長崎の風景・史跡 (市中央)」カテゴリーアーカイブ

八坂神社  長崎市鍛冶屋町

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

イメージ 14

イメージ 15

イメージ 16

イメージ 17

イメージ 18

イメージ 19

イメージ 20

イメージ 21

イメージ 22

八坂神社  長崎市鍛冶屋町

「八坂神社」は、長崎市民には”ぎおんさん”で親しまれている。7月23日から28日まで祇園祭が開催され、ほうずき市などでにぎわう。
長崎くんちでは、10月8日、1回だけの踊り披露場となり、奉納がある。
御利益は厄入、厄祓、賀寿清祓の他に、初宮詣、安産祈願等人生の儀礼に関するものが多い。参詣につき添い、あまりこの神社の紹介がないので、珍しいものを写してきた。
長崎webマガジン「ナガジン」の、発見!長崎の歩き方「寺町界隈ぶらり散歩道」による八坂神社の創建は次のとおり。

●創 建
元和六年(1620)佐賀の高覚院盛宥が今籠町に天王社を創建。寛永十五年(1638)現在地に遷宮される。明和三年(1766)市内に大火が起こりほとんど失われてしまったが、明和八年(1771)町々や人々の寄付により再建。現在の境内地はほとんどその頃のもので、石垣や玉垣に町界町名変更で無くなった町の名が多く残されている。

光源寺と産女の幽霊  長崎市伊良林1丁目

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

光源寺と産女の幽霊  長崎市伊良林1丁目

寺町通りの禅林寺角から若宮通りへ向かう。緩やかな坂道となって折れ曲がり、光源寺の山門前へ着く。ここが「産女(うぶめ)の幽霊」とか、「飴屋の幽霊」または「飴買い幽霊」で有名な「幽霊坂」である。
光源寺の墓へ埋葬されたばかりの身ごもった女が赤子を生んだ。乳代わりに、夜な夜な女が、麹屋町の飴屋へ飴を買いに行った。不思議に思った飴屋が後をつけると、赤子の泣き声が聞こえ、墓へ中へと消えた。住職が急いで墓を掘り起こすと、女の亡骸に抱かれた赤ん坊が出てきた。実は死人の母親の幽霊だったのだ。
全国に似たような話はある。ガンダーラ石仏にも「死女が子を産む説話」の石像があるそうだ。

光源寺では、毎年1回8月16日に、幽霊像の木像1体と掛軸数幅が公開される。光源寺の話の幽霊像ではない。
木像は、納めてある桐箱に墨書で「延享五歳…」とあり、延享5年(1748)に作られた。作者は不明。由緒書には、常陸国(茨城県)無量寿寺の幽霊であったことが書かれてあり、同寺の伝説を元につくられた幽霊像と見られている。幽霊像を持って、各地を布教していた人が、最後に譲り渡したのが長崎の光源寺らしい。
掛軸は幽霊像を模写したもの。最近は、「古い家を解体したら幽霊の掛軸がでてきた!」といって、光源寺に持ち込まれることもあるそうだ。
幽霊像の木像と掛軸の写真は、「@nifty:デイリーポータル:幽霊を保管している寺(コネタ810)」が詳しいから参照。幽霊像を紹介しないわけにはいかないので、開帳のときの幻想的な写真を、同HPより借用しておきたい。ほんとうはもっと怖いゾゥ!

光源寺の本堂裏の墓地、赤子が掘り出されたといわれる一角に「赤子塚」と、最近建てられた「赤子塚民話の碑」がある。碑文は次のとおり。
南無阿弥陀仏
「十億に十億の母あれど わが母に まさる母あらめやも」 暁烏 敏(はや)
長崎では「飴屋の幽霊」とも「産女の幽霊」とも言われる赤子塚の民話は、全国各地に語り伝えられています。すべて子を思う母の心の美しさ、情の世界を大切に、との思いであります。
ここ光源寺にも江戸時代に作られた名工・藤原清永の作と伝わる、日本でただ一つの幽霊像が現存し、お盆の十六日にご開帳されます。また、長崎独自の民話が生まれています。母なる心を失った今日、このお話を大切に子や孫に継承されることを念じて、この碑を建立いたします。
合掌 平成十四年(二〇〇二年)八月十六日  光源寺第十六世 釋  達也

HP長崎雑記帳「光源寺の産女幽霊のこと」による続き話は、次のとおり。
…この新仏は藤原清永が葬った女であった。清永が上方で修行中に恋仲になった女だが、清永は長崎に呼び戻され親の決めた女と結婚してしまった。それとは知らぬ恋人は清永の子を身篭った身体で長崎まで旅をし、あげくは悲しみで亡くなったのだという。女は死んでから子を生んだ。その子は清永に引き取られ無事成人したという。
後日談がある。赤子が父親に引き取られてから数日後、再び女が飴屋にあらわれ、お礼に願いをかなえるという。このあたりは水に不自由して困っていると話したところ、明日、私の櫛が落ちているところを掘ってごらんといって消えた。半信半疑でそこを掘ると水が湧き出しその後涸れる事のない井戸となったそうだ。幽霊井戸とよばれていたが、今はもう井戸は埋められている。…

「幽霊井戸」の跡は、麹屋町郵便局近く泉屋第2ビルの横にある。中島川の一覧橋から寺町通りへまっすぐ向かう。中通り角にゴルフ用品店の泉屋があり、店の横にあるこのコンクリート片が、井戸にポンプを据え付けていたときの名残りの石だそうだ。盛り塩が供えられ、年1回、光源寺の幽霊開帳前に祀りをされる。

光源寺は、江戸時代初め、柳川藩瀬高下庄にある光源寺の住職、松吟(立花藩十時氏の一族)がキリシタン全盛期に長崎入りし、真宗の布教をした。寛永14年(1637)柳川の光源寺を弟子に譲り、奉行所から土地を与えられ長崎の銀屋町(銀屋町自治会館前)に同名の光源寺を開いた。延宝4年(1676)付近の火災により類焼。伊良林(現地)へ移転、現在に至る。
民話「産女の幽霊」は、飴を買いに行った話。光源寺の開帳のときは、幽霊に飴をお供えする。幽霊像にお参りすると、子を思う母の一念で安産し、飴をいただくと母乳がよく出ると伝えられている。現在、飴は柳川大松下の「アメガタ」を取り寄せ、参拝者へ配られているのは、寺の沿革があるのだろう。

後ろの写真は、本堂裏手にある広大な墓地。「竹ん芸」で有名な若宮稲荷神社一の鳥居との間にある「松田源五郎氏の墓」。天保11年〜明治34年(1840〜1901)行年61才。
明治3年(1870)我国最初の商事会社を創立。明治9年(1876)国立十八銀行ができると頭取となる。また市・県・衆議院議員となり、明治期の長崎経済界の発展に尽くした。
同墓の前の石造橋を確認に行き、かえって幽霊の話となった。(引用資料名は一部省略)
きようは雛祭り。うさぎの人形の写真も。

興 福 寺 (2)  長崎市寺町

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

興 福 寺 (2)  長崎市寺町

興福寺は、長崎市寺町通りの北の方にある。日本最古の黄檗宗の寺院。山号は東明山。 寛永元年(1624)、中国僧の真円により創建された。
崇福寺・福済寺とともに長崎三福寺の1つに数えられる。黄檗宗の開祖隠元禅師ゆかりの寺院。本堂の大雄宝殿は国指定重要文化財である。
同寺パンフレットによる説明は次のとおり。拝観料300円。

国指定重要文化財  東明山 興 福 寺

興福寺は、国内最初の黄檗禅宗(おうばくぜんしゅう)の唐寺でその由来は古く、中国・明の商人が長崎と行き来を始めた頃に渡来した中国人が、1620年ごろ航海安全を祈願してこの地に小庵を造ったことに始まります。
この時代は、幕府のキリスト教禁令が厳しく、長崎在住の中国人にもキリシタンの疑いがかかったため、仏教徒であることを証明するためにも、崇福寺、福済寺、聖福寺など、つぎつぎと唐寺を建てられたといわれています。
日本最古の石橋の眼鏡橋を架設した第二代黙子如定、南画の祖と称される第三代の逸然、さらには明の高僧隠元隆琦禅師が住職として興福寺に滞在されたころには、大きな堂宇が建ち並び、全国から僧や善男善女が参集して禅の一大センターとなりました。

大雄宝殿(本堂)  国重要文化財
寛永9年(1632)第二代黙子如定禅師が建立。元禄2年再建、さらに明治16年再建し現在に至る。中国工匠による純粋の中国建築で、氷裂式組子の丸窓、アーチ型の黄檗天井など珍しい。

瑠璃燈(本堂内)市有形文化財・媽祖堂(まそ・ぼさどう)県有形文化財・鐘鼓堂 県有形文化財・三江会所門(さんこうかいしょもん)県有形文化財・山門 県有形文化財・旧唐人屋敷門(長崎市所有)国重要文化財・中島聖堂遺構大学門(長崎市所有)県重要文化財・魚板(けつ魚)

興 福 寺 (1)  長崎市寺町

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

イメージ 14

イメージ 15

興 福 寺 (1)  長崎市寺町

興福寺は、長崎市寺町通りの北の方にある。日本最古の黄檗宗の寺院。山号は東明山。 寛永元年(1624)、中国僧の真円により創建された。
崇福寺・福済寺とともに長崎三福寺の1つに数えられる。黄檗宗の開祖隠元禅師ゆかりの寺院。本堂の大雄宝殿は国指定重要文化財である。
同寺パンフレットによる説明は次のとおり。拝観料300円。

国指定重要文化財  東明山 興 福 寺

興福寺は、国内最初の黄檗禅宗(おうばくぜんしゅう)の唐寺でその由来は古く、中国・明の商人が長崎と行き来を始めた頃に渡来した中国人が、1620年ごろ航海安全を祈願してこの地に小庵を造ったことに始まります。
この時代は、幕府のキリスト教禁令が厳しく、長崎在住の中国人にもキリシタンの疑いがかかったため、仏教徒であることを証明するためにも、崇福寺、福済寺、聖福寺など、つぎつぎと唐寺を建てられたといわれています。
日本最古の石橋の眼鏡橋を架設した第二代黙子如定、南画の祖と称される第三代の逸然、さらには明の高僧隠元隆琦禅師が住職として興福寺に滞在されたころには、大きな堂宇が建ち並び、全国から僧や善男善女が参集して禅の一大センターとなりました。

大雄宝殿(本堂)  国重要文化財
寛永9年(1632)第二代黙子如定禅師が建立。元禄2年再建、さらに明治16年再建し現在に至る。中国工匠による純粋の中国建築で、氷裂式組子の丸窓、アーチ型の黄檗天井など珍しい。

瑠璃燈(本堂内)市有形文化財・媽祖堂(まそ・ぼさどう)県有形文化財・鐘鼓堂 県有形文化財・三江会所門(さんこうかいしょもん)県有形文化財・山門 県有形文化財・旧唐人屋敷門(長崎市所有)国重要文化財・中島聖堂遺構大学門(長崎市所有)県重要文化財・魚板(けつ魚)

サント・ドミンゴ教会跡資料館  長崎市勝山町

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

イメージ 14

イメージ 15

イメージ 16

イメージ 17

イメージ 18

サント・ドミンゴ教会跡資料館  長崎市勝山町

長崎代官であった末次平蔵の屋敷跡は、現在、長崎市立桜町小学校が建っている。末次平蔵が屋敷を構える以前は、サント・ドミンゴ教会が建っていたが、慶長19年(1614)の禁教令によって破壊された。
桜町小学校は、平成13年に新興善小学校と勝山小学校が合併し、勝山小学校の敷地に新築された。建替えに伴い、敷地内の発掘調査が行われ、遺構は桜町小学校の敷地内に「サント・ドミンゴ教会跡資料館」として保存され、一般に無料公開されている。

この教会は、長崎代官の村山等安がドミニコ会に寄進した土地に、薩摩を追われたモラーレス神父が、京泊(現在の鹿児島県薩摩川内市)にあった教会を解体して、木材を船で運んで建てたものである。完成してからわずか5年後には、徳川幕府の禁教令により破壊されてしまった。
禁教令が出される以前の、江戸初期の教会遺跡が残っているのは全国でも珍しく、キリスト教の象徴「花十字紋瓦」約80点のほか、多くの遺物が発見されている。

所 在 地■長崎市勝山町30−1(長崎市立桜町小学校内) 
資料館入口は長崎歴史文化博物館通り側にある。
開館時間 ■ 9:00〜17:00
休 館 日■毎週月曜日(祝日の場合は開館)と12/29〜1/3

長崎の3つの「オランダ坂」  長崎市東山手町・丸山町

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

長崎の3つの「オランダ坂」  長崎市東山手町・丸山町

長崎には現在、「オランダ坂」と呼ばれる坂が3つある。山口広助氏HP「丸山歴史散歩」によると、以下のとおり。
なお、HP「長崎県の坂」では、南山手町の「(前)東急ホテルから大浦天主堂・グラーバー園に行く坂」も、東山手のオランダ坂と区別するため「下り松(さがりまつ)オランダ坂」と言われたようだが、今は一般的には「グラバー通り」と呼ばれている、と記しているため、この坂は除外したい。

東山手町に2つ。まず、「ホテルニュータンダ横から活水学院へ向かう坂道」。第二次世界大戦後、しばらくは「ロチ坂」と呼ばれていた。江戸末期の居留地造成の際に切り開かれた道。当初は切通しとも呼ばれ、道幅は現在の3分の1ほどしかなかった
明治18年(1885)来崎したフランスの小説家、ピエール・ロチが、居留地からこの道を通り、十人町の仮寓の家へ往来しているところからこの名が付いた。現在は、観光目的のため「オランダ坂」へと変化しているようだとある。

次は、「活水学院や海星学園がある高台から石橋電停に向かうなだらかな坂道」。もともと、御崎道で使われた街道。今のように広く開けたのは江戸末期、居留地造成の際に整備された。
文久3年(1863)日本初のイギリス聖公会会堂(礼拝堂)が東山手に完成すると、東山手や南山手に住む多くの外国人信者が日曜毎にこの坂道を通るようになった。当時、長崎人はオランダ人でもイギリス人でも欧米人のことを“オランダさん”と呼んでいたため、オランダさんが通る道ということで「オランダ坂」と呼ばれるようになった。
誠孝院前の坂を俗に「誠孝院の坂(ジョウコインーサカ)」というのは、昭和8年(1933)誠孝院が移転してから呼ばれたものである。

以上2つの坂には、通りに大きく「オランダ坂」と刻んだ石碑が建って、良く知られている。
しかし、丸山町にある「阿蘭陀坂/オランダ坂(おらんだざか)」が、長崎の中で「オランダ」とつく最初の場所、「ほんとうのオランダ坂」であるらしい。
思案橋先の電車通りから、標柱がある右の坂段へと入る。料亭「青柳」の角門からさらに折れ曲がりながら坂道を行くと、写真のとおり手書きの説明板があった。白紅の梅が満開の梅園身代わり天満宮へ着いた。、
山口広助氏HP「丸山歴史散歩」による説明(C−45 2005/07/01記事)は次のとおり。

C−45:阿蘭陀坂/オランダ坂(おらんだざか)
丸山町8−1横(旧本石灰町/矢柄町)
祟福寺前から電車通りに突き当たったところに丸山に抜ける28段の階段があります。古賀十二郎先生著「丸山遊女と唐紅毛人(前編)」の中にも記述があるようにこの階段を阿蘭陀坂といいます。江戸時代(鎖国時代)、丸山遊女は出島阿蘭陀商館に出入を許されていた唯一の女性で、「阿蘭陀行き」と呼ばれていました。言伝えでは、その阿蘭陀商館行きの遊女が出島に向かうとき、丸山の表門を通らずこの階段を下だり、当時、川(玉帯川)だった電車通りのところから小舟に乗って出島に向かっていたといわれています。この阿蘭陀商館に向かう「阿蘭陀行き」の遊女が通った坂(階段)というところから阿蘭陀坂と呼ばれるようになります。

一方、幕末の開国後、丸山の上手の小島(中小島公園付近)に西洋料理店の福屋が出来、居留地に住む多くのオランダ人(当時、外国人はすべてオランダ人と呼んでいた)が頻繁に福屋に通ったといわれています。このオランダ人が丸山の花街の中を通らず、この坂を通り福屋に向かったところからオランダ坂となったともいわれています。

大 音 寺  長崎市鍛冶屋町

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

イメージ 14

イメージ 15

イメージ 16

イメージ 17

イメージ 18

イメージ 19

イメージ 20

イメージ 21

イメージ 22

イメージ 23

大 音 寺  長崎市鍛冶屋町

長崎市鍛冶屋町にある浄土宗の正覚山大音寺。境内墓地に赤煉瓦や石造の見事な石門があるので写しに行った。市指定天然記念物のクロガネモチとイチョウは、すでに巨樹・名木の項で紹介済み。最後は皓台寺との間の幣振坂。
長崎さるく現地説明板は次のとおり。
大  音  寺

慶長19年(1614)、伝誉が開創。寛永年間に現在地へ移転し、朱印地となりました。延宝2年(1674)、歴代将軍の位牌を祀る御霊屋が建立されるなど長崎三大寺院の一つとして高い格式でした。昭和34年(1959)の火災で本堂(写真中央)や御霊屋などが焼失しました。境内には市指定史跡の長崎奉行・松平図書頭墓地、市指定天然記念物のクロガネモチやイチョウなどがあります。

2009長崎ランタンフェスティバル (3)中島川・中央公園・中央橋・長崎駅

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

イメージ 14

イメージ 15

イメージ 16

イメージ 17

2009長崎ランタンフェスティバル (3)中島川・中央公園・中央橋・長崎駅

長崎の冬を彩る一大イベント「2009長崎ランタンフェスティバル」。2月5日(木)午後の中島川・中央公園・中央橋・長崎駅の賑わい。
2月9日(月)まで好評開催中。

2009長崎ランタンフェスティバル (2)唐人屋敷・興福寺・浜んまち

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

イメージ 14

イメージ 15

イメージ 16

イメージ 17

2009長崎ランタンフェスティバル (2)唐人屋敷・興福寺・浜んまち

長崎の冬を彩る一大イベント「2009長崎ランタンフェスティバル」。2月5日(木)午後の唐人屋敷・興福寺・浜んまちの賑わい。
2月9日(月)まで好評開催中。

2009長崎ランタンフェスティバル (1)湊公園

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

イメージ 14

2009長崎ランタンフェスティバル (1)湊公園

長崎の冬を彩る一大イベント「2009長崎ランタンフェスティバル」。2月1日(日)午後3時半ころの新地町湊公園の賑わい。「媽祖行列」が出発していった。
2月9日(月)まで好評開催中。