九州(大 分 県)」カテゴリーアーカイブ

川中不動  豊後高田市長岩屋

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川中不動  豊後高田市長岩屋

豊後高田市から都甲川沿いの県道29号により東へ向かう。途中から長岩屋川沿いの県道543号へ左折して行くと、「天念寺」手前の川の巨岩に「川中不動」が刻まれている。
すぐ先に、豊後高田市立「鬼会の里 歴史資料館」と休憩所がある。
現地説明板は、次のとおり。「川中不動」は、江戸時代中期、天念寺の水害除けに刻まれたとしたものもある。

川中不動
安土・桃山時代に不動明王と制吁迦童子(せいたかどうじ)、矜羯羅童子(こんがらどうじ)の両脇侍が刻まれた。かつて護摩堂が存在していた。

豊後高田市の主な石橋  朝平橋・天念寺無明橋・真玉八幡社橋

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豊後高田市の主な石橋  朝平橋・天念寺無明橋・真玉八幡社橋

豊後高田市(真玉町も含む。香々地町は前掲)の石橋のうち、朝平橋・天念寺無明橋・真玉八幡社参道橋・同社護国神社前橋。天念寺無明橋は後の記事でも再掲する。豊後高田市役所近く若宮八幡社参道橋は訪ねなかった。
石橋のデータと紹介文は、HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」大分県の石橋による。

写真   1〜  4    朝 平 橋
豊後高田市梅ノ木  市指定有形文化財  都甲川
橋長:10.0m  橋幅:3.0m  径間:8.0m  拱矢:4.0m
架設:明治38年
県道29号線、県道655号線との合流点から、県道29号線を400m東進。
佐屋ノ元バス停より右折、200m先現橋の右下に架かっています。
奥に見えるのは現橋。自然石の壁石が見えます。
現橋の傍ら、一段低いところに架かっています。
(写真4は、上流の並石ダム)

写真   5〜  7    天念寺無明(むみょう)橋
豊後高田市長岩屋
橋長:3.0m  橋幅:1.2m  環厚:38cm
架設:大正初期?
県道29号線から県道543号線へ、2.8Km先左手にあります。

写真   8〜  9    真玉八幡社参道橋
豊後高田市西真玉
橋長:3.0m  橋幅:2.1m
単径間円弧桁橋
旧真玉町役場から国道213号線を300m南下、県道654号線へ。
900m先右折、460m先左折300m先にあります。

写真  10        真玉八幡社護国神社前橋
豊後高田市西真玉
橋長:4.4m  橋幅:1.1m  桁厚:15cm
2径間桁橋
鳥居には「護国神社」とあります。

ゆずりは両面板碑  豊後高田市梅木

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ゆずりは両面板碑  豊後高田市梅木

富貴寺先の県道655号の奥まで行き、山越えして県道29号まで下る。下る途中、梅木集落内の橋際に、「ゆずりは板碑」が立つ。
現地説明板は、次のとおり。

県指定有形文化財  ゆずりは両面板碑
時代−鎌倉末期
総高161cm、碑身143.5cm、巾72.5cm、角閃石安山岩。
両面板碑は当地方では珍しく、全面中央部にキリーク(弥陀)少し下がって両脇にカ(地蔵)イー(地蔵)が、背面には釈迦を主尊とする種子が夫々刻まれている。

冨 貴 寺  豊後高田市蕗

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冨 貴 寺  豊後高田市蕗

豊後高田市から桂川沿いの県道34号により東へ向かう。田染真中から県道655号へ左折して行くと、「富貴寺」がある。
富貴寺HPによる説明は、次のとおり。

国宝冨貴寺
四季折々に美しく表情を変えるみほとけの里、国東蓮華山冨貴寺(蕗寺)は、六郷満山のなかで、満山を統括した西叡山高山寺の末寺の一つ。天台宗に属しています。寺伝によると、養老二年(718)仁聞菩薩の開基といわれています。
昔この地に、高さ970丈もある榧(かや)の大木がありました。その影は数キロを越えにもおよんだそうです。竹田番匠が、この榧の木一本で大堂を造り、仏像を刻んだといいます。その余材で牛を刻み、それでもまだ余材があったので、刻んだ牛に乗せて熊野に運んだところ、途中で牛が動かなくなりました。その地に建てたお堂が、真木の大堂であると言い伝えられています。

国宝・大堂は西国唯一の阿弥陀堂であり、九州最古の和様建築物です。内陣中央には本尊阿弥陀如来坐像(重文)が安置され、堂内の壁画(重文)は日本の四大壁画の一つに数えられています。
境内には国東塔、石殿、板碑、笠塔婆、仁王像梵字石などが多数あります。
とどまらむ 時の流れにすぐられて 今に残れるだにも尊し    田吹 繁子

大堂への入り口である、山門の両端に地石ををつかった仁王様が入門する人々に睨みをきかしている
仏像 本尊は阿弥陀如来坐像で、高さ約85センチの榧(かや)材寄木造り。螺髪(らほつ)で、二重円光を背負っています。現在は素木のままですが、もとは華麗な漆箔像であったらしく、螺髪にそのあとが見られます。
伏し目がち、半開きのまなだし、ふくよかな相貌をしており、藤原時代末期の作と推定されています。本堂には阿弥陀三尊像が安置されており、阿弥陀如来坐像は高さ約88センチ観世音菩薩と勢至菩薩はともに立像で約108センチ。藤原時代末期の秀作で、現代は県指定有形文化財になっています。

笠塔婆 (柱上の塔身上に笠石、宝珠を置く)も五基あります。鎌倉時代の僧侶広増によって建立され、最も古いのは仁治二年(1241)のものです。(昭和40年県指定有形文化財)
国東塔は国東地方に特有の形式だということで、天沼博士が命名された由緒あるものです。大小二基のうち、大は無銘、小は慶長八年(1603)と墨書の銘があります。

元宮磨崖仏   豊後高田市真中

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元宮磨崖仏   豊後高田市真中

真木大堂から北へまっすぐ進む。真中で豊後高田市方面の県道34号と交差するが、そのまま県道655号に入り、富貴寺方面へ直進する。すぐ左側崖に「元宮磨崖仏」がある。

国指定文化財等データベースによる「熊野磨崖仏 附 元宮磨崖仏及び鍋山磨崖仏」の説明は、次のとおり。いずれもこの地方彫像における一環の関連性をもつものとして価値を有する。
「元宮磨崖仏」は、熊野磨崖仏に付帯し、鍋山磨崖仏とともに国指定史跡となっている。

名称: 熊野磨崖仏 附 元宮磨崖仏及び鍋山磨崖仏
ふりがな: くまのまがいぶつつけたりもとみやまがいぶつおよびなべやままがいぶつ
種別1: 史跡
指定年月日: 1955.02.15(昭和30.02.15)
追加年月日: 1996.03.28(平成8.03.28)
指定基準: 三.社寺の跡又は旧境内その他祭祀信仰に関する遺跡
所在都道府県: 大分県
所在地(市区町村): 豊後高田市大字平野・大字真中・大字上野
解説文:
字登尺と称せられる地域にあり、鋸山の山懐中に存する熊野権現社の境内にあたる岩壁に南面して造顕されている。東方に存する仏像は如来仏の像容を示すもので、上半身のみ露呈しているに過ぎないが、現長約6.80mを有し螺髪をいただき相■もまた雄偉森厳の趣を示し、頭上の後背光の上部に三種の梵字曼荼羅が刻されている。西方約12.5m離れて不動明王像あり現長約8.30mを有し、豪毅な彫風を示し、いずれも平安時代の製作とみなされる。 豊後地方は優秀な磨崖仏の多数分布していることによって顯著であるが殊に本仏像の如きは最も雄大なものであり、頭上の曼荼羅もまた他に類例を見ぬ特異なものであり、この種の磨崖仏としてその価値は高い。

鍋山磨崖仏は同市大字上野にあり、不動明王像及び二童子が刻され、元宮磨崖仏大字眞中にあり、天部像三体童子像一体が刻され、いずれもこの地方彫像における一環の関連性をもつものとして価値を有する。

真木大堂  豊後高田市田染真木

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真木大堂  豊後高田市田染真木

熊野磨崖物入口から豊後高田市への県道34号の方へ向かう。県道と合流する中間くらい、田染真木の車道沿いに「真木大堂」があった。
真木大堂公式HPによる説明は、次のとおり。大威徳明王像は、道路上の案内板掲載写真から。

真木大堂について
六郷満山65ヶ寺のうち本山(もとやま)本寺として36坊の霊場を有した最大の寺院であった真木大堂…。現在、真木大堂の名で知られる馬城山伝乗寺(まきさんでんじょうじ)跡は、大分県豊後高田市田染真木にあり、江戸時代の建物である本堂とは別に、昭和30年代に新造された収蔵庫内に阿弥陀如来座像をはじめ、大威徳明王像、不動明王像、二童子立像、四天王立像の計9躯の平安仏を伝えています。
奈良時代元正天皇の養老年間に仁聞菩薩の開基で悲陀の匠が建立したと伝えられていますが、仏像の作風からみて平安時代の建立で往時は広大な境内の中に七堂伽藍を備えて隆盛を誇った大寺院でありました。約700年前に火災のため焼失してしまったが、現存する9躯の仏像は当時の人々の厚い信仰と守護のもとに難を免れて今日に至っています。
現在の真木大堂は伝乗寺の各寺坊が衰退したので本尊をこの一堂に集めたものです。

大威徳明王像
国指定重要文化財 昭和25年8月29日
製作時期 平安時代後期
材 質 彩色・樟材寄木造(手足は榧材)
像 高 165.3cm
総 高 252.0cm
六面六臂六足で、火焔光背を負い水牛に騎乗し、六足の左第一足を曲げて牛の背に置く形姿が京都・東寺の五大尊の中の大威徳明王像の系統に属する。頭・体部の根幹部を樟の一材から刻み,後頭部と背面部より内刳りを施して各々蓋板を矧ぎ、頭頂の三面、六臂、六足を矧ぎ寄せるが、頭頂の三面と左第一足を樟材で寄せる以外、他の部分は榧材でつくる。水牛は樟材を使い、胴部を背中から左右二材矧ぎして内刳りし、頭部、両角、胸前部、臂部、両足などを寄せる。
全体を錆漆地に彩色するが、光背や台座と共に後補である。異形の姿勢ながら、おだやかな肉づけをもつ格調高い忿怒相や、のびやかに整った六臂の構成、まとまりの良い六足、簡潔で写実的な牛座などには、動勢をおさえた穏雅な彫技が認められる。九州に残る密教彫刻の大作として注目すべき存在である。

熊野磨崖仏  豊後高田市平野

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熊野磨崖仏  豊後高田市平野

両子寺から走水峠へ出、県道31号により大田へ下る。広域農道の鋸山トンネルを通って、熊野社へ行った。
現地説明板は、次のとおり。

熊野磨崖仏
1 所 在 地  豊後高田市大字平野字登尺 
1 国史跡指定  昭和30年2月15日  国重要文化財指定  昭和39年5月26日
1 解    説
大岩に刻まれた仏は向かって右が大日如来、左が不動明王で、熊野磨崖仏とよばれている。
大日如来は高さ6.8m、如来にふさわしい端正な顔形で、頭部上方には三面の種子曼荼羅が刻まれている。
不動明王は高さ8m、憤怒相でなく柔和な慈悲相であるのは他の石仏にみられない珍しい例である。
六郷山諸勤行等注進目録や華頂要略などにより磨崖仏は藤原時代末期(約900年前)の作と推定されている。
厚肉彫りの雄大、荘厳な磨崖仏であるため国指定史跡でありながら美術工芸品としての価値が高いものとして国の重要文化財指定を併せ受けたのである。
伝説では、磨崖仏は養老2年(718年)仁聞菩薩が造立したと伝えられ、近くの山中には「御所帯場」とよばれる作業時の宿泊所跡がある。また参道の自然石の乱積石段は鬼が一夜で築いたと伝えられている。
熊野磨崖仏管理委員会

熊野権現の森  豊後高田市平野

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熊野権現の森  豊後高田市平野

有名な熊野磨崖仏がある熊野権現の森。「熊野磨崖仏」は次の記事とする。両子寺から走水峠へ出、県道31号により大田へ下る。広域農道の鋸山トンネルを通って、熊野社へ行った。
大分県HP「豊の国の名樹」による説明は、次のとおり。

特別保護樹林    1.熊野権現の森
所在地 : 豊後高田市大字平野
所有者 : 熊野社
来 歴
豊後高田市大字平野字熊野(今熊野)に鎮座する熊野社の社叢。県指定特別保護樹林。指定面積60a。
熊野社は、紀州熊野三山の分霊を祀ったもので、祭神は速玉男命外一二柱。熊野信仰が全国的にひろまったのは十二世紀ごろからで、各地に熊野権現が祀られ、その地を今熊野、新熊野、熊野山といっている。胎蔵寺から300mぐらい登った参道に建っている第一鳥居に、亨保元年(1723)、建立の銘がある。鳥居から150mは野面石の乱積み石段となっている。鬼が一晩で築設したとの伝説もあるが、石段完成を記念して奉献したものではなかろうか。

石積参道の両側にスギ並木がある。第一鳥居周辺に七本、登り詰めた第二鳥居周辺に六本の巨木が並んでいる。目通り周囲最大のものは345cm、第二鳥居を潜った社庭の片隅に成立している。参道改修を記念して紀州熊野あたりから移し植えられたものではなかろうか。修験行者によって寄進されたスギ巨樹は、天台・真言・法華に因む全国各地の社寺境内に多くみられる。

スギの品種はホンスギ系のものが多いが、同じくホンスギ系のヒコサンスギとはタイプが異なる。英彦山経由でなく、熊野山直移入をうかがわせる。スギのほかは、ウラジロガシ(275cm)、カゴノキ(220cm)、ムクノキ(195cm)、カヤノキ(195cm)、ケヤキ(160cm)、ヤブツバキ(110cm)などの巨木群が成立している。(括弧内は目通り周囲最大のもの)
高木の総本数は200本ぐらい。サンゴジュ10数本とイスセンリョウの群落があるのは珍しい。野鳥の運んだものであろうか。

両 子 寺  国東市安岐町両子

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両 子 寺  国東市安岐町両子

両子寺(ふたごじ)は、国道213号国東町からの県道29号などにより行く。文殊仙寺の駐車場先の車道から両子寺へ回れるが、犬鼻峠先が盛土崩壊の通行止めのため、遠回りをした。
両子寺に着いたのは、1泊して翌日の早朝。開門前だったので、寺の写真は、下の駐車場から。両子寺HPによる説明は、次のとおり。

天台宗別格本山 六郷満山総持院  両 子 寺
◆瀬戸内海国立公園 ◆森林浴の森 日本百選指定

≪国東六郷満山の概略…国東天台寺院の総称≫
国東半島のほぼ中央に聳える両子山(721m)から放射状にくにさきの谷々は海岸へと広がり、約28谷を六つの里に分け、六郷と称し、この地に開かれた天台宗寺院全体を総称しして六郷満山と呼び、奈良、平安・鎌倉の昔より、宇佐八幡〈全国八幡の総本社〉の庇護と影響の下に神仏習合の独特の寺院集団と信仰が形成され、往時には半島一帯に185の寺院、洞窟、僧坊、を含めて約八百の大小の堂、また、石仏・石塔が、点在し、ほとけの里といわれる六郷満山仏教文化圏が開かれてきました。
爾来約1300年間の星霜、寺院の栄枯盛衰があれども、人々の素朴な信仰は連綿として今日まで継承され、仏像・野の石仏、石造物、諸民俗的伝承行事、そして恵まれた自然の環境の中にいにしえの素朴な息吹を感じることができます。そしてほとんどの寺院の開基は仁聞(にんもん)菩薩、AD718年開創以来やがて1300年の節目を迎えんとしています。

≪両子寺の御案内≫
両子山の中腹に両子寺があります。六郷満山の中では中山本寺、すなわち山岳修行の根本道場に当たり、特に江戸期より六郷満山の総持院として全山を統括してきました。しかしながら時代の趨勢、明治初頭の神仏分離、第二次世界大戦等の法難、自然災害・人為災難等の遭遇により次第に堂宇は往時の姿を薄れてかけて来ましたが、歴代住職の懸命な精進と檀信徒の護持によりわずかながらも、面目を保ちつつ今日に至っています。
境内は瀬戸内海の国立公園、大分県史跡に編入され、全国森林浴の森百選の指定地として自然に恵まれ、四季を通じ殊に、新緑、紅葉のもみじには遠近を問わず、大勢の参拝客で賑わいます。信仰として、特に子授けの祈願所、安産・厄除け・交通・家内安全・航海安全等各種祈願や幼没水子・先祖供養等の供養が一般、檀信徒を問わず広く門戸を開放し厳修されています。どうぞ、お参拝下さいませ。

文殊仙寺の大ケヤキ  国東市国東町大恩寺

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文殊仙寺の大ケヤキ  国東市国東町大恩寺

文殊仙寺は、国道213号の国東町富来浦から県道652号などにより行く。私は赤根から水谷峠を越して、岩戸寺手前の大きな堤から右折して行った。
大ケヤキは、参道中段の山門から右奥へ入る。「鐘楼門」があり、この下手の岩場に根を垂らしている見事な古木である。本堂近くご神木に指定されているスギは、最後の写真と思われる。
大分県HP「豊の国の名樹」による説明は、次のとおり。

特別保護樹木    6.文殊仙寺の大ケヤキ
樹種名 : ケヤキ
樹  齢  : 1,000年
樹  高  : 30m
幹  周  : 5.6m
所在地 : 国東町大字大恩寺2432
所有者 : 文殊仙寺
来  歴
国東町大字大恩寺、文殊仙寺の境内、鐘楼門の北下手に聳える巨樹。県指定特別保護樹木。社叢は、県指定天然記念物の「文殊仙寺の自然林」で、高木層はウラジロガシである。当時は、六郷満山28本寺の一つで、大化四年(648)、あるいは天武天皇七年(677)に、役小角が開いたともいう。本堂は天文七年(1538)、山門は延宝八年(1680)の建立である。
参道両側に、スギ並木が植栽されている。本堂敷地内、ご神木に指定されているスギは、推定樹齢400年、目通り周囲400cm、樹高35m、本堂並びに山門建立の前後に植栽したもののようである。英彦山権現の配寺として興味深い。
また、梵鐘は、応永四年(1397)、善栄の作。境内の十王像には、永和四年(1378)の銘がある。
大ケヤキは、林冠上層構成木ウラジロガシに比べ、樹型いちじるしく奇形を呈し、国東溶岩(新第三期安山岩)に吃立して、風化土層皆無の状態にもかかわらず、いまなお、樹勢旺盛である。(平成11年度に緑の募金事業により治療)ウラジロガシ群叢が極盛相にたっする前、すでに前生樹として成立していたもので、開山後まもなく自生したものであろう。