月別アーカイブ: 2007年12月

熊野神社のイスノキ・オガタマノキ  西海市大瀬戸町雪浦下郷

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熊野神社のイスノキ・オガタノマキ  西海市大瀬戸町雪浦下郷

西海市大瀬戸町雪浦下郷にある熊野神社の巨木。雪浦橋の手前から雪浦ダムなどの案内標識により右へ入る。町中を横にまっすぐしばらく行くと、真光寺(学寮跡史跡)下の広い駐車スペースに出る。この寺の右が熊野神社。石段と鳥居が見え、境内にはイスノキ・オガダマノキをはじめ巨木が林立している。神社裏手の山林にもいろいろな木が多いようである。
Otoji.K氏HP「長崎県の名木」リストの中の説明は次のとおり。

大瀬戸町・熊野神社の巨木

大瀬戸町雪浦の熊野神社は、オガタマノキとイスノキの木が目立つ。山門右にくねったイスノキの大木がある。階段を登ると右手にオガタマノキの巨木がある。さらに登ると右手にまたまたオガタマノキの巨木がある。オガタマノキはいずれも幹周り3mほどはある。
境内に着くと、幹が二つ分れたイスノキの巨木がある。これも幹周り3mはある。巨木の多い神社は、クスの巨木が多い長崎市の諏訪神社と諫早市の諫早神社以来だ。
大瀬戸町・熊野神社の10月の秋季大祭は、「雪浦くんち」と言われ、お下り、お上り、シャギリなど伝統ある祭りが行われる。

外海のヤマモモの巨木  長崎市新牧野町

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外海のヤマモモの巨木  長崎市新牧野町

長崎市新牧野町にある。神浦ダム右の上流部の牧野岳山腹斜面にある。長崎方面からは三重才木から九州自然歩道を行って入る方法があるが、わかりにくい。車で行くなら神浦から神浦ダムに入る。堰堤を渡り管理事務所から右上流へ外周する。
ダムから2.4km回ったところに「大牧林道」の碑と「大野バス停へ」の標識があり、右に分岐する。途中に分岐はない。この車道を上がると山腹に牧場があり、牛舎の横にヤマモモの巨木がある。外海町の「町の木」だった看板が立っている。

山奥の一軒家は中山熊夫宅。奥さんの話では、外海町第一のヤマモモ巨木でこの木によって昭和63年「町の木 山桃」が公募指定され、町に買い上げられた。枝を剪定されたため背は低くなったが、以前はまだ大木だった。
Otoji.K氏HP「長崎県の名木」リストの中の説明は次のとおり。

外海町のヤマモモの巨木

牧野岳裾野の神浦ダムに至る山道沿にある。幹は地上40cmほどから二つに分れ、太い幹はさらに地上1mほどで二つに分かれている。それぞれの幹周りは、およそ、2m、1m、50cm、50cmほどで、幹周り4mはある巨木。
「町の木」がヤマモモであるという町の看板が立っているが、このヤマモモが町指定と記されてはいない。

三社大神宮のホルトノキ・ヤマモモ  長崎市長浦町手崎

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三社大神宮のホルトノキ・ヤマモモ  長崎市長浦町手崎

長崎市長浦町手崎の三社大神宮にある。国道206号線を長崎市琴海行政センター前を過ぎて行くと、すぐカーブする所の上に陸橋がある。この手前から右方の狭い車道に入り、すぐまた左の道に入ると、三社大神宮の鳥居前に出る。奥の鳥居から社殿の周りの森には巨木が林立している。こんなところによく残っていると圧倒される。下はもう海である。
Otoji.K氏HP「長崎県の名木」リストの中の説明は次のとおり。

三社大神宮のホルトノキ

琴海町長浦郷手崎にある。山門を過ぎると本堂がある。その左側にカシやシイの高木がそびえている。その藪の中にホルトノキがあった。手前の白っぽい木はシイ。ホルトノキの幹は板根になっている。神社は300年以上前からあったらしいので、このホルトノキの樹齢も300年以上はあるだろう。
「長崎県植物誌」の著者・外山三郎氏は、このホルトノキは町指定に値すると述べている。町の支援が待たれる。

神社はクスノキ、シイ、モウソウチクなどの高木に囲まれている。境内には相撲の土俵があった。山門の脇には ヤマモモの巨木がある。りっぱな巨木だ。ヤマモモの幹は洞になっていて、昔はその中に神を祭っていたが、後に神社を建立したとのこと。近所の人の話によると、戦時中、出兵する兵隊さんはこの神社で祈願し、戦地に向かったとのこと。この神社は現在、この地区の住民によって維持されていて、神主も持ちまわりであるらしい。鎮守の森とはこのような神社のことを言うのだろう。

琴海神上墓地のクロガネモチ  長崎市琴海戸根原町

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琴海神上墓地のクロガネモチ  長崎市琴海戸根原町

長崎市琴海戸根原町神上墓地にある。国道206号線のイチョウが目立つ自証寺前バス停から左方2つ目の角から坂道を上がる。ほどなく住宅のはずれに小さな墓地がある。ここが神上墓地。墓の中央にクロガネモチの巨木が立つ。
Otoji.K氏HP「長崎県の名木」リスト中の説明は次のとおり。

クロガネモチの巨木

琴海町戸根郷の神上墓地にある。幹周り4.23m。幹には洞ができている。
幹の途中に、ネズミモチが着生して花をつけていた。鳥の糞で運ばれてきて芽を出したのだろう。
クロガネモチは赤い実をつけていて雌株。先祖のお墓がある近所のおばあさんが墓地の
掃除をしていたが、実を食べに来る鳥の糞でお墓が汚れて困る、この木はどうにかならんもんか…、とこぼしていた。
「りっぱな木なので、切り倒さないで下さい」とお願いしたが、墓地に植えるクロガネモチは実をつけない雄株がいいのかも…。

琴海のヒイラギ  長崎市琴海戸根町崎山

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琴海のヒイラギ  長崎市琴海戸根町崎山

長崎市琴海戸根町崎山の浦江俊穂宅の庭にある。県指定天然記念物。国道206号線戸根バス停よりオーシャンパレスゴルフクラブの標識により海岸の方へ入る。鴻池団地を過ぎ海岸通りに出ると、まもなく20m先左脇崎、右ゴルフ場の標識あり、左の坂道を行く。
登ったところが浦江宅で、石碑の説明板とともにこのヒイラギと大きいシイがある。現地説明板は次のとおり。

県指定天然記念物  琴海のヒイラギ

ヒイラギは、モクセイ科モクセイ属の常緑高木である。このヒイラギは、地上40cmの幹囲3.6m、その上が三大支幹に分かれている。枝張りは北へ1.7m、南へ3m、東へ3.7m、西へ7mあり、ヒイラギの珍しい巨樹である。わが国では、関東以南の本州、四国、九州本島から沖縄まで自生する。葉の形が独特であることなどのため、人によく知られている樹木で、庭園樹などとして広く栽植されている。
指 定  長崎県教育委員会 昭和58年8月30日
所在地  西彼杵郡琴海町戸根郷547
所有者  浦 江 俊 穂
建設者  琴海町教育委員会 昭和60年3月30日

琴海土井ノ浦のアコウ  長崎市琴海戸根原町

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琴海土井ノ浦のアコウ  長崎市琴海戸根原町

長崎市琴海戸根原町土井ノ浦は、パサージュ琴海アイランドゴルフクラブのある半島の1つの入り江で、公園として整備されていた。国道206号線の戸根バス停か長浦の方からゴルフ場の案内標識により入る。両方からの中間地点くらいとなり、距離が結構ある。
アコウは護岸整備竣工の記念樹として外海町から移植された。現地説明板は次のとおり。

琴海町のアコウ樹

アコウは、アコギまたはアコノキなどいわれるクワ科の常緑高木です。イチジクのような小果を結びわが国では九州、四国、本州の暖地に分布します。県内では本土の沿岸暖地や五島・平戸・壱岐・鷹島等のキリスト教信者の多い島に多く大木を見ることができます。亜熱帯植物で奇観を呈することが多いですが、琴海町のアコウ樹は県内でも一級の巨樹の部類に入ります。大きさは根回り6.5メートル、胸高幹回り4.8メートル、高さが10.4メートルとなっています。このアコウは護岸整備竣工の記念樹として外海町から移植したものです。

阿蘇神社のケヤキ・イチョウ  長崎市琴海戸根町

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阿蘇神社のケヤキ・イチョウ  長崎市琴海戸根町

長崎市琴海戸根町の阿蘇神社はあまり紹介されてないが、ケヤキなど大木がある樹叢をなしている。戸根川沿いに行った国道206号線が橋を渡り、琴海中学校にかかる手前左方に中央幼稚園が見え、神社はこの裏手にあるので回り込んで行く。
幹回り3m位ある高いケヤキ2本は参道右に立つ。アカガシのような大木も参道にあった。林間にはかなりの大木が倒壊していた。

時津のともづな石  西彼杵郡時津町浦郷

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時津のともづな石  西彼杵郡時津町浦郷

長崎市樺島町のともづな石は前に紹介している。これは時津町浦郷にあるともづな石。時津町役場の北東側に八幡神社がある。裏手は時津中央公園。
神社石段の右手花壇の中に、中央地区区画整理事業により移されてある。現地説明板は次のとおり。神社は天明8年(1788)八幡山から迂座、再建とあった。大きなエノキと宝暦十二年刻の片付けられた石柱があった。

と も づ な 石

船のともづなを繋いだ石である。この石は中通り道端にあった。ここは文政年間(十九世紀前半)頃までは海岸の波止場にあり港に入った船を繋いだ石である。そのうち誰いうことなしにこの石を不思議な力を持った石であると言って崇敬され祀られていた。
昭和六十年(一九八五)の中央地区区画整理事業でここに移されたものである。
時津町教育委員会

時津街道の標石  西彼杵郡時津町浦郷

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時津街道の標石  西彼杵郡時津町浦郷

西彼杵郡時津町浦郷にある。時津町役場から旧時津街道の道を、当時、諸大名や幕府役人の休憩・宿泊所となった茶屋(本陣)跡の方へ行く。茶屋のすぐ手前のところで、長崎と長与への道が分かれ、道脇は小川が流れる堀となっている。
この角に道標の標石がある。HP「伊能忠敬測量による長崎県内の主な街道 時津街道」の街道図によると、この地点に「追分道標」と記しているが、写真はなかった。

今、残っている標石は「明治三十三年九月建」と刻まれている。この当時に建立した同じ造りの標石は、滑石の平宗橋と滑石公民館近くにも現存している(長崎の珍しい標石に項あり)。
この標石のことは、次のとおり時津町近辺の石碑を紹介したHP「郷土の石碑」にあったので、写真の場所を訪ねた。寸法は18cm角、高さ70cmだった。

7 道路標識(浦郷)

(右)→ 長崎
(左)← 長與
(左後)明治三十三年九月建
(右後)時津村 字市
※ 時津は古くから大村湾によって長崎に至る玄関口として栄えてきました。道標もまあ石碑の仲間と言えるでしょう。