長崎の風景・史跡 (県 南)」カテゴリーアーカイブ

西海町の主な史跡 (2)  西海市西海町

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西海町の主な史跡 (2)  西海市西海町

西海市西海町の主な史跡。(1)に載せた七ツ釜鍾乳洞とその近辺、横瀬浦について詳しく見てみる。西海市観光協会「さいかいシティ.ねっと」などによる説明は次のとおり。

写真  1〜  3    七ツ釜鍾乳洞

延長1,500m、内公開250m。七ツ釜鍾乳洞は昭和3年8月に発見されました。昭和4年7月に長崎県史跡名勝に指定、さらに昭和11年12月には文部省によって天然記念物に指定。
新生代(約3000万年前)の古第三紀層という比較的新しい時代にできた鍾乳洞で、石灰分を含んだ砂岩でできているという特色があります。また、砂岩の中には石藻という石灰分を含んだ海藻の死骸が見られます。入り口より250mを観光洞として解放し、自然遊歩道と併せて550m、約25分の行程で公開しています。
(西海市観光協会「さいかいシティ.ねっと」から)

写真  4〜 10    長崎西海楽園跡にある石灰藻化石群

長崎県で唯一の観光鍾乳洞のある長崎西海楽園。ここには鍾乳洞のほかに日本一の石灰藻化石群や四季の花園、大きな観音像、釈迦三尊堂、モノレール、レジャーランド、ウォータースライダー、メリーゴーラウンドなどがあります。
なんと言っても一番の見物は「日本一の石灰藻化石群」だと思います。この石灰藻化石群は3億年〜2億5千万年前のサンゴ礁の化石だそうです。その化石が侵食されて奇岩が多い独特の景観ができたようです。
(よかとこBY 九州の観光と温泉から。 「長崎西海楽園」は現在、廃園となった)

写真 11〜 15    横瀬浦

横瀬浦は、1562年(永禄5)大村家の領主、大村純忠が、平戸を追われたポルトガル人の貿易船を回航するように勧誘して開かれた港です。布教長トルレスはこの港を「御助けの聖母の港」と命名。貿易と信仰の村をまたたく間に作り上げた大村純忠は、何回となく横瀬浦を訪れ、みずからも重臣25人とともに洗礼を受け、日本初のキリシタン大名となりました。
しかしこの港は、翌1563年暴徒たちによって焼き払われ、わずか2年足らずでその歴史を終わり、1571年長崎の開港へとつながります。横瀬浦は長崎におけるキリシタン文化発祥の地となりました。今でも、往時をしのばせる天主堂跡、大村館跡、南蛮船来航の記念碑などの史跡が点在し、西海町では、南蛮船来航の地としての歴史を活かし、横瀬浦地区を史跡公園ゾーン、港ゾーン、町並みゾーンの3つのゾーンで構成する新たな公園整備を進めています。

ルイス・フロイスと横瀬浦港
1562年、貿易港として開港された横瀬浦には、日本各地から多くのキリシタンや商人たちが集まり、布教の中心となりました。ルイス・フロイス(ポルトガル人イエズス会士)は翌年の1563年に来航。横瀬浦で布教活動を行ったといわれています。
(西海市観光協会「さいかいシティ.ねっと」から)

大瀬戸町の主な史跡 (4)  西海市大瀬戸町

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大瀬戸町の主な史跡 (4)  西海市大瀬戸町

西海市大瀬戸町の主な史跡。大瀬戸町「大瀬戸町郷土誌」平成8年発行の第5節郷土の史跡117〜156頁による説明は次のとおり。項目の番号は調整。

写真  1〜  2  (14) 瀬戸の六体地蔵

当地蔵尊は、瀬戸西浜郷の、国道202号線沿いの峡戸(瀬波戸)に奉祀されている。本尊として、六体地蔵が岩壁に彫り付けられているが、この地蔵尊は、桜井宰相兼繁卿の3男といわれる、初世院円順が彫り付けたものといわれる。
円順は、萱瀬村(大村市)の石場郷にある、熊野大権現の宮司であったが、その後、実子の教順に宮司を譲り、自らは領内(大村藩)を巡歴し、各地の破損した神社の再建に努めていたが、その折に瀬戸を訪れて、長濱大明神の石鳥居を建てたり、石段を築くなどしたといわれるが、当時、甚だ狭くて通行に困難していた狭戸の海岸に石垣を築き、新道を造って人々の難儀を救ったという。その折円順は、それまでこの地で亡くなった者の霊を祀り、あわせて以後の安全を祈願するため、狭戸の岩壁に、六体地蔵を彫刻したと伝えられている。
瀬戸に住むこと7年、円順は東川棚に移り住み、かねてから信仰していた岩屋大権現の神殿を、岩窟をうがって造り、30段の石段を築いたといわれる。円順はその後、再び萱瀬村に帰り、
88歳で世を去ったという。
以前は、入江の県道沿いにあった六体地蔵は今もなお、交通頻繁な国道沿いに鎮座し、交通安全を願っている。

付記 一説には、円順が大村に来たのは元禄9年(1696)であるが、六体地蔵は、天和2年(1682)前に彫刻されてあるので、円順が彫刻したものではないといわれる。
(大瀬戸町郷土誌 本町の神社196〜197頁から)

写真  3〜  9  (15) 目一ツ坊の洞窟

目一ツ坊は、河通川の南岸に聳える、標高330mの、峻険な山塊の頂上に近い急斜面にあり、その頂上にある巨大な岩山を目一ツ坊岩と呼んでいる。この岩山を遠くから眺めると、ちょうど帽子をかぶったように見える。この周辺には、かつての石鍋製作所跡があり、現在もその未完成品が散在し、滑石露頭面にはその痕跡をとどめている。
なおこの近くには、高さ6〜7mの断層間の間隙に、通称「弁慶岩」という洞窟があるが、この洞窟については次のような話が伝えられている。
「巨岩の内には洞窟があり、この洞窟に近づくと、その身に凶禍が及ぶ」といわれ、この洞窟には誰1人入った者はいないという。また「この洞窟の奥には石棺が置いてある」とも伝えられるが、それをまた見た者はいないといわれる。
一説には、かつての古代人の住居であったとか、キリシタン信者の隠れ場所であったとかいわれるが、いずれも定かではない。
(大瀬戸町郷土誌 口碑・伝説・民話228〜229頁から)

写真 10〜 14  (16) 小田貝塚遺跡

小田貝塚遺跡は、大正13年に長崎考古学会によって発掘調査が行われ、弥生時代の貝塚として周知されている。そのときの発掘記録によれば、石鏃・石斧・土器の破片・人骨の一部・獣骨・石乳棒に13種類の塩水産・淡水産の貝殻が出土しており、本県西南部地域における弥生遺跡の特徴が伺える貴重な遺跡といわれている。
遺跡は、雪浦川支流である小田川と河通川に北と南を挟まれており、両河川の合流点にも近い。標高は7〜14mほどである。なお、貝塚周辺の山地や河通川の上流には、鳥越城跡・石鍋製作所跡・つがねの滝・岩背戸渓谷・オシドリ渕などの史跡名勝がある。
(現地説明板から)

写真 15〜 17  (17) つがねの滝

河通川は河路延長約8kmである。つがねの滝、おしどり渕等高度200m前後には大きな遷移点がある。地形の侵食が進んでいる。この滝の高さは約20m。周辺では多くの種類の動植物を観察できる。
この川には、つがねがよく育ち水の流れとともに滝に落ちることから「つがね落としの滝」の名がある。美しい景観と涼を求めて訪れる人が多い。夏の風物に清流でのソーメン流しがある。
(大瀬戸町郷土誌 郷土の自然10頁から)

写真 18〜 19  (18) 多以良柳海岸の化石層

西彼杵半島県立公園柳浜海水浴場の先。多以良柳海岸の化石層(タマキガイ 蛇の目層)
(大瀬戸町郷土誌 郷土の自然28頁から)

写真 20      (19) 玄武岩の岩脈? 

場所:西彼杵郡大瀬戸町高帆山西海岸  約8800万年前頃の中生代白亜紀の終わり頃にできたかこう岩の割れ目に,約800万年前の玄武岩マグマ(黒い部分)が割り込んで(貫入)いる様子が観察できます。柳海岸から南西へ約1.5km,海岸沿いに歩いたところにあります。
(長崎県の地質現象HPから)

大瀬戸町の主な史跡 (3)  西海市大瀬戸町

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大瀬戸町の主な史跡 (3)  西海市大瀬戸町

西海市大瀬戸町の主な史跡。大瀬戸町「大瀬戸町郷土誌」平成8年発行の第5節郷土の史跡117〜156頁による説明は次のとおり。項目の番号は調整。

写真  1〜  2  (10) 奥浦の金山跡

奥浦部落の広瀬神社の登り口から、雪浦ダムへ約100m程行った「やなば」という道路傍に、人が立っても出入りが出来るほどの坑道がある。この坑内に溜まっている水は、どんな旱魃の時でも、その水位が変らないといわれており、またその深さはどのくらいあるか見当がつかないという。この坑跡が、かつてここから金を採掘したといわれる奥浦の金山跡である。
この奥浦金山は、町内の長畠にある岩山(タカの巣)の金山とともに、寛永7年(1630)に、大村藩主喜前(よしあき)が藩の経済力を確保する目的で、豊臣秀吉の生涯の雄図であった文禄・慶長の役が終って朝鮮から帰ってから、朝鮮各地の金山を参考にして、寛永4年(1627)に、大串(西彼町)を中心として着手した金山開発の内の1つであった。
この金山採掘については、当時大村藩の家老職であった大村彦右衛門が、寛永7年に京都から深江屋助右衛門、田中助兵衛の2人を招き、大串金山を採掘させた同じこの年に、雪浦金山の開鉱を図って採鉱させたといわれる。
しかし、わずか1年たらずで中止していることから、さしたる鉱脈も発見できなかったものと思われる。…

写真  3〜  6  (11) 松島の狼煙場跡・遠見番所跡

松島の狼煙場は、標高218mの遠見岳の頂上に設けられ、文化6年(1809)大村藩主純昌の代から始められた。この狼煙場は、長崎異変の際に、神浦の大野岳からの火を受継ぎ、狼煙をあげて村中に異変を知らせ、更にこの火を隣村の多以良、七釜、太田和へと伝えた。

松島の遠見番所は、安政5年(1858)に、大村藩主純熙が外国船の来航、漂着、密貿易などを監視させるため、外洋の展望のきく、狼煙場の遠見岳頂上に設けた。

写真  7〜  8  (12) 松島炭鉱跡とその変遷

松島を一周すると、松島炭坑の全盛時代を物語るボタ山や、赤レンガの廃屋に、焼山、仁崎に残る水没犠牲者の弔魂碑や供養塔が、かつての大惨事を思い起こさせる。
郷村記によると、松島の石炭山の歴史の始まりは、天明元年(1782)とあり、五平大石の発見から約200年後のことである。…
明治18年になって、三菱合資会社が竪坑を掘り採炭を始めたが、出水多量のため採算がとれず、明治21年に中止していたものを、明治38年、佐賀銀行の創始者古賀善兵衛がこれを買収して事業に乗り出し、明治39年に第1坑、引き続いて第2、第3坑と開坑した。
大正2年(1913)に松島炭坑株式会社がこれを買収し、大正3年に第4坑の開坑に着手したが、大正5年に第2坑が浸水、翌大正6年には第4坑が完成したものの、大正8年に第1坑が水没した。それでも第4坑の完成により、出炭量も年間40万トンにも達し、大正10年には約51万5千トンを記録して、松島石炭産業の全盛期を迎えた。釜浦の海岸通りや、対岸の板浦が、夜の訪れとともに弦歌で賑わったのもこの頃である。…
時代のすう勢はとどめがたく、約180年間にわたる変遷と盛衰の歴史を残し、昭和38年、石炭の島に終止符を打つことになった。

写真  9〜 13  (13) 高帆山の狼煙場跡

多以良の高帆山は、本村の西北端にある火受山とともに聳立する、海抜232mの山で、頂上には狼煙場跡がある。この狼煙場は、文化6年(1809)に、大村藩主純昌の代から始まったといわれ、長崎異変の際、松島の遠見岳の火を受継ぎ、狼煙をあげて村内に異変を知らせ、更にこの火を隣村の七釜、太田和へと伝えた。
一説には火受山が当時の狼煙場であったとも伝えられる。

写真 14〜 19  (14) 多以良の岩倉神社

多以良内郷字高尾の高台に、権現岩と呼ばれる巨岩がそそり立っているが、この岩は、高さ約33m、周囲約30mといわれる円筒形の奇岩で、岩上には樹木が生えている。この岩の根本に、祭神天照大神を奉祀した岩倉神社がある。
当岩倉神社は、寛文5年(1665)に創建され、寛政7年(1795)に社殿が建立された…
なお、多以良内郷字江里にある現在の社殿は、明治38年(1905)12月に、拝殿として建立された… (大瀬戸町郷土誌 本町の神社175〜176頁から)

大瀬戸町の主な史跡 (2)  西海市大瀬戸町

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大瀬戸町の主な史跡 (2)  西海市大瀬戸町

西海市大瀬戸町の主な史跡。大瀬戸町「大瀬戸町郷土誌」平成8年発行の第5節郷土の史跡117〜156頁による説明は次のとおり。項目の番号は調整。

写真  1〜  7  (5) 石鍋工房跡(国文化財指定)

石鍋は、滑石(温石 おんじゃく)でつくられ、古代人とか、平家の落人が厨房具として使用したのではないかと云い伝えられて、町内の山奥でよく見ることができた。石鍋が、我国の生活史上に登場するのは、平安末期から鎌倉時代といわれるが、その起源や消滅した時期については明らかでない。現在、京都や奈良をはじめ、近畿地方から西日本一帯、南は石垣島にいたる各地から、多数の石鍋が出土しているが、その生産地は数少ないといわれる。

西彼杵半島に石鍋の製作所跡が点在していることは、すでに大正時代から紹介されていたが、昭和54年度、本町内にある石鍋製作所跡の分布調査を実施し、8箇所の遺跡を確認した。8箇所の遺跡のうち、保存状況、遺跡の規模・内容等に、特にすぐれた羽出川郷のホゲットウ遺跡は、我国でも最大のものといわれ、昭和56年9月8日国の史跡として指定された。

ホゲットウは、標高120mで、地形険阻にして、特に山頂の東南部は屹立する岩壁をなしており、容易に人跡を入れぬ地形になっている。「ホゲットウ」の字名は、石鍋製作にかかわるもので、「ホゲル・ホガス」(穴があく・穴をあける)という採掘行動を示す動詞と、「トウ・ツウ」(穴・洞)という名詞が複合したものといわれる。11箇所の製作所遺構のうち、第6製作所は、60mにもおよぶ石鍋製作岩壁をもち、見るものを圧倒するものがある。

滑石は、柔らかで、加工しやすく、しかも熱を逃がさない性質があることから、古くからよく利用されていた。縄文時代前期から中期にかけては、土器の粘土に混ぜて使われたり、弥生期には漁具の「おもり」に、古墳時代には、土器の表や内側をならしたり、文様をつけるための「スタンプ」形のものに使用され、古代には「経文」を納める「経筒」に加工し、また佛像の素材にも利用されていた。

(注 「ホゲットウ遺跡」の場所は、長崎からは雪浦橋を渡りすぐ右折。雪浦川沿いに雪浦奥浦郷の集落を過ぎ、広瀬神社先まで行くと案内標識がある。左の橋を渡って瀬戸羽出川郷の新しくできた広域林道へ入る。すぐ道路右脇に写真の史跡説明板があるが、ここは山道の入口で、遺跡まで約750m、20分ほど歩いて登る。山道は案内標識が整備されている。途中で最後の写真の猪垣遺構が見られる)

写真  8〜 10   大瀬戸歴史民俗資料館の「ホゲットウ遺跡」展示品 

写真 11       (6) 瀬戸大番所跡

旧藩時代の約200年間にわたって、キリシタン取締り、異国船警戒の元締めとしての役割を果たした瀬戸大番所は、旧瀬戸小学校跡地、現在の大瀬戸町コミュニティーセンターの敷地に設けられていた。この地を俗に「瀬戸の谷」と呼んでいる。
この地に番所が設けられたのは、寛永13年(1636)で、幕府の命をうけた、時の長崎奉行榊原飛騨守、馬場三郎左衛門尉の指示により、藩主大村純信が、当時異国船の航路であった、外海地方の戸町、福田、三重、神浦、瀬戸、中浦、面高の7ヵ所に番所を設けた。

瀬戸番所は、全体の支配をなす押番役の馬廻1人と足軽3人を置き、それに附属した番船1艘と水主8人が常駐し、他の6番所には、小身待1人と足軽2人が配属され、外国船の警備を初め、海難船舶の救助、密貿易の監視、キリシタン禁制の取締りにあたらせた。
その後、鎖国が完成した寛永16年(1639)に、瀬戸番所を大番所に昇格して支配権を強化し、外海大番所と改称、馬廻役より1人、番所待上下9人と番船1艘、ならびに水主8人に増強した。…

写真 12〜 14  (7) 瀬戸遠見番所跡

瀬戸の遠見番所は、大番所より約600mの北方にあり、かつての往還が通っていた多以良越の道筋にあたる標高155mの山頂にあったといわれる。見張所は、約100㎡の広さの所にあって、2m四方の杉皮の屋根で、まわりは板壁であった。
ここは眺望がよく、南は相撲灘から蟇島、西は江島、平島、五島灘、北は崎戸、大島、平戸までも望むことが出来たので、ここに遠見番所を置いて、外国船の来航や、遭難船の見張りなどの任にあたらせた。
この遠見番所は、正保元年(1644)に、大村藩主純信によって設けられ、初めの頃は瀬戸の百姓の中から勤番したが、貞享元年(1684)4月1日から青木八太夫と小佐々惣右衛門の2人で勤番することになった。…
(注 「瀬戸遠見番所跡」は、現在、瀬戸樫浦郷の琴平神社となっている)

写真 15〜 17  (8) 真光寺学寮跡

真光寺に開講された、学寮の由緒については定かではないが、天保年間(1830〜1844)に、その頃の地方の寺では珍しい学問所、学寮が設けられて、代々研鑽につとめてきたが、なかでも、真光寺中興の祖とも仰がれる11世の住職勲能(1778〜1860)は、大学者として名高く、彼の名声と真光寺学寮の名は九州一円から四国、中国地方にまで及び、遊学の僧や学問を志す人達がはるばるこの雪浦の辺地まで訪れて、その教えを請うたという。…

写真 18〜 19  (9) 猪垣遺構

西彼杵連山の山腹のあちこちに、まるで万里の長城を小さくしたように、細長く延々と続く石垣を見ることができる。これが、西海町中浦を基点として琴海町まで、約70kmも続くといわれる西彼杵半島猪垣の一部である。
これは、当時の幕府が断行した享保の改革を受けて、大村藩でも藩政のたてなおしのために、種々の事業に着手したが、その中のひとつとして、当時から多かった西彼杵半島北部の猪害から農作物を守る手段として、この猪留石垣の造築を思いたったのである。…
(注 写真は石鍋工房跡「ホゲットウ遺構」へ行く途中の、山道で見られる大瀬戸町の猪垣遺構)

大瀬戸町の主な史跡 (1)  西海市大瀬戸町

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大瀬戸町の主な史跡 (1)  西海市大瀬戸町

西海市大瀬戸町の主な史跡。大瀬戸町「大瀬戸町郷土誌」平成8年発行の第5節郷土の史跡117〜156頁による説明は次のとおり。項目の番号は調整。

写真  1〜  4  (1) 雪浦の古城跡

雪浦の古城跡は、本村の北方、通称「城の越」と呼ばれる、標高70.9mの山頂にある。山頂にある本丸跡は、110㎡の平地で草木が繁茂し、東から東北側にかけては高さ約3mの石壁になっており、大手は東向きで、木戸は今なお現存し、二の丸・物見台・帯郭・石塁などの跡が見られる。
なお、その下には回廊状の通路が設けられ、麓を流れる雪浦川・小田川・河通川を天然の堀としたこの城郭は我国中世期における山城の形態をよく備えている。
この城は、豊前国田川郡(福岡県田川市一帯)の庄司であった田川氏が、正平年間(1346〜1370)雪浦にやって来て、本村の「城の越」の峰尾に城郭を築き、居城としたといわれ、この城を「鳥尾城」とも呼ばれた。…

写真  5〜 10  (2) 多以良の古城跡

多以良の小佐々城跡は、標高133mの断崖絶壁に囲まれ、南側と東側を周回して流れる多以良川と、北側と南側を深い谷となって流れる清水川を天然の堀とした、要塞堅固な小峰の城ノ辻の山頂にある。
山頂にある2ヵ所の平地は、当時の本丸と二ノ丸跡といわれ、枡形の石組みが残っているが、その近くに、矢戦用の盾にした「矢止岩」がある。なお、南斜面下の平坦地は「城」と呼ばれ、小佐々一族の館跡と伝えられる。
小佐々城は、戦国争乱の応仁年中(1467〜1469)に、肥前国彼杵郡小佐々村(北松浦郡小佐々町)から多以良に移住した、小佐々弾正定信が築いた城で、従来単なる「平山城」と見なされてきたが、当時は、七釜港の入江から、城ノ辻斜面下まで海で、入江の奥にあるため外海から見えない「隠し城」となっており、中世の典型的な水軍城(海城)の遺構といわれる。
したがって、小佐々城の船溜り(軍港)であった七釜港は、戦国前の江戸初期までは、国内や大陸の交易港として栄えた港で、小佐々水軍はこの地を拠点として長年にわたり、大陸との海上交易路としての、極めて重要な五島灘海域の制海権を一族で支配しつづけており、その間小佐々弾正の名は、戦国期の勇将として知られた。
弾正はまた、五島灘に浮ぶ島々に出城を築いて、小佐々城の北西に聳える高帆山の烽火台を交信所にし、海の要塞を形成した。 

写真 11〜 12  (3) 瀬戸の古城跡

瀬戸の古城跡は、樫浦部落し西浜部落との境にある、標高30m余の、通称「城山」と呼ばれる山頂にある。この城は、戦国期に武将として、西彼杵半島の外海一帯を制覇し、五島灘の制海権を確保した、多以良の領主小佐々弾正が、南方海上の監視のため、本城の小佐々城の出城として築いた城といわれる。
本丸跡は、現在の瀬戸小学校付近で、その下の長濱神社や光明寺は曲輪跡といわれ、南方海上を監視するための小佐々城の出城であった。現在は埋めたてられて陸続きになっているが、かつては樫浦と福島の間は海峡で、城山の北側の谷を瀬戸ノ谷と呼ばれ、江戸時代には、外海一帯の警護と取締りのため大番所が置かれたが、現在は町役場やコミュニティセンターが建てられている。
ここ瀬戸ノ谷は、かつては深い入江であって、小佐々水軍の船溜りになっていたといわれる。…

写真 13〜 16  (4) 小佐々氏の古廟

小佐々氏の古廟は、多以良下郷の山口という所の、東西約13m、南北約16mの墓所にある。この古廟は、小佐々氏一族の古墓所で、小佐々弾正定信が、菩提寺として創建した東楽寺の墓所であったが、その後、小佐々弾正純俊が大村純忠と共に、横瀬浦で受礼してキリシタンに改宗した際、仏教式の墓碑を廃棄したと伝えられる。
この古廟には、永禄12年(1569)夏の、宮村(佐世保市)の葛の峠の合戦で、後藤貴明と松浦鎮信の連合軍と戦った大村純忠を援けるため、後殿として奮戦し討死した小佐々弾正純俊(多以良殿)と、小佐々甚五郎純吉(中浦殿)の武勇と戦功を称えて祀られた廟所と伝えられる。ここは、長年にわたり「純俊様」と呼ばれ、小佐々家の家来衆が代々祀ってきたが、その後、住吉神社(住吉様)と改称されている。
正面の切石平塚と、その後方の2基の切石積みの墓は、日本の墓碑としては極めて珍しい特異な様式であり、また、大小2基のキリシタン墓碑(屋根型長墓)の保存状態も良好なことから、歴史的価値が評価され、平成2年11月16日、長崎県文化財史跡に指定された。

西海町の主な史跡 (1)  西海市西海町

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西海町の主な史跡 (1)  西海市西海町

西海市西海町の主な史跡。西海町「西海町郷土誌」平成17年発行606〜614頁の指定文化財による説明は次のとおり。項目の番号は調整。
七ッ釜鍾乳洞内部と横瀬浦航空写真は同郷土誌から。

写真  1〜  2   1 七ツ釜鍾乳洞(国指定天然記念物 昭和11年12月16日指定)

七ツ釜鍾乳洞については大正9年編纂「七釜村郷土史」の中にも「洞窟」として「中浦北郷清水川に石灰洞あり」「所々に鍾乳石、石筍をのこす。夏期冷気を覚ゆ」と記載がある。
県に保管されている記録に、「昭和3年8月、河野新一元七釜尋常高等小学校長が職員と共に数回にわたり探検を試み、遂に洞口より500mの地点まで極め、更にその後同校訓導山口大三の実査によってこの奇勝は広く世に紹介された」とある。
本格的な洞内の探検が行なわれたことによって、「清水瀧」「踊ノ間」「高野狭」「大石柱」等洞内生成物の名称と説明が記載された資料が作られた。

写真  3        2 南蛮船来航地(県指定史跡 昭和16年1月17日指定)

昭和16年指定時の資料では「横瀬浦は宣教師によって治められる市民性社会としての政治社会史上の意義がある」と記している。
昭和35年頃から顕彰事業のための活動が始まり、昭和37年3月横瀬浦顕彰期成会が発足。同年11月、横瀬浦開港400年記念として来航記念碑、上町、下町、長崎甚左衛門門居宅跡碑、八の子島十字架塔(台座4×11m、高さ8m余)などが建立された。
この顕彰期成会を母体として昭和61年7月、横瀬浦史跡保存会が結成された。
平成2年3月、展望台、トイレ等を備えた横瀬浦史跡公園が完成し、平成16年5月、再整備の後、「横瀬浦公園」と改称された。

写真  4〜  6   3 中浦ジュリアン出生の地(県指定史跡 昭和43年4月23日指定)

天正遣欧使節「中浦ジュリアン出生の地」は、昭和42年、長崎県文化財専門員が中浦の現地を踏査し、「館(たち)」「御園(みその)」等の地名から領主の居宅跡を推定。中浦南郷字御園の指定地をジュリアン出生の地としたものである。
昭和57年2月、天正遣欧使節400年を記念して、帆船の帆と地球儀を形どった中浦ジュリアン顕彰碑が完成、この年から中浦郷では、毎年2月に中浦ジュリアン祭が開催されている。
平成14年2月、「中浦ジュリアン記念公園」が落成した。中浦ジュリアン像、資料展示室、芝生公園が整備され、彩色壁画でジュリアンの生涯を紹介している。

写真  7〜  9   4 西彼杵半島猪垣(ししがき)基点(県指定史跡 昭和43年4月23日指定)

西彼杵半島の脊梁を取り囲むように築かれた猪垣は享保年間、中浦の庄屋郡干右衛門の呼びかけで工事が始められたものといわれる。中浦北郷に残る基点標石には「享保七寅年」の文字が刻まれている。猪垣は「中浦村ほか所村の庄屋と農民が行なった農害対策の遺構として農政史上価値をもつもの」としてその基点が史跡として指定された。

写真 10〜 13   5 天久保遺跡(西海町指定史跡 昭和55年2月指定「天久保貝塚と館跡」から名称変更)

俗に「カイガラ畑」と呼ばれ、縄文時代晩期より弥生時代の貝塚、支石墓、箱式石棺や装飾品である管玉が出土している。天久保武蔵とのつながりで考えられている屋敷跡もある。

伊佐ノ浦公園  西海市西海町中浦南郷

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伊佐ノ浦公園  西海市西海町中浦南郷

国道202号線により七ツ釜鍾乳洞の手前まで行くと、ダム湖の伊佐ノ浦公園へ登る車道の案内標識がある。
伊佐ノ浦川(いさのうらがわ)は、長崎県の西彼杵半島北西部を西へ流れ、五島灘(東シナ海)へ注ぐ2級河川である。流域は西海市に属し、優れた自然景観から西彼杵半島県立公園にも指定されている。ウィキペディア百科事典による説明は次のとおり。

伊佐ノ浦ダム

伊佐ノ浦ダムは、伊佐ノ浦川の中ほどに1987年(昭和62年)3月に完成した、畑地灌漑用の利水専用ダムである。河口から3.1km・標高約160m地点にある。
堤高29.7m・堤頂長140.75m・有効貯水量164万m³・集水区域6.7km²・水没面積24.5haの重力式コンクリートダムである。ダム区域には複数の尾根と谷が刻まれ、ダム湖は放射状に入り組んでいる。

ダムからの取水は上流よりさらに東側の木場郷まで一旦ポンプアップされ、西海市西海町域の畑地約500haに供給される。またダムの周囲はキャンプ場、遊歩道(約5km)、ボート用浮き桟橋、サクラ並木などが作られ、「伊佐ノ浦公園」として整備されている。入園時は1人100円の美化協力金が必要である。

西海市西海歴史民俗資料館  西海市西海町黒口郷

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西海市西海歴史民俗資料館  西海市西海町黒口郷

国道202号線などで、西海市西海総合支所まで行く。市道の対面側に西海市西海歴史民俗資料館や西海公民館がある。入館無料。

平成3年5月には、町公民館に隣接して、西海町歴史民俗資料館が完成した。2階は図書室、3階は町の歴史・文化財を紹介し、民俗資料・遺跡出土品を展示した資料館となっている。(西海町郷土誌605〜606頁)

八人ヶ岳公園  西海市西彼町平山郷

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八人ヶ岳公園  西海市西彼町平山郷

西彼町大串から大瀬戸への県道12号線へ入り、登って行くと右に西彼杵広域農道(オレンジロード)入口がある。県道の途中に「琴平麗水」、広域農道へ入って1km位の所に「八人ヶ岳」公園入口、広域農道のさらに1km位先に石鍋製作跡が橋下にある「石鍋橋」がある。

八人ヶ岳は標高218m。西海市ウェブサイトによる説明は次のとおり。山頂展望台駐車場に行く途中に、西彼町民話の「鯖くされ岩」があった。

八人ヶ岳公園
西彼エリアの中央山稜に位置し、大村湾全体を眺望できます。古くから西彼杵半島の武者相撲が行われており、頂上には展望台と土俵が設置されています。

鯖くされ岩 (現地説明板)
由来 昔瀬戸の漁師が魚を行商に行く途中、目の前の大きな岩が今にもくずれそうなので、くずれるのを待って一服していたら、とうとう魚が腐れてしまったていう平山郷に伝わる民話です。

西彼町の主な史跡 (2)  西海市西彼町

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西彼町の主な史跡 (2)  西海市西彼町

西海市西彼町の主な史跡。西彼町教育委員会「西彼町郷土誌」平成15年発行の750〜766頁による説明は次のとおり。項目の数字は一部調整。

第二章 史 跡 (中世・近世の史跡)

写真  1〜  4    4 平原のキリシタン墓碑

平原郷山口原の小高い丘に、平原郷相川家の祖、相川勘解由左衛門尉義武の墓碑がある。勘解由左衛門は「相川氏伝記」によると、豊臣時代、朝鮮に出陣し、傷ついて大村喜前に助けられ、形上に住んだ。
二代目藤左衛門の時、平原に移住して田地を開拓し、20石の知行を得た。四代目の孫甚平が、形上村の旧住地に先祖の墓があることを知り、代々祀ってきたが明治30年(1897)ころ、現在の場所に移した。

墓碑は高さ55cm、幅47cm、厚さ22cmの温石の自然石である。墓碑面中央に花十字、その上に「INRI」と刻まれている。これは「Ⅰesus Nazarenus Rex Iudaeorum =ユダヤの王ナザレのキリスト」の略で、この文字を刻んだ墓碑は日本でははじめて発見され、キリシタン史研究上貴重なものである。
また、墓碑の背後に高さ約2m、幅1m、厚さ15cmの結晶片岩の墓碑が立てられているが、正面から見て前面は削られ、背面には慶長十八年(1613)七月一日と刻まれている。

この墓碑は、表面を削ったのは勘解由左衛門の名を隠すためで、昭和56年(1981)の町教育委員会『西彼町の史跡』にも、形上から平原に移すときに「甲駿之相川勘解由左衛門尉…」の刻字を削りとったといわれるとあり、昭和6年(1931)『郷土調査』では、この石は墓碑の敷石になっていて、名が刻んであるとしており、最近の研究では「石棺の蓋」(蓋石付石棺型キリシタン墓碑)と推論する説も有力で、そのサイズ、形状からも説得力がある。
二代目籐左衛門の墓は、平原墓地にあるが、小倉造りの墓祀の石扉内側に花十字紋様が刻まれている。きびしい弾圧の時代に発見を免れて残ることができたきわめて希な例である。昭和47年(1972)8月に長崎県の文化財に指定された。

写真  5〜  8    5 小干浦の殉教地

亀浦郷小干浦、西村公園(注 西村真珠内の庭園)の岬に殉教碑が建つ。この地生まれの四五郎トマスとその子与介ドミンゴの遺骨が台座に納められている。昭和40年(1965)、長崎市葉山町で、加藤十久雄、結城了悟両氏によって発掘された銅版に刻まれたスペイン文字の解読によって、日本キリシタン史上希有の発見がなされた。

銅版(A)「この箱の中に至福なる殉教者、故四五郎左衛門トマス七二歳と、その子与介ドミンゴ三七歳の二人の死体がある。(この方々は)一六二四年(寛永元年)七月十七日、大村領の村、小干の浦で棄教するのを拒んだので頭(首)を切られたのである。No12
この箱は日本に於ける聖ドミニコ会のものである」
これが日本で発見された唯一の殉教者の遺骨となる。銅版は現在長崎二十六聖人記念館に展示され、この地に殉教碑が建てられた。

写真  9〜 12    6 大串金山跡

大串金山は寛永4年(1627)から、藩直営、民間開発を含めて、約40年の間断続的に採掘された。大串金山というのは、現在の当町域で掘られた金鉱山の総称である。町内でほぼ3地域に分けられる。
喰場郷中ノ島地区、鳥加地区(金山谷、こうもり谷、平島、涌上り海辺)、網代地区が主な金坑跡である。この内、中ノ島川尻、鳥加地区にそれぞれ間歩が現存し、とくに涌上り海辺は大型の坑口が口を開けている。網代の八大龍王社叢には数ヵ所の間歩があったが、現在は塞がれてしまっている。その他にも、小間歩が散在したことが地名(例、白似田の字金山)などからも推測される。

大串金山の金銀産出量や大村藩の収入について、全体を知ることはできないが、寛永4年(1627)の掘り始めから同7年の中断までの4年間に、金8貫匁(30k)、銀70貫(260k)が江戸城西ノ丸の官庫に納められている。また、万治元年(1658)の最盛期には、年間で金4.5貫(約17k)の産出を記録している。その後寛文、宝永年間にも採掘されているが、採算がとれず、江戸幕府への上納もできないまま事業を停止した。

(注 現地写真は鳥加郷涌上りの金山跡。長崎オランダ村ファームから入る。中央右電柱奥の崖上に1箇所、右手道を海辺の人家まで行くと畑庭の崖に3箇所坑口跡が残っていた。)

写真 13〜 16    7 伊ノ浦台場跡

伊ノ浦台場(砲台)は、西海橋の西彼町側橋脚から約100m大村湾寄りの海岸に、高さ5m位の石垣が築かれている。これが幕末期に大村藩が築いた砲台、第一台場跡である。
台山公(大村藩12代藩主大村純凞)勤王録によれば「元治元年(1864)大村湾の迫口伊ノ浦の岸頭に三箇所の新塁を築き、それぞれ一八封度(口径13cm)並びに二四封度(同15cm)の大砲を備えつけてその土地の砲士をして主管せしめたり」とある。
○台場建設の背景(略)

写真  17        8 長島と真円真珠

古くから大村湾は天然真珠を産し、大村藩でも「貝玉奉行」を置いて管理した。明治18年(1885)、県令によって母貝を保護し、良質の真珠が生産されるようになり、養殖の研究が進んだ。
明治41年(1908)、西川藤吉、渡辺理一は共同で、長島に長島真珠養殖場を設立して研究開発を重ね、翌42年に「真円真珠第一号」を完成させ、大正3年には市場に出すことに成功した。現在も遺構の一部が残っている。