唐津城の周辺 唐津市城内橋ほか
唐津市役所へ行く途中写した。城内橋や中央橋付近から望む唐津城。
唐津城の周辺 唐津市城内橋ほか
唐津市役所へ行く途中写した。城内橋や中央橋付近から望む唐津城。
風の見える丘公園 唐津市呼子町加部島
佐賀県の観光情報ポータルサイト「あそぼーさが」による説明は、次のとおり。白い風車は写っていない。
風の見える丘公園(唐津市呼子町)
呼子(よぶこ)大橋を渡り、加部(かべ)島に渡ると島の小高い丘の上に風の見える丘公園があります。シンボルの白い風車の回転が、吹いてくる風の道を教えてくれます。公園からは、青く広い玄界灘が一望できます。周辺は四季の花で彩られ、心地いい雰囲気。ドライブの休憩に最適です。
●交通
JR駅からの場合…JR唐津線、筑肥線唐津駅から、タクシー利用で40分
マイカー利用の場合…長崎自動車道多久ICから車で60分
バス利用の場合…大手口バスセンターから、昭和バス加部島行き乗車、バス停呼子大橋入り口下車、徒歩25分
●入園・入館無料 年中無休
●駐車場 60台(無料)
●問い合わせ先 風の見える丘公園 TEL 0955-82-5159 唐津市呼子支所 TEL0955-53-7165
加部島の碇石 唐津市呼子町加部島
サイト「近世以前の土木・産業遺産」佐賀県リストによるデータは、次のとおり。呼子大橋で加部島へ渡ると、田島神社は島の東端にある。
「碇石」は2本あり、社務所の前と本殿横にも記念碑とともに屋外展示されていた。
加部島の碇石 かべ
唐津市(加部島) 田島神社 碇石(凝灰質砂岩) 長320㎝ 中世 WEB 屋外展示/右1/3で折損 出土地:加部島杉の原地先沖(昭和50)/国内で発見された碇石の中で、全体が遺存する例としては最大とされる 2 B
弁天島の呼子岩脈群 唐津市呼子町殿ノ浦
佐賀県HPの「佐賀県の文化財」による説明は、次のとおり。加部島へ渡る呼子大橋の下にあり、弁天遊歩橋へ下る。
佐賀県天然記念物 弁天島の呼子岩脈群(べんてんじまのよぶこがんみゃくぐん)
平成14年3月6日指定
唐津市呼子町殿ノ浦字辻2040番地1他
地質
唐津市呼子町の弁天島は、唐津市呼子町殿ノ浦と加部島の間に位置しており、北の男島、南の女島の2島からなる。両島は干潮時に地続きとなるが、広大な海食台をほぼ同じ方向に貫く、数本の岩脈を観察できる。この特異な地形は、佐世保層群(古第三期)といわれる堆積岩層を、玄武岩類の溶岩が貫入したことにより形成された。岩脈の活動年代は、15.8±0.8百万年、15.2±0.9百万年と考えらる。
弁天島に貫入している岩脈は0.1〜4mの幅があり、北西部のものが最大である。東部では、平行に連なる2本の岩脈が観察できる。島の北部の岩脈はいずれも右方向に1.5mずれているが、断層の活動によると思われる。南部の岩脈は海食台上にデコボコ状に突出しているが、これは岩脈が周りの泥岩よりも固いためであり、差別浸食が行われた結果である。
弁天島において玄武岩類が貫入した時期は、九州における玄武岩活動の先駆にあたり、日本海の大に伴って西南日本が時計回りに回転した時期にも相当する。
旧中尾家住宅・松浦漬本家・天満神社 唐津市呼子町呼子
佐賀県HPの「佐賀県の文化財」による「旧中尾家住宅」の説明は、次のとおり。
佐賀県重要文化財 旧中尾家住宅 主屋(きゅうなかおけじゅうたく しゅおく)
平成24年4月27日指定
唐津市呼子町呼子
建造物
旧中尾家住宅主屋鯨組主である中尾家の居宅で、住宅機能を持つ北棟と鯨組の社屋機能を担った南棟からなる。
遅くとも天明3年(1783)には、現在の形となるが、先行して建築された北棟に南棟を増築した痕跡が残っており、北棟の建築年は18世紀前期に遡る可能性が高い。
本建造物は県内唯一の大規模漁家住宅であり、全国的にも希少な鯨組主建築遺構である。
木造切妻平入桟瓦葺き二階建 建築面積 253.77平方メートル
びわのくび大溜 唐津市相知町相知
サイト「近世以前の土木・産業遺産」佐賀県リストによるデータは、次のとおり。相知町の中心、市支所近くから唐津市立相知中学校に上がる。びわのくび大溜はボタで埋め立てられ、炭鉱跡に造成されたのが、中学校や体育館・グランドと支所文化財担当に聞いた。一段下に小池が残る。
びわのくび大溜
唐津市 溜池 文化2(1805) 市教委/佐賀県の近代化遺産p156-7 三菱炭鉱のボタで埋まり、わずかに水面が残る 大庄屋・松隈杢右衛門による一連の農地開発/厳木川左岸の和田・杉野の水不足解消のため築造 3 C
新 溝 唐津市相知町鷹取
サイト「近世以前の土木・産業遺産」佐賀県リストによるデータは、次のとおり。相知町の東南、国道203号梶山跨線橋先の鷹取バス停近くにある。
新溝 しんみぞ
唐津市 用水路 長約1.5㎞ 文化2(1805) 市教委/佐賀県の近代化遺産p156-7 明治以降、各種工事により破壊されたが、C化して残存 大庄屋・松隈杢右衛門による一連の農地開発/山崎の開講地に水を供給するため、厳木川と押川大溜の水を引水 4 C
鵜殿石仏群 唐津市相知町相知字和田
佐賀県HPの「佐賀県の文化財」による説明は、次のとおり。「天徳の湯」奥から石仏群へ下る遊歩道がある。
佐賀県史跡 鵜殿石仏群(うどのせきぶつぐん)
昭和31年3月1日指定
唐津市相知町相知字和田
石仏群
松浦川中流右岸の丘陵北面に刻まれた磨崖仏群である。50m余りの小仏龕(ぶつがん)から5mを超える不動明王まで六十余体の磨崖仏からなる。この石仏群は、伝承によれば唐より帰朝し、松浦に着岸した空海が阿弥陀・釈迦・観音を刻んだことに始まるとされる。その後、この岩窟に鵜殿山平寺が創建され、波多氏の信仰や援助もあって中世には隆盛したが、戦国の兵火で焼失、波多氏の遺臣久家次郎左右衛門尉が堂宇を再興し、やがて修験道場となり明王院と号した。
「カキ焼き海道」大福丸箱崎店で 太良町伊福箱崎
道の駅太良のすぐ側! 鹿島市と太良町の境にあります。
天気がいい日には対岸の大牟田や雲仙普賢岳が望めます!
屋外で海風を感じながら食事を楽しめます。
炭火の香りが食欲をそそります。
食べ方もお教えいたします。店内からも海を楽しめます。
ご来店をお待ちしています。 お問い合わせは大福丸箱崎店まで。(同店HPから)
佐賀新聞ニュース 2008年11月20日更新は、次のとおり。
カキ焼き海道盛況 鹿島と太良の国道沿い
冬の味覚カキのシーズンが到来した。鹿島市や太良町の国道207号沿いは別名「カキ焼き海道」と呼ばれ、道路沿いに点在するカキ焼き小屋では、炭火で殻付きのカキを焼いてほおばる家族連れらでにぎわっている。
国道沿いは20軒以上の小屋がある。太良町の炭火焼「大福丸」では週末を中心に観光客が続々と来店。焼けたカキを軍手でつかみ、ピックで殻をこじあけると店内に磯の香りが漂っていた。
伊万里市から一家4人で訪れた瀬戸剛さん(45)は「太良のカキが好きで年に2、3回は食べに来ている」と話し、海の幸を楽しんでいた。現在は養殖物が主で有明海産は1キロ千円前後、長崎など県外産は2キロで千円ほど。
祐徳稲荷神社 鹿島市古枝
ウィキペディアフリー百科事典による説明は、次のとおり。2日早い初詣でを済ませた。
祐徳稲荷神社
祐徳稲荷神社(ゆうとくいなりじんじゃ)は、佐賀県鹿島市にある神社である。旧社格は県社。別名鎮西日光。伏見稲荷大社などとともに日本三大稲荷の一つに数えられる。年間300万人の参詣者が訪れる。これは九州の神社では太宰府天満宮に次ぐ参拝客数である。衣食住、生活全般の守護神として、商売繁盛、家運繁栄などで尊崇されている。
由緒
鹿島藩主鍋島直朝夫人で、後陽成天皇の孫・左大臣花山院定好の娘の萬子媛(まんこひめ)が、朝廷の勅願所であった稲荷大神の御分霊を勧請したのに始まる。萬子媛が嫁ぐ際、父から稲荷大神の神鏡を授けられていた。貞享4年(1687年)、石壁山に社殿を建立し、萬子媛自ら奉仕していたが、宝永2年(1705年)、石壁山窟の寿蔵にて、断食して入定を果たした。以降、萬子媛の諡名から「祐徳院」と呼ばれるようになり、祭神の稲荷神とともに萬子媛の霊験により信仰を集めた。
明治の神仏分離により仏式の行事を廃し、祐徳稲荷神社に改称した。その際、萬子媛が入定した寿蔵は境内社の石壁神社とされ、萬子媛に「萬媛命」の神号が贈られた。
現在の本殿は、昭和初期に建て直されたものが昭和24年(1949年)に焼失したあと、伊勢神宮造営局長の角南隆が設計して昭和32年(1957年)に再建されたもので、3代目である。主要建物は総漆塗りである。
斎藤茂吉や野口雨情も祐徳稲荷神社を詠った詩を残している。
神社内部
錦波川を境として西側に本殿、神楽殿、楼門がある。楼門から北側には参集殿、更にその北側には日本庭園がある。境内入口より北から祐徳バス門前出張所(祐徳神社前バス停)までの間の参道には門前商店街が軒を並べ、その北端には3000台が駐車できる無料駐車場がある。錦波川東の駐車場脇には神社が所蔵する美術工芸品や鎧・刀・鹿島錦など郷土の資料を展示した祐徳博物館が設置されている。
文化財
県重要文化財
・命婦社
・刀
・古文書
交通
佐賀駅前の佐賀駅バスセンターまたは肥前鹿島駅前の鹿島バスセンターより祐徳バス祐徳神社行き乗車(所要時間は佐賀駅バスセンターから約1時間、鹿島バスセンターから約10分)。特に、年末年始(12月31日の深夜24時1月1日(元日)の午前0時前後より)は百貫橋(杵島郡白石町と鹿島市の境)から初詣客の車で渋滞している事がある。