長崎の風景・史跡 (市中央)」カテゴリーアーカイブ

自衛隊護衛艦”いかづち”と”こんごう”の一般公開

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自衛隊護衛艦”いかづち”と”こんごう”の一般公開

長崎港へ入港中の自衛隊護衛艦”いかづち”と”こんごう”の一般公開が、7月18日松が枝国際観光ふ頭であっていた。岸壁から見ただけ。艦内は見学していない。20日は出港。
自衛隊長崎地方協力本部のイベント情報による艦船の紹介は次のとおり。

護衛艦いかづち(DD107)

「むらさめ」型護衛艦の7番艦。平成13年3月14日日立造船舞鶴工場において就役
基準排水量:4,550ton
主要寸法:151 x 17.4 x 10.9 x 5.2m
(長さx幅x深さx喫水)
主機械:ガスタービン4基2軸
馬力:60,000PS
速力:30kt
主要兵装:62口径76ミリ単装速射砲×1、VLS装置一式、SSM装置、3連装短魚雷発射管x2、高性能20ミリ機関砲x2、哨戒ヘリコプター×1
定員:160名
護衛艦こんごう(DDG173)

「こんごう」型護衛艦の1番艦。平成5年3月25日三菱重工業長崎造船所において就役
基準排水量:7,250ton
主要寸法:161 x 21.0 x 12.0 x 6.2m
(長さx幅x深さx喫水)
船型:平甲板型
主機械:ガスタービン4基2軸
馬力:100,000PS
速力:30kt
主要兵装:イージス装置一式、VLS装置一式、SSM装置、127ミリ単装速射砲×1、3連装短魚雷発射管x2、電波探知妨害装置一式、対潜情報処理装置一式、高性能20ミリ機関砲x2
定員:300名

写真展「新興善救護所の被爆者たち」  市立図書館で22日まで開催

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写真展「新興善救護所の被爆者たち」  市立図書館で22日まで開催

7月8日から22日まで長崎市立図書館新興善メモリアルで、写真展「新興善救護所の被爆者たち」(主催 長崎原爆資料館・長崎市立図書館・NBC長崎放送)が開催されている。入場無料。
原爆投下後に救護所となった旧新興善国民学校の様子を写真や映像でつづり、核兵器の残虐さを伝えている。

旧長崎医科大(現長崎大医学部)が壊滅的な被害を受けたため、市内各地の国民学校や寺院に救護所が設けられた。爆心地から約3キロの地点にあった同国民学校でも、1945年8月17日からの15日間だけで約8000人が治療を受けたとされる。

写真展では被爆直後の長崎、広島両市を記録した旧日本映画社(現日映アーカイブ)の撮影隊が撮った映像や、その映像をプリントした写真20点を展示。放射線の影響で髪の毛が抜けた少女や下半身に大やけどを負った少年らをとらえている。…
(=2009/07/09付 西日本新聞朝刊から)

矢太楼から高平町へ下る  長崎市風頭町・高平町

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矢太楼から高平町へ下る  長崎市風頭町・高平町

風頭公園の桜を見た後、ホテル矢太楼入口左に高平町へ下る標識があり、長崎玉成高校グランド脇を通りながら、急な坂段道を鍛冶屋町の清水寺まで下った。桜のグランド奥の新しい建物は、玉木学園が平成7年設置した「長崎医療技術専門学校」。
長崎は坂の町である。風頭山の三角点は、標高152.0m。これより少し高い矢太楼から、その建物の下をまっすぐ下るような道となる。

景色は写真のとおり。清水寺近くなると、油屋町出身の大浦お慶の墓があった。市街地や長崎港の景色が良い道である。しかし、急な坂段ばかりで登る気はしないコース。長崎人は昔から苦労している。
崇福寺写真の中央奥、山の白い建物がホテル矢太楼。

長崎大学経済学部  長崎市片淵4丁目

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長崎大学経済学部  長崎市片淵4丁目

長崎市片淵4丁目の「長崎大学経済学部」構内の風景。アーチ石橋の「拱(こまねき)橋」とグランドにある桁石橋2つを確認に行ったが、構内の景色も写してきた。
「拱橋」は次を参照。 https://misakimichi.com/archives/578
「拱橋」は、平成19年(2007)12月、文化庁の登録有形文化財となった。現地説明板は次のとおり。
拱(こまねき)橋 (旧長崎高商拱橋)

石造単アーチ橋、橋長17m、幅員9.1m
長崎大学経済学部の前身である長崎高等商業高校は西山川左岸東側に造成されたため、西山川を横断して道路と接続すべく明治36年(1903)11月30日に拱橋が架設された。高商設立当時の構造物である。拱橋上流には明治39年(1906)に西山橋。大正13年(1924)に片淵橋、すぐ下流には矢場下橋(大正13年)が建設されたが、すべてコンクリート橋である。
トラス形式の鉄製橋梁では学校正門前の橋梁には相応しくないため、上部空間が開かれた上路式アーチ橋が選ばれたと考えられる。石材の表面は細かく加工され、日本の石造橋が持つ土着性から離れた、端正な近代的設計がなされた石橋である。

振り返ると立山公園の桜も見える。片渕中学校跡地に建設中の長崎済生会病院もだいぶんできている。長崎大学経済学部HPによると、学校の沿革は次のとおり。

●長崎大学経済学部の沿革

長崎大学経済学部は、その前身である長崎高等商業学校が、東京高商(一橋大)、神戸高商(神戸大)に次ぐ第三高商として明治38年3月に長崎県西彼杵郡上長崎村片淵郷(現長崎市片淵)の地に設立されて以来、一世紀の歴史を迎えました。
長崎高等商業学校は、わが国近代史と歩みを同じくして発展を遂げた後、第二次世界大戦中の昭和19年4月に長崎経済専門学校と改称されました。なお、その際、長崎工業経営専門学校が併設されましたが、同校は終戦後間もない昭和21年4月にその使命を終えて廃止されました。 
多くの人材を経済界・実業界に輩出した長崎経済専門学校は、昭和24年4月に国立学校設置法の公布により新制大学制度に組み込まれ、経済学科、商学科の2学科を有する新制長崎大学経済学部として新たに発足しましたが、平成17年には、本学部にとって高商設立以来100周年を記念しました。

風頭公園さくら祭り  長崎市伊良林3丁目

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風頭公園さくら祭り  長崎市伊良林3丁目

4月7日、寺町墓地から登って行ったら、風頭公園へ着いた。花見がまだできた。
花見情報HPによると、「風頭公園の桜」は次のとおり。

風 頭 公 園

370本のソメイヨシノにボンボリが灯り、桜まつりが開催されます。初夏にはあじさいの花も楽しむことができ、広く市民に親しまれています。坂本龍馬銅像が見られ、眺望が素晴らしいです。
桜祭り 3月26日〜4月10日 風頭公園桜まつり カラオケ大会、チャリティーバザール、ハタあげ大会、もちつき大会など。
夜 桜 3月26日〜4月10日 18:30頃〜21:00頃 公園一帯に400個のぼんぼり。
時 間 24開放 露店なし 宴会可。
交 通 JR長崎駅からバス約25分 「風頭山」下車徒歩約10分。

崇 福 寺  長崎市鍛冶屋町

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崇 福 寺  長崎市鍛冶屋町

長崎市鍛冶屋町、崇福寺通りのメイン「崇福寺」。入り口の赤門は、その華麗な形から「竜宮門」と呼ばれる。楼門にある扁額「聖寿山」は黄檗宗(禅宗)の祖・隠元の書によるもの。崇福寺は国宝や重要文化財がズラリ揃っている。拝観料 大人300円。
長崎webマガジン「ナガジン」の、発見!長崎の歩き方「寺町界隈ぶらり散歩道」による寺の説明は次のとおり。
聖寿山 崇福寺(黄檗宗)

寛永6年渡来した唐僧超然が寛永9年(1632)、官許を得て創建した。檀家に福州出身の人が多いことから「福州寺」ともいう。
正保3年(1646)に上棟の「大雄宝殿」と元禄後期に改築の「第一峰門」は国宝に指定。 文化財は次のとおり。

崇福寺大雄宝殿(国宝)、崇福寺第一峰門(国宝)(海天門・唐門・二の門・中門・赤門)、崇福寺三門(国指定重要文化財)(楼門)、崇福寺鐘鼓楼(国指定重要文化財)、
崇福寺護法堂(国指定重要文化財)(天王殿・関帝堂・韋駄殿・観音堂)、崇福寺媽祖門(国指定重要文化財)
崇福寺本堂の聯額(れんがく)(県指定有形文化財)、崇福寺の梵鐘(県指定有形文化財) 、崇福寺本堂の仏像群(県指定有形文化財)(釈迦三尊と十八羅漢)、崇福寺の媽祖堂(県指定史跡)
崇福寺大釜(市指定有形文化財)、仏涅槃図(市指定有形文化財)、即非禅師書火化(ひけ)の偈(げ)(市指定有形文化財)、即非禅師書規条六則(きじょうろくそく)(市指定有形文化財)、即非禅師書落成(らくじょう)の偈(げ)(市指定有形文化財)、即非禅師書中天紅日麗(市指定有形文化財)、崇福寺蔵 仏舎利塔並びに舎利殿(市指定有形文化財)、崇福寺三塔(市指定史跡)、即老和尚闍維處(じゃいしょ)(市指定史跡)、仏師氾道生(はんどうせい)の墓(市指定史跡)、唐僧玉岡の墓(市指定史跡)

清 水 寺  長崎市鍛冶屋町

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清 水 寺  長崎市鍛冶屋町

長崎市鍛冶屋町、清水寺の中門となる石門を訪ねた。本堂は現在、改築工事中。寺裏の墓地までも何とか行けた。
清水寺のこの石門には、明和(江戸末期)の文字が刻まれているらしいが、確認できない。
長崎webマガジン「ナガジン」の、発見!長崎の歩き方「寺町界隈ぶらり散歩道」による寺の説明は次のとおり。
長崎山 清水寺(清水観音 清水寺)(真言宗霊雲寺派)

元和9年(1623)創建。山城国の僧(京都清水寺の真言僧)慶順が仏像を抱いて来崎し、薬師石(瑞光石)が光った場所に寺を開いたと言い伝えられている。
清水寺本堂(県指定有形文化財)、清水寺の梵鐘(市指定有形文化財)、絹本著色不動明王三童子像(国指定重要文化財)
長い坂段、本堂前の石畳、石造りの欄干、清水寺内に使われているほとんどが 風頭の石を使用。京都清水寺の僧だった開基の慶順は、この寺を京都の清水寺以上の名所にしたいと考え、清水の舞台に模した石の舞台を造ったと言われている。
瑞光石は本堂裏にあり、石の裏に千手観音の種子(頭文字)が梵字で刻まれている。

参道途中に江戸末期、製茶貿易で名をはせた長崎の女傑「大浦お慶」が信仰していた「歓喜天」が祀ってある聖天堂がある。お慶は油屋町の油問屋・大浦太平次の娘。利益で国事に奔走していた坂本龍馬、高杉晋作、大隈重信などを援助したことで知られる。
明治17年56歳で死去。お慶の墓石は清水寺本堂から100m程上った隣町の高平町にある。

晧 台 寺 (2)墓地の主な墓  長崎市寺町

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晧 台 寺 (2)墓地の主な墓  長崎市寺町

長崎市寺町通りの晧台寺。(1)は、仁王門、山門、大仏殿の建築物が県文化財に指定されたニュース。(2)は、墓地の主な墓など訪ねる。
長崎webマガジン「ナガジン」の、発見!長崎の歩き方「寺町界隈ぶらり散歩道」による寺の説明は次のとおり。
海雲山 晧台寺(曹洞宗)

慶長13年、肥前国松浦郡山口村(現在の佐世保市相浦町)洪徳寺の第7代住持・亀翁良鶴が創建。はじめは洪泰寺と称し岩原郷にあったが寛永3年(1626)に寺町に移り晧台寺と改称。
晧台寺の墓域は広範囲にまたがり、上は風頭公園内の敷地に日本の写真の開祖・上野彦馬の墓、へいふり坂沿いにはシーボルトと深く関わりのあった楠本お滝、イネの墓がある。市指定史跡として、唐通事林(りん)・官梅(かんばい)家墓地、高島家墓地、後藤家墓地もある。

晧 台 寺 (1)仁王門など県文化財に  長崎市寺町

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晧 台 寺 (1)仁王門など県文化財に  長崎市寺町

長崎市寺町通りの晧台寺。(1)は、仁王門、山門、大仏殿の建築物が県文化財に指定されたニュース。(2)は、墓地の主な墓など訪ねる。
長崎webマガジン「ナガジン」の、発見!長崎の歩き方「寺町界隈ぶらり散歩道」による寺の説明は次のとおり。
海雲山 晧台寺(曹洞宗)

慶長13年、肥前国松浦郡山口村(現在の佐世保市相浦町)洪徳寺の第7代住持・亀翁良鶴が創建。はじめは洪泰寺と称し岩原郷にあったが寛永3年(1626)に寺町に移り晧台寺と改称。
晧台寺の墓域は広範囲にまたがり、上は風頭公園内の敷地に日本の写真の開祖・上野彦馬の墓、へいふり坂沿いにはシーボルトと深く関わりのあった楠本お滝、イネの墓がある。市指定史跡として、唐通事林(りん)・官梅(かんばい)家墓地、高島家墓地、後藤家墓地もある。

=2009/04/04付 西日本新聞朝刊=の記事は次のとおり。

県文化財 轆轤成形技術を指定 長崎市の晧台寺仁王門も 波佐見町の陶芸職人 中村平三さん(75)
県教委は3日、県文化財保護条例に基づく新たな有形文化財として長崎市寺町の晧台(こうたい)寺の仁王門などを、無形文化財として波佐見町の陶芸職人中村平三さん(75)の轆轤(ろくろ)成形技術をそれぞれ指定した。一方、県外移転のため1件の指定が解除され、県指定文化財は計365件になった。
■建築時の姿とどめる 晧台寺の3点
晧台寺の建造物のうち、今回指定を受けたのは、仁王門、山門、大仏殿の3点。このうち仁王門は、1680年の建築と伝えられ、残存する県内の社寺の門としては最古という。寺院中枢部への入り口の「中門」に当たり、門の両脇には一対の仁王像が置かれている。
寺院の「表門」に当たる山門は1837年、大仏殿は1768年の建築とされ、いずれも建築時の姿をとどめている点や、造形の価値の高さなどが評価された。

晧台寺HPによる伽藍案内のうち、「山門(仁王門)」の紹介は次のとおり。

桜上正面には中国福建省の鼓山に住していた為霖道霈の書いた「晧臺禅寺」という大きな横額が掲げてあります。階下の門柱には、「法門無遮擱鳳毛麟角来入室、禅開有機用鳶飛魚躍悉契宗」という対聯が掛かります。
この門は、延宝8年(1680)長崎奉行牛込忠左衛門の寄進によって五世逆流禎順が創建したものです。 その後改修され、昭和60年(1985)には腐食の甚だしかった仁王像も新調しました。

延命寺・長照寺  長崎市寺町

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延命寺・長照寺  長崎市寺町

長崎市寺町通り。延命寺へアーチ型の中門を訪ねた。風格ある石門は「明治三十三年庚子三月建之」(1900)と刻む。山門も長崎奉行所の門が移築されていることが有名。現在の山門は修復されたもので、扉だけが当時のままだという(「長崎県の石門を訪ねて」から)。
同寺の前に料亭「一力」。長照寺との間の坂は、もう1つの「幣振坂」。背後の墓地に大クスが数本見える。長照寺も訪ねた。
長崎webマガジン「ナガジン」の、発見!長崎の歩き方「寺町界隈ぶらり散歩道」による両寺の説明は次のとおり。
医王山遍照院 延命寺(真言宗御室派)

元和2年(1616)長崎奉行 竹中采女正重次の援助で僧・阿門利(あじゃり)龍宣が開山。
境内には、手に数珠を持ち静かな祈りを捧げる弘法大師が88体並ぶ「八十八大師」がある。それぞれに表情や大きさは微妙に違い、味わい深い。
実話から今に伝わる「健康観音」は、昭和の初期、自分の病気回復を祈願して毎日寺に参拝する事を日課に決め、10年間続けた男性が10年毎に3つの観音像を寄進。健康になった話から名付けられた。
光栄山 長照寺(日蓮宗)

元は寛永8年(1631)本蓮寺開山、日恵が創建。弟子の日與を開基とした。西川如見(じょけん)の墓(市指定史跡)。境内にある水徳浄行菩薩は、この菩薩様の頭から水をかけて清め、体の治してほしい所と同じ所をタワシでこすると病気が治るといれているとか。