長崎の巨樹・名木 (長崎市)」カテゴリーアーカイブ

薬師院跡のケンポナシ  長崎市平間町

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薬師院跡のケンポナシ  長崎市平間町

国道34号線滝の観音入口から長崎バイパス間ノ瀬IC近くまで行く。大カーブのところで左へ入ると新田頭バス終点へ着く。薬師院跡へは左から上に登る車道があり、長崎バイパスのガード下をくぐってから、すぐ左上の荒れた広場。ブランコがある。この広場を作ったため、石塔などは道路側へ移したらしい。Otoji.K氏HP「長崎の名木」リストの中の説明は次のとおり。
最後の写真は、タウン誌すまいる東長崎「ひがなが瓦ばん」第18号(2008.4−5)に掲載された記事。

ケンポナシの大木

長崎市平間町・間の瀬の薬師院跡に、ケンポナシの大木がある。ブランコのある小さな広場に2本ある。入口そばに1本( 幹周り1.79m、樹高21m )。イヌマキの側に1本( 幹周り2.35m、樹高24m )。 いずれも樹齢は不詳。ケンポナシの大木として貴重。1月中旬、果実をつけた肉質の果柄があちこちに落ちていた。薬師院跡まで車で行くことができる。

なお、この木の発見した下田尚昌氏のいきさつは、次のとおり。長崎歴史文化協会「ながさきの空 No.11」平成15年4月5日発行に掲載がある。

東長崎(矢上)間ノ瀬・新田頭にあるケンポナシの大木   下 田 尚 昌

昨年7月「第15回ながさき巨樹を見る集い」が東長崎地域で実施された。その準備で6月頃より約20か所の下調べをした折、矢上神社の宮司より貴重木のケンポナシ(クロウメモドキ科)が境内にあると知らされ、しかもシーボルトが江戸参府(1826年)のとき、見たのではないかと聞き、さっそく、シーボルト記念館へ出向く。担当学芸委員が出張、後日関係資料数枚を送付していただいた。
上記のことを、県薬草会長高橋貞夫氏(元中学校長)に連絡。同氏著「長崎の薬草」に記載されていると指示あり、「自分は故外山三郎長大名誉教授より戦時中矢上地域にあると聞き、今まで捜していた。それが矢上神社境内にあるとは」と驚かれ、さっそく、自宅に育ているケンポナシの写真数枚を送っていただいた。後日先生は92才の老体にむち打って見学に出かけられ、私に電話連絡された。

7月15日(日)、東長崎地域の巨樹を見る集いには、ケンポナシがある関係か全国巨木の会長、伊藤秀三(長大名誉教授)、佐賀県から2名計25名で調査。その時、会長さんは下調べのケンポナシ(幹周り0.97m、樹高9.0m)より大きいのを同境内で見つけられた。
昨年5月下旬、東公民館で「わが町の歴史散歩」織田武人講師案内で、県指定名勝の地となっている「滝の観音」の上手、長崎バイパスの上り車線、間ノ瀬インター付近の山側薬師院(元禄元年〈1688〉滝の観音開基、鐵巌和尚の法子一有建立)の跡地にケンポナシの巨木2本があることを偶然にも見つけた。
さっそく、「県巨樹を見る集い」の世話人、宮崎正隆氏(前諫高理科教諭)に連絡、5月28日滝の観音松本普成住職も同席、測定した結果は、幹周り2.35m、樹高24mと、幹周り1.79m、樹高21mの2本、どちらも樹の高さが20mを超しており、隣接して植え込まれているイヌマキの大木以上に大きな枝を伸ばして成長し、また樹勢も極めて良好であった。松本住職の話しでは、先年の長崎水害で寺の資料等は流されたので、いつごろ植えられたか判明できないとの由。

ケンポナシは平成13年発行の「長崎県植物版レッドリスト」では絶滅危惧IB類にランクされている。(絶滅危惧IB類とは、ごく近い将来における野生での絶滅の危険性が高いもの)かつて岩屋山(長崎市北部)にかなり大きなケンポナシの老木が2本あったそうだが、枯死して今はないので、高橋会長は枯らさないようにと念をおされた。
余談だが、岩屋山のケンポナシについては、現在オランダの国立植物標本館にシーボルト自筆の「1827年3月29日岩屋山」(原文はラテン語)と書かれた標本の中にシキミ、モミ、イヌガヤなどと一緒にケンポナシが採集され残されている。
シーボルト記念館より送付された資料によると、遠目にはヨーロッパの野生のセイヨウナシにそっくりだが、この大きな高木の原産地はおそらくインドで、インドでは野生状態のものが見られる。日本ではすでに数百年も前から栽培されており、たぶん中国から移入されたものと思われる。

大きな葉は一年生で、斜形状の心形になり、その色合いや作りからするとクワの葉に似ている。小さな白っぽい花が6月になると現れ、分岐して八方に広がる集散花序につく。花が散ると、花序の枝が肥厚し、やがて肉厚になる。これは食べることができるが、甘くよい香りがして、イナゴマメの風味かまたは、ケンペル(出島商館医、1690年渡来)がいみじくも指摘したようにベルガモットの風味によく似ている。
薬用としても用いられ、喘息やそれ以外の肺疾患に他の植物と一緒に煎じて飲むように奨められている。さらに、日本の常用の飲み物である米から作られるビール(酒)に酔わないように飲んでおくと予防薬として大変評判よい。

○「注記」ラテン文の記載。図解は川原慶賀で詳細をきわめている。ケンポナシによほど興味を抱いたに違いない。酒酔いの防止にケンポナシが用いられていたことが記されているが、ケンポナシには酒の味そのものを変えてしまう効果もあるらしい。
佐賀県伊万里市のケンポナシ(幹周り2.43m、樹高25m)は、佐賀県の名木・古木に指定されている。長崎市でも間ノ瀬のケンポナシも長崎市の文化財に指定していただき、大事に保護されることを念願している。
○「補則」日本一のケンポナシは幹周り3.6m、樹高18m、推定樹齢200年 青森県弘前市下銀町 弘前公園内 藩政時代から有用樹木として大切にされてきたらしい。

〈参考資料〉
・シーボルトが出版した「日本植物誌」の解説文を紹介した本 講談社
・シーボルト「フロラヤポニカ」解説 講談社
・シーボルト旧蔵日本植物資料展 シーボルト記念館
・長崎の薬草 高橋貞夫著 長崎県生物学会
(長崎市住・植物学研究家)

白山大権現のモチノキ  長崎市田中町

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白山大権現のモチノキ  長崎市田中町

東長崎タウン情報”すまいる東長崎 ひがなが瓦(かわら)ばん”の2008年2月発行第17号が、東長崎に残る巨木にスポットをあてて紹介していた。最後の3本目の紹介となる田中町白山大権現のモチノキの大木。
田中町交差点から国道34号線を矢上の方へ向かう。マルキョウを過ぎてホンダカーズ手前で、右手に焼鳥「勝」や「田中自動車板金」の看板がある細い車道へ入る。奥には広い駐車場があり、上は長島宅。この庭上の高台にモチノキの大木が見える。東長崎スイミングクラブの裏手となる。白山大権現の根元には左右路地を伝う。

東長崎タウン情報”すまいる東長崎 ひがなが瓦(かわら)ばん”第17号によるモチノキの説明は次のとおり。
もちの木  白山大権現

戦時中、爆風で一瞬のうちに葉っぱが全部散ったというもちの木。今でもなお、大きくそびえる姿は自然の偉大さを感じます。

なお、東長崎地区には、今回この”瓦ばん”情報により紹介したこれまでの3本の木の外に、次のような大木がある。すでにブログの先項において紹介済みのため参照。
矢上町  長崎自動車学校のクロガネモチ
https://misakimichi.com/archives/469
現川町  山の神神社のアラカシ
https://misakimichi.com/archives/464
中里町  長崎街道のフジ
https://misakimichi.com/archives/432
平間町  滝の観音の伏樹(イチイガシ?)
https://misakimichi.com/archives/403
松原町  赤瀬邸庭園の日本一のラカンマキ
https://misakimichi.com/archives/288
矢上町  矢上八幡神社の大クス
https://misakimichi.com/archives/283
平間町  薬師院跡のケンポナシ
https://misakimichi.com/archives/624
(この木は入力し忘れに気付き、本日記事にした)   

船石町二双舟のタブノキ  長崎市船石町

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船石町二双舟のタブノキ  長崎市船石町

東長崎タウン情報”すまいる東長崎 ひがなが瓦(かわら)ばん”の2008年2月発行第17号が、東長崎に残る巨木にスポットをあてて紹介していた。その2本目の紹介となる船石町二双舟のタブノキの大木。
国道34号線船石入口交差点から右の船石町へ入る。川沿いに左奥の谷間をずっと目指す。途中は道案内標があり、二双舟公民館前を過ぎ、最奥の人家あたりから右へ橋を渡ると、坂上の屋敷の石垣にタブノキの大木が見える。

長崎wabマガジン ナガジンHP「発見!長崎の歩き方 長崎の町名なるほど大辞典」は次のとおり書いていた。
コラム★発見!長崎オモロイ小字名
●二双船/にそうぶね(船石町)=古賀エリアの中でも最も田園が広がる地。つまり海辺でもないのに“二双船”という不思議な名前なのだ。ちなみに船石町は地内にそびえる船石岳によるもの。

この立派な屋敷は本田邸。昔は現川焼の窯元だったらしい。「二双舟」があると近くの人から聞いた。舟の実物か、焼き物の舟か聞き忘れ、今、調べてもわからない。
東長崎タウン情報”すまいる東長崎 ひがなが瓦(かわら)ばん”第17号によるタブノキの説明は次のとおり。そんな大木でないが樹形よく、格式ある石垣とともに映える。

タブノキ  古賀 船石

樹齢200年以上といわれ、石垣からにょきっと生えたその姿は何ともいえない存在感です。

河内神社のスギ  長崎市川内町

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河内神社のスギ  長崎市川内町

東長崎タウン情報”すまいる東長崎 ひがなが瓦(かわら)ばん”の2008年2月発行第17号が、東長崎に残る巨木にスポットをあてて紹介していた。以下、載っていた3本の木を紹介する。いずれも地元しか知られていない大木である。
まず、長崎市川内町にある河内神社の大スギ。長崎市内で言えば、岩屋神社の最大のスギが幹周り5.4m。これに次ぐ大スギが市内にあったのだ。幹周り5m、樹高30m。行って大きさに驚いた。

国道251号線が戸石小学校を過ぎ、諌早市飯盛町との市境に川内町はある。川内入口交差点から左へ入り、川内公民館前を通りまだ奥へ行く。川向かいの鳥居は八幡神社で、ここではない。河内神社はこのまだ裏手の山。右へ曲がる吹田集落の橋で川を渡り、橋脇から人家の間を通って歩く。大スギの高い枝が目立つ。
”すまいる東長崎 ひがなが瓦(かわら)ばん”第17号の説明は次のとおり。側にムクノキの大きいのもあった。大スギに相対して、参道の右に大きな腐りかけた切株があった。地元で聞くと大きなマツ。枯れたので伐り、その板を使って、諌早市八坂町「森長おこし」本店の看板が作られたそうである。
大 ス ギ  河内神社

表紙でも紹介しているこの杉は、なんと幹周り5m、根周りが7m、樹高30mもある巨木の中の巨木。実際に目の前にすると圧倒されます。

(追 記)
Otoji.K氏HP「長崎の名木」リストの中に、平成20年3月24日に次のとおりの説明で載った。

河内神社の大スギ

長崎市川内町にある。幹周り5m、樹高30m。大村市萱瀬の「大名スギ(4.9m)」と肩を並べる大スギ。大名スギは樹齢240年なのでこのスギは樹齢300年ほどはある。大スギの左に、ムクノキとヤブニッケイの大木がある。

福田千本松原のアコウとマツ  長崎市福田本町

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福田千本松原のアコウとマツ  長崎市福田本町

長崎市西部の福田本町。国道202号線により行く。福田千本松原の先の海は埋め立てられ、海上レジャー基地”長崎サンセットマリーナ”となっている。
福田の浦は、長崎港が開港される前に開港された。長崎の港口に当り、千本松原は古台場跡である。今は姿を変え、松とともに遺跡らしさもところどころしか見受けられない。

台場跡の石垣にはアコウが群生していた。口之津町早崎漁港の群落に及ばないが、長崎市内では珍しい群生地であろう。
千本松原であった名残りを偲ばせるマツの大木は、数本が福田中学校裏門辺りに残る。マツの大木はなかなか目にすることがない。ブログに登場させるため市内でマツを探していたが、やっと会った感がする。
福田中学校の正門内庭にも、アコウが植えられ大きくなっていた。なお、山手の福田天満宮にもクスノキの大木がある。

手熊川河口のアコウと白髭神社の社叢  長崎市手熊町

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手熊川河口のアコウと白髭神社の社叢  長崎市手熊町

長崎市手熊町へは、国道202号線により飽の浦方面から行くか、県道112号線により小江原方面から入る。手熊橋の近く手熊川の河口は、海岸埋め立てもなく、昔のたたずまいが残り、アコウの大木が4本見られる。
杉の上石橋の対岸には、岸の石垣から川面へ横に張り出したアコウがあり、幹を積んだ石で支えていた。近くの白髭神社の社叢にはアラカシ、エノキ、ツバキがある。右隣り海岸側高台の手熊台場跡には、カゴノキの大木があった。

甑岩神社のイスノキ・モッコク   長崎市早坂町ほか

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甑岩神社のイスノキ・モッコク   長崎市早坂町ほか

甑岩は長崎市東部の山。江戸時代に書かれた『長崎名勝図絵』に「その頂に巌あり、甑の形のごとし崇くそびえて峭絶す」とある。愛宕・田手原を通る飯香浦行きのバス道路を行き、日吉青年の家の1つ手前のバス停が甑岩入口である。
展望台から遊歩道を甑岩神社へ歩く。岩があり樹木が密生する神社の周辺にイスノキ・モッコクなどの大木が見られる。
Otoji.K氏HP「長崎の樹木」リストの中(長崎の山)の説明は次のとおり。

甑岩(362m)

長崎市の早坂町・北浦町・飯香浦町にまたがる山。その姿が、お米を蒸すときに使う甑(こしき)に似ることで、甑岩と呼ばれる。… 日吉青年の家に向かう途中に甑岩のバス停がある。甑岩に向かって進むと展望台のある駐車場に着く。そこで駐車。甑岩に向かうと、アスレチック広場の公園がある。そのすぐ先に、小甑岩がある。

小甑岩の道を進むと、小甑岩神社がある。神社の側にイスノキとモッコクの大木が並んであった。… 神社から下って、甑岩に向かう。山道は途中から分岐するが、岩の尾根道は急で、岩を登ることになるが、備え付けの梯子は壊れていて、危なっかしい。岩の尾根を諦めて、傍らの山道を行くと、岩の尾根道と飯香浦町へ下る山道と合流する。そこから岩の尾根まで戻ると、見晴らしのよい岩場がある。

甑岩のなだらかな尾根を進む。アラカシ、マテバシイ、シイ、ヤブニッケイ、イスノキ、シャシャンボ、ネズミモチなどが多い。尾根道は見晴らしは良くないが、林下は草地で、花の時期には思いもしない草花と出会えそうな雰囲気があり、ちょっとワクワクする。コショウノキが花をつけていた。15分ほどで、北浦町へ下る急坂になる。…

日見峠と地震神社のヒサカキ・ムクノキなど  長崎市本河内3丁目

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日見峠と地震神社のヒサカキ・ムクノキなど  長崎市本河内3丁目

長崎街道の日見峠へ長崎市日見方面から車で行く場合は、日見トンネルを通る前の国道34号線の道を行く。日見トンネル手前の長崎自動車道芒塚IC入口から、高速道下の右手道に入る。九十九折により峠へ向って登って行くと、途中に去来句碑の芒塚(すすきづか)がある。やっと着いた切り通しが、明治新道の日見峠。

その昔の日見峠へはここから10分ほど急坂を歩いて登る。関所跡があり、峠を越えた先に地震神社の鳥居がある。額は「御夢想 地震 神社」。石の神を祀るのか。調べる手立てがない。長崎方面へ明治新道を下ると、本河内低部水源池前の番所バス停のところに出る。
ヒサカキは切り通し入口角の岩清水の上、ムクノキ・カゴノキ・クロガネモチは地震神社の祠のところに生えている。Otoji.K氏HP「長崎の樹木」リストの中(街路樹)の説明は次のとおり。

長崎街道・日見峠

長崎市芒塚町から本河内町に向う長崎街道の日見峠は、山越えの難所で「西の箱根」とも言われた。坂本竜馬も越えた。日見峠の山をV字形に切り開いて、明治15年に「日見新道」が造られた。馬車で通れるようになった。通行料を取ったので、日本初の有料道路と言う。…
芒塚は、芭蕉十哲の一人・向井去来(長崎市で生れた)が、長崎を離れるときに日見峠で 詠んだ句 「君が手も まじるなるべし 花薄(ススキ)」の句碑が建立されている。 「見送る君の姿は遠くなり、あれは、君の振る手なのか、揺れるススキなのか 」という意味のようだ。今では、日見トンネルや新日見トンネルができていて、高速道のトンネル建設も進められている。…

日見峠の新道の角にヒサカキがある。そこからV字形に開かれた切通しを少し歩くと右手に日見峠の表示板がある。その急な坂道を登っていくと、関所跡がある。意外に狭い場所だ。そこから、さらに登ると、剪定されたマサキのトンネルがある。日見街道はその手前を左に降りて行く。マサキをくぐって進み、左に折れる道に行くと祠がある。

地震神社の祠の道沿にムクノキの大木がある。そばにはカゴノキが寄り添っていた。祠の横にクロガネモチの大木があった。太いカズラが絡んで上の方まで伸びていた。
峠を越える人々は、このあたりで、一息ついたのだろう。近くの石段を下ると、地震神社の鳥居がある。そこから、さらに下ると民家を通って日見新道に出る。

深堀埋立地女島大神祠のアコウ  長崎市深堀町5丁目

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深堀埋立地女島大神祠のアコウ  長崎市深堀町5丁目

深堀のすぐ手前の海に、かつて「女島」という小さな島があった。昭和43年(1968)深堀〜香焼間の海面埋立てが完成し、三菱重工などの工場が進出した。この埋立地の中にまだ「女島」の島影が残っている。

場所は、深堀バス終点前の角に深堀公番がある。埋立地大通りを香焼側に50mほど行くと右に入る道があり、奥に赤い鳥居があってここが境内である。
アコウの大きな枝分かれした木の根元に「女島大神」が祀られ、中にはぐるぐる蛇がまいたような不思議な石の神体があった。女島は小さな岩礁だったので昔からあったのは、この祠だけと聞いた。他の祠や浜恵比須は後でどこからか持ってきているらしい。

アコウの木は、祠の後側とすぐ上の一番高かった岩礁に株を広げ、この広大な埋立地の中に隠れた一角をつくっている。
写真の後の2枚は、2007年5月撮影。地図は、明治34年測図国土地理院旧版地図である。

網場天満神社の社叢  長崎市網場町

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網場天満神社の社叢  長崎市網場町

国道34号線の網場道バス停から日見の町と網場漁港へ方へ行き、そのはずれの海岸通りに神社はある。この県道は、茂木へ続く。
HP「長崎市の文化財」による説明は次のとおり。

網場天満神社の社叢  市指定天然記念物

指定年月日 昭和53年3月20日 所在地 長崎市網場町1番地1 天満神社境内
所有者 天満神社
旧日見村のころの氏神であった神社で、網場の海岸沿いの小高い丘の上にある。
この小高い丘全体が境内であり、社叢でもある。丘を覆う主なものは、クスノキ、スタジイ、ヤマモモ、カゴノキ、アラカシ、ツバキ、ナナメノキなどの高木と、ハクサンボク、マサキ、クスドイゲなどの低木の照葉樹である。ここには、特別に貴重といえる種類も、また、巨木というほどのものもない。
それでも、丘全体が社叢というまとまりと、沿海地の照葉樹木の社叢としても、大切に保存すべきものである。