島」である。

名寺の境界標石  長崎市晧台寺・春徳寺・聖福寺・悟真寺

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名寺の境界標石  長崎市晧台寺・春徳寺・聖福寺・悟真寺

長崎市の古い名寺の墓地など寺域境界標石。どこにあるのか、自分で探して見てもらいたい。

晧 台 寺  長崎市寺町     「晧境目」 「晧臺寺墓地境界標」
春 徳 寺  長崎市夫婦川町  「春徳寺」
聖 福 寺  長崎市玉園町    「従是西聖福寺境内」
悟 真 寺  長崎市曙町     「福建境地界」(旧唐人屋敷内天后堂塀にもあり)

桜馬場天満神社(威福寺跡)石垣のキリシタン墓碑  長崎市桜馬場1丁目

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桜馬場天満神社(威福寺跡)石垣のキリシタン墓碑  長崎市桜馬場1丁目

新大工商店街の先、“シーボルト通り”から左へ入る。桜馬場天満神社は、参道橋や天井絵は有名だが、外回りの威福寺跡石垣にキリシタン墓碑?らしい石がはめ込まれている。 

「ナガジン」発見!長崎の歩き方「越中先生と行く 長崎、開港以前」3.開港時の遺構に出会う道〜夫婦川から桜馬場を歩く(桜馬場天満神社〜織部神社〜トッポ水)は、次のとおり。
「長崎の町ではよくありますよ。それが2つもあるんですよ」。あと1つはどこだろう。右の石のことか。  http://www.at-nagasaki.jp/nagazine/hakken0702/index2.html

越中先生
「私達は今、長崎の町を離れてシーボルトも歩いた“シーボルト通り”にいます。新大工町までは旧長崎の町でしたが、ここから右へ行くと長崎村字桜馬場郷です。ここには“長崎街道ここにはじまる”という碑が建てられています。つまりここは、江戸時代、江戸へと続く街道の起点となったところですね。この石碑の字は、前の市長さん、本島等さんに書いていただいたものなんですよ。この道をシーボルトが歩いたのは事実で、シーボルトはこの先にあるお寺の中で休み、お昼ご飯を食べたと著書『江戸参府紀行』に記しています。そのお寺というのが真言宗の威福寺(いふくじ)というお寺でした。」

出島の和蘭商館医として来崎したシーボルトは、江戸に上り、将軍に拝謁して献上品を送り貿易に対する謝意を表す商館長の毎年の行事(のちに4年に1度)である江戸参府に同行した。当時の威福寺は、江戸へ向かう際はここで別れの宴と旅支度を改め、帰途の際は、旅装を解く重要な場所だったそうだ。

越中先生
「威福寺は、長崎に初めて天満宮を持ってきた場所でもあります。昔はお寺とお宮と一緒にあったんですね。だから諏訪神社よりも古いお宮だったんですよ。そして、明治になってここでも神仏混淆禁止令によって神様と仏様を一緒に祀れなくたったので、桜馬場天満宮となったんです。シーボルトの時代はお寺でしたが、この界隈はそれ以前、長崎の城下町だったんです。さて、私はこの天満宮の中にあるモノを見つけましたのでご案内しましょう。」

隣のビルの壁面を削ってまでいかされた鳥居をくぐり抜け、すぐ左にある階段を下り、天満宮を取り囲む石垣に注目!
越中先生
「私がこの威福寺を調査しているときに、いろいろみつけたんですが、一つはこの石垣の中にキリシタン墓碑がでてきたんです。ここに石垣を作った年号が書かれているんですが、この石垣を作るときに、キリシタンの墓を壊してはめ込んだんですね。長崎の町ではよくありますよ。それが2つもあるんですよ。」

確かにこれは以前目にしたことがあるキリシタン墓碑の形。裏返った形で石垣にきれいにはめ込まれている。そして、石垣をよくよく見てみると、時代によって、石の種類、積み方に違いがあることがわかる。

釣れた? 釣具店の釣人 (23)  長崎市平山町

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釣れた? 釣具店の釣人 (23)  長崎市平山町

長崎半島平山町の国道499号線沿い。釣具・えさ店。連日早朝4時オープン。背後は八郎岳。
Fishing shop OGAWA

ハロウィンの10月末以来。店はまだ時々飾る。もうすぐクリスマス。イルミネーションもつけている。

「みさき道」を歩こう 第3回  2012年12月

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「みさき道」を歩こう 第3回  2012年12月

長崎新聞カルチャーセンター 2012年度後期野外講座 ”「みさき道」を歩こう”。 企画立案 林先生・現地ガイド 江越先生

江戸時代、長崎の人たちは脇岬の観音寺まで七里の道を歩いて、”観音寺詣で”をしました。その道は長崎半島の尾根筋の山間に現在も残っていて、当時の道塚が数本残っています。
観音寺には、唐絵目利きの石崎融恩や出島絵師の川原慶賀らによって描かれた天井絵もあり、往時の豊かな観音信仰の一端をうかがうことができます。

2012年12月8日(土)曇りのち小雨。その第3回目。三和行政センター前に集合。10:00出発。きょうは「みさき道」の核心部、蚊焼峠から徳道へ出て、高浜まで下る。
長一尾の尾根は、街道の山道がそのまま一番残り、快適な稜線歩きができる。天気予報はときどき雨。出発時、小雨がすでに降っていた。古茶屋坂入口から木立の道へ入ると、雨はやんだ。

すぐ上では、砂防ダムの取り付け道路が工事中。「みさき道」が分断されたが、深堀城山方面の展望が効くようになった。「妙道尼信女墓」は行き倒れ尼さんの墓。そのため「ビックーさん」と呼ばれる。「年号七十」は享年だろう。墓の刻みを確認した。
展望ベンチのところは、植林が大きくなり、端島(軍艦島)など見えなくなった。

坦々とした長一尾の尾根を進む。水仙は伸びているが、まだ蕾。サイクリング道路へ予定どおり12時に出た。
以下宿三叉路の「長崎ヨリ五里 御嵜ヨリ二里」里程道塚と、野母崎ゴルフ場裏門から入り、茶屋跡の2本の道塚(地蔵墓刻みとその右奥今魚町系)を確認。昼食とした。

午後は高浜へゴルフ場外周道路を下る。ゴルフ場で「みさき道」が喪失した区間。ここでデジカメのバッテリー蓋が外れ故障。延命水の水場などは写せなかった。
高浜へ下り、寄り道して長野観音堂と正瑞寺を見学。やっとデジカメが直った。高浜海水浴場前八幡神社まで行って、きょうの行程は終り。雨が少々降り出した。
海水浴場桟敷は本年で廃業。壊されており、冬の海は荒れていた。

<徒歩距離10km 高低差240m> 参加者11人。私も道案内で同行。
第4回は、新年明けて2013年1月12日(土)。高浜海水浴場から脇岬観音寺まで。

佐世保市周辺に残る陸軍省要塞地帯(区域)標の調査結果一覧表

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佐世保市周辺に残る陸軍省要塞地帯(区域)標の調査結果一覧表

佐世保市の高橋氏がまとめた資料。現在、判明している佐世保市周辺に残る陸軍省要塞地帯(区域)標の調査結果一覧表。一部、未整理があるが、そのまま載せる。ズーム拡大。

長崎市周辺に残る陸軍省要塞地帯(区域)標の調査結果一覧表

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長崎市周辺に残る陸軍省要塞地帯(区域)標の調査結果一覧表

佐世保市の高橋氏がまとめた資料。現在、判明している長崎市周辺に残る陸軍省要塞地帯(区域)標の調査結果一覧表。一部、未整理があるが、そのまま載せる。ズーム拡大。

長崎の古写真考 マンスフェルト集 12・13P 愛宕山からの景色(再掲)

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長崎の幕末・明治期古写真考 マンスフェルト集 12・13P 愛宕山からの景色(再掲)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

長崎大学コレクション外編Ⅰ「マンスフェルトが見た長崎・熊本」

第二章 長崎  12・13P  愛宕山からの景色
愛宕山の中腹から茂木街道が走る谷をはさんで、小島郷佐古に建つ長崎医学校および大徳寺の丘越しに出島方面をのぞむ。出島の手前の白い家は明治3年(1870)ごろ建った中国商社広隆号。中央右の大きな屋根は正覚寺。その右上の茂みに旧長崎奉行所西役所の建物は撮影直前に消失している。中央付近は花街の寄合町。
001・002 1871年頃 マンスフェルトか サイズ/193mm×90mm 大 ほか

■ 確認結果

朝日新聞長崎地域版2012年11月17日付”長崎今昔 長崎大学コレクション”に、上記の作品が「丸山と寄合町周辺 娼妓開放直前の風景」として掲載された。新聞記事の解説は次のとおり。タイトル・解説とも変更された。

「写真中央は遊郭の丸山町と寄合町周辺です。1871年ごろ、お雇いオランダ人医師マンスフェルトが撮影したもので、「愛宕山からの景色」と紹介されています。
右手の大屋根は正覚寺です。写真中央や手前の家並みに沿って横切る道は茂木街道です。…(遊郭の話が続き)…
茂木街道脇の石垣の上には、西洋料亭・福屋の2棟の建物が見えます。59年に中村とめが上棟した日本で最初の洋食料理屋の一つです。…」

長崎大学コレクション外編Ⅰ「マンスフェルトが見た長崎・熊本」写真集の解説問題点は、11月6日すでに4点を指摘しているので参照。
https://misakimichi.com/archives/3488
この作品はかなり至近から、低い目線で撮影されている。正覚寺の位置と大屋根の向き、稲佐山の稜線、港の見え具合から判断すると、撮影場所は、愛宕山山頂からではない。
愛宕山の中腹、高平町の榎観音堂の上、長崎玉成高校旧校舎の左上石垣付近(高平町15街区)で、全体の景色が見え正覚寺が同じように確認できるので、現地で見てもらいたい。

データベースでは、目録番号: 2871「高野平からの小島山手遠望」(2枚目古写真)に同じような景色がある。全体の位置関係を、まず風頭山高野平の高い位置から見てみよう。
撮影場所が愛宕山中腹、高平町の榎観音堂あたりと変わってくると、「小島郷佐古に建つ長崎医学校および大徳寺の丘」は、正覚寺の右奥の写真外となり写らない。「丸山町と寄合町周辺」及び「西洋料亭・福屋」(2棟の建物がどれを指すか不明。白い建物?)も、正覚寺墓地奥の谷間となり、高い墓地にさえぎられはたして写るだろうか。

「西洋料理屋・福屋」の彩色写真は、「長崎古写真集 居留地編」第3版100頁にある。神戸市立博物館所蔵。現地説明板及び林先生の図版解説は、次のとおり。
「建物は明治2年上棟の日本家屋と明治8年上棟の洋館の組み合わせとなっていたが、いずれにも擬似風の細部装飾が加えられていた」
「写真にみえるのは、洋館部のヴェランダ側。店が最も繁盛したのは明治20年代で、来航した外国人の客も多かったという。撮影もその頃であろう」

「長崎の史跡 南部編」30頁では、「福屋は、中村藤吉が開業、最初は和食専門であったが、安政6年(1859)以降は洋食料理店となった」とある。
福屋の開業者名、建物特に洋館部の建築年代など、年代が合うように正しく説明してもらわないと、新聞記事はわかりにくい。マンスフェルトが写真を撮影したとする1871年は、明治4年だろう。

さて、左上に写る石垣の大邸宅である。茂木街道と現在の県道の線を入れた。茂木街道脇であり、正覚寺・同墓地上の続き尾根にある。国指定史跡「高島秋帆旧宅」雨声楼ではないだろうか。正門入口の石段、長い石垣が現在でもこのようになっている。
私の勘違いもあるため、くれぐれも現地確認をお願いしたい。

そのつど解説が変わるようでは、今回も長崎大学附属図書館と執筆者、長崎・熊本・東京での巡回写真展、出版元の長崎文献社、長崎今昔の朝日新聞社の権威が疑われる。
データベースの改善を再三、要望している。過去にも多例ある。古写真研究の基本は、まず現地確認であろう。迷惑しているのは、一般利用者、読者である。