月別アーカイブ: 2008年7月

根獅子の浜海水浴場と周辺  平戸市根獅子町ほか

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根獅子(ねしこ)の浜海水浴場と周辺  平戸市根獅子町ほか

平戸市街から国道383号線などにより紐差町へ行く。紐差交差点を過ぎ、しばらくまだ国道を宮の浦方面へ進むと、途中に「根獅子入口」分岐とバス停があり、右へ道へ入り、山手を越して下ると根獅子町へ着く。同町には「切支丹資料館」がある。

これから大石脇町・獅子町へと海岸沿いを北上すると、根獅子の浜のほか無名(?)の浜・人津久の浜と3つの美しい砂浜と海水浴場がある。白砂のきれいな浜も殉教の歴史がある。
途中の小さな浜で、製塩している小屋を見た。
平戸市発行「平戸まるわかり本 とっとこ平戸」25頁による説明は次のとおり。

根獅子の浜海水浴場

日本の海水浴場88選にも選ばれた美しい海水浴場。白い砂浜は約1kmにも及び、遠方から多くの人々が訪れています。

志自岐神社地の宮、沖の宮社叢  平戸市野子町

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志自岐神社地の宮、沖の宮社叢  平戸市野子町

平戸市街から国道383号線により平戸島の南端、野子町の国道終点「宮の浦」へ向かう。宮の浦まで車は約1時間。
宮の浦漁港へ出、左方へ行くと角に橋があり、川脇にフェンスによって囲まれた一角があり、「式内社志々伎神社跡」碑が新旧石燈籠とともにある。

現在の志自岐神社地の宮と沖の宮は、この地を挟みすぐ近くの山手と湾内の小島にある。沖の宮は漁港の先へ行くと、現在は堤防で繋がり歩いて渡れた。
長崎県HP「長崎県の文化財」による説明は次のとおり。

志自岐神社地の宮、沖の宮社叢  県指定天然記念物

指定年月日 昭和49年3月5日  所在地 平戸市野子町882ほか
所有者 志自岐神社
平戸の南端、宮の浦の海岸に面する斜面に地の宮の社叢があり、すぐ前方の海に沖の宮社叢がある。
地の宮社叢の主木は、スダジイ・イヌマキ・ホルトノキ・タブノキ・イスノキ・クスノキで、大きいものは樹高20m、幹径60cmに達する。林内にはヤブツバキ・クロキ・オガタマノキ・ヤツデ・タイミンタチバナなど多種類の常緑樹が生じ、林下にはアオノクマタケラン・フウトウカズラ・サカキカズラ・テイカカズラ・ビナンカズラなどが密生する。
沖の宮社叢は、中心部には地の宮社叢と同じ植物からなる群落があり、海にのぞむ斜面にはハマビワ・トベラ・シャリンバイ・マサキなどの海岸性の低木群落がある。海岸にはハマオモト・ハマウドが生育する。

式内社志々伎神社跡  平戸市野子町

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式内社志々伎神社跡  平戸市野子町

平戸市街から国道383号線により平戸島の南端、野子町の国道終点「宮の浦」へ向かう。宮の浦まで車は約1時間。
宮の浦漁港へ出、左方へ行くと角に橋があり小さな川が流れ、川脇にフェンスによって囲まれた一角があり、「式内社志々伎神社跡」碑が新旧石燈籠とともにある。

現在の志自伎神社地の宮と沖の宮は、この地を挟みすぐ近くの山手と湾内の小島にある。
志々伎山は途中の野子から写す。標高347m。古期安山岩でできた山。山頂が鋭く尖る。五島列島が一望できる。
長崎県HP「長崎県の文化財」による説明は次のとおり。

式内社志々伎神社跡  県指定史跡

指定年月日 昭和49年7月2日  所在地 平戸市野子町3172ほか
所有者 志自伎神社
式内社志々伎神社は、志々伎山を中心にして上宮、中宮、地の宮、沖の宮の4社と別当寺(円満寺=現在の中宮社)の5つの社殿があり、祭神は仲哀天皇の皇弟十城別王(とわきわけのみこと)である。
志々伎神社は古代朝鮮との交易、中世における松浦氏との関係において崇敬された神社で、肥前国における式内三社の一つであり、壱岐、対馬の式内社に比べ規模が大きく、式内社としての形を現在までよく伝えている点など歴史的価値が高い。

金立神社のナタオレノキは倒れてなかった  平戸市前津吉町

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金立神社のナタオレノキは倒れてなかった  平戸市前津吉町

津吉は平戸島の南部。平戸市街から国道383号線により宮の浦方面へ下る。前津吉町は相浦・佐世保航路がある所で、国道の津吉交差点から左折して「前津吉港」の方へ入る。
「金立(かなたち)神社」は港の右側海岸通りにあるので、「前津吉」バス停まで行って集落の中の道を通った方がわかりやすく、すぐ近くである。
Otoji.K氏HP「長崎の名木」リストの中の説明は次のとおり。

ナタオレノキの大木

平戸市前津吉町・金立(カナタチ)神社にある。幹周り2m、樹高およそ8m。
ナタオレノキは九州西岸では、五島列島や男女群島にしか見られず、神社では神木として保護されている。
地元の人の話では、台風の影響でこのような樹形になったという。すぐ側は海に面していて台風をまともに受けている。幹は空洞になっていて痛々しいが、持ちこたえてほしいものだ。
上部の枝には多くの葉がついていたが、高すぎて白い花は確認できなかった。訪れたのはキンモクセイの花が満開の10月初旬。 金立神社の社叢は市の天然記念物に指定。

以上が説明で、最初の写真が同氏が撮影されているナタオレノキの大木である。この木を今回訪ねたのだが、金立神社に見当たらない。
同氏が危惧されたとおり、空洞があり台風などの強風に持ちこたえきれず、すでに倒れたのではないか。
鳥居や社殿が写っておらず、前どこに立っていたかわからない。私が写してきたこの倒大木のどれかであろう。神社に人はいなく、話が聞けない。

金立神社社叢   平戸市前津良吉町

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金立神社社叢   平戸市前津良吉町

津吉は平戸島の南部。平戸市街から国道383号線により宮の浦方面へ下る。前津吉町は相浦・佐世保航路がある所で、国道の津吉交差点から左折して「前津吉港」の方へ入る。
「金立(かねたち)神社」入口の案内標識が町へ入る前に右手にあるが、ここから行ったら分岐が多くわかりにくい。左、左と曲がらないと神社に着かない。

神社は港の右側海岸通りにあるので、「前津吉」バス停まで行って集落の中の道を通った方がわかりやすく、すぐ近くである。
Otoji.K氏HP「長崎の樹木」中の街路樹による説明は次のとおり。
ナタオレノキの大木は、倒れてなかった。次項参照。

金立神社の社叢

平戸市前津吉町にある神社。境内には樹齢400〜500年・幹周り3m以上のイヌマキが数十本あり、エノキ、イエスギ、ナタオレノキなどの大木がある。
神社社叢は昭和48年に市の天然記念物に指定された。
社の裏の林の中に、幹周り3m50cmのイヌマキの巨木があった。

平戸の沖の島樹叢  平戸市木場町

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平戸の沖の島樹叢  平戸市紐差町

平戸市紐差教会先の紐差交差点から前津吉町へ平戸島の東側を行く県道60号線へ入る。
紐差小学校は手前で左折するのが県道である。後は「普門寺」「木ヶ津教会」の案内標識により湾沿いに進むと、その途中となる木ヶ津漁港へ出る。
防波堤の先端へ行けば、湾の入口対岸にある「沖の島」を一番近く見ることができる。

干潮時に対岸から渡られるとあり、大潮の先日、また行ってみた。紐差教会から国道383号線により平戸市街の方へ少し戻り、県道を鋭角に上った高台のカーブのところに「田島入口」「マルタ神父の墓」の案内標識がある。
この道を「田島」バス停まで進むと、下の海岸に沖の島が見え、コンクリート道を小さな船溜まりまで下ると、沖の島との間も堤防道路ができて繋がっていた。
社叢の中を上って反対浜の社殿と鳥居に出る。樹種は多いが枯倒木が多い。取り立てた大木はないようだ。鳥居の浜のハマボウが咲きかけていた。
長崎県HP「長崎県の文化財」による説明は次のとおり。

平戸の沖の島樹叢  県指定天然記念物

指定年月日 昭和51年2月24日  所在地 平戸市紐差町1674  所有者 三輪神社
沖の島は平戸の中央部東側の木ヶ津湾内にある小島である。面積は約1ha、海抜10m程度の低平な地形をなす。干潮のときは北岸が本島とつながり、満潮時には離れる。島の中央には三輪神社がある。
樹叢は島全体をおおう。主木は、スダジイ・ヤマモガシ・ホルトノキ・ヤマモモ・モッコク・ヒメユズリハで、そのほか、イヌマキ・タイミンタチバナ・ヤマツバキ・クチナシ・カクレミノ・ハクサンボク・タブノキ・クロキなどの常緑樹が生育する。林下には、ヤブコウジ・テイカカズラ・サカキカズラ・キヅタ・トキワカモメヅル・ヤブランが生じる。
この樹叢には稀産種や珍種はないが、全体として原生状態をよく保っていて、かつての低地の照葉樹林の姿をよくとどめていて貴重な存在である。

御崎浦鯨組納屋場跡にある桁石橋  平戸市生月町御崎

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御崎浦鯨組納屋場跡にある桁石橋  平戸市生月町御崎

平戸市の生月島に渡り、島の北端「大バエ灯台」へ行く途中の県道42号線の道脇で見かけた桁石橋。
場所は今、御崎漁港として整備されている生月町指定史跡「御崎浦鯨組納屋場跡」碑の近く。
当時の海岸線はまだ陸寄りと思われ、鯨の解体場や納屋は今の県道敷きの部分にあったのではないだろうか。石祠が近くに2つあり、生月新四国霊場札所と地蔵2体の石祠。 

この浦の中央に田んぼから小川が流れ、すこし広いと思われる畦道らしいものの下を覗くと立派な桁石橋であった。すぐ下流も貯め口らしい複雑な造りをし、現在の県道新橋が架かっている。
町が設置した納屋跡碑の説明板は次のとおり(□は草と重なって写り、わからない字)。

生月町指定史跡  御崎浦鯨組納屋場跡  昭和46年3月29日指定

享保14年(1729)益富又左衛門正勝が、この地に、舘浦で営んでいた鯨組を移した。
この一帯を石垣で囲い、網納屋、鍛冶網大工□等の納屋、赤身納屋、東蔵尾羽毛蔵、苧蔵、塩蔵大納屋、道具納屋、油壺場、小納屋、□□□□□納屋、勘定納屋、大工納屋、米倉、新筋蔵、艪納屋、油貯小倉、油貯六間倉、荒物貯八間倉等各一宇、筋納屋二宇、羽差納屋一宇、加子納屋三十宇、□轤八箇等があり、海岸に鯨の解体場、船曳揚げ場があり、当時の大工場であり、日本最大規模の捕鯨基地でもあった。享保十八年に鯨の□□□を導入してからは、少し離れた古賀□□□□□網干し場を設けている。
天明8年(1788)絵師、司馬江漢は生月の益富家に1カ月滞在し、この間この地を訪れて捕鯨その他をスケッチしている。又、明治24年には、幸田露伴が、この地や羽差をモデルとして、小説「いさなとり」を発表した。
捕鯨不振により文久元年(1861)基地は閉じられた。
平成3年3月25日設置  生月町教育委員会

説明板のとおり、ここは史実がはっきりした当時最先端の捕鯨解体場である。HPを見た限り、この桁石橋は全く顧みられていない。
鯨の解体・保存・加工には真水も必要であろう。なによりも多くの職人の生活があった。近隣からの通勤道もあったろうし、出荷の運搬道も必要である。
この川と水場、道と桁石橋、石垣、石祠などは、地元で当時の解体場の様子を描いた図絵と詳しく照らし合わせ、史跡としての価値を一度考えていいのではないだろうか。

御崎浦にあった御崎捕鯨納屋場のジオラマは、「生月町博物館 島の館」に展示物としてある(HP「写真満載九州観光」に写真あり)。これは掲げられないので、代わりにHP「鯨の郷土誌 – 生月町」から最後の写真とおりの捕鯨図説『勇魚取絵詞』を 。
江戸時代後期、生月島御崎浦を拠点にした益冨組の捕鯨を描いた木版の図説。中の「生月御崎納屋場背美鯨漕寄図」である。これが最も参考となりそうだ。

大バエ灯台  平戸市生月町御崎

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大バエ灯台  平戸市生月町御崎

平戸市役所から県道19号線により生月大橋を渡って生月島へ入る。「大バエ灯台」(大碆鼻)は生月島の最北部にあり、灯台が展望所となっている。
生月大橋を渡ってから、島の東回り県道42号線や西回り農免道路のどちらかでも行かれ、一周道路の合流点から大バエの先端部へ行くため御崎集落に入る。大橋から車では約30分のところである。
平戸市HP「平戸まるごと観光ガイド みどころ」による説明は次のとおり。
後の写真は、途中にある御崎野営場(キャンプ場)。

大バエ灯台

生月島の最北端に位置し、80m程切り立つ大バエ断崖の上にたつ白亜の無人灯台。
この灯台には全国でも珍しい展望所が設置されており、海と空が溶け合う雄大さで素晴らしい景観が眺望できる。
また、岬の陸部分にはなだらかな草原になっており「はまゆう」の群生地がある。

塩俵断崖の柱状節理  平戸市生月町

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塩俵断崖の柱状節理  平戸市生月町

平戸市役所から県道19号線により生月大橋を渡って生月島へ入る。「塩俵断崖の柱状節理」は生月島の北部にあり、東シナ海を向いた西海岸側にある。
島内は一周道路が整備され、生月大橋を渡ってから、島の東回り県道42号線や西周り農免道路のどちらかでも行かれ、車では約20分のところである。
長崎県HP「長崎県の文化財」による説明は次のとおり。

生月町塩俵断崖の柱状節理  県指定天然記念物

指定年月日 平成元年9月29日  所在地 北松浦郡生月町壱部免1560外
管理責任者 生月町
生月島は平戸島の北西部に隣接し、南北約10km、東西は最大幅をもつ南端で3.8kmの細長い島である。東側はゆるやかな傾斜地になっているが、西海岸は切り立った海食崖が連続し、玄武岩の溶岩流の重なりが露出している。溶岩流の厚い部分では、冷却の際に生じた顕著な柱状節理が発達する場合が多い。

島の北西部の塩俵海岸に露出する玄武岩の柱状節理はその代表的なもので、規模はもとより、景観的にきわめてすぐれている。柱状節理が発達する玄武岩溶岩流は南北に500m続き、20m以上の厚みをもつ。玄武岩の柱はほぼ垂直であり、さらに水平に亀裂が入って板状節理もつくる。柱の太さは60〜120cmもあり、断面は五〜六角形をしめす。塩俵断崖の南端の展望所から波打ち際を見下ろすと、この柱状節理の蜂の巣状の多角形の断面もまじかに観察することができる。