江戸期のみさき道 (往路前半)」カテゴリーアーカイブ

「源右衛門茶屋」は、ダイヤランド入口近く高比良造園内にあったか

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「源右衛門茶屋」は、ダイヤランド入口近く高比良造園内にあったか

この付近は、小ヶ倉茶屋家の所有地である。私は昭和60年頃、ここに「御崎道」の道塚があることは知らなかったが、力士墓があったことは覚えている。ダイヤランドは昭和56年起工、昭和59年4月から販売を開始した。高比良造園はここで店を開いており、植木を買いに行ったからである。力士墓は、平成4年7月相光石油スタンド横に移された。ただ谷桜碑は、なぜか竹林内に残る。

ここに道塚や力士墓があって、茶屋家子孫が茶屋のいわれを、今の力士墓のそばに立派な石碑をもって建立されたことを考えると間違いない。
この茶屋は、明治29年2月当時も営業していたことが、深堀森家の記録(別項)で確認できた。

〔近くにある力士墓と茶屋いわれ碑文〕
この力士墓は天保十年ごろ東京相撲で活躍した「二子島力士」と慶応四年ごろ宮相撲の強豪であった「熊ヶ谷力士」のものである。往時この界隈は、御崎道の主要路で岬の「観音寺」参りの商人や深堀武士達の往来も激しく一軒の茶屋があったと伝えられ、今でも「ゲンネン茶屋」(源右衛門茶屋)と呼んでいる。
近年団地開発が進み付近の様子もすっかり変りこの碑の存在が忘れられ、おろそかにされてきた経過もあったが、父茶屋仙次郎の遺志をくみ、土地造成を機会にこの地に再建立したものである。
平成四年七月吉日      再建者 茶 屋 義 行 筆者 園 田 義 光

新小が倉にある「従是南佐嘉領」の藩境石は、どんなもので位置を動いてないか

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新小が倉にある「従是南佐嘉領」の藩境石は、どんなもので位置を動いてないか

新小が倉1丁目にある。ここは旧大村領戸町村と佐賀領小ヶ倉村の藩境で、長年の藩境紛争が天明7年(1787)解決し、白崎とともに藩境石が建った。詳しくは別項「大久保山から戸町岳に残る天明藩境石塚の調査」を参照のこと。

石の位置は、断定はできないが当時の藩境が今の町界と変わらなかったら(住居表示実施で町界が変更しているが、この地点は変わらない)、少しは昔の街道筋から動いているだろうが、ほぼ間違いないと思われる。小が倉バイパスの工事前を知る小ヶ倉の年配の人はそう言う。昔の写真は中尾正美編「鍋嶋藩深堀資料集成」にある。

「戸町カルルス」とは、どんなところだったか

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「戸町カルルス」とは、どんなところだったか

「みさき道」は、二本松山中の道塚から下道へ下る。弁慶橋のガード下をくぐり、小が倉バイパスの「弁慶岩」バス停に出、戸町の谷へ下ると「戸町カルルス」の跡あたりを行く。

「温泉はチェコスロバキアのカルルスバート(カルロビ・バリ)の鉱泉を結晶させた薬品、カルルス水を沸かしたことからカルルス温泉と呼ばれた。戸町カルルスは、玉蝉園とも称した。明治34年頃、戸町の藤田東三郎・東人親子が開設、敷地は約1,000坪で、4・5月は藤や菖蒲、9、10月は萩や楓で賑わったという。園内には温泉場があり、中川カルルスに対して戸町カルルスと呼ばれた。」(市立博物館刊「長崎の史跡」南部編から。古写真は長崎大学附属図書館所蔵分)

この上手の竹林に由緒ある井戸が残る。水はパイプで戸町海岸の製氷工場へ送られていたらしい。やがて戸町の一方通行交差点と出合い、戸町中学校の方へ向けてバス道を行く。少し手前から左へ石段を上がると墓地があり、中学校前へ達する。

戸町惣兵衛と長崎家墓地とはなにか。墓地は御崎道沿いか

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戸町惣兵衛と長崎家墓地とはなにか。墓地は御崎道沿いか

惣兵衛は長崎甚左衛門の弟で、はじめ、戸町氏の養子となったが、後に、甚左衛門の跡を継ぎ、長崎惣兵衛重方と称した。大村藩の重臣で、朝鮮の役にも出陣し、さらに、玖島城の築城の際は、築城奉行を勤めた。寛永十四年(1637)に没したが、大村市今富の墓は大村市の史跡に指定されている。一方、長崎市上戸町の、旧御崎道沿の墓地にも長崎家の墓地がある。以前は一六基ほどの墓石が並んでいたが、現在では一か所にまとめられている。この長崎家の始祖は三郎兵衛と称し、長与村の給人(二十石)を勤めたが、この三郎兵衛の夫人が惣兵衛の娘であった。長崎家は以後、弥大夫・重右衛門‥と続き、七代目の平左衛門の時から大浦番所の添番となり、この地に居住した。城野氏の宅地がその屋敷跡である。(昭和61年「三和町郷土誌」172頁コラム)

これは、長崎市上戸町二本松山中にある「みさき道」の道塚の関係から掲げた。文中の「長崎市上戸町の、旧御崎道沿の墓地にも長崎家の墓地がある」との説明は、他にもそのコースを述べていた資料が多いが、手前の二本松山中の分岐に道塚がせっかく建っている理由の誤認ではないだろうか。私見の考察は次のとおりであった。

9 二本松山中の道塚は下道を指すか。すると真直ぐに行く道はなにか
二本松山中(上戸町)の道塚は、林の中の右下に分かれる下道の少し下がった地点にあり、下道を指すことは間違いない。戸町中学校やダイヤランドが戸町の谷を挟んですぐ直線的に近くに見え、歩く人の心理としてそう向かうだろうし、逆に下から登って来てもそんなにきつくはない。大浦妙行寺の墓の坂道の方が急である。そのためわざわざ道塚が建ったと思われる。
真直ぐな道は本道のようであるが、現上戸町病院の裏手を行き先の長崎甚左衛門ゆかりの者の墓に出る。これは遠回りである。この道は墓参道ないし今の小ヶ倉水源池の底の谷間を行き戸町岳近くを越して宮摺方面へ行く道ではなかったろうか。

最近、長崎歴史文化博物館に史料として作成年不明だが、江戸後期「大村管内 地方(じかた)」と、同じく明治初期「大浦郷・上郷・下郷・箕尾郷図」があることがわかった。これによると当時の街道と思われる道が太い赤線で描かれている(絵図は出雲町の項で掲載済)。道塚の指す道であり、長崎家の墓地の方へ回る道は描かれていなかった。
明治34年国土地理院旧版地図では、墓地への道が県道として表われているが、私たちが調べているのは、道塚などによる「江戸期のみさき道」である。

出雲町は、昔遊郭のあった川端通りを通らないか

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出雲町は、昔遊郭のあった川端通りを通らないか

そうではないようである。石橋から斜行エレベーターの下に真直ぐ行くと、昔の街道と思われる道が鍋冠山の山際を巻くようにして戸町峠と呼ばれた二本松神社のある所まで続く。途中、二本松車道の大カーブ地点に出、車道をそのまま登る。急勾配となりここを本当に通ったかと思うが、江戸後期の絵図、明治初期の地図などで調査しても間違いない。湧き水休憩所に道塚があったとも言い、道の途中に地蔵が見られる。山道だったのでもう少しゆっくり登れたのではないか。
戸町・稲佐などと並び称される出雲の川端通りの遊郭は、明治25年にできたものである。

図は上 「大村管内絵図 地方(じかた)」 江戸後期(作成年不明) 長崎歴史文化博物館蔵
下 明治17年国土地理院旧版地図の長崎市街図一万図と幕末大浦地域図

大浦の石橋にある石碑はなにか

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大浦の石橋にある石碑はなにか

大浦の石橋の横断歩道手前に建っている2本の大きな石柱は、「大浦橋」及び「寄附者 大浦郷 林増五郎 村川勝太」「職工 渡邊嘉兵衛」とある。昔、架かっていた石橋の欄干らしきものと考えられる。

真鳥喜三郎著 「ふるさと地名の研究」に、街道はどう表われているか 

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真鳥喜三郎著「ふるさと地名の研究」に、街道はどう表われているか 

長崎市立土井首公民館蔵。著者は江川町に在住し昭和57年死去。土井首小で16年教檀にあった。かたわら土井首地区の地名の由来に歴史民族学の立場から眼を向け、この著書は昔を知るうえで大いに参考となる。
「ケイドウ(街道)」「間道」といろいろな道を説明されているが、深堀道それから御崎道に続くルートは、現在の道に当てはめてどれが本道だったのか。どの道なのか。地蔵尊所在地の図を見ても、私たちは推測するだけで、判読できないのが非常に残念である。
関寛斎一行が鹿尾川を渡ってから深堀に入るのに、江川回りと網代回りが考えられので、この参考のため調べているが、まだ不明のままである。

真鳥喜三郎著 「ふるさと地名の研究」 昭和57年 8〜58頁
(主に土井首地区の地名の由来)

(略)杠葉病院登口付近を波切口といい、そこに現在小さな波切口橋がかかっている。この川(草住からの小川)と鹿尾川の合流地点付近に木場がある。ここは地域に産する木材や薪炭類の集散地即ち寄場でもあり捌場でもある。捌く場合は此処から和船で深堀やその他へ積み出されたのである。(略)
踵を返して再び木場へ戻ると波切口からの流れに小橋がかかっている。これを渡って東進すると鹿尾に達する。(略)これから考えると鹿尾が現在の大字土井首の地を指していた事は間違いない。従って土井首は昔は鹿尾なる呼称の中に包含されていたのである。これから見ると地名発生の地である鹿尾の里は土井首地区に於てどの部落よりも早く発生した最初の聚落であったらしい。(略)

京太郎から引き返して再び鹿尾川沿いに出ると、その川向うの山の中腹に地蔵さんが祭られている。この地蔵さんは土井首地区で唯一の地蔵さんである。もともと土井首地区は浄土真宗の他力信仰圏であり従って自力系の地蔵菩薩とは縁遠くこの地蔵が此処に祭られているのは場違いの感じさえするのである。ただ竿浦や深堀などの自力信仰圏に行くにはどうしてもこの古道を通らねばならぬためやむを得ずその入口に祭られたものと私はひそかに思っている。衆生を導く地蔵尊がその梧道への道しるべとしてここに頑張って下さっているのだろう。

「昔の道」を知る為には地蔵尊を次から次に辿って行けば、それが昔の道であるというのが私の持論である(地蔵尊所在地の図参照)が、この鹿尾の入口にある地蔵尊の次は中学校の裏手に祭られている地蔵尊、その次は堂ノ元橋のすぐ近くに祭られている地蔵さんであるが、これより(今のナフコ奥から尾根越し深堀の御船手へ行く道か)山に入って愛宕山の下の尾根を越えるまでの中途に一つ、尾根を越えて深堀の岩河(いわんご)の地蔵尊までの坂の中程に一つ、これらの地蔵尊を図のように結びつけると昔の道、所謂地区の人達の言うケイドウ(街道)が現出するのである。しかし街道とは言っても今日の道路の観念からすれば全く話にならない程の細道である。それは実際に通って見なければ納得は中々困難である。川の土堤伝いに更には丘を越え崖の上や田の畦を通り地形に沿って九十九折の道を幾曲りか通り抜け狭い坂道を上っては下るという、実地に体験して始めてそのもどかしさ困難さがわかるのである。

中学校裏の地蔵さんに至るまでの途中に落矢という部落がある。ここは街道の坂道を下りた所であるが、ここから江川・末石方面に至る間道が分かれており、その道筋には四か所ほど地蔵尊が祭られており、又堂ノ元橋際の地蔵さんに行きつくすぐ手前で平山方面への昔の道が分れている。この道筋にも二か所ほど地蔵さんが祭られている。以上で地蔵さん関係の昔の道は終りであるが、他力信仰圏の土井首地区になると地蔵さんは全く見当たらず先ず磯道の辻から上の山道を通り四ッ辻に出てそれより網代・毛井首へと下り又江川の道へと通ずるのである。考えてみると昔の道は廻り道が多い。指呼の間に見える所へ行くにも廻り廻って行かねばならない。その結果昔の人達は田の畦や川の土堤など伝って近道を考えたのである。現在の県道はこの近道に沿って作られているものが多い。(略)

この摩利支天の山の根即ち中学校のうしろに祭られているのが地蔵尊であることは前に述べた通りで、この辺一帯を太田と言っている。その名の通り田の広い所である。ここの川にかかっているのが太田橋で県道開通時の橋で、以前は橋もなく江川から高野原小学校(四年制)へ通う児童達はこの川を徒歩(かち)渡りして近道をし畦道伝いに通学したという。この橋の次の橋が堂ノ元橋であるが、これも県道開通時の架橋で勿論以前は橋はなかったのである。(略) 堂ノ元橋近くの丘の上にある阿弥陀堂の一角は竿ノ浦最初の簡易小学校のあった所で人々は堂の学校と呼んでいた。ここを出て高野原尋常小学校(四年制)(現在は山口氏宅地)に向うと学校のすぐ下の道に地蔵尊が祭られている。(略)

踵を返して落合の里にもどると此処から間道伝いに江川・末石の道が開けている。江川墓地の脇に降ると、そこに地蔵尊が祭られている。ここを少し進んで川を徒歩渡し小高い丘の昔の細道を通り抜けると又地蔵さんが祭られている。この少し先きで末石方面への道と江川の木場への道が分れている。木場への道の途中に又地蔵尊が祭られている。一方末石方面への道を進むと太田川沿いの一隅に地蔵さんが祭られており、これから「十郎兵衛」の尾根を越(す。)本当の江川は柳田・落合方面からの流れと太田川の流れが合流する地点から川口までを意味し地区の人の所謂ドンク川がこれに該当する。
太田川の末端付近は低湿地で満潮時には塩水が水田に侵入した。その為人々はこれを防ぐ為に土囲を築いた。これが土井田(エースレーン付近)の名のある所以である。ドンク川の右岸に木場がある。この辺一帯の木材や薪炭類の寄せ場であり捌き場でもある。今は河床が隆起して浅くなったが、昔はここから深堀方面へ薪炭類を積出したのである。これはちゃうど土井首のそれと全く同じである。

江川の川口付近は昔は人家もなく埋め立ても進んでなかった為冬になると北西の季節風がまともに吹きつける海岸であった。ここにノコシという所がある。波越の転化したもので荒波が打越した所だったのであろう。ここを奥に向って進むと地区の人達が言うシャウヤンオックである。これは「潮合の奥」のことである。この辺一帯即ち陶器会社敷地一帯は昔は浅い海であったが次第に陸地化し一条の川筋を残すのみとなったが、この川は所謂潮と水がかち合う潮合の地でありその奥が潮合の奥である。これをシオヤンオックと訛って呼んでいるのである。(略)「潮合の奥」の米ノ山寄りに小名切(小波切)がある。小さいながら土井首の波切と同様潮止の名残りであろう。(略)

平瀬は古語辞典によると「早瀬の対」、川の流れのゆるやかで平らな所とあるが、平瀬の地は川の流れというよりは海水の流れだと思われその流れのほとりの平らな所と解したい。それは北西の季節風をまともに受けるのは末石・江川の海岸であるが、平瀬はその風向とおおむね平行であり風波の影響は薄い。しかも現在毛井首への市道以西の平地は煉炭殻の埋立地であり元は波に洗われていた所で僅かばかりの平地が小丘の底辺にあっただけで耕地も少なく約十アール計りの水田が婆ン井戸の上にあっただけと古老は言う。しかしこのような無人の里がどうして目たたく間に聚落地となったか。それについては理由があるのである。明治二十七、八年の戦後(日清戦争)に勝ったわが国はその余勢をかって海軍の拡張に転じた。軍艦を走らせるにはどうしても強力な石炭を必要とする所からこれを精製して純度の高い煉炭を製成し需要に応えようとしたのである。その唯一の資源は目と鼻の先きにある高島・端島(後には天草からも)の上質炭である。これを処理する場として白羽の矢が立てられたのがこの平瀬である。地の利と言うべきであろう。時に明治三十三年。無人の郷は一躍脚光を浴びて登場したのである。その後缶詰会社の進出があり又江川との間の入江を整地して陶器会社が設立され、これら一連の企業の余沢(よたく「めぐみ・おかげ」)から平瀬は逐次発展の一途を辿ったのである。

土井首の鹿尾川をどうして渡ったか

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土井首の鹿尾川をどうして渡ったか

土井首中学校同窓会誌「福田清人と岬(長崎・土井首)の少年たちー寄せ書きー」寺井房夫編 東京福田はる刊 平成13年3月発行の19〜20頁の中の記述は次のとおり。編者が土井首大山祗神社前の鹿尾川「ため」の地点を、「その昔、長崎への街道の渡しであったという」としている。

地図に寄せて(2)昭和のカッパ連  取水堰の「ため」

大山祗神社鳥居前の鹿尾川には、「ため」と呼ばれている、取水堰で塞き止められた溜まりがあった。

『私が住んでいた実家は鹿尾川沿いに建っていました。長崎豪雨、昭和57年(1982)7.23の時は床上浸水した程で、川とは切っても切れない縁です。子供の頃は、満ち潮に乗って上って来るボラや、スズキを堰の下で待って、矛で突いたり、ハゼ釣りをしたり、また、上流でフナ釣りをしたりして遊びました。フナがもっとも良く釣れたのが「ため」です。小学校3年生だったと記憶していますが、深い水底を恐る恐るのぞいていたら友達に突き飛ばされて、深みに落ち、無我夢中でバタバタしている中に自然に泳ぎを覚えてしまいました。
中学生になり、長崎市内の中学水泳大会が開催され、この「ため」で練習するようになりました。夏になると、授業が終るとすぐ「ため」に集まり練習に励みます。堰の長さは20メートルはあったと思います。練習は、優勝経験のある先輩がストップウオッチを片手に、何回も何回も往復して、泳がされました。私達が優勝できたのは、プールの無い時代、ここで思い切り練習できたからだと、確信しています。
私にとっては、思い出と自然が一杯つまった取水堰の「ため」ですが、今はどうなっているのでしょうか。上流にダムが出来たとも聞いています。水がきれいで、フナやハヤが泳いでいた風景を今でもはっきり思い出します。 土井首中学校第5回卒(昭和27年3月)横川(小川)等 千葉市在住』

「ため」は、形を変えて、残っている。取水堰は水害後の河川改修工事で取り壊されたが、その岩石は、土地の篤志家の手によって運び上げられ、土井首中学校玄関の前庭に生きている。取水堰の向こうには、松の木が生え、地蔵も立っていた。その昔、長崎への街道の渡しであったという。
海産物と川・山の産物が集まり、水田も開け、山麓には果樹も実のっていた。海、川が交わるこの地は、土井首に早く発生した集落であろうと、ロマンを語る人が多い。(福田清人の)作品に「私はまだ海に入らぬカノヲ川の中流の岸で、群をなして水流に身をゆだねて下流へ向ふ魚の群をみたことがあった。」とあるのはおもしろい。

同じ記述は、角川書店「日本地名大辞典 42長崎県」や熊弘人著「長崎市わが町の歴史散歩 (1)東・南部」の「古道町」の項にあり、「渡し」と記して誤解を生じやすい。書いている場所は同じようでも、当時この地点は、いわゆる舟の「渡し」でなく、飛び石を踏んで渡った「渡り」なのである。関寛斎日記は「下リテ一湾二出テ岸上ノ危岩ヲ渡リ一ノ間路ヲ行ク」と記す。

土井首中の前庭石は、教頭先生が地元に聞いてくれた。当時河川工事をした地元兵頭建設の社長が亡くなり不明でこれと断定できない。この渡り場所に後年木橋が少し下流にかかったが、何度か流され、沖縄の人の篤志で黒みかげ石で出来たこともあったという。(磯道中山氏)
今は郵政磯道団地ができ、まだ下流に「互助之橋」が架設されている。大潮の時も海面はこの少し上流までしか来ず、飛び石は十分考えられる。明治34年測図国土地理院旧版地図も「渡渉所」。上流のダムとは昭和63年できた鹿尾ダム。さらに上流の小ヶ倉水源池は大正15年完成している。両ダムのない時代、鹿尾川はかなりの水流があったと思われるが、ここで渡渉できたのではないか。「ため」のコンクリート片はまだ川底に平らな一部が残っている。

鹿尾川はどの地点をどうして渡ったか。主街道の最重要なポイントでありながら、諸説や刊行本の記述がある。前述のほかに長崎歴史文化博物館蔵、上の写真の文久元年(1861)「彼杵郡深堀郷図」(小ヶ倉・土井首部分)と次の史料を掲げるので、参考としていただきたい。

庶務課史誌挂事務簿 「西彼杵郡村誌」第一 明治18年5月

土井首村            61〜66頁
川 鹿ノ尾川渡瀬 縣道二属ス鹿尾川ノ下流字法城方(放生がた磯道団地)二アリ径凡十間許水間ノ僵石(堰石せきいしか)ヲ踏テ以テ渡ル
柳渡シ    村ノ西字磯道ノ海岸二属シ渡舟一艘アリ北小ヶ倉村二渡航スル便路二シ直径凡二百間余私渡
深堀渡シ   村ノ西大迫ノ海岸二属シ渡舟三艘アリ南深堀村二渡航スル便路二シ海上凡半里許私渡
道 路 街道筋  縣道に属ス村ノ北小ヶ倉村界字古道(ダイヤランド3丁目)ヨリ入リ仝南竿ノ浦村界字柳田(江川町支所よりジョイフルサン側)二達ス長サ凡二十四丁余巾五尺許
平瀬道  里道ニ属ス村ノ法城方(放生がた磯道団地)元標地ノ縣道ヨリ西二折レ竿ノ浦村界字小名切(ジョイフルサン左)ノ海邊二達ス長サ凡十三丁許巾凡四尺

十人町の道塚は、本当に「みさき道」の道塚か

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十人町の道塚は、本当に「みさき道」の道塚か

唐人屋敷から活水大学に登るすぐ右の石段脇にある。頭から溶けたような感じの石柱である。磨耗し刻面があったか全然わからない。地元の人たちの話で以前「みさき道」と変体仮名で刻まれていたという。この話は昭和61年「三和町郷土誌」の原田氏稿「観音信仰と御崎街道」に記されている。「みさき道」の出発点、道塚第1号とされ、平成17年、さるく博により立派な説明板が建てられた。
唐人屋敷や近くに野母権現山の遠見番所の当初10人の役宅があったことから、道塚の設置は考えられ、町名の由来もこれによるらしい。知る人はもう生きていなく、人によっては海岸がここまで来ていて、船のロープの「もやい石」でないかと言う人もいる。確かにほかの場所に現存する道塚と比べると、風化具合・材石などがだいぶん異なるようだ。

これは石が謎を問いかけ、具体的な記録がないかと調べていた。今回やっと古い2点の資料が集まった。次にその資料を紹介する。今となっては確認できる写真がないため、これ以上は何とも言えない。

まずは、長崎手帖社「長崎手帖 第三十二号」昭和38年6月発行、田栗奎作氏稿「碑のある町」15〜17頁の、カメラは春光社真木満氏による写真。
「みさき道 十人町一丁目の上り口にある。昔の野母脇岬街道の道筋を語るもの。数年前までは”みさきみ”の文字が読まれたが、今は辛うじて”き”の一字を見るのみ。」
残念なことにこの写真も道塚の遠景だった。長崎手帖を発行されていた田栗奎作氏は改訂前の「長崎原爆戦災誌」の編さんをされ、昭和61年8月亡くなられている。
春光社を訪ねたが、道塚の近景ネガはなかった。しかし、現社長が「長崎手帖」の保存版2冊を持っており、昭和30年の創刊号から昭和42年の第40号までが完全に保存されていた。長崎歴史文化博物館の郷土資料には数号しかない。

次は、長崎観光会史跡案内誌、昭和11年12月5日発行の第十一編「みさき道」の表紙図。この号は「みさき道」を表題としているが、表紙と内容はあまり関係がない。12月に小菅船架から女神検疫所方面を探訪する案内書として作成されており、「みさき道」の記述はまったくない。
しかし、翌号である昭和12年1月1日発行した第十二編「温故知新」一周年記念号に、毎回表紙図を担当している同会副会長平山國三郎氏が「表紙図案考」において、第十一編「みさき道」の表紙図は「十人町にある道しるべそのまゝの写生で、添景はありし日の戸町番所の写しです。」と述べられている。
貴重な資料は、北陽町片山氏が所持されている。 

「みさき道」などにある力士墓・力士碑4話

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「みさき道」などにある力士墓・力士碑4話

写真上から

①小が倉バイパスの新小が倉1丁目相光石油ガソリンスタンド角
下の説明碑にあるとおり、この力士墓は天保十年ごろ東京相撲で活躍した「二子島力士」と、慶応四年ごろ宮相撲の強豪であった「熊ヶ谷力士」の墓である。ここの裏手の現在高比良造園のところに「みさき道」の「源右衛門茶屋」(ゲンネン茶屋)があった。
力士墓も以前ここにあったが、バイパス側に移設されて碑とともにある。

②同近く高比良造園奥の竹林内
造園の敷地から離れた奥の竹林内に「谷櫻力士墓」がある。力士の詳細不明。大正年間に建てられたということだが、いかなる理由からか竹林内に移設されている。谷櫻碑は小ヶ倉2丁目小ヶ倉神社横にも建てられているが、これも2回目になるという。川向氏の出といい、墓は浜田墓地にある。(「小ヶ倉のあゆみ」から)

③蚊焼地蔵寺国道下の前三和町有地
「二子嶋」(寛政四年)と「肥ノ嶌巌力」(明治二九年)の墓。もともとは蚊焼入口の「みさき道」の道筋にあった。国道拡幅工事のため、数年前から現在の町有地に移設されている。

④川原木場公民館のグランド奥
高さ約2mほどの自然石。「天保三年 熊川清四郎力士 十一月十九日角力中」とある。地元の川「熊川」を四股名とした力士を讃えた碑のようで墓でない。ここは半島東回りのみさき道であった。