九州(大 分 県)」カテゴリーアーカイブ

柞原八幡宮のホルトノキ  大分市八幡 ( 大分県 )

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柞原八幡宮のホルトノキ  大分市八幡

HP「樹々山坊」九州の巨木 大分県リストによる説明は、次のとおり。JR西大分駅近くから県道696号へ入る。柞原バス停が柞原八幡宮の参道口で、坂段を少し登った広場にこのホルトノキはある。南大門のまだ手前。
柞原八幡宮の森は、特別保護樹林地域である。前記事の大クス、このホルトノキのほか、後ろの写真は、境内の森で見たスギなどの大木。

柞原八幡宮のホルトノキ

県指定特別保護樹木・市指定名木
所在地 :大分県大分市大字八幡

この柞原八幡宮の森は大分地方有史以前の自然の姿を良くとどめ、多様な動物も現存する学術的 にも貴重な森だといわれている。そんな森とは別に柞原神社境内にも多数の大スギやクスが鬱蒼と 茂り、歴史の長い神社であることを物語っている。表参道の石段を上っていくと「南大門」の少し 手前の右側に目立って立派な樹が聳えている。「柞原八幡宮のホルトノキ」は樹齢450年、樹高 25m、目通り幹周4.8mと記される県指定特別保護樹木である。主幹は6m辺りから三本に分 岐して、そこから多数の枝を出して大きな樹冠を広げている。 現地の解説板にはホルトノキを南蛮貿易ゆかりの渡来種としてポルトガル人が植えたと記されてい るが、たとえそのようにして植えられたものであっても、ホルトノキは日本の中部以南に自生して いる木で、和名でいうモガシである。決してポルトガルの木ではない。

柞原八幡宮のクス  大分市八幡 ( 大分県 )

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柞原八幡宮のクス  大分市八幡

HP「樹々山坊」九州の巨木 大分県リストによる説明は、次のとおり。JR西大分駅近くから県道696号へ入る。柞原バス停が柞原八幡宮の参道口で、坂段を少し登った南大門左にこの大クスが立つ。

柞原八幡宮のクス

国指定天然記念物
所在地 :大分県大分市八幡

大分自動車道・大分ICを下りると、裏道ではあるが5kmほどで柞原(ゆすはら)八幡宮に通じる道 がある。「柞原八幡宮」は836年に八幡宮総本社・宇佐神宮より勧請創建された古社で、豊後国の 一の宮と称する由緒ある神社だ。参道の長い階段を上っていくと、道半ばに通称「日暮し門」と呼ば れる素晴らしい建造物「南大門」があり、その左手に「柞原八幡宮のクス」が辺りを威圧するかのよ うに聳え立っている。
苔や蔦を着生させた岩壁のような巨大な幹が7〜8mほど立ち上がり、そこか ら分岐したような形の幹が垂直に伸び上がっている。主幹であったと思われる反対側の幹は切断した ような形になって失っているが、その部分から芽吹き育ったと思われる小型の幹がもう一本立ち上が っていて、この樹を特徴づけるような姿を作りあげている。根元には空洞が開いているが、樹齢から 見ればそれ程に枯損は進んでいないようだ。樹齢3000年、樹高30.0m、幹周18.5mと記 される国指定天然記念物で、巨木10傑に名を連ねるほどの超巨木である。

柞原八幡宮  大分市大字八幡 ( 大分県 )

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柞原八幡宮  大分市大字八幡

ウィキペディアフリー百科事典による説明は、次のとおり。JR西大分駅先から県道696号へ入る。柞原バス停から柞原八幡宮の参道を上がるか、上の駐車場まで行く。
柞原八幡宮の裏参道石畳は、本ブログ次を参照。 https://misakimichi.com/archives/4956

柞原八幡宮

柞原八幡宮(ゆすはらはちまんぐう)は、大分県大分市にある神社。豊後国一宮。旧社格は国幣小社で、現在は神社本庁の別表神社。
「いすはら」・「ゆすばる」とも読み、由原八幡宮とも表記する。

歴史
鎌倉時代に書かれた社伝には、創建の由来が以下のように記されている。
天長4年(827年)、延暦寺の僧・金亀(こんき)が宇佐八幡に千日間籠り、「天長7年3月3日に八幡神が豊前国に垂迹する」との神託を得た。天長7年7月7日、大分郡賀来郷に白幡が飛び渡った。金亀はこのことを朝廷に奉上し、承和3年(836年)、仁明天皇の命により豊後国司・大江宇久が社殿を造営した。
上記の内容の全てが史実であるかどうかはわからないが、当社が宇佐八幡の豊後国における分祀であるのは間違いなく、宇佐八幡の別宮の一つとして崇敬を受けた。長徳4年(998年)からは宇佐八幡と同様に33年ごとの社殿の造営(式年遷宮)が行われるようになった。…

境内・社殿
大分市街地西方の二葉山(八幡柞原山とも)山麓に鎮座する。境内入口の長い階段を上ると南大門が南東向きに建つ。この門を過ぎると、道は正面方向と右斜め方向の二手に分かれる。正面の道は西門(参拝入口)へ向かう参道、右斜め方向の道は勅使道と呼ばれ、石段を経て神域南正面の楼門へ至る。本殿は八幡造と呼ばれる特異な建築形式になる。本殿手前には申殿、その手前に接して拝殿が建ち、拝殿手前に前述の楼門がある。このほか、楼門左右に東西回廊、本殿左右に東西宝殿、本殿西方に宝蔵と八王子社、申殿西方に前述の西門が建つ。本殿、申殿、拝殿、楼門、東西宝殿、東西回廊、西門、南大門の10棟は2011年、国の重要文化財に指定された(他に宝蔵と八王子社が重要文化財の「附」(つけたり)指定となっている)[2][3]。以上の社殿はいずれも寛延2年(1749年)焼失後に順次再建されたものである。[4]…

初瀬井路  関係市町村 由布市・大分市 ( 大分県 )

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初瀬井路  関係市町村 由布市・大分市

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。資料は、水土里ネット初瀬井路から。
私の撮影写真は、由布市については(写真2〜10)、上流部取入口(由布市狭間町櫟木阿南橋下の櫟木ダム)から、JR鬼ヶ瀬駅付近までの初瀬井路の主な現況。
大分市については(写真11〜16)、水土里ネット「初瀬疎水」の撮影場所が、初瀬井路土地改良区へ照会のところ、大分市賀来北の県道601号沿い丑殿古墳あたり上片西地区の水路と判明したため、同地区を訪ね撮影した。

初瀬井路 はつせ
大分市・由布市 大分川・東院川 用水路 総延長36.4㎞ 天正11(1583)、慶安3(1650) 、 元禄7(1694) WEB C改修 賀来・荏隈・笠和の農民のため、天正11、大友義統が東院川(賀来)〜笠和郷間12㎞余の井手(国井手)を開削。しかし、東院川は大分川の支流で水量が少なかったため、慶安3、府内藩主・日根野吉明(無継嗣断絶)が櫟木(由布市庄内町)で大分川左岸から取水し、国井手に結ぶ15㎞半の初瀬川を開削。元禄7、府内藩(大給松平家)2代藩主・松平近陳が向原(由布市挾間町)で大分川左岸から取水し国井手に結ぶ7㎞の新井路を追加開削。明治期になり3本まとめて初瀬井路と呼ばれるようになった 4 A

初瀬井路 はつせ
大分市 大分川 用水路 総延長36.4㎞ 天正年間(1573-92) WEB C改修 天正年間の荏隈郷井手、慶安3(1650)の阿南荘新井手、元禄7(1694)の向原新井手の3つの用水路の集合体 4 A

芹川ダム  大分市今市・竹田市直入町 ( 大分県 )

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芹川ダム  大分市今市・竹田市直入町

大分県HPによる説明は、次のとおり。国道210号由布市庄内町大龍交差点から県道30号に入り、剣龍山トンネルと芹川トンネルを通って行くと、芹川ダム公園への案内標識がある。

芹川ダム(一級河川大分川水系芹川)

芹川ダムは、大分県政史上2番目の河川総合開発事業の一環として、大分川水系に多目的ダムを築造して、戦後における国土復興計画に伴う電力事業の緩和、洪水被害の軽減および、農業用水確保による食糧増産を目的として、昭和28年に着工し、昭和31年3月に完成しました。
このダムの完成により、洪水時には、ダム地点の洪水量のうち半分はダムに貯留し、残りの半分を下流に放流することにより、毎年数回受けていた下流の洪水被害を軽減する大きな役割をはたします。
また、芹川ダム左岸に設けられた取水口から取水し、圧力隧道を通じて、由布市庄内町の芹川第一発電所に導き、最大出力11,000キロワットのピーク発電に供して芹川に放流します。
さらに、芹川第一発電所の直下流に、重力式逆調整池ダムを築造してその左岸から取水し、圧力隧道を通して、庄内町竜原地点の芹川第二発電所に導き、最大出力10,400キロワットのピーク発電に供して芹川に放流し、水の有効利用を図っています。

•ダム概要
右岸 : 大分市今市
左岸 : 竹田市直入町
型式 : 重力式コンクリートダム
堤高 : 52.2m
堤頂長 : 193.0m
総貯水容量 : 27,500千m3
有効貯水容量 : 22,300千m3
洪水調節 : 1,100 → 550 m3/s
竣工 : 昭和31年

提子井手(野津原三渠)  関係市町村 由布市・大分市 ( 大分県 )

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提子井手(野津原三渠)  関係市町村 由布市・大分市

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。資料は、大分県農林水産部農村整備計画課発行パンフレット「生涯を井路開発に捧げた郷土の大恩人 工藤三助」提子(ひさご)井路から。
私の撮影写真は、下・中流部から上流部取入口(由布市庄内町五ケ瀬 芹川第一発電所下流)までの主な現況。井路の詳しい説明は省く。
当時の取入口は、河原写真に九電送水管が渡っている地点に堰があった。その先は素掘りトンネルで、現在も九電送水管がこの中を通っている。この区間に一部、廃止された水路があり、石張りが残っている可能性があるが、荒れた山林内で踏査不能。トンネルを出たコンクリート塔は、発電用と農水路の水圧を調整するためらしい。
初めの写真には、由布市狭間町谷小学校内の「工藤三助顕徳碑」や、同町小野の提子公園内「提子井路之碑」を含む。

提子井手 ひさご
由布市・大分市 野津原三渠 用水 宝暦6(1756) WEB 石張りが残る 設計・施工: 肥後藩領谷村手永の惣庄屋・工藤三助、享保の大飢饉で中断し三助死亡後は、孫で三助の養子となった弁助が遺志を継ぎ、佐藤清兵衛・武四郎の協力を得て完成/それまで荒無地だった山間部に用水を引いて水田化した 2

鑰小野井路(野津原三渠)  関係市町村 竹田市・大分市 ( 大分県 )

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鑰小野井路(野津原三渠)  関係市町村 竹田市・大分市

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。資料は、大分県農林水産部農村整備計画課発行パンフレット「生涯を井路開発に捧げた郷土の大恩人 工藤三助」鑰小野(かぎおの)井路から。
私の撮影写真は、竹田市については(写真3〜16)、下・中流部から上流部取入口(竹田市直入町長湯 芹川)までの主な現況。
大分市については(写真17〜23)、県道442号大分市湛水の「野津原三渠碑」上、消防団格納庫横から山手へ上がったところを流れる井路である。

鑰小野井路 かぎおの
竹田市・大分市 野津原三渠 用水 長約13.7㎞ 宝永4(1707) WEB C改修 肥後藩領・谷村手永の惣庄屋・工藤三助が41歳の時に発見した水源(朽網川)をもとに、43歳の時に普請奉行となり着工(惣庄屋を嫡男に譲った)、宝永4(1707)47歳で完成た用水/標高が高く畑地の多い野津原手永を水田化した 4 B

鑰小野井路 かぎおの
大分市・竹田市 野津原三渠 用水 長約13.7㎞ 宝永4(1707) WEB C改修 肥後藩領・谷村手永の惣庄屋・工藤三助が41歳の時に発見した水源(朽網川)をもとに、43歳の時に普請奉行となり着工(惣庄屋を嫡男に譲った)、宝永4(1707)47歳で完成た用水/標高が高く畑地の多い野津原手永を水田化した 4 B

大龍井路(大竜井路・野津原三渠)  関係市町村 由布市 ( 大分県 )

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大龍井路(大竜井路・野津原三渠)  関係市町村 由布市

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。資料は、大分県農林水産部農村整備計画課発行パンフレット「生涯を井路開発に捧げた郷土の大恩人 工藤三助」大竜井路から。
私の撮影写真は、下・中流部から上流部取入口(由布市庄内町野畑 阿蘇野川)までの主な現況。井路の詳しい説明は省く。取入口に刻まれているという元禄十一年の文字岩(写真提供:大竜井路土地改良区)は草が茂り、どこかわからなかった。

大龍井路(大竜井路) おおたつ
由布市 野津原三渠 用水 長約6.7㎞ 元禄12(1699) WEB C改修 肥後藩領・谷村手永の惣庄屋・工藤三助が26歳の時に発見した水源(熊群山麓)をもとに、38歳の時に普請奉行となり着工、翌元禄12に完成した用水/山がちな谷村手永を水田化した 4 C

野津原三渠碑  大分市湛水 ( 大分県 )

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野津原三渠碑  大分市湛水

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。大分市野津原支所前から国道
442号を今市方面へ行く。途中から県道412号に入り、県道690号の合流点へ出る。ここが湛山地区で公民館横から続く豊後街道の坂道(ここが湛水の石畳)を上がると、民家前に「野津原三渠碑」(工藤三助碑)がある。

野津原三渠碑 のつはるさんきょ
大分市 野津原三渠 石碑(自然石) 嘉永6(1853) 市教委/WEB 移設 (正面)「野津原在萬山中 地勢高而水乏 陸田瘠薄民食艱阻 邑人工藤三/助与小野治兵衛 相繼爲総莊屋 居常思所 以利民者 入山中索/渓流 可引以漑者 凡十餘年 如得條理測度其遠近高低 規畫略/成 乃牒請干官 日郷之西北有熊群川 水多地高 設堰於瀧端而/東注 経境谷灌諸大龍三村 則其田皆可漑也 西有朽網川 水贏/渓狭 設堰於鑰小野 而東北注 経今市湛水及今畑 而行諸片野/猪鹿路兩嶺則阿鉢鬼崎辻原十八村 可得水種也 朽網川下流 並/諸渓出於大龍今畑之間 谷嶮流駛 巨石堰堤灘 而東北注経臺山/小野臺 引諸片野猪鹿路 以助鑰小野之水 則旱熯可無憂也 官/允其請 於是起役於大龍 鏧渠一里二十五町 得新田九十六町/故田得水種二十九町 鑰小野鏧渠五里二十四町 得新田百四十九/町 故田得水種百八十九町 提子渠未成 三助没後十四年 三助/子辨助与佐藤清兵衛佐藤武四郎 繼成其志 通渠一里二十二町/而鑰小野原算之田 得灌漑不乏至 近時総莊屋吉村富作 又与工/藤莊七三助曽孫廉助佐藤清兵衛佐藤文平等 修治鑰小野提子 水/勢加倍 故田益得肥饒 得新田又五十町 三渠之功於是乎完矣/総計渠所経 本流九里十二町 支流三十七里十六町 皆盤旋山谷/陂陀之間 而直低曲直 算測精審 至蓄洩疏淪之法 並極智数/所至成田岡背陵背 嘉禾雲被 沿渠之民舎哺鼓腹 享其利者至今/百餘年矣 初上議事出於常慮所不及 上下皆危 三助与次兵衛/以身自任 期於必成 既而有巨巌当渠 堅緻不受鏧槌 三助智/術窮欲自殺数 適得火攻法 巌砕而渠通 衆以爲至誠所致焉 三/渠之役 起於元禄戊寅 而略成乎安永乙未 次兵衛台役之未畢/擢爲郡奉行 故三助専任其事 功績最盛 其子孫与清兵衛武四郎/子孫 世掌渠事 今茲郡代岩崎元朗河喜多能通 將立石於鑰小野/渠上 以記其功 請餘製文 昔□蜀水鏧離確利其民 鄭国通/溝渠秦国富 史詳載其事伝於天下 後世則三助次兵衛之有功徳於/民安得没而不顯矣哉 因案其状記概略如是/嘉永六年葵丑夏四月 萩昌圀撰 木原盾巨寫」/野津原農業の恩人工藤三助の功績を称えて建立された碑 2 B肥後街道|野津原|

HP「肥後街道」野津原による説明は、次のとおり。

◎湛水の石畳
県道412号と690号の合流点から北西に約100m。野津原三渠碑のそばで、現在は舗装されてはいるが、その下には石畳が残っている。

◎野津原三渠碑(工藤三助碑)
野津原農業の恩人工藤三助の功績を称えて建立された碑。
工藤三助は寛文元年(1661)、肥後藩谷村手永惣庄屋谷村理衛門の孫として生まれ、元禄11年(1698)から享保9年(1724)にかけて大龍井路(おおたついろ)、かぎ(金偏に侖)小野井路(かぎおのいろ)、堤子井路(ひさごいろ)の3井路を掘削し、それまで荒蕪地だった山間部に水田を切り開き、今でも豊かな実りをもたらしています。地元の人々は、親しみと感謝を込めて「三助さん」と呼んでいます。
この三渠碑は当初別の場所にあり、勝海舟も見たと言われます。

矢貫の石橋  大分市(旧野津原町)竹矢 ( 大分県 )

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矢貫の石橋  大分市(旧野津原町)竹矢

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。大分市野津原支所前から国道
442号を今市方面へ行く。坂を登り切った野津原中学校前交差点を右折、次の竹の内交差点も右折する。次の矢貫バス停角に豊後街道「矢貫石橋」の案内板があり、右側の街道の道へ入ると、すぐ矢貫川に架かる。この道は「井塚の石畳」に続く。

矢貫の石橋(橋本橋) やぬき
大分市 <肥後街道>/矢貫川 石桁橋 長3.0m,S2.9m(G) 江戸期 WEB(石橋)/WEB/市教委 保存状態良好 4本の石梁で橋幅2.9m 1 C

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」大分県の石橋によるデータは、次のとおり。

№1,277 橋本橋(矢貫の石橋)
大分市(旧野津原町)大字竹矢 矢貫
矢貫川
橋長:3.0m  橋幅:2.9m  径間:2.9m
架設:江戸期
単径間桁橋
法泉寺橋を渡り、150m先交差点を右折、300m先右手「矢貫の石橋」の小さな看板から右折したところに架かっています。