戸町惣兵衛と長崎家墓地とはなにか。墓地は御崎道沿いか

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戸町惣兵衛と長崎家墓地とはなにか。墓地は御崎道沿いか

惣兵衛は長崎甚左衛門の弟で、はじめ、戸町氏の養子となったが、後に、甚左衛門の跡を継ぎ、長崎惣兵衛重方と称した。大村藩の重臣で、朝鮮の役にも出陣し、さらに、玖島城の築城の際は、築城奉行を勤めた。寛永十四年(1637)に没したが、大村市今富の墓は大村市の史跡に指定されている。一方、長崎市上戸町の、旧御崎道沿の墓地にも長崎家の墓地がある。以前は一六基ほどの墓石が並んでいたが、現在では一か所にまとめられている。この長崎家の始祖は三郎兵衛と称し、長与村の給人(二十石)を勤めたが、この三郎兵衛の夫人が惣兵衛の娘であった。長崎家は以後、弥大夫・重右衛門‥と続き、七代目の平左衛門の時から大浦番所の添番となり、この地に居住した。城野氏の宅地がその屋敷跡である。(昭和61年「三和町郷土誌」172頁コラム)

これは、長崎市上戸町二本松山中にある「みさき道」の道塚の関係から掲げた。文中の「長崎市上戸町の、旧御崎道沿の墓地にも長崎家の墓地がある」との説明は、他にもそのコースを述べていた資料が多いが、手前の二本松山中の分岐に道塚がせっかく建っている理由の誤認ではないだろうか。私見の考察は次のとおりであった。

9 二本松山中の道塚は下道を指すか。すると真直ぐに行く道はなにか
二本松山中(上戸町)の道塚は、林の中の右下に分かれる下道の少し下がった地点にあり、下道を指すことは間違いない。戸町中学校やダイヤランドが戸町の谷を挟んですぐ直線的に近くに見え、歩く人の心理としてそう向かうだろうし、逆に下から登って来てもそんなにきつくはない。大浦妙行寺の墓の坂道の方が急である。そのためわざわざ道塚が建ったと思われる。
真直ぐな道は本道のようであるが、現上戸町病院の裏手を行き先の長崎甚左衛門ゆかりの者の墓に出る。これは遠回りである。この道は墓参道ないし今の小ヶ倉水源池の底の谷間を行き戸町岳近くを越して宮摺方面へ行く道ではなかったろうか。

最近、長崎歴史文化博物館に史料として作成年不明だが、江戸後期「大村管内 地方(じかた)」と、同じく明治初期「大浦郷・上郷・下郷・箕尾郷図」があることがわかった。これによると当時の街道と思われる道が太い赤線で描かれている(絵図は出雲町の項で掲載済)。道塚の指す道であり、長崎家の墓地の方へ回る道は描かれていなかった。
明治34年国土地理院旧版地図では、墓地への道が県道として表われているが、私たちが調べているのは、道塚などによる「江戸期のみさき道」である。