月別アーカイブ: 2007年12月

池下・大門・川下の風景   諌早市飯盛町

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池下・大門・川下の風景   諌早市飯盛町

平成19年12月25日は、昨日の牧島に続き戸石神社から出発し、諌早市飯盛町となる池下・大門・川下を回った。いずれも橘湾の沿岸地域。海の景色が広がり、結の浜マリンパークの前には上ノ島、下ノ島が浮かぶ。
川下の「ヘツカ二ガキ」の木は県天然記念物ですでに紹介済み。外に市指定で池下に「アコウ」の巨樹、川下海岸に「牛の鼻ぐり」という奇岩名勝があるため見にいった。これは別項で詳しく紹介する。
ここに掲げた写真は、その途中の風景。川下にも大きなアコウがあった。海岸の防波堤から見た夕日が映えた。いつも帰りが遅くなる。

山の神神社のアラカシ  長崎市現川町

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山の神神社のアラカシ  長崎市現川町

長崎市現川(うつつかわ)町の「山の神神社」にある。矢上から現川川の川沿い市道へ入る。JR長崎新線のガード下を過ぎるとバス終点。左の現川駅の方へ行かず、上流に向けてまっすぐ進むと、仏畑集落で神社が左方へ見え、鳥居の脇に朽ちた根もあるアラカシがある。この道は、現川峠を越えて西山台へ出る。
Otoji.K氏HP「長崎の樹木」リストの中(街路樹)の説明は次のとおり。

アラカシの巨木

長崎市現川・払畑にある「 山の神神社 」にあるアラカシ。幹周り3.90m。幹の中ほどまで大きな洞ができていて、その半分は朽ちていが、残りの幹から大きく枝葉を広げている。木は傾いていて倒れまいと、必死にふんばっている感じだ。

牧島の風景  長崎市牧島町

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牧島の風景  長崎市牧島町

平成19年12月24日、長崎市東部の牧島へ。戸石の対岸にあった橘湾の島で吊り橋だったが、昭和44年11月「牧戸橋」が架けられた。
分校跡、海岸洞穴の穴弁天、ペーロン体験施設、津島、池の神、黒瀬崎台場跡、曲崎古墳群(国指定史跡)と回って見た。戸石との間は隠れた内湾。入江を利用して戦時中は震洋特攻基地となった。後の写真は、橋の西方切宮岬にかけて残る特攻艇の格納壕(戦跡で別項あり)。

円福寺のアコウ・カゴノキ  長崎市香焼町

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円福寺のアコウ・カゴノキ  長崎市香焼町

香焼山円福寺は、空海(弘法大師)が中国へ渡る際、お香を炊いたといわれる伝説の地。寺は長崎市香焼町の山手にある。遠見番所跡の小高い山に続く狭くて急な石段の途中に地蔵が点在している。大きな洞穴の祠では岩にへばりついた奇怪なアコウがあった。近くでシイやカゴノキの大木も見た。

後ろの写真は、香焼中学校近く田の浦団地前に街路樹として植えられているアコウ。幹が絡んでる太いアコウは、尾上のかつての海岸沿い道の住宅地で5本見た。ここのは昔から有名。
Otoji.K氏HP「長崎の樹木」リストの中(街路樹)の説明は次のとおり。

香焼町・円福寺

円福寺の裏山の急な石段を登るとギョクシンカの低木がある。さらに登っていくと、浅い洞窟があり、像が安置されている。岩にはアコウの木が伸びていて、気根が垂れ下がっている。異様なというか、神秘的というか、不思議な雰囲気がある。近くにはカゴノキの大木もある。

香焼町のアコウの街路樹

アコウとしては大木でもないし、街路樹としても本数は少ないが、アコウの街路樹はめずらしい。

諏訪の森のクスノキなどの巨木  長崎市上西山町

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諏訪の森のクスノキなどの巨木  長崎市上西山町

日本三大祭りの「長崎おくんち」の舞台である諏訪神社。長崎市上西山町にある。神社の奥の諏訪の森が公園となっている。大きなクスノキなどが群生。長崎県下一といわれる森となっている。立山へ登る道路が中を通り、ガードされた巨木の左右を車が走る。
公園内には、月見茶屋、噴水池、動物広場、丸馬場、武道館がある。
Otoji.K氏HP「長崎の樹木」の中(街路樹)の説明は次のとおり。

長崎市・諏訪の森

諏訪神社や諏訪公園の裏手にあり、諏訪公園から登る。公園にはマキの大木。園内に鯉が泳いでいる池があり池の左手に諏訪の森への階段がある。
クスノキの巨木がいくつかあり、アラガシ、イチイガシ、バクチノキ、ホルトノキ、クロガネモチ、ヤマモモ、ヤマモガシ、ハマセンダンなどがある。さらに登っていくと、道路にでる。そこに道路の中央にそびえているクスノキがある。

稲佐国際墓地の大クス  長崎市曙町

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稲佐国際墓地の大クス  長崎市曙町

長崎港の対岸稲佐の曙町にある。悟真寺に隣接した稲佐国際墓地。テレビ塔のある稲佐山(標高333m)登山道路入り口の近く。歴史ある外国人墓地でよく整備され散策向き。港に大型客船”飛鳥”が見えた。坂段を上がった一番上に「福建境地界」の標石を見つけた。
Otoji.K氏HP「長崎の樹木」リスト(街路樹)の中の説明は次のとおり。

稲佐国際墓地の大クス

長崎市稲佐町にある。墓地の周囲はクスノキの大木で守られている。巨木が2本ある。幹周り5〜6mほどで、長崎の大クスとしては上位に入るクスノキではないが、樹形は素晴らしい。墓地内には、サクラ、メタセコイアなどが植えられている。
この墓地は悟真寺に隣接した中国人の墓地であったが、後にオランダ人墓地ともなった。1858年、ロシア人水夫を埋葬するためロシア人墓地が作られ、翌年に国際墓地も設けられた。現在では、ロシア、オランダ、ポルトガル、フランス、アメリカ、インド、ユダヤなど多くの外国人が眠っている。

高浜の「石鍋」と岬木場の「鍋岩」  字名の謎

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高浜の「石鍋」と岬木場の「鍋岩」  字名の謎

為石石鍋製作所跡は、三和中学校上の墓地から左の寺岳登山道に入る。すぐ白川稲荷神社で赤鳥居道を登り、上祠から下に下ると右手の山際に跡の岩面2つがある。掘りかけの途中の石鍋も残る見事な岩面である。すでにこれは前に紹介している。

高浜にも「石鍋」という字名がある。長崎市高浜公民館の以前の講座資料、松尾秀喜氏作成「たかはま字名の由来考」44〜45頁は次のとおり。
本村名 石 鍋 いしなべ
いしなべ…は、石で作られた鍋や釜の作り出された所の字名でしょう。長崎新聞社の長崎大百科事典によると、平安期末から鎌倉期に西日本一帯に使用された石鍋(石材・石製)には硬質の滑石が用いられ、その製作所跡が西彼半島、野母半島の山中に見られる…と記されてあるところから、此処の石鍋の字名も石鍋作製による字名でしょう。
長野観音さんの手洗器と八幡神社の手洗器は石鍋の原型ともいわれる。当地の石鍋の由来。

長野観音堂跡の公民館庭先にある手洗石も前に写真で紹介した。さて、この高浜の「石鍋」の字名。地元の人に場所を聞いて探しに行った。野母崎高校のずっと上の方の谷間で大野集落となる。中を川が流れ、橋の左上斜面をいう。川を上流へつき上げてずっと付近を調べたが、人工的な岩面は見あたらなかった。このあたりの畑所有者本村さんや字名資料松尾氏の話でも何も残っていないそうだ。 驚いたのは、この川に小さいながら落差10mほどの見事な滑滝があった。滝の名前はないらしい。

返って橋の下流側に、写真のとおり人工の跡がある大岩と小岩があった。大岩は上に祠が祀られ、下部はえぐられ自然のものかどうかわからない。
近くにある小岩は石材として切り出されたような跡がある。畑の人に聞くと明治時代造られた長野観音堂の石垣は、ここから石を出したという話であった。しかし、ここは字名の「田郷」となる場所である。この岩も名前はないらしい。

あと1つ岬木場の「鍋岩」は、昭和62年「木場子供会発表会資料」3班の項に次のとおり記されている(資料は高浜公民館保存文書)。
”なべ岩”について
1 目  的
・身をかくすため
2 長  さ
・横に約150mあり、老人の話を聞くと10mぐらいは中に入っていかれたそうです。
3 由  来
・なべの形をした岩が見つかったから「なべ岩」と呼ばれています。
・平家の「おちびと」ががたどりつき、ほったものと言い伝えられています。
4 生活した様子
・岩に「のみ」でけづったあとがある。
・焼山に段々畑があり、そこで作物を作っていたとみられる。
・中に入った人の話によると、入り口のところに物をついたうすがあったそうです。
現在は土が積もって形しかわかりませんでした。

「なべ岩」のこの資料による場所絵図は上に掲げた。描かれている運動場の位置から、今の岬木場バス終点の上方でゴルフ場の進入道路となっているあたりの山でないだろうか。運動場は、サイクリング道路の一段下に見るグランドのようだ。この上はゴルフ場敷地となって、今は調べようがないと思われる。

古里海岸の埋立地に残る「建岩」(たていわ)  長崎市高浜町  

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古里海岸の埋立地に残る「建岩」(たていわ)  長崎市高浜町

長崎市高浜町となる古里海岸の港となった広い埋立地の中に、大きな岩が立っている。古里バス停のすぐ後ろ。昔の海岸を埋め立て、この岩は海の中にあった岩礁だとすぐわかる。古里は「みさき道」が堂山峠越しにかかる入口だから、よく見る岩だ。

この岩は、地元の人が言う「建岩」(たていわ)または「トンビーセ」の呼び名でなかったか。長崎市高浜公民館の以前の講座資料、松尾秀喜氏作成「たかはまの字名の由来考」27頁に次のとおりあった。

字 名 無し   通称語 建 岩 たていわ
たていわ…は、大古里、小古里の中間の海中に踏ん張って立ち巨岩を中心とした磯場の呼称で地方者はトンビーセと呼び里の象徴化した岩と見る。

昭和50年建の「示道標」標石  長崎市松崎町

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昭和50年建の「示道標」標石  長崎市松崎町

平成19年12月18日、神浦ダムから奥の新牧野町で前外海町の木「ヤマモモ」を見て、山越えして畦刈へ出た。この標石はその途中、松崎町・西海町の町境となる山手の道脇で見つけた。
場所を逆に説明すると、樫の久保バス停から森林基幹道「西彼杵半島線」が上がっている。約3分ほど走るとここは四叉路となり、九州自然歩道の「神ノ浦ダム 畦刈・三京」標識があった。対面の案内図の根元に標石があった。

刻みは、「示道標」「昭和五十年三月 才木栄建」「右 才木、岩立、桂山ニ至ル」「左 長田、黒崎、外海方面ニ至ル」。寸法は、28×20×90cm。新しい年代造りの道標石のため、取り立てる標石ではないが、殊勝な方が地元にいたものだ。基幹道が整備され、道も変わってきている。しかし、昔からここは重要な分岐点だったと思われる。

神浦ダム周遊コースの風景

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神浦ダム周遊コースの風景

平成19年12月20日、長崎県西彼杵半島にある神浦ダムに森林浴ウォーク。ダム堰堤から右回りを周遊。8.4kmのコース。約2時間半かかる。平坦な道だが、舗装は3分の2。歩いた方がよい。
左回りコースの一部が九州自然歩道となっている。両方の谷間奥には、深山橋と次兵衛橋が架かる。外海地震観測施設があった。コースに植えられた桜の木が大きくなっており、春もよいだろう。