佐賀の風景・史跡」カテゴリーアーカイブ

築地反射炉跡・本庄神社石造肥前鳥居・同石燈籠ほか  佐賀市長瀬町・本庄町

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築地反射炉跡・本庄神社石造肥前鳥居・同石燈籠ほか  佐賀市長瀬町・本庄町

佐賀市の風景・史跡。佐賀市HP「佐賀市の文化財」による説明は次のとおり。

写真  1〜  6   佐賀市史跡  築地反射炉跡
所在地/佐賀市長瀬町  指定年月日/昭和42年2月11日
長崎を守る特別任務があった佐賀藩は、江戸時代末期、諸外国の事情が判明するにつれ、これまでの兵備では守りきれないと思っていました。幕府にもしばしば防備増強を訴えたのですが、聞き入れてくれません。そこで、佐賀藩は独自に藩の費用で大砲を作ることにしました。そして嘉永3年(1850年)10月、西洋式反射炉等を築地につくり「大砲鋳造所」と呼びました。現在この反射炉跡は小学校の敷地や民家となっていて、その一画に反射炉の模型などが設置されています。

写真  7〜  9   道祖神社(道祖元町)

写真 10〜 13   道祖元町の伝統的保存建築物ほか

写真 14〜 15   佐賀県重要文化財  石造肥前鳥居
所在地/佐賀市本庄町大字本庄(本庄神社)  指定年月日/昭和39年5月23日
高さ3.8メートル、笠木の長さ5.15メートル。笠木、島木、柱および貫はいずれも3本継で、島木は形式化して笠木と一体となり、木鼻はゆるやかに反り、柱は下部になるにつれしだいに太くなる肥前鳥居の形式をなしています。県内には、このような石造肥前鳥居が多く見られます。この本庄神社の鳥居は慶長8年(1603年)発卯9月28日の造立銘が陰刻されています。

写真 16〜 17   佐賀市指定文化財  石 燈 籠
所在地/佐賀市本庄町大字本庄(本庄神社)  指定年月日/昭和50年2月11日
本庄神社の拝殿前の左右に1対の石造燈籠が建っています。これらには元和4年(1618年)の銘があり、鹿島支藩の初代藩主、鍋島忠茂と佐賀藩祖、鍋島直茂との名が刻まれています。直茂や佐賀藩初代藩主勝茂が鳥居などを神社に寄進している例は他にも多く知られており、藩政初期の大名の、神社に対する政策や神信仰の深さをものがたっています。

馬渡島の「花乃井」の記念碑  唐津市鎮西町

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馬渡島の「花乃井」の記念碑  唐津市鎮西町

呼子・名護屋から船が着く馬渡港の桟橋から馬渡小中学校へ向う。坂道を歩いていると交番駐在所先の道脇左に、「花乃井」と字を浮かした見事な碑石を見た。
左の道に曲がると、「観音堂」へ出る。馬渡島と何の関係のない大阪の木綿問屋夫婦が島にいろいろな篤志をされ、観音堂も改築されたことは、HPで読んでいた。名はたしか「花子」。
この場所は今、コンクリートが張られているが、井戸跡に違いない。

そう思って碑石の裏面を見ると、由緒書きが刻まれていた。
「大阪の泉谷花子様大正七年来島の際多大の義捐をなされ其後学校に寄附或は観音堂の改築今又井戸を受く島人感謝して花乃井水を汲む 馬渡小学校長 彌富」。左面に「昭和六年二月」
「馬渡島のホームページ 歴史」馬渡島の大火災と禁酒令による説明は次のとおり。
この井戸の記念碑であり、花子夫人は昭和6年2月17日病死。当時の馬渡小学校長彌富忠六先生(多久市の方)が、夫人の遺徳を偲び、井戸に建てたられた碑であろう。心温まる記念碑である。花子婦人と楓田本真尼の写真も同HPから。最後が「観音堂」。

馬渡島の大火災

大正7年1月の末、玄海の風が吹き荒れるとき、小学校西側の小屋から出火し、本村の家屋
38戸、納屋30戸が一瞬にして灰となる大火事が起きた。玄海の一孤島ということで世の同情より、たくさんの義損金や品物が送られた。この中に、大阪で木綿問屋を営んでいた泉谷儀三郎・同花子という夫婦がいた。
馬渡島とは何の関係もなかったのであるが、愛知県の80歳になる楓田本真尼に託して蒲団・着物類その他たくさんの品々を寄贈した。この尼は老齢の身であったが、馬渡島まで渡って、一軒一軒丁寧に見舞いされ慰められた。夜はお説教などをして心を落ち着けられた。この時、観音堂の御仏体が壊れているのを見て、京都まで持ち帰り、自ら阪神の人々に寄付を求めて修理をし、立派になった観音様をわざわざ持参された。老尼は自らは極めて質素節約をされ、呼子・西唐津間の坂道を歩かれたという。施しのためにはすべてを放出され、その膨大の慈悲によって島の人々を仏の御教に導かれた。

泉谷夫婦は、死ぬまで何回も島を訪れ、孤島に住む子供たちの幸少ない生活に心をよせられ、盆や正月には学用品、玩具、蓄音機、ラジオ、包帯や薬などの医療用具など送られるのであった。そして3月には雛人形、5月には武者人形にまで。まるで自分の子や孫にやるように、その情のあふれた贈り物を送られた。また、不幸にして、儀三郎は大正14年に死去されたが、花子夫人は昭和6年2月17日の病死まで、各戸に仏像を配布され、観音堂を改築され、御詠歌の本やレコードを送られた。

また、島に水が少ないのを聞き、防水用井戸を2カ所を掘られ、「花の井」と名づけて石碑を立て、水道ができるまではこの水を使っていたそうだ。(今はコンクリートで埋められて井戸はない。ただ、馬渡駐在所の北側に記念碑があります。)
さらに、中等学校へ進む者に学費を補助されるなど、島の生活と信仰のためにつくされた。花子夫人が亡くなられてから、観音堂に三氏のご位牌を祭り、また二体の如来像を作って、毎年2月17日には感謝の意をささげていたそうである。泉谷夫妻の子の代まで品物を送るなど交流をしていました。

禁酒令 

孤島と言うことで、島の人にとって酒は唯一の慰安として、葬儀の時でさえも四升樽を空にして 茶碗でグイグイと飲むという風習があった。そのため風紀が乱れ、生活苦は島民をドン底生活に突き落としていったそうだ。当時の校長彌富忠六先生(多久市の方)が嘆き、涙ぐましい努力をされて全島禁酒の申し合わせをし、昭和7年7月21日に名護屋全体の禁酒令が施行されました。

馬渡島の番所ノ辻にある明治22年建「緯度測定標」  唐津市鎮西町

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馬渡島の番所ノ辻にある明治22年建「緯度測定標」  唐津市鎮西町

HP「三角点の探訪」を制作、近代測量史研究の京都市上西先生から教わり、昨夏の長崎県壱岐島の岳ノ辻にある「緯度測定標」に続き、3月7日に佐賀県馬渡(まだら)島の番所ノ辻にある明治22年建「緯度測定標」を確認に訪ねた。
佐賀県唐津市鎮西町の馬渡島は、呼子港から名護屋港を経由して船で30分。島内の一番高い山が「番所ノ辻」である。整備された車道が山頂まで通じているが、港から交通手段がなく、歩いて約70分を登る。

「番所ノ辻」山頂に展望台と烽火台跡があり、標高237.9mの一等三角点傍らに「緯度測定標」の標石があった。上面に方角の「十」、正面「緯度測定標」、左面「水路部」、右面「明治廿二年六月」と刻む。寸法は、23cm角、高さ40cm。
明治21年(1888年)6月27日、海軍水路部が単なる「水路部」と改称した。それ以降に海図を作るため経緯度の天測を行った測定標と思われる。

長崎県壱岐島の岳ノ辻にある「緯度測定標」は、次項を参照。壱岐のは「明治廿二年二月」建である。 https://misakimichi.com/archives/1267
この中の「全国地図測量史跡」全文紹介にあるとおり、「水路部」の経緯度天測標は、全国でも現存するのは、次のとおりしかない。北海道小樽市(「水路部」「明治二六年一〇月」)にも現存しているらしいが、未調査とある。
①新潟県三島郡出雲崎町岩舟町1592 妙福寺 ②島根県浜田市大辻町235ー3 旧浜田測候所 ③秋田市千秋北の丸2番 秋田和洋女子高校グラウンド敷地内 ④佐賀県唐津市鎮西町馬渡島 ⑤長崎県壱岐市郷ノ浦町永田触(壱岐島・岳ノ辻)

佐賀県馬渡島は、上西先生もまだ訪ねられていない。馬渡島番所ノ辻に残る「緯度測定標」の写真は、同「全国地図測量史跡」中の舘沢省吾氏撮影1枚以外、HPでは見当たらない珍しい写真となるので、詳しく紹介しておきたい。
「馬渡島のホームページ 自然のみどころ」による番所ノ辻の説明は次のとおり。

番所ノ辻

馬渡島での最高峰で、標高は、237.9mです。火山の跡といわれています。幕末の黒船来襲を恐れていた頃は、ここに沿岸防備のために遠見番所を設け、黒船を発見すれば烽火をあげて名護屋の大庄屋に知らせ、名護屋からは唐津城まで早馬を走らせていたと言うことです。この烽火の跡が展望台のすぐ北側に残っています。
また、日露・太平洋戦争の時は壱岐水道の見張所だったそうです。

番所ノ辻からは、360゜の展望がききます。北には約25km隔てて長崎県壱岐が見え、南には約10kmの地点に肥前町向島が見え、東には松島と加唐島が見え、西には長崎県の的山大島が見えます。玄海の原子力発電所も南東の方向にはっきりと見えます。
普段は空気があまり澄んでいないので見えませんが、空気が澄んでいるときは、壱岐の後方に対馬が見えますよ。馬渡島に来られたらぜひとも番所の辻から一望してください。

馬 渡 島 (2)  唐津市鎮西町

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馬 渡 島 (2)  唐津市鎮西町

佐賀県唐津市鎮西町の馬渡(まだら)島へ。柚の新種「ゆうこう」分布調査の川上氏に同行。番所ノ辻の一等三角点(標高273.9m)傍らにある珍しい標石「緯度測定標」も撮影した。
島の最初の信者は、長崎市外海地方から移住してきた人たちで、ゆうこうは”カトリック関係説”が有力である。信者が住む新村で2本を確認した。これらは別項とする。

呼子港から名護屋港を経由して馬渡島までは、船で30分。島内約10kmのウォーキングコースを一周した。
(2)は、こて絵のある旧家、馬渡漁港、やぎ、交流会館馬渡館、城山展望台、番所ノ辻展望台、同三角点、緯度測定標石、烽火台跡、山頂からの景色、佐賀藩馬放牧場跡の石塁、平戸峰展望所から白岳と長崎鼻海岸、馬渡漁港の奥、防波堤の小学生作品、帰路の馬渡島全景と波戸岬

馬 渡 島 (1)  唐津市鎮西町

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馬 渡 島 (1)  唐津市鎮西町

佐賀県唐津市鎮西町の馬渡(まだら)島へ。柚の新種「ゆうこう」分布調査の川上氏に同行。番所ノ辻の一等三角点(標高273.9m)傍らにある珍しい標石「緯度測定標」も撮影した。
島の最初の信者は、長崎市外海地方から移住してきた人たちで、ゆうこうは”カトリック関係説”が有力である。信者が住む新村で2本を確認した。これらは別項とする。

呼子港から名護屋港を経由して馬渡島までは、船で30分。島内約10kmのウォーキングコースを一周した。
(1)は、名護屋港、呼子大橋、馬渡島入港、島内案内図、海岸の道、聖母園、落ちたゆうこうの実、御堂カトリック教会、庚申塚と地蔵、馬渡小中学校、広場、馬渡神社、花乃井標石、ビクトリーストーン、観音堂

PR中の話題の石「ビクトリーストーン」は、観音堂近く郵正丸船長浦丸宅の玄関下駄箱の上にあったが、できれば港の観光休憩所兼船の待合所に展示されないか。

佐賀市街松原川の風景  

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佐賀市街松原川の風景

平成20年5月31日、佐賀市へ行く。佐賀城北濠沿い貫通道路の裏通り松原1〜3丁目の松原川の風景。
平成元年、佐賀市市制百周年記念事業の一つとして、「松原川環境整備事業、松原川の親水歩道づくり」を行い、周辺に数基の石桁橋やアーチ橋風の橋が整備された。
fed−net長崎・諫早Y氏HPには、長崎市の中島川よりよっぽど雰囲気が良いとある。
松原神社北の太鼓橋は、切石の石造アーチ橋として造られた。(石橋の項)
松原川の現地説明板は次のとおり。
松 原 川

多布施川左岸水路、市中を平行して東流。市民に安らぎと親しみを与えてくれる佐賀市の代表的な川。
多布施川左岸、NTT前のポンポン井樋から分流して東へ向い、松原神社の東北角から南へ折れ佐嘉神社角派出所まで750m。これから道下をくぐり小水路に分流し人目につかなくなる。
訪れる文人墨客は歴代、この川の美しさ、思い出等を文学に記し絵に描いてきた。多くの橋が架かり、それぞれ市民に親しまれている。             県庁通り商店連盟

早里のホゲ岩  伊万里市瀬戸町早里

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早里のホゲ岩  伊万里市瀬戸町早里

伊万里市瀬戸町早里へ佐賀県指定天然記念物「早里のイスノキ」を見に行ったとき、近くに「ホゲ岩」という珍しい岩があると聞いた。早里は伊万里湾の瀬戸で、半島や小島の周辺を埋め立ててできた干拓地である。海に突き出ていた岩場が海食によってホゲて、天然アーチになった。これが干拓地の中に残っていると言う。
石橋に関連し天然アーチも調べている方がいる。fed−net長崎・諫早HP「長崎県の石橋を訪ねて」にこの項がある。佐賀県となるがそのY氏のためにも、写真で情報を知らせたく岩へ寄ってみた。

国道204号線は伊万里湾沿いに通る。伊万里市街から玄海町方面へ直接行くか、伊万里湾大橋を渡って戻ると瀬戸町早里に着く。「早里」バス停先に海に向けて干拓地の中を行く道路があり、この道に左折して100mほど進むと、ホゲ岩が道路沿い右手にある。
規模は小さく観光地でないため、案内板はない。小さいながら見事な天然アーチだ。干拓地の中に残っている姿がよい。穴の先は大きな農家の入口道路だった。
天然アーチは、佐世保市瀬戸越町の眼鏡岩、同吉井町のお橋観音、同世知原町の弦掛観音でも見ている。(別項にあり)

相浦の球状閃緑岩  多久市北多久町多久原

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相浦の球状閃緑岩  多久市北多久町多久原

佐賀県の天然記念物に「小川内のスギ」「早里のイスノキ」でふれているので、もう1つ話題。
多久市北多久町大工田・相浦地区に「カイガラ石」や「ナポレオン石」と呼ばれる石があり、国内外でも珍しく佐賀県の天然記念物に指定されている。
正確な岩石名は、「球状閃緑岩」(きゅうじょうせんりょくがん)。どんな石か。相浦へ見に行った。

多久市役所近く「多久原北」交差点から国道203号線多久バイパスへ入る。長崎自動車道の北側を通り、「多久IC」近くに「相浦入口」の道路標識がある。必ずバイパスを通らないと、IC道が混在し集落入口がわかりにくい。
この道へ入り集落の谷奥まで進むと「相神浦大権現」社がある。もう天山の山懐である。社殿右に大きな岩石が「佐賀県天然記念物」の標柱とともに据えられてあった。
この石が集落内で一番大きいと聞いた。

「カイガラ石」「ハマグリ石」「菊面石」とか呼ばれる種類の石。表面に球顆(たまつぶ)がぼつぼつ見えた。「ナポレオン石」とは、コルシカ島に産するため付けられた石名らしい。
神社境内には、イチイガシの推定樹齢300年の大木もあった。
佐賀県HP「佐賀県天然記念物の部」による説明は次のとおり。

相浦の球状閃緑岩(あいのうらのきゅうじょうせんりょくがん)

県指定天然記念物/昭和46年6月23日指定
多久市北多久町大字多久原 飯盛山   鉱物
球状閃緑岩は、火成岩中の深成岩の1変種で、基質中に白黒の同心球状の縞を持つ球顆(たまつぶ)が入っている岩石をいう。
天山南斜面標高100m〜400m地帯は、角閃石片岩・黒雲母片岩・石英片岩からなり、多久市北多久町大工田・相浦地区では、球状閃緑岩の転石が散在する。相浦地区では、カイガラ石と呼ばれ、球顆は5〜18cmの楕円形。水田の石垣、川の護岸石、神社の土台石などに利用されてきた。
現在、我国では宮城県白石市・愛知県猿投山など7ヶ所程で確認されているに過ぎない。また一般に球顆岩石と称されるこの種の岩石は、世界的にも珍しく、イタリア他2〜3の火山国で知られるだけで、ヨーロッパではナポレオン石と呼ばれている。

武雄・多久・厳木・唐津の風景

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武雄・多久・厳木・唐津の風景

平成20年5月20日、武雄・多久・厳木・唐津へ行く。武雄川登付近の長崎自動車道9連橋梁、同地からの御船山、池の内池、西多久のかまど作り民家、南多久桐原の地蔵、同春日神社の庭橋、厳木の町切橋から厳木川、唐津浜玉平原からの風景。