月別アーカイブ: 2007年11月

「加能の下り口」と「南岸の砲台」とはどこか

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「加能の下り口」と「南岸の砲台」とはどこか

ここが土井首の人のいう地点、古地図にある「一本松」と思われる。今はそこから少し下ってダイヤランドバス終点一段下から竹林の中に下らざるを得ないが、了願寺ヘかけて尾根が海面に張り出すように見え、段々と眺望がよくなってくる。砲台といえば、高鉾・陰の尾・長刀岩の台場が考えられる。しかしこれらは南岸でなく西方の沖である。あまり遠くて砲台が見えただろうか。寛斎の方角間違いとも取られていた。

寛斎ほどの人に絶対そういうことはないだろうと思い調べてみた。小ヶ倉小創立百周年記念誌「小ヶ倉のあゆみ」ふるさと史料(昭和53年)に手がりがあった。小ヶ倉の古老が今の外港埋立地千本山に砲台があったと伝え、ただし考証できてないとある。千本山は鹿尾の南岸である。
文献を調べると随所にそれらしき記述が出てきた。佐賀藩にあって了願寺(寺は明治33年創建された)に元番所があったこと、ここと千本山に砲台があったことをうかがわせる関係資料があった。「古版長崎図集成」の湊外沖之図に表れた「千本」にも、御陣所の△印がある。

小ヶ倉柳生れで外港埋立前を知り、ダイヤランドの道塚も記憶のある先の蚊焼山村氏と現地調査した。千本山の突端は現在の後藤運輸辺りとなり、ダイハツはマークの看板がある。ここは明治4年海底電線の陸揚庫が建てられた。そして近くに砲台跡らしき石組みがあったが、昭和46年陸揚庫の移転復元のとき不明となったらしい。再度、ダイヤランドバス停下の山道に戻って、後藤運輸とダイハツのマークを確認した。確かにその辺りは木の間越しに、砲台が近くに見え隠れしたと思われた。
関寛斎日記は、文久元年に砲台を実際見たことを記録しており、砲台の考証史料足りうる。

(注) この稿の砲台は、長崎談叢19輯(昭和12年)の引用文が「南岸の砲台」とあったため調査したものである。しかし、今回判明した関寛斎日記の原文の字を見るかぎり、「南」ともとれるが「西」の字と読むのが正しいようである。
千本山は小ヶ倉のやや南となる。寛斎が見た地点からは西岸と言える。

ダイヤランドや小ヶ倉外港の昔の姿はどうだったか

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ダイヤランドや小ヶ倉外港の昔の姿はどうだったか

小ヶ倉小学校創立百周年記念誌「小ヶ倉のあゆみ」(昭和53年)の巻頭に航空写真などで掲載があり、開発前の姿がよくわかる。ダイヤランドは昭和59年販売開始。小ヶ倉柳埠頭建設はその前昭和37年である。ここ柳浦は千本山が半島形に土井首に向って突出してつくった内懐の入江で小ヶ倉唯一の好繋船地であった。今の南消防署辺りが付け根である。千本山は松の木が多く裏浜に海水浴場があった。突端に明治4年、長崎から上海及びウラジオストック間の海底電信の陸揚庫が設けられたが、この石庫は昭和47年に埋立のため現在地へ移転復元されている。

関寛斎日記の「笠山岳」「加納峠」「佳景の平地」はどこか。また「お水場」とは

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関寛斎日記の「笠山岳」「加納峠」「佳景の平地」はどこか。また「お水場」とは

A 「笠山岳」とは、どの山か
最初「笹(ささ)山岳」と読み違え、竹林が多い大久保山とすぐ思った。よく見ると「笠山岳」であったが、山自体は間違いなかった。右に見えるのはこの「大久保山」しかない。
小ヶ倉の現在の別の地図を調べている時、この山の新小が倉側の上り口に「笠山」という地名があるものがあり、字名として今も残っていることを市で確認した。資料をさがすうちに小ヶ倉の昔の山名として「笠山岳」が出てきた。しかし、今の山頂がそうであるか、手前の砕石場で削られた山頂を言うのかはわからない。
山の名前は、昔と今ではどの山もよく変っている。まして笠状の山はあちこちにある。長崎名勝図絵や古版長崎図集成を見ると、高浜などの後方に「笠山」と遠見番所があるものまで出てきた。大久保山は佐賀藩の陣所があった記録があり、県の遺跡地図で中世の「水木城跡」(?戸町番所のある山でなかったか)とされている。調べれば調べるほど、いろいろなことが出てくる山である。

B 「加能峠」はどこか。
加能は「鹿尾」とも書かれる。もともとの鹿尾はダイヤランドの尾根みたいで、字からいくと小ヶ倉ダイヤランド3・4丁目バス終点手前付近がそうであり、字「古道」もここに一部残る。その先土井首大山祗神社に下る道が字「大道」である。現在では、三和町大山祗神社先の大山林道登り口にも「鹿ノ尾」の字が存在する。
関寛斎日記「これより加能峠にて」の、「にて」の使い方がよくわからない。場所を表す「において」の意味に考えられるが、加能峠が五六丁上がった(日記原文により「上がった」が正)小ヶ倉港を眼下に望む佳景の平地の手前なのか。後なのか。あるいはこの平地そのものを指すものか不明である。
ダイヤランド内の「みさき道」のコースは、明治地図の県道を現在の団地地図に縮尺を合わせて書き写すと、ダイヤランド浜屋辺りまで少し上って尾根の右脇を下る。この浜屋までの途中に、古道町から鹿尾川沿いを遡ってきて大山からの道と合い、ダイヤランドのここにいったん登り、桜町病院下のお水場を通り小ヶ倉へ下る道がある。ここが峠であった可能性も考えられる。
ダイヤランド内の街道の分岐3地点に道塚があったことは、先に記した。この峠と古地図にある「山頭」、「一本松」の地点である。加能峠はこの3地点のいずれかであろう。桜町病院辺りの最初の分岐を峠と推定すると、寛斎の記述は、次の平地の特定によくつながってくる。
しかし、私の感じでは、「此より加能峠にて」は、日記の後に出て来る「加能の下り口」につながるようであり、そうすると「一本松」となるのである。

C 小ヶ倉港を眼下に望む佳景の平地はどこか
そこは前の「加能峠」からやうやう(だんだんとの意か)五六丁上がったところで、小ヶ倉港内の小島(今は陸続きの小ヶ倉支所先小ヶ倉神社地)を眼下に眼前に見る。西南は西海緲々(原文から「びょうびょう」で「はてしなく広々としたようす」が正)たりである。上がる距離が少し足りないが、小ヶ倉の港内が見えるのは、現在の老人ホーム「オレンジの丘」あたりである。
この辺はかって141.85mの水準点があった。埋立てでなく尾根の岩盤上に建設されている。お水場から道も上がり眺望がよい。ダイヤランド入口手前高比良造園の道塚から団地内の車道を上と横に這って、実測874m地点である。ここが古地図の「山頭」と思われる。
小ヶ倉の地元の人が言うところによると、ここは殿様の籠立て場である。家来が下のお水場に水を汲みに行ったらしい。そう考えられるところである。土井首の人はもう少し行ってバス終点の手前付近を言うが(ここが「一本松」と思われる)、逆に行く場合はまだ登る途中であり、休むところはある程度登りきったところで休憩するであろうし、そこでは尾根を回り過ぎて、もう小ヶ倉の港内が見えなくなるのである。

D お水場(御水の池)とはなにか
塩屋川の上流、現バイパス2号橋下、2丁目団地自治会公民館前の一角にあった。佐賀藩主鍋島公が軍船用のために堤を築いて貯水したとも、また深堀鍋島公が茶水用に築堤したとも伝えられるが定かでない。築堤があったことだけは事実であるが、2丁目団地の造成によって現在はその痕跡もない。ただ清澄な清水が枯れることなく流れている。
鉄分を含有し、道の尾温泉に類似の冷泉ともいわれる。築堤は寛永年間と伝えられ、面積約
80坪ほどだったという(小ヶ倉小創立百周年記念誌「ふるさと史料」から)。
今この場所近くには、昭和54年6月、老人憩いの家「おみず荘」が建っている。

「みさき道」がダイヤランド内を通ったと、どうして判断できるのか

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「みさき道」がダイヤランド内を通ったと、どうして判断できるのか

ダイヤランド内に道塚が3地点にあったことは、団地開発前を知る小ヶ倉柳生れの人の記憶談を得ている。少青年時代この辺をよく歩き覚えており、道塚は三和「みさき駅」前にある現物を見せると、これと同じであったと断言された。現在、蚊焼在住の山村氏である。。蚊焼峠入口の茶屋の特定で奇縁となり、話を聞くうちにダイヤランドに道塚があったと言い、さらに千本山の砲台の件もわかった。たいへん世話になった方である。

ダイヤランドに道塚があった所は、明治地図にある分岐で、文久古地図に地名が表れている「山頭」「一本松」など3地点であると思われる。関寛斎の日記・これらの地図類から当時の「みさき道」はダイヤランド内を通ったことは間違いない。

道塚の所在は、菱重興産を通じ三菱地所開発本社に問い合わせて貰ったところ、今団地内にあるカドムラ企画が当時測量に当られたことがわかった。だが、道塚の所在や当時の詳細な図面は不明であった。

「みさき道」は、戸町の海岸を通らなかったか

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「みさき道」は、戸町の海岸を通らなかったか

新地・松ヶ枝・浪の平あたりは、海で街道はなかった。現在の戸町に行くにも、必ず二本松から今の戸町小学校前まで下った。昔はここまで海岸線が入り、「杉の浦」というさびしい漁村であった。異国船の来航により寛永15年(1638)野母遠見番所が設けられ、この頃から各地の長崎警備が強化され、戸町番所が置かれ魚見や白崎に台場が築かれた。安政6年(1859)大村領だった戸町村は、交換されて天領となった。

戸町から海側の山腹を小ヶ倉塩屋まで行く道はあったかも知れないが、魚見岳台場の二ノ台場付近を通る道となり、一般の通行はあまり許されなかったと思う。明治29年でも深堀森氏は小菅から源右衛門茶屋へ上っている。こちらの道が多く利用されるようになったのは、小ヶ倉柳の先が整備された明治の後年からであろう。磯道の海岸から小ヶ倉柳間に「柳渡し」の私渡一艘があったことは、明治18年「西彼杵郡村誌」に書かれている。

平氏「肥前国深堀の歴史」によると、佐賀藩二代目藩主光茂が寛文12年(1672)9月16日、深堀巡見の際、「西泊・戸町番所を見廻ったのち戸町から陸路深堀に到着した」(光茂公御年譜)とある。これがこの小ヶ倉上揚を通っていた道と思われる。

「源右衛門茶屋」は、ダイヤランド入口近く高比良造園内にあったか

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「源右衛門茶屋」は、ダイヤランド入口近く高比良造園内にあったか

この付近は、小ヶ倉茶屋家の所有地である。私は昭和60年頃、ここに「御崎道」の道塚があることは知らなかったが、力士墓があったことは覚えている。ダイヤランドは昭和56年起工、昭和59年4月から販売を開始した。高比良造園はここで店を開いており、植木を買いに行ったからである。力士墓は、平成4年7月相光石油スタンド横に移された。ただ谷桜碑は、なぜか竹林内に残る。

ここに道塚や力士墓があって、茶屋家子孫が茶屋のいわれを、今の力士墓のそばに立派な石碑をもって建立されたことを考えると間違いない。
この茶屋は、明治29年2月当時も営業していたことが、深堀森家の記録(別項)で確認できた。

〔近くにある力士墓と茶屋いわれ碑文〕
この力士墓は天保十年ごろ東京相撲で活躍した「二子島力士」と慶応四年ごろ宮相撲の強豪であった「熊ヶ谷力士」のものである。往時この界隈は、御崎道の主要路で岬の「観音寺」参りの商人や深堀武士達の往来も激しく一軒の茶屋があったと伝えられ、今でも「ゲンネン茶屋」(源右衛門茶屋)と呼んでいる。
近年団地開発が進み付近の様子もすっかり変りこの碑の存在が忘れられ、おろそかにされてきた経過もあったが、父茶屋仙次郎の遺志をくみ、土地造成を機会にこの地に再建立したものである。
平成四年七月吉日      再建者 茶 屋 義 行 筆者 園 田 義 光

新小が倉にある「従是南佐嘉領」の藩境石は、どんなもので位置を動いてないか

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新小が倉にある「従是南佐嘉領」の藩境石は、どんなもので位置を動いてないか

新小が倉1丁目にある。ここは旧大村領戸町村と佐賀領小ヶ倉村の藩境で、長年の藩境紛争が天明7年(1787)解決し、白崎とともに藩境石が建った。詳しくは別項「大久保山から戸町岳に残る天明藩境石塚の調査」を参照のこと。

石の位置は、断定はできないが当時の藩境が今の町界と変わらなかったら(住居表示実施で町界が変更しているが、この地点は変わらない)、少しは昔の街道筋から動いているだろうが、ほぼ間違いないと思われる。小が倉バイパスの工事前を知る小ヶ倉の年配の人はそう言う。昔の写真は中尾正美編「鍋嶋藩深堀資料集成」にある。

「戸町カルルス」とは、どんなところだったか

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「戸町カルルス」とは、どんなところだったか

「みさき道」は、二本松山中の道塚から下道へ下る。弁慶橋のガード下をくぐり、小が倉バイパスの「弁慶岩」バス停に出、戸町の谷へ下ると「戸町カルルス」の跡あたりを行く。

「温泉はチェコスロバキアのカルルスバート(カルロビ・バリ)の鉱泉を結晶させた薬品、カルルス水を沸かしたことからカルルス温泉と呼ばれた。戸町カルルスは、玉蝉園とも称した。明治34年頃、戸町の藤田東三郎・東人親子が開設、敷地は約1,000坪で、4・5月は藤や菖蒲、9、10月は萩や楓で賑わったという。園内には温泉場があり、中川カルルスに対して戸町カルルスと呼ばれた。」(市立博物館刊「長崎の史跡」南部編から。古写真は長崎大学附属図書館所蔵分)

この上手の竹林に由緒ある井戸が残る。水はパイプで戸町海岸の製氷工場へ送られていたらしい。やがて戸町の一方通行交差点と出合い、戸町中学校の方へ向けてバス道を行く。少し手前から左へ石段を上がると墓地があり、中学校前へ達する。

戸町惣兵衛と長崎家墓地とはなにか。墓地は御崎道沿いか

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戸町惣兵衛と長崎家墓地とはなにか。墓地は御崎道沿いか

惣兵衛は長崎甚左衛門の弟で、はじめ、戸町氏の養子となったが、後に、甚左衛門の跡を継ぎ、長崎惣兵衛重方と称した。大村藩の重臣で、朝鮮の役にも出陣し、さらに、玖島城の築城の際は、築城奉行を勤めた。寛永十四年(1637)に没したが、大村市今富の墓は大村市の史跡に指定されている。一方、長崎市上戸町の、旧御崎道沿の墓地にも長崎家の墓地がある。以前は一六基ほどの墓石が並んでいたが、現在では一か所にまとめられている。この長崎家の始祖は三郎兵衛と称し、長与村の給人(二十石)を勤めたが、この三郎兵衛の夫人が惣兵衛の娘であった。長崎家は以後、弥大夫・重右衛門‥と続き、七代目の平左衛門の時から大浦番所の添番となり、この地に居住した。城野氏の宅地がその屋敷跡である。(昭和61年「三和町郷土誌」172頁コラム)

これは、長崎市上戸町二本松山中にある「みさき道」の道塚の関係から掲げた。文中の「長崎市上戸町の、旧御崎道沿の墓地にも長崎家の墓地がある」との説明は、他にもそのコースを述べていた資料が多いが、手前の二本松山中の分岐に道塚がせっかく建っている理由の誤認ではないだろうか。私見の考察は次のとおりであった。

9 二本松山中の道塚は下道を指すか。すると真直ぐに行く道はなにか
二本松山中(上戸町)の道塚は、林の中の右下に分かれる下道の少し下がった地点にあり、下道を指すことは間違いない。戸町中学校やダイヤランドが戸町の谷を挟んですぐ直線的に近くに見え、歩く人の心理としてそう向かうだろうし、逆に下から登って来てもそんなにきつくはない。大浦妙行寺の墓の坂道の方が急である。そのためわざわざ道塚が建ったと思われる。
真直ぐな道は本道のようであるが、現上戸町病院の裏手を行き先の長崎甚左衛門ゆかりの者の墓に出る。これは遠回りである。この道は墓参道ないし今の小ヶ倉水源池の底の谷間を行き戸町岳近くを越して宮摺方面へ行く道ではなかったろうか。

最近、長崎歴史文化博物館に史料として作成年不明だが、江戸後期「大村管内 地方(じかた)」と、同じく明治初期「大浦郷・上郷・下郷・箕尾郷図」があることがわかった。これによると当時の街道と思われる道が太い赤線で描かれている(絵図は出雲町の項で掲載済)。道塚の指す道であり、長崎家の墓地の方へ回る道は描かれていなかった。
明治34年国土地理院旧版地図では、墓地への道が県道として表われているが、私たちが調べているのは、道塚などによる「江戸期のみさき道」である。

徳道里程道塚の昭和38年当時の写真が見つかる

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徳道里程道塚の昭和38年当時の写真が見つかる

上の古い写真を見ていただきたい。現存する「みさき道」の道塚No.⑦、徳道の車道三叉路に立つ里程道塚の昭和38年当時の姿である。「長崎ヨリ五里」「御嵜ヨリ二里」「文政七年申十一月 今魚町」(1824)と刻んだ有名な碑である。
この道塚のことは、私が平成17年8月、「三和町郷土誌」の編さんに当られた高崎市郎先生(川原宮崎に住む)を自宅にお訪ねして話を聞き、これはぜひ書きとめておきたいと研究レポート第1集において次のように報告していた。

6 野母崎徳道の大きな里程道塚⑦は、道路工事の受難に会っていた
後のレポートに引用しているが、新小が倉1丁目にある「従是南佐嘉領」の藩境石にまつわる峠の会の本「くにざかいの碑」に紹介されているブルドーザー掘り起こし記事とまったく同じような扱いを、徳道の道塚も受けていたのである。以下宿に下る野母崎町の町道改修工事の時と思われ、時期は先生もよく覚えていないが、無造作に工事現場に放置されていたそうである。先生が通りがかってすぐ野母崎町へ連絡し、貴重な道塚を大事にするよう意見され、今の位置に据え付けられた。明治地図を見ても以下宿に小径がまっすぐここから下りていて、位置はあまり違いはないようである。
こういうことはやはりあったのだろうか。ダイヤランド内の道塚を始め、前で記したここにもあったという道塚は、そんな運命を辿って壊され、土の中に埋まってしまったのかも知れない。西山台上の殿様道にあった大村領の藩境石も、立っていたと思われる畑所有者の三川町自宅の庭へ移されていた。道塚は位置をあまり動かさないでほしい。

偶然にも、この徳道道塚は受難前の姿の写真が残っていた。昨日(平成19年11月3日)「長崎学さるく」の準備のため、「みさき道」の草刈り整備をした。長崎史談会幹事でもある餅田勇さんが参加され、「こんな写真があるよ」と現地で見せてくれた。
長崎の歴史話をコンパクトに田栗杢作氏が編集していた長崎手帖社「長崎手帖 第三十一号」昭和38年4月発行の中の「碑をたずねて 24 里程碑」。上のとおりの写真と記事である。文は田栗杢作氏と思われる。カメラは井上桂二氏。

「長崎手帖」の碑の記事は、先に「長崎の古写真考」の項で紹介している。興善町の写真店「春光社」の現社長が、「長崎手帖」1〜40号まで全巻保存版を持っておられる。一度訪ね、私は見せてもらって故永島正一氏「居留地境石標」文など載せたが、この時に肝心な第31号を見落としていたようだ。

当時の写真を見て気づくのは、刻面の向きと背景。二の岳の山裾が後に写り、のどかな田んぼや畑が道塚のすぐ近くで広がっている。今ある道塚は、高崎先生が話されたとおり、いつの時期かわからないが野母崎町の町道改修工事のとき、位置と向きを少し変えられてこの三叉路に据え付け直されたのである。貴重な写真が見つかった。

最後は、写真集「三和町今昔2」から川原宮崎海岸と徳道の昔日を参考のため。海ガメが産卵にきていたし、徳道の山道4kmは当時の子どもの通学路であった。