佐賀の風景・史跡」カテゴリーアーカイブ

道の駅厳木と佐用姫像  唐津市厳木町牧瀬 ( 佐賀県 )

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道の駅厳木と佐用姫像  唐津市厳木町牧瀬

多久市西部の山間地船山から県道322号により唐津市厳木へ下った。唐津市観光協会HPによる説明は、次のとおり。

■長者原、厳木
松浦佐用姫、生誕伝承の地 
〜長者原(ちょうじゃばる)〜
肥前風土記」によれば、大伴狭手彦が朝鮮出兵の準備中に滞在したのが篠原村とされ、そこで狭手彦は身の回りの世話をした長者の娘、佐用姫に心ひかれたといわれています。松浦佐用姫祈念碑が立つ長者原は、現在も「篠原」の地名が残っている事から松浦佐用姫、生誕の地といわれています。唐津市とお隣の多久市の市境にあり、近くを通る総延長約2100kmの九州を一周する自然探勝歩道「九州自然歩道」を、自然に浸りながらゆったりのんびりと散策するのもおすすめです。

高さ14mの佐用姫像が出迎えてくれる道の駅
〜厳木(きゅうらぎ)・風のふるさと館〜
道の駅「厳木・風のふるさと館」は、一般道路のサービスエリアとして休憩のためのパーキングエリアの他、お茶やゆずをはじめ安くて新鮮な野菜や山の幸、地元の食材を使った手作り饅頭など、厳木の特産品が豊富に揃っています。高さ14mの白亜の佐用姫像は、台座を中心に15分間で1回転します。地元では、道の駅付近を走行中に、回る佐用姫像の向きでその日の占いをする人もいるそうです。

船山の石垣  多久市西多久町板屋 ( 佐賀県 )

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船山の石垣  多久市西多久町板屋

サイト「近世以前の土木・産業遺産」佐賀県リストによるデータは、次のとおり。
多久市の西部。県道25号線の西部小前交差点から県道322号により船山集落へ上がる。八幡岳県立公園八幡岳峠への案内標識の道へ少し入ると、この防風石垣があった。
地元識者に聞くと、もともとは自然石の石垣だったが、伊万里への市道改修の際(年代不明)、現在の切石によって築き直されたと言う。

船山の石垣 ふなやま
多久市 石垣 江戸期? 市教委 防風石垣

妙覚寺の石階段  多久市南多久町下多久 ( 佐賀県 )

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妙覚寺の石階段  多久市南多久町下多久

サイト「近世以前の土木・産業遺産」佐賀県リストによるデータは、次のとおり。
多久聖廟入口となる「市民病院前」交差点から県道25号線を小城の方へ向う。南部小学校先のJA多久グリーンセンター前からまっすぐ山手へ上がった桐野集落に寺はある。古びた仁王門が迎える。

妙覚寺の石階段 みょうかく
多久市 妙覚寺・参道 石階段 長約50m 江戸期? 市教委 保存状態良好 1 C

本ブログ次も参照。  https://misakimichi.com/archives/910
妙覚寺HPによる寺の縁起は、次のとおり

桐野山最尊院妙覚寺は今を去る一二五〇年程前、天平年間僧正行基によって天下安全の勅願所として開創された。その後聖武、桓武、平城の三帝より相継いで勅を稟け「帝祚鞏固」、国家安全の祈願所となり末寺百二十坊を数えるようになった。降って天正元年(四百年余前)火災にあい焼失したが時の多久邑主龍造寺長信によって寺領五十意志を附與せられて再興、いらい邑主の武運長久の祈願所として栄え寛文年間には観音堂、護摩堂、鐘桜、仁王門、客殿、茶室等七堂伽藍相整い隆盛を極め京都竹151内門跡の末寺となる。更に降って明治維新の廃仏毀釈の法難に遭遇し、加うるに堂十四年山火事により類焼し全山悉く烏有に帰し、古文書什器等殆んど焼失したが旧民家を移転改修して庫裡としその一部を本堂に代用していたが明治三十年観音堂を建立し昭和八年十月本堂を再建、同三十四年観音堂を改修、同四十四年五月庫裡を改築、仁王門を補修して今日に至っている。因みに胎金両部曼茶羅は県立博物館の調査により鎌倉時代の中末期の作と判ぜられ昭和五十三年同五十四年の二ケ年に亙り、これを京都の博物館の専門家の手によって修復され、県重要文化財に指定される見込にて、但し県費によって修復されし、代償として二十ケ年博物館に保管の契約を締結した。

多久聖廟  多久市多久 ( 佐賀県 )

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多久聖廟  多久市多久

孔子の里│多久聖廟HPによる説明は、次のとおり。ほか、境内の石橋、名木。

多久聖廟  TAKU The Temple of Confucius

多久聖廟は、宝永5年(1708)多久茂文が孔子像を安置し、領民に「敬」の心を培わせるために建てた孔子廟です。 現存する聖廟としては足利学校(栃木県)、閑谷学校(岡山県)に次ぐ古い建物です。
建築様式は、禅宗様仏堂形式と呼ばれる我が国の代表的な建築様式ですが、彫刻や文様で中国的な雰囲気を出しています。現在は、国指定重要文化財として大切に保全されています。

水堂安福寺の石階段  佐賀県白石町堤 ( 佐賀県 )

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水堂安福寺の石階段  佐賀県白石町堤

サイト「近世以前の土木・産業遺産」佐賀県リストによるデータは、次のとおり。
国道207号肥前竜王から大町への県道214号に入り、途中から武雄市への県道268号に入る。安福寺本堂から車で3分の上部に水堂安福寺がある。

水堂安福寺の石階段 すいどうあんぷく
(杵島)白石町 安福寺・旧参道 石階段 長約360m 江戸期? 町教委 保存状態良好(使われていない) 自然石を粗く積んだ長い石階段 1 C

次は水堂安福寺HPから。佐賀新聞平成10年8月7日有明抄よりの記事。

白石町須古の「水堂さん」(安福寺)はお盆を目前ににぎわいを増す。初盆を迎える家族らが仏前に供える霊水を求めてやってくるからだ。ここは白石平野を見下ろす杵島山の中腹にあるわき水が管から流れ出ている小さなお堂は本堂に隣接する。イチョウやクスなどの大木がつくる木陰に、入れ物を手にした順番待ちの列ができる。容器は昔は一升瓶、今は軽くて割れないペットボトルだ。
平安時代、病気に苦しむ高倉天皇の夢の中に観音様が現れる。安福寺の霊水をというお告げに、それを取り寄せて飲んだら治ったという由来がある。参拝者は新仏や先祖の供養に霊水を受けるほか、霊水は腐ることがないと重宝がられている。出水が始まる5月は鹿島地区、7月盆の前は佐世保、有田地区、8月盆の前は白石平野一帯と参拝者に流れがあるのも往時のにぎわいぶりを伝えている。今は茶やコーヒーに最適とミネラルウォーターとしての人気がある霊水信仰は水不足に苦しむ地方にみられるという説がある。
白石平野は有明海が干陸化してできた。水道が普及するまでは飲み水は地下水に頼り、井戸でくみ上げた。日照りが続くと井戸の水は枯れたり、塩辛くなったりした混じり気のない真水に飢えた住民は山のわき水を敬い、霊的なものを感じたというのだ。水は生命の源という切実な思いが込められている。お堂の壁からちょろちょろと流れ出てくる出水はその思いを象徴しているようだ。それにしても今は水をぜいたくに使い過ぎている。

稲佐神社の石階段  佐賀県白石町返田 ( 佐賀県 )

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稲佐神社の石階段  佐賀県白石町返田

サイト「近世以前の土木・産業遺産」佐賀県リストによるデータは、次のとおり。
国道207号肥前竜王から大町への県道214号に入ると、稲佐神社前を通る。後ろの写真は、肥前鳥居、参道橋、そのほかの桁石橋。

稲佐神社の石階段 いなさ
(杵島)白石町 稲佐神社・参道 石階段 長約160m 江戸期 町教委 平成3改修(C充填) 自然石を粗く積んだ長い石階段 2 B

彦嶋神社と周辺の史跡  佐賀県白石町深浦 ( 佐賀県 )

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彦嶋神社と周辺の史跡  佐賀県白石町深浦

国道207号肥前竜王から大町への県道214号に入る。石塔群の手前から左折。石造六地蔵やその奥に彦嶋神社がある。史跡説明板は写真のとおり。
彦嶋神社の木造神像は、佐賀県立博物館に展示されている。佐賀県HP文化財によると次のとおり。

佐賀県重要文化財 木造神像(もくぞうしんぞう)
平成20年3月14日指定  佐賀市城内一丁目15番23号 佐賀県立博物館  彫刻

彦嶋神社(杵島郡白石町深浦)に伝わる男神像、女神像(唐装)、僧形像は、いずれも正統な彫技やこめかみをしぼった面長な顔立ちから、鎌倉末期から南北朝時代にかけての制作と考えられる。墨書銘に名前のみえる藤原通村は、当地の領主の白石氏が代々使用した「通」の系字を用いていることから同氏の一族であると思われる。
14世紀にさかのぼる神像は県内では希少であり、出来映えも優れている。当地を領有していた白石氏にかかわる遺品であることも重要である。
男神像 51.0cm  女神像(唐装) 47.3cm  僧形像 41.1cm  (附) 女神像(和装) 29.5cm

深浦の道標  佐賀県白石町深浦 ( 佐賀県 )

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深浦の道標  佐賀県白石町深浦

サイト「近世以前の土木・産業遺産」佐賀県リストによるデータは、次のとおり。
国道207号肥前竜王から大町への県道214号に入る。すぐ石塔群手前から彦嶋神社へ左折、旧街道を深浦峠の坂道へ向かうと、道角にまず「右かしまみち」の標石、その先の八天宮祠右にこの碑がある。
「西嘉島道/南龍王道」の刻字は、「八天宮」の下の部分。薄い彫りなので注意して見る。

深浦の道標 ふかうら
(杵島)白石町 石道標(自然石) 高1m以下 宝永6(1709) 町教委 移設 (正面)「八天宮、西嘉島道/南龍王道」 2 C

福泉禅寺の石階段  佐賀県白石町田野上 ( 佐賀県 )

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福泉禅寺の石階段  佐賀県白石町田野上

サイト「近世以前の土木・産業遺産」佐賀県リストによるデータは、次のとおり。
国道207号肥前竜王から大町への県道214号に入る。福泉禅寺の入口案内板があり、梅ノ木谷溜池を通って行く。

福泉禅寺の石階段 ふくせん
(杵島)白石町 福泉禅寺・参道 石階段 4座 天明7-8(1787-88) 町教委 保存状態良好 1 C

次は白石町HPから「福泉禅寺と和泉式部伝説」
福泉寺この寺には、2つの興味深い物語が残っています。
その1つが「和泉式部生誕伝説」で、遙か平安時代藤原氏全盛期のお話です。ある朝、赤ちゃんの鳴き声で目を覚ました福泉禅寺のお坊さんたちが周囲を探したところ、お堂の裏で白い鹿が人間の女の赤ちゃんにお乳をあげていました。そこに隣の塩田の里(現在の嬉野市塩田町)から長者大黒丸夫婦がやってきて、
「私たち夫婦には子供がいないので、常々このお寺の薬師如来さまにどうぞ女の子をお授けくださいと祈願しておりました。すると夕べ、薬師如来様が夢枕に立たれ『おまえたちの永年の信心をあわれと思い、福泉禅寺の裏に一人の女の子をさずけておいた。明日の朝早速に寺に行き、その子をつれて帰るがよい』とお告げがありましたので早速こちらへ参った次第です」と申しました。
大黒丸夫婦にもらわれていった女の子はとてもかしこく美しく成長し、縁あって宮廷に上がることになりました。これが和歌の名手和泉式部だったのです。和泉式部が遠いこの故里を思って詠んだ「ふるさとに 帰る衣の 色朽ちて 錦の浦や 杵島なるらむ」という歌が今に伝わっています。

2つめは「幽霊の掛軸」の由来です。江戸時代、福泉禅寺の住職東州和尚が修行の旅に出ていた時のことです。ある夜、泊めてもらった駿河国(現在の静岡県)のお金持ちの家に幽霊の掛軸が飾ってありました。和尚が幽霊の掛軸を飾っている理由を主人に尋ねたところ、「この掛け軸は、継母に反発して悪行を重ねる子供のもとに、亡くなった生みの母が幽霊になって『育ての母上に逆らってはいけない』と諭すために現れた姿を描いたものです」という答えが返ってきました。その話に感動した東州和尚が「是非地元の同じ境遇の家庭にもその話を伝えたい」と申し、譲り受けてきたという掛軸が今も福泉禅寺に保存されています。
《 案 内 》 臨済宗。はじめ真言宗寺院として創建。のち禅宗寺院となる。木造十一面観音菩薩坐像は県重要文化財。