月別アーカイブ: 2012年8月

志島ヶ原  愛媛県今治市桜井

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

志島ヶ原  愛媛県今治市桜井

国指定文化財等データベース及び愛媛県の文化財による解説は、次のとおり。

名称: 志島ヶ原
ふりがな: ししまがはら
種別1: 名勝
指定年月日: 1941.02.21(昭和16.02.21)
指定基準: 八.砂丘、砂嘴(さし)、海浜、島嶼
所在都道府県: 愛媛県
所在地(市区町村): 今治市桜井
解説文:
菅原道眞公ヲ祀レル綱敷天滿宮ヲ中心トシテ其ノ周圍ニ青松繁茂シ松原ノ前面ニハ比岐島、平市島、四阪島等ノ大小島嶼青螺ノ如ク海上ニ浮ブノ近景アリ背後ニハ唐子山、靈仙山等ノ翠丘ヲ中景トシテ古來瀬戸内海地方信仰ノ中心タル石槌神山ノ連峰高ク中空ニ聳エテ雄大ナル遠景ヲ造レルアリ一地區ヲ以テ近中遠ノ三景ヲ包括セル山海雙美ノ一大景勝ヲ成セリ

(愛媛県解説)
今治市の南部、燧灘を臨む海岸にある志島ヶ原は、白砂青松の景勝地である。面積10haあまりには老松約3,000本がおい茂っている。
前面に瀬戸の海、近くには比岐島・小比岐島・平市島、遠くには四阪島を望み、背後には唐子山・霊仙山・世田山等の古跡を背負い、遠くに雄大にそびえる石鎚連峰を望むことができる。北は唐子浜、南は桜井の石風呂海岸へ続き、変化の多い松原である。
志島ヶ原にある綱敷天満宮の名は、菅原道真が九州大宰府に流される途中、この地に立ち寄った際、里人が船のとも綱を敷いて迎えたという伝説による。また東端に道真がぬれた衣を干したといわれる衣干岩などもある。海岸には幕末の安政2年(1855)に黒船来襲に備えて土を塁状に盛った台場跡が見られる。

北吉井のビャクシン  愛媛県東温市樋口

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

北吉井のビャクシン  愛媛県東温市樋口

国指定文化財等データベース及び愛媛県の文化財による解説は、次のとおり。

名称: 北吉井のビャクシン
ふりがな: きたよしいのびゃくしん
種別1: 天然記念物
指定年月日: 1948.12.18(昭和23.12.18)
指定基準: (一)名木、巨樹、老樹、畸形木、栽培植物の原木、並木、社叢
所在都道府県: 愛媛県
所在地(市区町村): 東温市樋口
解説文:なし

(愛媛県解説)
本来は、圓通寺(廃寺)の境内地内であった場所にある老巨木である。根回りは7m、2つに分幹しており、各々の目通りは約4mである。樹高は約20mもあり、枝張りは両幹を合わせると径12mに及ぶ。
枝葉が繁茂し樹勢は盛んでイブキの巨木として、四国中央市の下柏の大柏(イブキ)に次ぎ、ともに本県の誇る巨木の一つである。
樹齢は730年くらいとされている。

湯築城跡  愛媛県松山市道後公園

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

湯築城跡  愛媛県松山市道後公園

国指定文化財等データベースによる解説は、次のとおり。愛媛県の文化財解説は省略。

名称: 湯築城跡
ふりがな: ゆづきじょうあと
種別1: 史跡
指定年月日: 2002.09.20(平成14.09.20)
指定基準: 二.都城跡、国郡庁跡、城跡、官公庁、戦跡その他政治に関する遺跡
所在都道府県: 愛媛県
所在地(市区町村): 松山市道後公園
解説文:
湯築城跡は,松山市街地の東部,古くからの温泉地として知られる道後温泉の入口に位置し,石手川右岸の扇状地に北からのびる高縄山系の丘陵南端が突出する場所にある河野氏の城跡である。
湯築城跡は,南北350m,東西295mの長い隅丸の亀甲形をなし,中央の比高差31mの丘陵部を中心とし,内側に土塁を伴う堀を二重に築いた平山城である。
河野氏は,伊予国越智郡を本拠とする在地の豪族であったとされ,古代末期には武士化して,中予・東予の実権を握っていったものと考えられる。平安時代末の通清の時代には,風早郡河野郷に本拠を移した。源平の戦いで活躍し,鎌倉期には御家人となり,家臣団を構成するようになる。なお,一族には,時宗開祖の一遍もいる。河野氏は,その後元寇の時に水軍を率いて活躍し,伊予国における地位を確固としたものとしていった。足利尊氏の挙兵に対しては,足利方に味方し,この頃に温泉郡湯築城を築城したものと伝えられる。室町期には,河野氏は伊予国守護職に任ぜられ,応永の乱や嘉吉の乱,応仁の乱などで活躍したが,一方で讃岐の細川氏の国内への侵攻や,河野氏内部の惣領家と分家である予州家との対立があり,戦国期には家臣団の内訌や在地勢力の反抗などで力を落とし,天正13年(1585)の豊臣秀吉の四国攻めによる小早川隆景らの攻撃で滅亡することになる。その後湯築城は,廃城となった。江戸期には,松山藩が城跡を管理し,年数回の祭礼の時のみ開放されたとされ,遺構はそのまま残された。
明治期に入り,当地は明治19年(1886)に道後植物園となり,21年(1888)には県立道後公園として活用され,域内に遊園地・県立道後動物園・松山市子規記念博物館などの施設が配置された。昭和62年(1987)の動物園の移転に伴う,跡地利用のための発掘調査により,湯築城跡の遺構が良好に保存されていることが確認された。
調査は,動物園地区を中心に昭和63年度から平成11年度まで実施され,湯築城が拡張・整備されたとする16世紀前半以降の4時期にわたる遺構面が確認された。また,城跡南東側には庭園を持つ屋敷群,南西側には家臣団のものと想定される8区画の屋敷跡,その屋敷群と丘陵地区とを画する内堀などが検出された。出土品としては,青磁や青花の盤・大皿・鉢などの輸入陶磁器が多量に出土している。その他,城跡内の確認調査によって,丘陵部の頂部の郭と北側の郭を画する堀切,丘陵各所に所在する小郭群の礎石建物,鍛冶遺構,土器投棄土抗,丘陵と屋敷群を画する内堀とそれに伴う土塁,搦手門の遺構などが検出され,江戸期に描かれたと想定される『湯築古城図』の配置と良く合っていることが確認された。
このように,発掘調査により,守護大名として伊予国に君臨した河野氏の城館である湯築城跡の内容が確認され,現状で残っている外堀・外堀土塁や丘陵部以外の遺構も保存状態が良好であることが確認された。湯築城跡は,戦国時代における伊予国の歴史を考える上で重要な城館跡であり,史跡に指定し,保護を図ろうとするものである。

道後温泉本館   愛媛県松山市道後湯之町

イメージ 1

道後温泉本館   愛媛県松山市道後湯之町

国指定文化財等データベースによる解説は、次のとおり。愛媛県の文化財解説は省略。

名称: 道後温泉本館
ふりがな: どうごおんせん
棟名: 玄関棟
ふりがな: げんかんとう
員数: 1棟
種別: 近代/商業・業務
時代: 大正
年代: 大正13
西暦: 1924
構造及び形式等: 木造、建築面積15.56m2、本瓦及び銅板葺、南面玄関附属、東面南棟に接続
指定番号: 02314
国宝・重文区分: 重要文化財
重文指定年月日: 1994.12.27(平成6.12.27)
重文指定基準1: (一)意匠的に優秀なもの
重文指定基準2: (三)歴史的価値の高いもの
所在都道府県: 愛媛県
所在地: 愛媛県松山市道後湯之町5番6号
所有者名: 松山市
解説文:
明治27年竣工の神の湯本館、明治32年竣工の皇族入浴用棟である又新殿・霊の湯棟、大正13年竣工の南棟及び玄関棟よりなる。
神の湯本館は桟瓦及び銅板葺の木造三階建で、入母屋造の大屋根に宝形造の塔屋を設ける。又新殿・霊の湯棟は、銅板及び檜皮葺の木造二階建一部三階建で、正面に御成門を配す。
本館全体は複雑な屋根構成をもち、和風を基調とした大規模複合建築であり、坂本又八郎の設計によるわが国の代表的温泉建築である。

龍泰寺の太鼓橋  愛媛県松山市御幸1丁目

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

龍泰寺の太鼓橋  愛媛県松山市御幸1丁目

松山市に残るアーチ式石橋。HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」愛媛県の石橋によるデータは、次のとおり。

№3,942   龍泰寺の太鼓橋   2009.01.04

松山市御幸1丁目

大川  橋長:7.0m  橋幅:1.8m  径間:3.4m  拱矢:1.3m  環厚:28cm
架設:元禄11(1698)年頃?  倉浜御影石

龍泰寺の入口に架かっています
ご住職のお話では、このような真円になっているという話が伝わっているそうです
橋のたもとに石柱“この寺に五百らかんあり”(寛政八大傑僧の一人明月正人の書)
当山15世文明和尚の時五百羅漢が作られた
元禄11年(1698)この地に移転した当時のままの山門

萬松寺 龍泰寺
「天正6年(1578年)戌寅年開山 城川町龍沢寺13世立屋是春大和尚によってこの地より約200m西の地に龍澤寺(56〜7の末寺を有す)の8番目の末寺として開山されました
元禄11年(1698年)戌寅年11月 龍泰寺8世宝山徹至によってこの地に移転して竣工いたしました
12月4日 晋山 松平隠岐守定直公の建立でした
この山門は当時のまま約310年たっています。定直公は伊予15万石久松家4代の藩主。
城北地区の勉学所として出来た。
寛政八大傑僧 文明和尚当山15世この時500羅漢が作られた(橋のたもとに石柱“この寺に五百らかんあり”八大傑僧の一人明月正人の書)
昭和20年7月26日本堂戦災時焼けました。
昭和22年 仮本堂再建 当山31世祖道弘範によって昭和8年より座禅会を展いています。32世大道豊治によって休会することなく続けられ、その間沢木興道老師年1回(S30−38)その後内山児正老師(春秋の接心12回をつづけ、現在33世によって毎週水曜午後7時(12月1日〜7日)臍八接心を行っている。
平成20年(2008年)戌子年8月20日落慶したこの本堂です。
同年11月2日 当山において約106年ぶりに晋山結成式。
註:不思議なことに西暦ではみんな8年である。干支では戌(ツチノエ)である。計ったものではありません 偶然のめぐり合せです。
以上 歴史」

砥部衝上断層  愛媛県伊予郡砥部町

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

砥部衝上断層  愛媛県伊予郡砥部町

国指定文化財等データベース及び愛媛県の文化財による解説は、次のとおり。

名称: 砥部衝上断層
ふりがな: とべしょうじょうだんそう
種別1: 天然記念物
指定年月日: 1938.05.30(昭和13.05.30)
指定基準: (一)岩石、鉱物及び化石の産出状態,(三)地層の摺曲及び衝上,(五)地震断層など地塊運動に関する現象
所在都道府県: 愛媛県
所在地(市区町村): 伊予郡砥部町
解説文:
和泉砂岩層ガ中央構造線ニ沿ヒテ第三紀層ノ上ニ衝キ上ゲ居ルモノニシテ南日本ニ於ケル中央構造線ノ性質ヲ最モ能ク表徴セルモノトシテ有名ナリ

(愛媛県解説)
数千万年前の地殻変動によってできた逆断層で、地質学上西南日本を二分する中央構造線に伴う大断層が起こった年代を決定する重要な証拠となるものである。
カガス淵付近の地層の重なりの状態は、約6千万年前に堆積してできたといわれる後期白亜紀和泉層群(砂岩・頁岩互層)が、約4千万年前にできた新生代第3紀久万層群の上にかぶさっており、衝上断層(逆断層)といわれることがよくわかる。走向北30度東、傾斜北西40度を示している。
断層の間から火成岩(安山岩)が噴き出していることから、断層に起こった後も、この地域で火山活動が活発であったことがうかがえる。

石鎚山登山  愛媛県西条市・久万高原町

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

イメージ 14

イメージ 15

イメージ 16

石鎚山登山  愛媛県西条市・久万高原町

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』による解説は、次のとおり。
石鎚山は、私は20代から久し振りの登山。快晴を待ち2012年7月27日(金)、面河渓から石鎚スカイラインを土小屋遥拝殿(標高1492m)まで行き、山頂へ登山道を往復した。
「二の鎖」「三の鎖」を上り、天狗岳(標高1982m)まで登ったため、往復6時間を要した。山頂はガスがかかって、遠くの展望はきかなかった。登山客は多かった。
土小屋から帰りは、石鎚スカイラインを北東へ瓶ヶ森や伊予富士の方へ向かい、寒風山トンネル口へ出た。夕方近くこちらもガスがひどく、景色は見えなかった。

石鎚山

石鎚山(いしづちさん、いしづちやま)は、四国山地西部に位置する標高1,982mの山で、近畿以西の西日本最高峰である[1]。愛媛県西条市と久万高原町の境界に位置する。
石鉄山、石鈇山、石土山、石槌山あるいは伊予の高嶺などとも表記される。『日本霊異記』には「石槌山」と記され、延喜式の神名帳では「石鉄神社」と記されている。前神寺および横峰寺では「石鈇山(しゃくまざん)」とも呼ぶ[2]。

概 要
石鎚山は、山岳信仰(修験道)の山として知られる。日本百名山、日本百景の一つであり、日本七霊山のひとつとされ、霊峰石鎚山とも呼ばれる。石鎚山脈の中心的な山であり、石鎚国定公園に指定されている。
正確には、最高峰に位置する天狗岳(てんぐだけ、標高1,982m)・石鎚神社山頂社のある弥山(みせん、標高1,974m)・南尖峰(なんせんぽう、標高1,982m)の一連の総体山を石鎚山と呼ぶ。

三角点は天狗岳や弥山には設置されておらず、弥山の北西にある1,920.63mのピークに三等三角点「石鎚山」が設置されている[3]。神社の敷地を避けたものと思われる。石鎚山系の一等三角点「面河山」は南西側の二ノ森山頂(1,929.24m)に設置されている。

第三紀の1500万年前ごろまで、活火山として活動しており、山体は三波川変性帯を覆う、安山岩からなる[4]。この安山岩は山頂の南側の面河渓谷を中心とする直径約7kmに分布しており、カルデラを形成していた。ちなみに、このカルデラは日本で一般的なじょうご型カルデラではなく、環状割れ目噴火によるバイアス式カルデラである。約2万年前の最終氷期にこの辺りは周氷河作用がはたらき、岩石が砕かれ岩稜の山が形成されたと推定される[4]。

山岳信仰
石鎚山は奈良時代から修行道場として知れ渡り、空海も修行したとされる。信仰の拠点として石鎚神社、前神寺、極楽寺、および横峰寺がある。また成就社は奥前神寺とも呼ばれていた。(中略)

1871年(明治4年)の神仏分離により、石鎚蔵王権現は石鎚神社に、前神寺および横峰寺は真言宗に所属することとなった。明治時代以降は石鎚神社、前神寺、横峰寺はさらに多くの信者を集めるに至った。毎年、7月1日から10日までの間に「お山開き」の神事が執り行われ、多くの信者が参拝登山に訪れる。古くからお山開きの期間中は女人禁制とされてきたが、現在では7月1日だけが女人禁制となり、女性は山頂まで登る事が出来ない。

登 山
石鎚山の鎖場石鎚山の頂は、通常は天狗岳のことを指すが、弥山から天狗岳までが岩場であることや、天狗岳に多人数がとどまれるスペースがないこともあり、天狗岳直前(約200m手前)の弥山までの登山者も多い。弥山には石鎚神社の鎮座のほか山頂小屋がある。

弥山まで3箇所の鎖場があり、下から「一の鎖」(33メートル)、「二の鎖」(65メートル)、最後は「三の鎖」(67メートル)と続くが迂回路もある。「一の鎖」の手前に前社ヶ森(1,592m)の岩峰にかかる「試しの鎖」(74メートル)があり、これが最も急勾配である。弥山への鎖は近世頃より掛けられたとされ、1779年(安永8年)に鎖が切れ、翌1780年(安永9年)に鎖の掛け替えを行ったとする記録である『石鉄山弥山鎖筋之覚』が前神寺旧記に残されている。山頂からは瀬戸内海、および土佐湾、見通しのよい日には大山を始めとする中国山地、九州の九重連山まで望むことができる。

主な登山口は、石鎚登山ロープウェイから石鎚神社成就社、土小屋、面河渓谷。成就からの登山道が表参道、面河からが裏参道と呼ばれる[8]。天狗岳直下には傾斜が強くオーバーハングした北壁が落ちており、四国一といってもよいロッククライミングのフィールドを提供している。南西斜面の中の沢・南沢は沢登りのルートとして知られる。堂ケ森から二ノ森経由で石鎚まで縦走するルートもある。

動植物
石鎚山及びその周辺の森林は、暖帯林(カシ林)から温帯林(ブナ林)、標高1,700メートル以上の亜寒帯林(ダケカンバ林、シラビソ(シコクシラベ)林)と変化に富んでいる。この亜高山帯針葉樹林は日本最南端のものであり[4]、多様な動物相を呈しており、クマタカやハヤブサ、ヤマネなどの生息地として重要であることから、国指定石鎚山系鳥獣保護区(大規模生息地)に指定されている(面積10,858ha、うち特別保護地区802ha)。また林野庁の森林生態系保護地域にも指定されている。

御来光の滝  愛媛県上浮穴郡久万高原町

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

御来光の滝  愛媛県上浮穴郡久万高原町

久万高原町公式サイトによる解説は、次のとおり。面河渓から上がる石鎚スカイライン途中の長尾尾根展望所から御来光の滝と石鎚山の遠望。
滝へは、ここから沢伝いに3時間は要する難路。滝の直近写真は展望所説明板から写した。

御来光の滝 (日本の滝 100選に選定)

霊峰石鎚山に源を発する御来光の滝は仁淀川の源流で、面河渓谷の上流約7kmの地点にあります。朝日に映えて純白に光り輝く様は荘厳そのもので、信仰の山石鎚に詣でる行者達は、『神』とあがめています。
日本の滝100選の選定委員の一人でもあられる三島昭男先生からも、ご来光の滝は名瀑中の名瀑と絶賛戴いています。
落差101.6m 延長150.9m 幅34m

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』による解説は、次のとおり。

御来光の滝

御来光の滝(ごらいこうのたき)とは、愛媛県上浮穴郡久万高原町にある滝。

概 要  仁淀川の最源流部面河渓にあり、霊峰石鎚山のほぼ直下から流れ落ちる神秘的な滝で、落差は102mほどある日本の滝百選にも選ばれている名瀑である。
石鎚スカイラインの途中にある長尾尾根展望所から遠望することができる。また、滝を直接見るためには、長尾尾根展望所から急激な斜面を下り、谷沿いや崖沿いのアップダウンの多い登山道を片道3時間近く歩いて行くことができる。滝は南向きで明るく、晴れた日の午前中には滝に架かる虹を見ることができる。
なお、登山道の途中には危険な箇所もあり、道に迷いやすい場所もあるので、注意が必要である。

面河渓  愛媛県上浮穴郡久万高原町

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

面河渓  愛媛県上浮穴郡久万高原町

国指定文化財等データベース及び愛媛県の文化財による解説は、次のとおり。

名称: 面河渓
ふりがな: おもごけい
種別1: 名勝
指定年月日: 1933.02.28(昭和8.02.28)
追加年月日: 1937.12.13(昭和12.12.13)
指定基準: 五.岩石、洞穴,六.峡谷、爆布、漢流、深淵
所在都道府県: 愛媛県
所在地(市区町村): 上浮穴郡久万高原町
解説文:
面河川本流ノ上流ヲナセル石鎚山南麓ノ溪谷ニシテ其大部分ハ堅緻ニシテ粗キ節理ヲ有セル石英閃緑岩ヨリ成リ溪間致ル處ニ斷崖壁立シ危険聳峙シ岩石美ニ富メルノミナラス満山原始ニ近キ大森林ヲ以テ蔽ハレ溪流ハ水清ク流急ニシテ所々ニ瀑布ヲナシ深潭碧淵其ノ間ニ交錯シテ景觀ノ變化ニ富ミ稀ニ見ルノ峽谷美ヲ構造ス就中、関門屏風岩兜岩鎧岩等ノ絶壁ト御來光瀑霧迫瀑熊淵紅葉淵等ノ瀑布淵潭ハ局部的景勝ノ尤ナルモノナリ

(愛媛県解説)
面河渓は、節理が見られる岩石、それに屏風岩・兜岩・鎧岩などの絶壁、御来光の滝・霧迫滝などの滝、紅葉淵の深淵など変化に富んでおり、その渓谷美をいっそう引き立ててみごとである。渓谷は、モミ、ツガ帯と呼ばれる中間温暖林で、植物相や動物相にも恵まれ、春の新緑、秋の紅葉は全国的にも有名である。
渓谷をうるおす清水の一部は、昭和38年(1963)に建設された笠方ダムに集められ、発電用水・農業用水に利用されている。
面河の名は、天明年間(1781〜1789)松山の円光寺の僧明月の断簡に「面子」と見られるのが最初といわれている。

岩屋寺大師堂・岩屋・古岩屋  愛媛県上浮穴郡久万高原町

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

岩屋寺大師堂・岩屋・古岩屋  愛媛県上浮穴郡久万高原町

国指定文化財等データベース及び愛媛県の文化財による解説は、次のとおり。

名称: 岩屋寺大師堂
ふりがな: いわやじだいしどう
員数: 1棟
種別: 近代/宗教
時代: 大正
年代: 大正9
西暦: 1920
構造及び形式等: 木造、建築面積83.91平方メートル、宝形造、銅板葺、正面向拝付
指定番号: 02508
国宝・重文区分: 重要文化財
重文指定年月日: 2007.06.18(平成19.06.18)
重文指定基準1: (一)意匠的に優秀なもの
重文指定基準2: (三)歴史的価値の高いもの
所在都道府県: 愛媛県
所在地: 愛媛県上浮穴郡久万高原町七鳥1467番地
所有者名: 岩屋寺
解説文:
四国霊場第四十五番札所である岩屋寺は、愛媛県中央部の高知県県境近く、直瀬川右岸の屹立した隆起礫岩峰群を背負った崖地に南北に細長い平場を造り、境内を構える。大師堂は、本堂の南に位置し、東面して建つ。
岩屋寺は、明治三一年の火災により主要堂宇を失い、現在の大師堂は、大正四年五月に起工、同九年一一月に竣工したものである。設計監督は愛媛県温泉郡余土村出身で大蔵省臨時議院建築局技手の河口庄一、大工は窪田文治郎らである。…
岩屋寺大師堂は、九・二メートル四方規模の宝形造、銅板葺で、四周に擬宝珠高欄付の切目縁を廻し、正面と北面に木階を配し、正面には向拝を付ける。屋頂には、高欄付き露盤の上に八角形の宝傘を重ねて相輪と宝珠を戴き、宝傘に風鐸を吊す。平面は、各面両端部に双子柱を配した方四間のつくりで、正背面の中央の柱を抜き、正面側一間分を吹き放ちの外陣とし、後三間を内陣とする。
柱は礎石建ちの円柱とし、貫、虹梁等で固め、組物は尾垂木・支輪・軒天井を備えた三手先斗?、中備は人字形の束と大瓶束とする。軒は、二軒疎垂木で、垂木先を蛇口状に仕上げる。向拝柱は、角柱を二本組で用い、柱身にエンタシスを付け、柱頭部にバラと組紐飾り状の装飾を配し、柱身下部にはフルーティングを施す。
内部は畳敷きとし、内陣後方に須弥壇を置く。身舎の円柱頭部は挿肘木を輪で繋ぐ独特の構成とし、虹梁に載る大瓶束左右の笈形は木質を変え、花と組紐の装飾模様をあしらって際立たせる。天井は、身舎部が格天井、身舎周囲は化粧垂木を見せる。柱間は、正面中央間を双折桟唐戸、その両脇を両開板戸とし、側面前端間と背面中央に両開板戸を配し、側面中央間には火灯窓に連子を建て込み、他は板壁とする。

名称: 岩屋
ふりがな: いわや
種別1: 名勝
指定年月日: 1944.11.07(昭和19.11.07)
指定基準: 五.岩石、洞穴
所在都道府県: 愛媛県
所在地(市区町村): 上浮穴郡久万高原町
解説文:
なし

名称: 古岩屋
ふりがな: ふるいわや
種別1: 名勝
指定年月日: 1944.11.07(昭和19.11.07)
指定基準: 五.岩石、洞穴
所在都道府県: 愛媛県
所在地(市区町村): 上浮穴郡久万高原町
解説文:
結晶片岩を基盤として第三紀礫岩之を被覆し列立する數十の圓柱形若は圓錐状を成せる岩峰は水蝕作用に依って何れも岩壁の奇觀を恣にし略々東西に連亙す岩下の溪流亦岩列に沿ふて東し其の間に平坦なる草地の一帶を形成す、就中洞ヶ岳、不動岳、大岩岳、古岩屋岳等を推して最哨の奇勝となす、殊に天柱岳の圓柱状を成して頂に松樹の僅に生ずるは景觀の一奇たり其の他の諸岩亦矮松を叢生せしむるあり春季にセキコクの花開き其の妍美賞すべし岩壁の諸處に大小の竅穴を見る大なるは數メートルの横穴を成し小なるは蜂■の如くにして無數なり「島の臺」とする奇岩「千丈敷」と稱する岩穴亦驚異に値す。

(愛媛県解説)
岩屋寺は、四国霊場四十五番の札所として知られている。大師堂は、本県出身で大蔵省臨時議院建築局技手であった河口庄一が設計監督し、大工は窪田文治郎らで、大正9(1920)年に建築された。
大師堂は宝形造で銅板葺である。構成は伝統的な寺院建築を基調としているが、向拝柱にはエンタシスを付け、柱頭部にはバラと組紐飾り状の装飾を施すなど細部意匠に西洋建築の手法を採りいれながらまとめられており、我が国の近代建築意匠上、高い価値が認められる。