九州(鹿児島県)」カテゴリーアーカイブ

北鹿児島の風景  長島町・阿久根市・薩摩川内市ほか

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北鹿児島の風景  長島町・阿久根市・薩摩川内市ほか

北鹿児島への旅。これまで紹介した史跡・巨樹・石橋以外の風景などの写真。

熊本県天草富岡港、下田温泉海岸、牛深港フェリー、鹿児島県長島町蔵之元港、蔵之元のアコウ、長島海岸展望所、黒之瀬戸大橋、阿久根市の肥薩おれんじ鉄道、薩摩川内市の川内川畔カッパ、樋脇町のセンダン、祁答院町蘭牟田の世界一郷水車、いちき串木野市の市来海岸吹上浜、冠岳道標(「串木野停車場」の刻みあり)、さつま町の下手田の神、伊佐市の財寶温泉大口工場、さつま町の平川道標(「米之津港(九里…)」の刻みあり)

郡山八幡神社  伊佐市大口大田

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郡山八幡神社  伊佐市大口大田

伊佐市大口市街地中心から国道268号を水俣方面へ向い、車で約8分。右手に郡山八幡神社がある。
琉球建築の情調も強く加味されており。国指定重要文化財となっている。日本最古の「焼酎」の文字がある木片は資料館「木樽」に展示されている。木片写真は近くの観光案内板から。
伊佐市HP「いさ(伊佐)市」観光地案内による説明は次のとおり

郡山八幡神社 (国指定重要文化財)

郡山八幡神社は、建久5年(1194年)に創建されたといわれ、現在の建物は京都・金閣寺より古い16世紀頃に建てられたものです。今から500年近く前の建物が中央文化から遠く離れた薩摩に残っていることは非常に珍しく、昭和24年に国の重要文化財に指定されました。
昭和29年の解体修理の際、本殿北東の柱貫の先端から宮大工の落書きが発見されました。これは施工主の寺僧がケチで、改築にあたっていた宮大工に一度も焼酎をご馳走してくれなかったのに腹を立てて書き残したものと思われます。これが、わが国における「焼酎」という文字の初見であるとされています。
永禄2年(1559年)当時、すでにこの地方では焼酎が飲まれていたことが裏付けられ、民俗資料としても従来の説を覆す重要な資料となりました。
住所 鹿児島県伊佐市大口大田1549

曽木発電所遺構  伊佐市大口曽木

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曽木発電所遺構  伊佐市大口曽木

「曽木の滝」ついては、前の記事にしているので参照。曽木の滝公園下側(滝からすると上部落下点 前記事写真5)に曽木発電所用の導水口があり、岩をくりぬいた導水路の隧道跡がある。
曽木発電所跡は曽木の滝の1.5km下流にあり、鶴田ダムへの県道404号鶴田大口線により下って行くと、対岸側から発電所跡のレンガ造建物を眺められる展望台がある。

なお、県道整備のため滝のすぐ下流側に「曽木大橋」を架橋工事中で、大きな橋脚を築いていた。伊佐市HP「いさ(伊佐)市」観光地案内などによる説明は次のとおり

曽木発電所遺構  (伊佐市大口曽木)

曽木の滝の1.5キロメートル下流に、今でも明治の面影を強く残している曽木発電所跡があります。曽木発電所は明治42年に竣工し、その出力は当時国内でも最大級のもので、水俣のチッソなどにも送電を行っていました。
昭和40年に鶴田ダムの完成とともに水没することになりましたが、現在では渇水期の5〜9月頃に中世のヨーロッパの居城跡を思わせるレンガ造りの建物が姿をあらわします。その時期以外は大鶴湖の湖底に沈み、存在をも忘れさせます。また、周辺にはヘッドタンクやずい道跡なども残っており、土木遺産として貴重なものとなっています。

創設者は野口遵で、牛尾大口金山に電力を供給するために明治42年に曽木の滝の水力を利用する電気事業を起こしました。当時としては大規模な800キロワットの電力を作りだし、余剰電力を使い水俣ではカーバイト生産を開始。後に、戦前における日本最大の化学会社へと発展したことから、この発電所は日本化学工場発祥の地といわれています。

曽木の滝  伊佐市大口宮人

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曽木の滝  伊佐市大口宮人

伊佐市大口市街地中心のおおくちふれあいセンターから、国道267号線を宮之城方面へ向い、大口南中学校手前の三差路を右折し、県道404号線へ入る。そこから車で約5分である。
さつま町方面から国道267号線により大口へ入った場合は、曽木で伊佐広域農道が交差するので、広域農道に左折して西へ進むと「曽木の滝」へ着く。川内川の鶴田ダム上流となる。

伊佐市HP「いさ(伊佐)市」観光地案内による説明は次のとおり。曽木の滝の1.5km下流にある「曽木発電所遺構」は次項へ。

曽木の滝公園  (伊佐市大口宮人)

滝幅210メートル、高さ12メートルの壮大なスケールを誇り、「東洋のナイアガラ」とも呼ばれる曽木の滝。千畳岩の岩肌を削るように流れ落ちる水流とその轟音は、訪れる人々を釘付けにするほど豪快。一帯は自然公園となっており、四季の彩りも美しく桜や紅葉の季節には、イベントも開催されます。
大型駐車場も整備されており、園内には食事処・土産品店が軒を並べています。なかでも鯉料理や黒豚を使った料理は絶品です。

公園内の清水神社は縁結びと安産の神様が祭られています。この付近は、江戸時代に水運による米の輸送を行っており、その水路を開くために大規模な川浚えを行った歴史があります。またその当時の川浚え唄は今でも伝えられています。
下流には、レンガ造りの曽木水力発電所跡がダム湖に残り、夏季には中世のお城を思わせる風貌で水面に姿をあらわします。

新時代の景観を選ぶ「平成百景」曽木の滝が第24位に入りました!
この投票は、読売新聞社が創刊135周年を記念して行なわれたもので、全国から300か所の候補地をリストアップし、全国の読者からの投票を募りました。総投票数は全国で64万票を上回り、それをもとに選考委員会が開かれ、100景観が2009年(平成21年)4月中旬選定されました。曽木の滝は第24位に入りました。

山崎郷地頭仮屋跡  薩摩郡さつま町山崎

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山崎郷地頭仮屋跡  薩摩郡さつま町山崎

薩摩川内市樋渡町の「倉野磨崖仏」を見て、県道394号線により薩摩郡さつま町山崎に入った。山崎町交差点をまっすぐ進むと、山崎小学校前で国道328号線と合う。この角に古屋敷跡の門と大イチョウがあり、中の広場へ入ると「山崎郷地頭仮屋跡」であった。
現地説明板は次のとおり。大イチョウと置かれた石材が何か気になり、写しておいた。

山崎郷地頭仮屋跡

山崎郷は、島津藩政時代は藩の直轄地で郷内の行政は地頭仮屋で行われていました。
寛永16年(1639)の薩摩藩内の外城のなかに山崎の名があり、山崎村の成立は寛永年間と推察されます。この当時久富木村が含まれていたかは明確でありません。そしてその後の明暦〜万治(1655〜1660)の頃に、ニ渡・白男川・泊野は東郷から山崎郷に編入されています。
地頭仮屋は、文政10年(1827)の再撰帳によると「其時分地頭仮屋町中宿場内ニ御座候処文化十一年戌正月地頭仮屋直シ方ノ願申出又元ノ地頭仮屋敷ヘ引直シ有之候」と書かれており、一時山崎町の中宿場内にあったが文化11年(1814)の頃また元の場所(現在地)に移されています。
そして地頭仮屋は明治(1867)に入り、山崎戸長役場、山崎村役場、昭和28年(1953)に山崎町役場となり昭和30年に宮之城町と合併しました。
平成8年に山崎御仮屋跡の埋蔵文化財発掘調査が実施され、御仮屋時代の建物跡や陶磁器、古銭等が出土しています。また、この一帯には中世の頃に浄福寺があったといわれており、発掘調査で擁立柱2本が出土し、付近には多数の五輪塔が現存しています。

冠嶽園・仙人岩・冠 岳  いちき串木野市冠岳ほか

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冠嶽園・仙人岩・冠 岳  いちき串木野市冠岳ほか

串木野市街の国道3号線大原町交差点から、県道39号串木野樋脇線により樋脇町・市比野温泉方面へ行く。県道左に見えてくる高い山が冠岳の3岳。冠岳小学校入口を過ぎ、しばらく進むと「冠嶽園」入口の赤い橋がある。
中国風庭園のある冠嶽園の背後の岩が仙人岩。冠嶽園から冠岳山腹の展望公園まで上がると日本一の徐福像がある。車はまだ上の鎭國寺頂峯院まで行き、途中から登山道を40分登ると冠岳(西岳 標高516.4m)山頂へ着く。車道の一周道路は、県道39号線手前の西岳登山口からも上がり、串木野ダム脇を通って行く。

鹿児島県総合観光サイト「ゆっくり悠・遊観光かごしま」いちき串木野市観光スポットによる説明は次のとおり。仙人岩の植物群落は、鹿児島県博物館HPの文化財から。

冠嶽園(かんがくえん)   所在地 いちき串木野市冠岳13511-7 (旧串木野市)

冠嶽園は、薬草の宝庫でもある山岳仏教の名山「冠岳」の縮景と、その名の由来である「方士徐福」の伝承を顕現するため頂峯院跡地に設けられた中国風庭園です。また、串木野市が東海(東中国海)をはさんで面している南部諸市省を中心に、中国との友好関係を深めたいと願いをこめたものでもあります。入り口の渓流に木橋の2連橋が架かり、散策路に最適です。

冠岳展望公園        所在地 いちき串木野市冠岳(西岳中腹)

串木野市内や東海や西岳(冠岳)が眺望でき絶景である。 また、東海や中国を眺めて立つ日本一(高さ8m)の「徐福像」が建立されている。

冠嶽山鎭國寺頂峯院    所在地 いちき串木野市上名7647-111 (旧串木野市)

冠嶽(かんむりだけ)は、秦の徐福来山以降二千年余の歴史を有する薩摩屈指の霊山です。用明天皇(聖徳太子御父君)の御代、蘇我馬子は勅願により紀州熊野権現を勧請し、その別当寺として興隆寺を建立しました。平安時代、阿子丸仙人が天台宗となし、室町時代勅を受け名僧宗寿法印が京都東寺より下るに及んで、真言宗鎭國寺頂峯院(ちんごくじ ちょうぼいん)と改められました。藩主島津家歴代の信仰も厚く、寺運は大いに高まった方と伝えられますが、明治の廃佛毀釈以後その全容を知ることは困難となっていました。 昭和58年、現山主村井宏彰師が入山。山麓に結ばれた葉衣菴に百年ぶりに法灯が灯されました。同61年には宗教法人として認可。平成元年大師堂が落慶し、その後黄不動堂、熊野薬師堂、庫裡と漸次建立され現在に至っています。

冠 岳(かんむりだけ)    所在地 いちき串木野市冠岳 (旧串木野市)

昔も今も信仰の山として畏敬の念をもたれる霊山冠岳。ここは古代山岳仏教発祥縁の地であり、真言密教の地としても知られ、また不老不死の霊薬の言い伝えがあるほどの薬草の宝庫でもあります。数多くの奇岩や怪岩、様々な欧穴などが不思議な魅力を譲し出し、残された様々な史跡が昔日の彼方に消えていった歴史の面影を今に伝えています。
また、その周辺には、親水公園や中国風庭園「冠嶽園」などがあります。11月23日には「かんむりだけ山市物産展」が行われ、秋の風物詩となっており、多くの人で賑わいます。また、冠岳の中腹を一周する冠岳ウォーキングコース(歩行者専用道路・約10キロ)があり、様々な古代山岳仏教史跡が残っていますので、これらをお詣りしながらの登山も楽しめます。

仙人岩の植物群落      県指定 天然記念物

指定年月日 昭和29年5月24日  所在地 いちき串木野市冠岳
いちき串木野市の北東にある冠岳は,標高516mの山で,西岳,中岳,東岳に分かれます。仙人岩は,東岳の下にある冠岳神社の裏手にある小峰で,高さ70mの絶壁に囲まれた場所です。
この岩の北側頂上付近にはキクシノブが自生し,スダジイやイスノキ,リュウキュウマユミ,サツマルリミノキ,リュウビンタイ,ハヤトミツバツツジなどを構成種とする特徴的な照葉樹林が発達しています。シイ林の中にはヤッコソウも自生しています。

薩摩金山蔵  いちき串木野市下名

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薩摩金山蔵  いちき串木野市下名

国道3号線が串木野市街へ入る手前、野下口の交差点から右折して行く。三井金山資料館がある。施設入館料は無料だが、坑道貯蔵・仕込蔵トロッコ見学は、大人700円。
薩摩金山蔵株式会社HPによる説明は次のとおり。

薩摩金山の歴史に身をゆだねる
今から約350年も昔、薩摩藩、第19代大守島津光久公の頃に鉱脈が発見され、ひと頃は、日本一の産金量を誇っていた串木野金山。江戸時代初期以来、薩摩の財政を支え、明治維新の原動力となったといわれるその存在は、数々の物語を私たちに語り、伝えてくれます。坑道の奥深くに刻まれた時と、時代の流れを感じてください。

本格焼酎のルーツ、そして仕込蔵の今
500年にもわたり、さまざまな変遷を経ながらも、庶民が楽しむ蒸留酒として生き続けてきた薩摩の本格焼酎。薩摩金山蔵では、串木野金山の350年に亘り掘り続けられた総延長120キロメートルにもおよぶ坑道に、甕仕込みと甕貯蔵の蔵を構えております。
…仕込みの様子は、坑道内の仕込蔵で実際にご覧いただけるようになっております。また、坑道内は1年を通して20℃前後という一定した気温に保たれ、地下ということもあり紫外線はゼロ。焼酎作りだけでなく、濵田蔵置場1,000リットル甕がずらりと並ぶ貯蔵にとっても、良い環境が整っているのです。…これほど地下深くに仕込蔵を持つ蔵も世界唯一、薩摩金山蔵だけです。

入来麓武家屋敷群  薩摩川内市入来町浦之名麓

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入来麓武家屋敷群  薩摩川内市入来町浦之名麓

JR川内駅前通りの右から高架を渡り県道42号川内加治木線により入来町へ向かう。大宮神社前で国道328号線と交差するので左折してさつま町方面へしばらく行くと、川が蛇行する所に橋があり、この奥の通りが「入来麓武家屋敷群」となっている。

鹿児島県総合観光サイト「ゆっくり悠・遊 観光かごしま」薩摩川内市の伝統的建造物保存地区による説明は次のとおり。清色城跡は、平成16年9月30日に国の史跡に指定された。

入来麓武家屋敷群  所在地 薩摩川内市入来町浦之名麓 (旧入来町)

入来のほぼ中央部に位置する麓地区は、中世からの古い町並みとして全国的に知られています。四隣に威を振った薩摩藩随一の堅城(山城)である清色城を中心に川原石を使った玉石垣による整然とした区画割、武家屋敷門(茅葺門)、大手門前の濠や広馬場、下門口を備えたお仮屋跡など多くの史跡、文化財が残っています。中世の息吹が聞こえる麓武家屋敷地区を散策してはいかがですか。

倉野磨崖仏  薩摩川内市樋脇町倉野木下

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倉野磨崖仏  薩摩川内市樋脇町倉野木下

薩摩川内市街の「267入口」交差点から国道267号線によりさつま町方面へ向かう。さつま町境に入る手前の南瀬交差点から右折して川内川の橋を渡り、県道394号線に入り東へ進む。すぐ県道346号線との交差点があり、県道の反対側に左折して車道を川内川の方へ向かうと、斜面地の岩面に薩摩川内市指定文化財「倉野磨崖仏」が見える。

鹿児島県総合観光サイト「ゆっくり悠・遊 観光かごしま」薩摩川内市の史跡による説明は次のとおり。
倉野磨崖仏  所在地 薩摩川内市樋脇町倉野木下 (旧樋脇町)

鎌倉末期に彫られたとされる磨崖仏は、梵字17・陽刻仏像1・陰刻五輪塔3・その他仏種子などからなっています。梵字を刻むことは仏像を彫ることと同じ意味で、この梵字の中で最も注目されるのは中央月輪中に書かれているオーンクです。梵字の下に天保2年(1318年)の年号が記され、9月5日寂円房が亡親の供養とともに、村人の平安を祈願した旨が明記されています。近くには、吉野朝初期の逆修塔といわれる十数基の石塔、倉野殿墓があります。

さつま町に残るアーチ式石橋  下手橋・求名橋・中福良橋・橋掛橋

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さつま町に残るアーチ式石橋  下手橋・求名橋・中福良橋・橋掛橋

さつま町(旧薩摩町)に残るアーチ式石橋の一部を紹介する。石橋は鹿児島県には数多いが、今回、幹線道路を通っていて見かけた各石橋である。
HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」鹿児島県の石橋によるデータは次のとおり。詳しくは同HP参照。

写真  1〜  3   №516   下手橋(石行橋)   さつま町下手寺屋敷
前 川   橋長:25.0m   橋幅:4.0m   径間:10.8m   拱矢:5.3m
架橋:大正6年
国道267号線の羽有地区公民館方面へ右折、300m先左手に架かっています。完全に廃橋となっています。右手は公園になっています

写真  4〜  6   №514   求名(ぐみょう)橋   さつま町求名下中
前 川   橋長:21.5m   橋幅:5.7m   径間:9.0m   拱矢:4.5m
架橋:明治37年
国道267号線から県道402号線へ分岐するすぐ上流に架かっています。

写真  7〜  9   №512   中 福 良 橋     さつま町求名戸子田
求名川   橋長:12.3m   橋幅:5.5m   径間:10.9m   拱矢:3.7m
架橋:明治37年
国道267号線の左手集落とさつま幼稚園に入る道に架かっています。

写真 10〜 12   №513   橋 掛 橋       さつま町求名
橋掛川   橋長:8.0m    橋幅:5.0m   径間:5.0m   拱矢:3.0m
架橋:明治41年
中福良橋から国道267号線を1.8Km北上。橋掛口バス停から左手旧道へ左折したところに架かっています。