佐賀の風景・史跡」カテゴリーアーカイブ

梅ノ木谷溜池  佐賀県白石町田野上 ( 佐賀県 )

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梅ノ木谷溜池  佐賀県白石町田野上

サイト「近世以前の土木・産業遺産」佐賀県リストによるデータは、次のとおり。
国道207号肥前竜王から大町への県道214号に入る。福泉禅寺の入口案内板があり、梅ノ木谷溜池を通って行く。白石平野を潤す4段の溜池。

梅ノ木谷溜池 うめのきだに
(杵島)白石町 溜池(3基) (下段)堤長約400m,(中段)堤長約280m,(上段)堤長約100m (上・中段)享保5(1720)、(下段)明和5(1768)→嘉永4-文久3(1851-63)改築 町教委 昭和24に最上段(4段目)を築造 2 C

城江井樋  佐賀県有田町山谷牧 ( 佐賀県 )

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城江井樋  佐賀県有田町山谷牧

サイト「近世以前の土木・産業遺産」佐賀県リストによるデータは、次のとおり。
国道202号から松浦鉄道山谷駅そばの踏切を渡り唐船城跡の山田神社へ向かう。神社前の橋下が水路で、下流へ車道をたどる。有田川が彎曲するあたりの岩面手前に、コンクリート整備された素掘トンネル入水口があり、出水口は約120m先。中間岩場に空気穴も確認できる。
西有田町史上巻276〜278頁を参照。漢学者草場佩川(くさばはいせん)が書いた碑文が入口付近にあったが、今は山田神社境内に移されている。

城江井樋 じょうえ
(西松浦)有田町 有田川 素掘トンネル (水路) 長約120m 嘉永3(1850) WEB 保存状態良好 1 C

詳しくは、HP「ももちゃんの西有田史跡マップ」を参照。  http://www15.ocn.ne.jp/~housenji/joueibi.htm

城江井樋
有田川右岸の二ノ瀬の水田へ水を引くため、嘉永3年(1850)岩をくりぬいて、トンネルを掘ったものである。子ども一人が通り抜けられるくらいの穴で、約120メートルの長さである。
120メートルといえば、60間、1間1両で請け負ったというから、60両の費用がかかったことになるが、何人もの人夫が途中で逃げ出したり、落盤で命を落としたり、大変な工事だったと聞いている。 
漢学者草場佩川(くさばはいせん)が書いた碑文が入口付近にあったが、いまは、山田神社の境内に移された。その記念碑(注1)に「馬頭」樋という文字があり、桃川の馬ン頭(サイフォン)式を参考に作られたようである。
詳しくは、西有田町史上巻(P276〜278)をご覧ください。こもあれ、先人の着眼、行動には、感激するばかりである。

注1: 記念碑碑文
松浦郡有田郷山谷村爽水有田各分渠漑之水東有石崖阻渠故設馬
頭槭以取水西之水其脩造之費率無虚為村民患焉嘉永
年間鍋島種邑為郷宰庚戌春為相謀命工鑿崖腹
五十歩以通渠流永使灌漑巧亦偉矣時
余攝郷中教導事故聊紀歳月繋之以詩
昔役五丁徒夸巧 今看(ザン)鑿利三農   〈ザンサク:穿かれた穴〉
無間然處能盡力 其所無事況有庸    〈三農:山地平地水辺の農業。農業農村農民〉
要知遺澤千秋後 水汪汪分流不窮
草場クツ(革へんに華)撰并書

松浦郡有田郷の山谷村には爽やかな水があり、田畑を潤している。
この水は東にある右側の崖が粗雑だったため
馬頭を設けて水を仕切って水を取り出し西へ流していたが、壊れたり、大水で流されたりして
その修理のために 多くの費用が掛かっていたため、村民は大変困っていた。
嘉永年間、佐賀の鍋島種邑が有田郷の宰相として赴任し、庚戌(嘉永3年)の春、
相談しつつ工事を命じて崖腹を穿ち、五十歩の渠を通し以って灌漑に使い
その仕事は、巧みて偉大だった。
時には村のものを教え導きつつ、いささか事故もあったが、歳月之をつなぎ、以って詩う。

昔の役(仕事)五丁徒に巧をおごる。今、?鑿(ザンサク)を看、三農(山地平地湿地)を利す。
その間、然る処よくその力を尽くし、其の所事なきを得、 況や役に立つことこの上なし、
知るべし、遺された澤はその後千年に及び、水はとうとうと分かち流れ、窮することはない。

松浦町桃川の佐嘉領境石  伊万里市松浦町桃川 ( 佐賀県 )

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松浦町桃川の佐嘉領境石  伊万里市松浦町桃川

サイト「近世以前の土木・産業遺産」佐賀県リストによるデータ及び現地説明板は、次のとおり。
伊万里市内から国道498号によりJR筑肥線桃川駅の方へ向かう。この「領境石」は説明板のとおり実際の場所から移設され、現在は宮地嶽神社下の「桃川御番所」跡地に立っている。

松浦町桃川の佐嘉領境石 まつうら、ももかわ
伊万里市 (宮地嶽神社) 境界石 高2.05m,24㎝角(うち、台石高0.3m) 江戸期 WEB(筑前国境石散歩) 表面が風化 (正面)「從是南 佐嘉領」 2 C

大野岳烽火場跡  伊万里市南波多町 ( 佐賀県 )

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大野岳烽火場跡  伊万里市南波多町

古賀稔廉氏編「改訂増補 いまりの歴史散歩」伊万里市郷土研究会昭和59年発行257〜259頁に、次のとおり「大野岳烽火場跡」を記しているので、伊万里市大野岳山頂へ現地確認に行った。

防人の山
防人の歴史を秘める大野岳は、伊万里市北東部10kmの所にあり、東は南波多町西は大野町にまたがる標高420mの山で、一名「前平山」とも呼ばれています。地質学的には、第三紀砂岩層の上に玄武岩が乗った形で、八合目程から上層にわたって、玄武岩の風化による巨岩や奇岩がさながら石庭を見るように分布し、頂上は台地状になって牧草や灌木が茂っています。
山頂からは、北に玄界灘と、そこに浮ぶ壱岐、対馬、松浦潟、東に鏡山、作礼山、天山を、西に伊万里湾、平戸島、南遙かに雲仙や多良岳、黒髪、八幡の秀峰を一望におさめ、眺めは正に天下の絶景でもあります。大野岳から展望し得らるるこれらの地は、大陸に最も近く、従って上代から外敵に備え、国土防衛前哨の防人の駐屯地として重要な役割をはたしてきました。…
大野岳山頂にも、防人と烽火場が設けられ、現在も、山上に突き出た方形の自然石よりなる烽台が残っている。標高300mの所にある現在の大野部落に、25人の防人達が十日に一日の休暇を食糧つくりの仕事に当って、自活しながら勤務をはたしたと伝えられています。…(井本寿郎)

大野岳は公園化されており、山頂は駐車場から歩いて5分である。伊万里農林事務所設置案内板では、「かぶと虫の丘」となって、円形の広場となっている。ここが山頂らしいが、後の築山のようでもあり、三角点はやや低い左手前のピークにあった。背後に木立があり、この薄暗い木立内に「防人の峰」碑が立っていた。

いまりの歴史散歩に「山上に突き出た方形の自然石よりなる烽台が残っている」と記すのも、ここのことだろう。防人の峰碑の写真説明には「標高424mの最高地点防人の峰 防人の見張り台があったところ」とある。遺跡ウォーカーHPでも、ここを表示している。
防人時代、なにしろ上代の烽火場跡の話である。完全に遺構が残っている方が不思議だろう。木立内の4隅にそれらしき自然石があったようなので、これと断定するわけではないが、薄暗い中の自然石をともかく撮影してきた。後ろ4枚の写真は、山頂手前の夫婦石園地道祖神と、山頂北側の巨石広場の風景。

里小路の小笹生垣  伊万里市東山代町 ( 佐賀県 )

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里小路の小笹生垣  伊万里市東山代町

サイト「近世以前の土木・産業遺産」佐賀県リストによるデータ及び現地説明板は、次のとおり。
伊万里市内から松浦へ向かう国道204号の里交差点で左折し、松浦鉄道里駅近くの踏切を渡ると尊光寺がある。寺から約450mの区間が里小路の小笹生垣の通りである。

里小路の小笹生垣 さとこうじ
伊万里市 <山代郷> 生垣 江戸期 WEB 保存状態良好 入封した城下に計画的に造られた街路→生垣として等しく矢竹を用いた独特の景観 1 C

新さが百景  里小路の小笹生垣  (現地説明板)
豊臣秀吉が栄華を極めていた頃、ここ山代郷(現在の山代町、東山代町)は田尻鑑種が治めていました。
鑑種は、天正17年(1589年)龍造寺隆信により筑後柳川の鷹尾城からここ山代に移封されました。
その家臣たちは、この丘陵地を住居と定め、東西に本通、南北にいくつかの小路を設けて土地を区画し屋敷を構え、その境に矢竹を植えて生け垣としました。
今でも、緑豊かな矢竹の生け垣の閑静な景観が、落ち着いた雰囲気を醸し出し往時を偲ばせてくれます。
このような景観が認められ、平成10年1月「新さが百景」に認定されました。
伊万里市観光課   東山代町里区

岳の棚田  佐賀県有田町岳 ( 佐賀県 )

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岳の棚田  佐賀県有田町岳

サイト「近世以前の土木・産業遺産」佐賀県リストによるデータは、次のとおり。
国道202号山谷交差点から県道326号により岳集落を過ぎ国見道路に上がり、左の国見トンネルの方へ向かうと棚田館がある展望が良い国見棚田公園がある。

岳の棚田 たけ
(西松浦)有田町 棚田石垣 570枚 安土桃山〜江戸期 日本の棚田百選 WEB 保存状態良好 堅固な石垣が特徴 1 B

ウィキペディアフリー百科事典による説明は、次のとおり。

岳の棚田
平均勾配 1/5
面積 28.6ha
枚数 570
水源 ため池
法面構造 石積
事業導入 有
開発起源 安土桃山時代〜江戸時代
対象農家数 35
10a当収量 420kg
戸当営農規模 0.8ha
戸当枚数 16

岳地区の棚田は、上流域水源林からの流出水と、上流の溜め池を水源として、棚田は岳地区により共同管理となっている。1996年(平成8年)開催の第2回「全国棚田サミット」を契機に地域の若手グループにより「岳信太郎棚田会」が発足し、荒廃化しつつある棚田の状況に対する理解を、都市住民に呼びかけることとし、会では、都会では味わえない農作業(田植え、稲刈り)や自然戸歩む生活の理解を深めるため、棚田オーナー制を展開している。また、現在実施中である「中山間地域総合整備事業」において、岳地区に棚田を活用した体験農園を整備する計画である。

当地区の上部には国見道路が通過しており、眼下に望む風情は、棚田形状の美しさと点在する集落とが一体となり、農村の原風景が未だ残る。法面には、堅固な石積みが施されており石積みの技法は、布築、谷築、その他幾通りかの方法が用いられており、現在も地域に継承されており周辺地域を含んだ農村景観の美しさに秀でている。 良質な水資源の活用と牛糞の堆肥やレンゲ栽培による緑肥の施用により棚田米の生産を図っている。

山谷大堤  佐賀県有田町山谷切口 ( 佐賀県 )

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山谷大堤  佐賀県有田町山谷切口

サイト「近世以前の土木・産業遺産」佐賀県リストによるデータは、次のとおり。
国道202号山谷交差点から国見道路へ上がる県道326号が、山谷大堤の脇を通って行く。

山谷大堤 やまたに
(西松浦)有田町 (山谷切口) 溜池 長約100m 貞享元(1684) ため池百選 WEB 保存状態良好 地元の山谷村民だけで築造/岳の棚田の最下部に位置し、良好な景観を創出 1 C

ウィキペディアフリー百科事典による説明は、次のとおり。

山谷大堤
所在地 佐賀県西松浦郡有田町山谷切口
貯水量 98.7 km3
淡水・汽水 淡水
湖沼型

山谷大堤(やまたにおおつつみ)は、佐賀県西松浦郡有田町山谷切口にあるため池である。2010年(平成22年)3月25日に山谷大堤として農林水産省のため池百選に選定され[1]。また、上流は1999年(平成11年)に岳の棚田として[2]日本の棚田百選に認定されている。

概要
山谷大堤は山谷切口にあり、国見山の中腹に位置し、湖畔に建っている多くの石碑に明確に歴史が刻まれており1684年(貞享元年)当時の山谷村の人々が力を合わせて造り上げたことが記されており、「善女龍王」という文字が刻まれている、「善女龍王」というのは雨の神、竜神の化身で神泉苑に残る空海の法力比べ伝説に由来があるといわれている。江戸時代より旱魃に襲われた時、黒髪山で雨乞いを行っていたため、同山にあった寺の僧侶が建立したと伝わり碑文に「半蓑雨」とあるようにこの池が古くから下流の旱魃の被害の軽減に役に立ってきた。 後方にはさらに4基の石碑が立っており、1908年(明治41年)や1933年(昭和8年)石碑には決壊による改修工事の記録があり、現在で45haの水田の灌漑に利用されている[3]。池は灌漑のほか治水や防火用水としての利水機能も担っている。

岩屋川内の標石  嬉野市岩屋川内 ( 佐賀県 )

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岩屋川内の標石  嬉野市岩屋川内

嬉野温泉から大野原へ県道6号へ入る。岩屋川内ダム手前の三叉路で見た標石。「清水ヲ経テ野原學校へ至ル 約十粁」とか読める。他の刻面や佐賀県地名は詳細不明。
後ろの写真は、岩屋川内ダム、大野原小・中学校、自衛隊大野原演習場、龍頭泉上流の渓谷。              

2013年(冬) 糸山玲子作陶展  佐賀県多久市多久町東町

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2013年(冬) 糸山玲子作陶展  佐賀県多久市多久町東町

多久市観光協会公式サイト「多久市観光ガイド」による案内は、次のとおり。妻の休日。

2013年(冬) 糸山玲子作陶展

多久町にあります工房「陶玲」で活動されてます、糸山玲子さんの作品展「2013年(冬) 糸山玲子作陶展」が11月17日(日)〜24日(日)に開催されます。
糸山さんは陶あかりを中心に、大好きな山野草を生ける花入れや香炉、日常使いの器など唐津焼をベースにすべて登り窯焼成にて自由な作陶を楽しまれています。
暖かい灯りと揺れる影が織りなす、ゆったりとした時間を楽しまれに足を運ばれてみてはいかがでしょうか。
期  間 : 2013年11月17日(日)〜24日(日)  
時  間 : AМ10:00〜18:00
場  所 : 「陶玲」工房&ギャラリー
住  所 : 多久市多久町東町2188
電話番号 : 0952−75−6338

御船山楽園の紅葉と陶玲作陶展  佐賀県武雄市ほか

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御船山楽園の紅葉と陶玲作陶展  佐賀県武雄市ほか

2012年11月18日(日)快晴。妻の休日。佐賀県武雄市の「御船山楽園の紅葉まつり」(12月5日まで)と、多久市の陶玲工房作陶展(11月30日まで)へ。
2012全国紅葉最前線|全国旅そうだんHPは、次のとおり。

御船山楽園

1845年、武雄第28代領主、鍋島茂義公が約15万坪(東京ドーム10個分)の広大な敷地の中に、約3年の歳月をかけ創設した「御船山楽園」(旧萩野尾苑)は、山水画を彷彿とさせます。秋は燃えるような約500本の紅葉があり見事な深赤色を彩ります。国登録記念物(名勝関係)。