江戸期のみさき道 (往路前半)」カテゴリーアーカイブ

ダイヤランドの開発前と開発後の航空写真比較

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ダイヤランドの開発前と開発後の航空写真比較

「みさき道」の道筋となった小ヶ倉入口「源右衛門茶屋」から土井首大山祗神社前「鹿尾川渡り」までの「加能の尾」の大部分は、三菱地所が開発した大型団地「ダイヤランド」と変った。ダイヤランドは昭和56年起工、昭和59年4月から販売を開始したから、もう26年余を経過している。

団地となっては昔の道跡をたどれない。この開発前の姿の写真を探していたところ、ダイヤランド3丁目山下雄氏の協力により、同団地2丁目自治会が2年前発行した会報に、昭和56年(1981)3月(着工前)の航空写真があったのを、先の項で紹介していた。

その元の版となる写真がすぐ見つかった。おととい11月27日、私が小の用あり長崎市小ヶ倉支所に立ち寄った。支所長とたまたま会い、この写真のことを話した。すると「写真はこれでないか」と、支所カウンター後ろ壁の掲示板を教えてくれた。
写真は上のとおり。開発前は1981.3、開発後は1989.3撮影とある大きな航空写真。三菱開発から提供を受け、地元民のため前から掲示しているそうである。

これまで何度も支所に行っていたが、うかつだった。資料はその気になって探さないと、なかなか見当らない。続けて資料の写真が見つかり、開発後の姿の航空写真もあったのは、変貌を比較する上で良かった。

ダイヤランドの開発前と下方の道の地図資料・写真はないか

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ダイヤランドの開発前と下方の道の地図資料・写真はないか

小ヶ倉源右衛門茶屋から土井首大山祗神社前までの区間の道の状況は、次の地図資料によって第1集から説明している。
① 文久 元年(1861)「彼杵郡深堀郷図 深堀本村・小ヶ倉村・土井首村・大籠村・竿浦村」      長崎;歴史文化博物館蔵
② 明治34年(1901)「国土地理院旧版地図」 〔大日本帝国陸地測量部作製〕

ダイヤランドは広大な団地開発が昭和56年起工し、昭和59年4月から販売を開始した。当時の道跡はたどれない。長崎バス終点下に山道が残る。この下方の道は、実際に歩いて異論を感じる方もおられるかも知れない。
今回はそのため前の2資料と別に、手元に持っている次の2地図資料を掲載してみる。説明は省略したい。よく見ていただきたい。どの地図を見ても、今歩いている道しか考えられない。この道は6年ほど前、地元の磯道中山秀雄氏が「殿様道」と中島先生へ教えてくれた道である。④による「市道磯道第7号線」となる。
③ 明治17年(1884)測図同27年製版 軍事機密 長崎近傍ノ六 陸地測量部「深堀村」
④ 昭和25年(1950)3月測図 昭和44年5月印刷 中庭測量株式会社調製
長崎市 1:10000 都市計画図「長崎市認定道路網図(茂木〜小ケ倉、土井首地区)」

なお、ダイヤランド地域全体の開発前の姿を写した航空写真は、先項において小ヶ倉小学校創立百周年記念誌「小ヶ倉のあゆみ」(昭和53年)から載せていたが、今回また貴重な写真が見つかった。
ダイヤランド3丁目山下雄氏の協力によるもの。同団地2丁目自治会が2年前発行した会報に、昭和56年(1981)3月(着工前)の詳細な航空写真があった。また、同氏は当時、自分が写した2枚の写真を所持されていたので、ここに載せてみる。

「一ノ間路」はどこか。江川河口へは柳田回りか、網代回りか

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「一ノ間路」はどこか。江川河口へは柳田回りか、網代回りか

A 「一ノ間路」はどこか。測図上の「間路」の定義

平成16年11月国土地理院測図部管理課へ電話照会。測図上の「間路」の定義である。
国土地理院 「地形図の測図実行法」 明治44年作成 図式の適用の部
第4編 道路・鐵道・境界
道 路 國 道
縣 道
里 道
達 路(たつろ) 著名な居住地を連絡するもの。著名な居住地から國道、縣道又は達
路から分岐し、数村落を貫通するもの。
聯 路(れんろ) 相隣する居住地を連絡するもの。
間 路(かんろ) 連路に存する小路網とする。
小 徑

広辞苑による、かんどう〔間道〕は ①わきみち。ぬけみち。②⇒かんとう(間道)←→本道
明治34年測図「深堀」による土井首辺りの間路は、次のとおりである。
1 唯念寺先公園前から四つ辻に至る山道入口の人家まで
2 網代先切通しから江川に至る毛井首、平瀬の浦道(文久元年古地図は道なし)
3 土井首中からマリンセンターに至る現在の車道沿い

B 江川河口へは柳田回りか、網代回りか

佐賀藩深堀領に、こういった深堀道の歴史資料があればと、本当に願いたい課題である。深堀の殿様道が街道と言えるが、佐賀藩主の下向や深堀領主の長崎との行き来は、他藩と違い全て船であったろう。殿様道と言ってもそれは番所・台場の見回りと領内巡視の時、高台に上って村を望見し説明を受けることもあったようである。(平氏「肥前国深堀の歴史」ほか)
江川へ柳田回りか、網代回りか。これは両方考えられる。関寛斎が記述した「一ノ間路」「小渚」「迂路」を関連づけてさまざま考えてみるが、史料がなくどうしても確定できないでいる。「関寛斎日記に表れた地名等の特定と解釈」では、一番楽で近道となる土井首小学校から江川へ行く今のバス道沿い(土井首支所のところは川沿いにノア動物病院から林兼車検センター裏を行ったようである。)を、皆が納得できる道ではないかと紹介した。
この道は明治18年「西彼杵郡村誌」の土井首村とも深堀村とも何の記述がないのが、かえって「間路」と思われる。網代回りは平瀬が断崖であるので、当時はどうしても遠回りとなる。
同「西彼杵郡村誌」にある土井首村の「平瀬村路」が字法城方(放生がた 磯道団地)より西に折れず、シューズ前国道まで行き反対側右手の竹林の山道に入り、鶴見台の白百合荘前を通りジョイフルサンの裏手の字小名切に出たのであったら、これとしたいとも考える。ここも小径がある。土井首でもそういった説がある。
同村誌にある街道筋の竿ノ浦村界にある「柳田」とはどこであろうか。学校前がバス停の「南柳田」というももの、実際は長崎市土井首支所やコープ長崎南部支所も柳田町である。そして現在の江川町のジョイフルサンまで川向いは字「柳田」であるので困っている。街道は竿ノ浦村の樫永迫に入る。

大山祗神社前鹿尾川の奇岩上渡りと京太郎背後の山越えは

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大山祗神社前鹿尾川の奇岩上渡りと京太郎背後の山越えは

A 大山祗神社前鹿尾川の奇岩上渡りとはなにか

ここは「みさき道」コースの最重要地点である。現在の鹿尾橋は川幅が広く、鹿尾川はこの地点でないと渡れない。関寛斎日記は「下リテ一湾ニ出テ岸上ノ危岩ヲ渡リ一ノ間路ヲ行ク」と記す。
大山祗神社は、前は唯念寺先の公園の所にあった。昭和15年現在地に移転し、平成13年地区の寄付を募って社殿を再建しているが、古祠は奥の方にずっと昔からあった。
この鳥居前が「渡り地点」に間違いない。右岸が岩が多く、この奇岩を捲いて鳥居前に渡ったのではないだろうか。流れの中に大きな石があると洪水が心配なほどである。しかし、ここは明治
18年「西彼杵郡村誌」に「渡瀬」とあり、明治34年国土地理院旧版地図でも「渡渉所」である。
当時においては、関寛斎日記のとおりであり、角川書店「日本地名大辞典」のいわゆる渡船「渡し場」とは考えられない。角川は古道町の項で次のとおり紛らわしい書き方をしている。
「土井首村のコースは字古道から字大道を降りて鹿尾川の渡し場(大山祗神社の北北西150m地点)を渡り、字京太郎からその背後の山を越え、字草住の谷沿いを南下していたという」。
これは「渡り場」の単なる誤字ではないか。「柳渡シ」の記録「磯道ノ海岸」もまだ下流であろう。

B 京太郎の背後の山越えはどう考えるか

角川書店「日本地名大辞典」の古道町の項にこの記述があり、土井首の人がそう言う「現在の杠葉病院分院へ上って草住へ下った」いわゆる殿様道のコースである。
なぜ高く登り遠回りしなければならないのか。川岸沿いにちゃんとした古道が描かれている。私たちは歩いた感じと、いろいろ地図・文献を当り当時の集落の形成からも、どうしても納得されないでいる。一昔前の古道と考えられないことはないが、地元の地名・古道の研究者、故真鳥喜三郎氏の著書からいってもそうは取れない。
土井首村だけなぜ「みさき道」のコースがわかったか。全国的な権威のある辞典だけに、他の著本にも引用されており、地元でなんとか史料によって考証してほしい。京太郎は今の町でなく三和町の字にもある。鹿尾川の「渡し場」の表現解釈やいわゆる「古道」はどこかとも課題となっている。
ここでは、国道から現在の杠葉病院分院へ上る登り口の岩に盗賊が潜んで、旅人を襲ったという伝説(言い伝え)があるらしい。それは両方のコースを通っても有り得ると思われる地点の岩である。

「古道」という道があったか。また、字「大道」とはどんな意味がありどの位置か

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「古道」という道があったか。また、字「大道」とはどんな意味がありどの位置か

A 「古道」という道があったか

角川書店「日本地名大辞典 42長崎県」867頁、「古道町」の項の記述は次のとおりである。
「(略)町名のもとになった元来の小字名古道は、鹿尾川の渡り場から北へ字大道(現磯道町)の坂を登り山一つ越えた小ヶ倉界の谷間を指し、数軒の農家と水田・畑があったが、現町域は広く鹿尾川以北の山林部を包括する。(略)昔の古道の谷は南長崎ダイヤランドの造成で埋められた。なお、古道の字名は,江戸期に長崎から野母崎への御崎道が通っていたことよるが、土井首村のコースは字古道から字大道を降りて鹿尾川の渡し場(大山祗神社の北北西150m地点)を渡り、字京太郎からその背後の山を越え、字草住の谷沿いを南下していたという。」

「古道」とは今の鹿尾川岸、古道町の人家のある所ではなく、その左上のダイヤランドの谷である。確かに文久元年佐賀藩が作製した古地図では、この谷の中流に「古道」と書かれてある。しかし、この谷の道は谷入口に道はなく、中流付近を遡行して途中で途切れ、右尾根に上り200.8m地点(清四郎岳とある)を通り、現在の小ヶ倉中あたりに出ると思われる。えらく遠回りのルートである。他につながる道はない。鹿尾川を上流へ遡行する道は考えられない。

もしかして「みさき道」の以前の「古道」があったのではないかと探した結果であるが、どうもそうではないようである。大辞典の記述とおり字古道の区域は広く、北へ字大道(現磯道町)の坂を登り山一つ越えた「小ヶ倉界」の谷間を指しとあり、そこはもうダイヤランド3・4丁目のバス終点左上「一本松」あたりも谷間上の尾根村境で字「古道」となる。字図を調べると、実際ここに古道町の字「古道」が団地に取り込まれず飛地のように今まだ少し残っている。

従って、そこは「みさき道」そのものであり、特別な古道が当時あったと思われないのである。字名が付けられた時期は、正保2年(1645)国絵図作製のため村境が定められた時と思われるが、なぜ「古道」という字名が付けられたかわからない。もし「古道」があったとしたら、それこそ往古にこの谷を上る沢道であったろうと、単純に考えてよいのかもしれない。

古地図の「古道」の位置とここに数軒の家があったのが間違いないとすると、角川書店大辞典の意味するものがなにか不明である。後の大道・渡し場・京太郎越えも疑問が多く、後の項で説明する。

B 字「大道」とは、どんな意味がありどの位置か

後の蚊焼西大道の道塚のところで、字名の由来については詳しくふれる。正保2年(1645)長崎代官末次平蔵のもとで国絵図作製のために村境が定められるが、「大道」は「御崎道」に関係してつけられた字名と思われる。字「古道」の意味などは前に説明したが、字「大道」の位置は、字「古道」に続くダイヤランドバス終点下から土井首大山祗神社に下る、南岸の砲台が見え隠れした現在の磯道団地の上尾根の脇を行く街道あたりである。

故真鳥氏著書は、土井首地区の古道・地名を考察されているが、一番肝心なこのあたり「古道」「大道」と江川までの道が表れてないのが、非常に残念である。

「加能の下り口」と「南岸の砲台」とはどこか

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「加能の下り口」と「南岸の砲台」とはどこか

ここが土井首の人のいう地点、古地図にある「一本松」と思われる。今はそこから少し下ってダイヤランドバス終点一段下から竹林の中に下らざるを得ないが、了願寺ヘかけて尾根が海面に張り出すように見え、段々と眺望がよくなってくる。砲台といえば、高鉾・陰の尾・長刀岩の台場が考えられる。しかしこれらは南岸でなく西方の沖である。あまり遠くて砲台が見えただろうか。寛斎の方角間違いとも取られていた。

寛斎ほどの人に絶対そういうことはないだろうと思い調べてみた。小ヶ倉小創立百周年記念誌「小ヶ倉のあゆみ」ふるさと史料(昭和53年)に手がりがあった。小ヶ倉の古老が今の外港埋立地千本山に砲台があったと伝え、ただし考証できてないとある。千本山は鹿尾の南岸である。
文献を調べると随所にそれらしき記述が出てきた。佐賀藩にあって了願寺(寺は明治33年創建された)に元番所があったこと、ここと千本山に砲台があったことをうかがわせる関係資料があった。「古版長崎図集成」の湊外沖之図に表れた「千本」にも、御陣所の△印がある。

小ヶ倉柳生れで外港埋立前を知り、ダイヤランドの道塚も記憶のある先の蚊焼山村氏と現地調査した。千本山の突端は現在の後藤運輸辺りとなり、ダイハツはマークの看板がある。ここは明治4年海底電線の陸揚庫が建てられた。そして近くに砲台跡らしき石組みがあったが、昭和46年陸揚庫の移転復元のとき不明となったらしい。再度、ダイヤランドバス停下の山道に戻って、後藤運輸とダイハツのマークを確認した。確かにその辺りは木の間越しに、砲台が近くに見え隠れしたと思われた。
関寛斎日記は、文久元年に砲台を実際見たことを記録しており、砲台の考証史料足りうる。

(注) この稿の砲台は、長崎談叢19輯(昭和12年)の引用文が「南岸の砲台」とあったため調査したものである。しかし、今回判明した関寛斎日記の原文の字を見るかぎり、「南」ともとれるが「西」の字と読むのが正しいようである。
千本山は小ヶ倉のやや南となる。寛斎が見た地点からは西岸と言える。

ダイヤランドや小ヶ倉外港の昔の姿はどうだったか

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ダイヤランドや小ヶ倉外港の昔の姿はどうだったか

小ヶ倉小学校創立百周年記念誌「小ヶ倉のあゆみ」(昭和53年)の巻頭に航空写真などで掲載があり、開発前の姿がよくわかる。ダイヤランドは昭和59年販売開始。小ヶ倉柳埠頭建設はその前昭和37年である。ここ柳浦は千本山が半島形に土井首に向って突出してつくった内懐の入江で小ヶ倉唯一の好繋船地であった。今の南消防署辺りが付け根である。千本山は松の木が多く裏浜に海水浴場があった。突端に明治4年、長崎から上海及びウラジオストック間の海底電信の陸揚庫が設けられたが、この石庫は昭和47年に埋立のため現在地へ移転復元されている。

関寛斎日記の「笠山岳」「加納峠」「佳景の平地」はどこか。また「お水場」とは

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関寛斎日記の「笠山岳」「加納峠」「佳景の平地」はどこか。また「お水場」とは

A 「笠山岳」とは、どの山か
最初「笹(ささ)山岳」と読み違え、竹林が多い大久保山とすぐ思った。よく見ると「笠山岳」であったが、山自体は間違いなかった。右に見えるのはこの「大久保山」しかない。
小ヶ倉の現在の別の地図を調べている時、この山の新小が倉側の上り口に「笠山」という地名があるものがあり、字名として今も残っていることを市で確認した。資料をさがすうちに小ヶ倉の昔の山名として「笠山岳」が出てきた。しかし、今の山頂がそうであるか、手前の砕石場で削られた山頂を言うのかはわからない。
山の名前は、昔と今ではどの山もよく変っている。まして笠状の山はあちこちにある。長崎名勝図絵や古版長崎図集成を見ると、高浜などの後方に「笠山」と遠見番所があるものまで出てきた。大久保山は佐賀藩の陣所があった記録があり、県の遺跡地図で中世の「水木城跡」(?戸町番所のある山でなかったか)とされている。調べれば調べるほど、いろいろなことが出てくる山である。

B 「加能峠」はどこか。
加能は「鹿尾」とも書かれる。もともとの鹿尾はダイヤランドの尾根みたいで、字からいくと小ヶ倉ダイヤランド3・4丁目バス終点手前付近がそうであり、字「古道」もここに一部残る。その先土井首大山祗神社に下る道が字「大道」である。現在では、三和町大山祗神社先の大山林道登り口にも「鹿ノ尾」の字が存在する。
関寛斎日記「これより加能峠にて」の、「にて」の使い方がよくわからない。場所を表す「において」の意味に考えられるが、加能峠が五六丁上がった(日記原文により「上がった」が正)小ヶ倉港を眼下に望む佳景の平地の手前なのか。後なのか。あるいはこの平地そのものを指すものか不明である。
ダイヤランド内の「みさき道」のコースは、明治地図の県道を現在の団地地図に縮尺を合わせて書き写すと、ダイヤランド浜屋辺りまで少し上って尾根の右脇を下る。この浜屋までの途中に、古道町から鹿尾川沿いを遡ってきて大山からの道と合い、ダイヤランドのここにいったん登り、桜町病院下のお水場を通り小ヶ倉へ下る道がある。ここが峠であった可能性も考えられる。
ダイヤランド内の街道の分岐3地点に道塚があったことは、先に記した。この峠と古地図にある「山頭」、「一本松」の地点である。加能峠はこの3地点のいずれかであろう。桜町病院辺りの最初の分岐を峠と推定すると、寛斎の記述は、次の平地の特定によくつながってくる。
しかし、私の感じでは、「此より加能峠にて」は、日記の後に出て来る「加能の下り口」につながるようであり、そうすると「一本松」となるのである。

C 小ヶ倉港を眼下に望む佳景の平地はどこか
そこは前の「加能峠」からやうやう(だんだんとの意か)五六丁上がったところで、小ヶ倉港内の小島(今は陸続きの小ヶ倉支所先小ヶ倉神社地)を眼下に眼前に見る。西南は西海緲々(原文から「びょうびょう」で「はてしなく広々としたようす」が正)たりである。上がる距離が少し足りないが、小ヶ倉の港内が見えるのは、現在の老人ホーム「オレンジの丘」あたりである。
この辺はかって141.85mの水準点があった。埋立てでなく尾根の岩盤上に建設されている。お水場から道も上がり眺望がよい。ダイヤランド入口手前高比良造園の道塚から団地内の車道を上と横に這って、実測874m地点である。ここが古地図の「山頭」と思われる。
小ヶ倉の地元の人が言うところによると、ここは殿様の籠立て場である。家来が下のお水場に水を汲みに行ったらしい。そう考えられるところである。土井首の人はもう少し行ってバス終点の手前付近を言うが(ここが「一本松」と思われる)、逆に行く場合はまだ登る途中であり、休むところはある程度登りきったところで休憩するであろうし、そこでは尾根を回り過ぎて、もう小ヶ倉の港内が見えなくなるのである。

D お水場(御水の池)とはなにか
塩屋川の上流、現バイパス2号橋下、2丁目団地自治会公民館前の一角にあった。佐賀藩主鍋島公が軍船用のために堤を築いて貯水したとも、また深堀鍋島公が茶水用に築堤したとも伝えられるが定かでない。築堤があったことだけは事実であるが、2丁目団地の造成によって現在はその痕跡もない。ただ清澄な清水が枯れることなく流れている。
鉄分を含有し、道の尾温泉に類似の冷泉ともいわれる。築堤は寛永年間と伝えられ、面積約
80坪ほどだったという(小ヶ倉小創立百周年記念誌「ふるさと史料」から)。
今この場所近くには、昭和54年6月、老人憩いの家「おみず荘」が建っている。

「みさき道」がダイヤランド内を通ったと、どうして判断できるのか

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「みさき道」がダイヤランド内を通ったと、どうして判断できるのか

ダイヤランド内に道塚が3地点にあったことは、団地開発前を知る小ヶ倉柳生れの人の記憶談を得ている。少青年時代この辺をよく歩き覚えており、道塚は三和「みさき駅」前にある現物を見せると、これと同じであったと断言された。現在、蚊焼在住の山村氏である。。蚊焼峠入口の茶屋の特定で奇縁となり、話を聞くうちにダイヤランドに道塚があったと言い、さらに千本山の砲台の件もわかった。たいへん世話になった方である。

ダイヤランドに道塚があった所は、明治地図にある分岐で、文久古地図に地名が表れている「山頭」「一本松」など3地点であると思われる。関寛斎の日記・これらの地図類から当時の「みさき道」はダイヤランド内を通ったことは間違いない。

道塚の所在は、菱重興産を通じ三菱地所開発本社に問い合わせて貰ったところ、今団地内にあるカドムラ企画が当時測量に当られたことがわかった。だが、道塚の所在や当時の詳細な図面は不明であった。

「みさき道」は、戸町の海岸を通らなかったか

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「みさき道」は、戸町の海岸を通らなかったか

新地・松ヶ枝・浪の平あたりは、海で街道はなかった。現在の戸町に行くにも、必ず二本松から今の戸町小学校前まで下った。昔はここまで海岸線が入り、「杉の浦」というさびしい漁村であった。異国船の来航により寛永15年(1638)野母遠見番所が設けられ、この頃から各地の長崎警備が強化され、戸町番所が置かれ魚見や白崎に台場が築かれた。安政6年(1859)大村領だった戸町村は、交換されて天領となった。

戸町から海側の山腹を小ヶ倉塩屋まで行く道はあったかも知れないが、魚見岳台場の二ノ台場付近を通る道となり、一般の通行はあまり許されなかったと思う。明治29年でも深堀森氏は小菅から源右衛門茶屋へ上っている。こちらの道が多く利用されるようになったのは、小ヶ倉柳の先が整備された明治の後年からであろう。磯道の海岸から小ヶ倉柳間に「柳渡し」の私渡一艘があったことは、明治18年「西彼杵郡村誌」に書かれている。

平氏「肥前国深堀の歴史」によると、佐賀藩二代目藩主光茂が寛文12年(1672)9月16日、深堀巡見の際、「西泊・戸町番所を見廻ったのち戸町から陸路深堀に到着した」(光茂公御年譜)とある。これがこの小ヶ倉上揚を通っていた道と思われる。