九州(沖 縄 県)」カテゴリーアーカイブ

川上の蔡温松  名護市川上 ( 沖縄県 )

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川上の蔡温松  名護市川上

現地説明板は、次のとおり。国道58号により名護市の北東部、川上交差点まで向かう。右方の新川上橋を渡って川上公民館に上がる。広場の東隅にこの史跡説明板があり、対面の小高い丘の上に「川上の蔡温松」が見える。

名護市指定文化財(天然記念物)  昭和24年10月1日指定
川上の蔡温松 (かわかみのさいおんまつ)
名護市字川上168番の小高い丘に生育するリュウキュウマツは、「蔡温松」と称され区民に親しまれている名木である。
かつては同規模のリュウキュウマツが隣接して3本生育していたことから「三本松」とも称されていたが、その内1本は隣家への倒木の危険性があることから平成15年に伐採され、もう1本も平成23年5月29日に襲来した台風2号の被害にて倒木した。
同区に所在する蔡温松として貴重な1本となっている。推定樹齢は約150年、樹高約16m、胸の高さでの幹周りは4.55m(直径145m)を測る。
蔡温松の名称は琉球王府時代に三司官を務めた蔡温(1682〜1761)に由来する。蔡温の山林政策による思想が受け継がれたリュウキュウマツであり、蔡温とその時代の羽地地域にまつわる歴史を学ぶことのできる貴重な植物であることから、名護市指定文化財(天然記念物)に指定された。
平成25年(2013年)2月 名護市教育委員会

源河ウェーキ  名護市源河 ( 沖縄県 )

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源河ウェーキ  名護市源河

名護市教育委員会社会教育課「なごわらびーネット なごしキッズサイト」による説明は、次のとおり。名護市の北東部、国道58号源河交差点から右折して、県道14号に入る。源河宮の対面に「稲嶺尋常小学校源河文教場跡地」碑があり、右折して白い建物の民家下坂道を回り込むように高台へ登って行くと、石塀の屋敷跡「源河ウェーキ」がある。

■ 源河ウェーキ(げんかうぇーき)
市指定有形文化財(建造物)
指定年月日 平成3年12月22日

源河ウェーキは、名護市字源河にある古い屋敷跡(やしきあと)で、源河集落の小高い丘の上に建っています。「ウェーキ」とは土地や財産(ざいさん)を多く持っている富豪(ふごう)のことです。源河ウェーキに屋敷が建てられたのは19世紀はじめと考えられています。数十年前から人は住んでいないので、母屋(おもや)は古くなってしまい、平成5年(1993年)に解体(かいたい)工事が行なわれました。建物に使われていた建築材料(けんちくざいりょう)は現在も保管(ほかん)されています。
屋敷内(やしきない)の建物の配置(はいち)された跡(あと)から、屋敷の北側にフール(石づくりの豚小屋)と便所、西側に裏門(うらもん)・正門・旧倉敷跡(きゅうくらしきあと)、中央に母屋があったことが分かります。現在は、道ぞいにつくられた「あいかた積(つ)み」の石垣(いしがき)とフールだけが残っています。源河ウェーキは近世の一般的(いっぱんてき)な住居の形をしていて、木造建造物(もくぞうけんぞうぶつ)の屋敷の配置、建築材料や建築技術(けんちくぎじゅつ)の見本をしめすものとして重要(じゅうよう)です。

改決羽地川碑記  名護市田井等 ( 沖縄県 )

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改決羽地川碑記  名護市田井等

サイト「近世以前の土木・産業遺産」沖縄県リストによるデータは、次のとおり。「改決羽地川碑記」1830年の石碑は、名護市立名護博物館(東江1丁目)に現物が保管・展示されているので、見学してから出かける(写真 1〜3)。
複製された現在の碑は、国道58号により北東の羽地川中流域、川上交差点まで向かう。左方の住宅地市道先に桜の公園があり、坂段を上がった高台に立つ。石碑碑文は史料のとおり(写真 4〜10)。
羽地大川を見下ろす川上公民館広場にあるのは、また別の碑。1971年建立「羽地大川改修顕彰碑」だった(写真11〜14)。

改決羽地川碑記 かいけつ、はねじ
名護市 名護博物館 石碑 (蒲鉾型、砂岩) 高134㎝,幅57㎝ 1745年→1830年再建 県史跡 WEB(みさき道人) 移設/記念碑が残っているだけで、事業そのものは、視認不可/1735年の大水害に対し、蔡温(三司官=宰相、風水思想)が10万人を動員して3ヶ月で行った河道変更事業の記念碑 2 B

(正面)「改決羽地川碑記/蓋以國家之事千態萬般其端無窮而其大要唯在於務本而己故曰凡事皆湏務本夫民者國家之本/而安其心者即政法之本也然則為民防患興利者乃君相本分之要務也窃惟山北羽地郡田畝最廣/内有大川源出于東南萬山之間流達西北轉抵運天以通乎海而其曲直殆與水性相逆毎値大雨横/流汎溢屢壊田畝而庶民不堪修葺之役然而往往國人任意決川嘗無以知水性順逆之法者但毎年/川澮値雨即敗値敗即修而人民不堪其憂也非一日矣雍正乙卯秋七月間暴雨大降川水奔騰民田/盡敗無力可施不啻庶民憂之/君相亦深憂之於是/特命法司官蔡温改決其川以防庶民之憂爰蔡法司即率官僚至于羽地度其地勢審其順逆朝出夕歸悉/従治水之法改決其川以致順流重修田畝而正經界且構橋四座使民得往来之便所謂双亀橋者是/也鳴呼偉矣非特一時之功實萬世之利也自本年八月念三日經之營之至十一月十七日既告其成/焉自今以往居者無泛濫之憂行者鮮褰裳之苦春耕夏耨隨時務業而萬姓咸忻百官具慶僉曰/明君錦福履于億萬斯年遍歡呼于三十三嶋風調雨順物阜民安未有如今日之盛者也茲文龍奉/憲令記之不敢以固陋辭因述決川之顛末使知/君相務本之治人民永安之盛矣爰勒諸石以埀不朽云」

名護市教育委員会社会教育課「なごわらびーネット なごしキッズサイト」による説明は、次のとおり。

■ 改決羽地川碑記(かいけつはねじがわひき)
県指定史跡
指定年月日 昭和44年8月26日

「改決羽地川碑記」は1735年に琉球王国の三司官(さんしかん、今の大臣)だった具志頭親方蔡温(ぐしちゃんうぇーかたさいおん)という人によって行なわれた、羽地大川(はねじおおかわ)の工事の様子を記したものです。
1735年7月に大雨が降って羽地大川は大洪水となり、羽地ターブックヮと呼ばれた広い田んぼが大きな被害を受けました。そのため蔡温(さいおん)が、洪水が起こらないように川の工事を行ないました。工事は、1735年9月2日から11月17日までの間に10万人以上の人たちが参加した大工事でした。
碑は、この工事のことを未来に伝えるために、1744年に建てられました。その後、古くなったので1830年に新しく建て直されました。しかし、建て直された碑も古くなり、書いてある文章も読めなくなってきたので、1997年にまた建て直されました。今、建っている碑はそのときのもので、1830年の石碑は名護博物館に保管・展示されています。
蔡温の工事のあとも川は時々洪水を起こしました。そのため、1917年に洪水を防ぐため、川の流れる道を変えて、それまで呉我(ごが)に流れていた川を仲尾次(なかおし)の海に注ぐように工事を行ないました。機械の無い時代だったので、人の力だけで行なう難しい工事でした。結局、この工事は1938年に終わりました。この工事に力を尽(つ)くした人たちをたたえるため、1971年、羽地大川を見下ろす川上公民館広場に「羽地大川改修顕彰碑(はねじおおかわかいしゅうけんしょうひ)」が建てられました。

名護番所跡のフクギ群  名護市東江1丁目 ( 沖縄県 )

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名護番所跡のフクギ群  名護市東江1丁目

名護大百科事典 Nagopedia 試行版による説明は、次のとおり。国道58号東江4(北)交差点から県道84号に入る。年金事務所の先に「名護市立名護博物館」がある。

名護番所跡のフクギ群
種別:天然記念物
指定年月日:昭和49年3月18日/県指定
所在地:東江一丁目8番11号

番所とは王府時代の役所のことで、フクギ群は番所の跡の敷地を囲むように生育します。推定樹齢300年近い6本のフクギは、地頭代の屋部菊陰(1695年頃)が植栽したといわれます。樹高は17m〜18m、胸高直径は最大83㎝、以下83、76、67、54、42cm。戦前は県山林会で老樹名木に指定されています。
その他、東江区には名木に指定されたフクギの屋敷林などもありフクギがめだちますが、近年しだいにブロック塀に変わりつつあります。

フクギ(Garcinia subelliptica Merr)は常緑の高木、フィリピン島に分布します。八重山群島で山地に自生し、沖縄島では御嶽や屋敷などに植栽され、時として逸脱することがあります。木の成長は遅いのですが、防風防潮樹としてすぐれています。また樹皮からは黄色の染料がとれ、かつては芭蕉の糸を染めていました。
番所跡は名護町役場、名護市役所と変わり、現在名護博物館となっています。
フクギの高く空を突くような樹冠で、厚く光沢のある葉っぱは、暑い沖縄の景観を特徴づけ、建物をひきたたせてくれます。

名護市立名護博物館所蔵の印部石(ハル石) ( 沖縄県 )

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名護市立名護博物館所蔵の印部石(ハル石)

沖縄県地域史協議会 地域史叢書「沖縄の印部石(しるびいし)」2009年8月発行に、名護市立名護博物館所蔵の印部石(ハル石)は、次のとおり掲載されている。
順不同、展示されている一部を名護博物館の許可を得て撮影してきたが、印部石の状況写真として見ていただきたい。サイト「近世以前の土木・産業遺産」沖縄県リストは、現地に現存する印部石のみ登載対象としている。

46p 印部石 め きちる原  56×25×7.5cm 硬砂岩 名護市指定文化財
48p 印部石 た こくてん原 56×24×13cm  安山岩 名護市指定文化財
49p 印部石 き さきやま原 67×23×20cm(最大値) 泥 岩
53p 印部石 キ たこ川原  61×25×16cm  石英はん岩
54p 印部石 テ なかをす原 63×27×20cm  砂 岩 名護市指定文化財
55p 印部石 き まてきや原 55×23.5×14.5cm 砂 岩 名護市指定文化財
57p 印部石 □ ・・・     55.5×24.5cm  流紋岩
68p 印部石 ち かうち原  69×22×12cm  石英はん岩 名護市指定文化財
69p 印部石 ゆ 寸ろき原  58×25×12cm  砂 岩 名護市指定文化財
72p 印部石 く せなか原  54×20×16cm  砂 岩 名護市指定文化財
76p 印部石 ヨ ふくち原  32×15×3.8cm  陶 製 名護市指定文化財
78p 印部石 ヱ ゐまた原  56×25×12cm  砂 岩 名護市指定文化財

名護市教育委員会社会教育課「なごわらびーネット なごしキッズサイト」による説明は、次のとおり。

■ 名護博物館所蔵のハル石(なごはくぶつかんしょぞうのはるいし)
市指定有形民俗文化財  指定年月日 平成4年12月1日
ハル石は印部土手石(しるびどていし)ともいいます。1737年〜1750年に琉球王国の三司官(さんしかん、今の大臣)だった具志頭親方蔡温(ぐしちゃんうぇーかたさいおん)という人が行なった検地(けんち)の時に建てられたものです。検地とは、農民の田畑などをはかって調査することです。ハル石は土地をはかるのに必要な基準点(きじゅんてん)として建てられました。石には、建てられた場所の地名と、ひらがなやカタカナがきざまれています。ひらがなやカタカナは、ハル石を建てた順番を表していると考えられています。
沖縄全体で7,000〜8,000基も建てられたといわれていますが、今ではその中の200基ぐらいしか見つかっていません。名護市では37基が見つかっていて、その中の12基が名護博物館に展示されています。
ハル石に刻まれている地名は、今はもう無くなってしまった地名もあります。ハル石はむかしの地名を知ることができるので、地域にとってとても貴重(きちょう)な資料(しりょう)です。

塩 川  本部町崎本部 ( 沖縄県 )

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塩 川  本部町崎本部

現地説明板は、次のとおり。名護市から国道449号により本部町へ向かう。本部町に入ってすぐが崎本部塩川集落である。塩川バス停手前に、国指定天然記念物「塩川」の説明板があった。

国指定天然記念物  塩 川   昭和47年5月15日
この塩川は海岸線より150m余の陸地内部にあって海面上1.29m〜1.42mの岩場から常時海水を湧水している世界でも珍しい川で昭和47年5月15日、国の天然記念物に指定された。
この塩川の湧出機構については岩塩層説、サイフォン説、地下空洞説などいろいろあるが、確定的なものは未だない。
これまでの調査によれば
①潮位と水位(湧水量)は比例する。
②湧出量と塩水濃度は逆比例の関係にある。
③海水と陸水が混合したもので岩塩層説は全く否定される。
海水の流れる川は世界でもここ「塩川」とプエルトリコの二カ所しかなく貴重な川である。
この地域において許可なく現状を変更し、または保存に影響を及ぼす行為をすることは法律で禁じられています。      本部町教育委員会

ウィキペディアフリー百科事典による説明は、次のとおり。

塩 川 (沖縄県)
塩川(しおかわ)は、沖縄県国頭郡本部町字崎本部塩川原にある全長約300メートル、川幅4メートルほどの小規模な河川であるが、日本国内ではで唯一塩分濃度の高い河川として、沖縄返還当日の1972年(昭和47年)5月15日に、国の天然記念物に指定された[1]。

概要
沖縄本島北部、本部半島の地質には石灰岩が多く含まれており、雨水が石灰岩の亀裂から地下に浸透し、海岸近くで湧水となっている場所が多くあり、地下には多数の鍾乳洞が存在すると推察されている。塩川も鍾乳洞からの湧水を水源とするもので、湧水量は毎秒100リットルを超える本部半島では第一級の湧水であるにもかかわらず塩分を含むことから、古くから「本部の七不思議」のひとつとされてきた[2]。石灰岩の洞口から勢い良く湧き出す水は、そのまま僅か数百メートルの小川となって東シナ海へ注いでいる。

世界には有名な塩湖である死海や、砂漠地帯には岩塩が地表に表れている場所もあるが、これらは水中の塩分が水の蒸発によって濃縮されたもので、気温の高い乾燥気候という特殊な条件下のもとにできたものである。日本のように適度な降水量がある湿潤な気候条件下では地上に塩分が湧出するようなことは通常ではありえない[3]。

塩水の湧出構造
塩川の水は海水が約4.5倍の淡水に薄められたもので、カルシウム分だけが海水における含有量よりも際立って多く含まれており、カルスト由来の石灰分が溶けていることを示している[2]。
陸域からの強い淡水の流れが石灰洞系をつくる流路を海水準下にまで下がって流下するため、海水と地下水(淡水)が混じり合い、その後に地表に湧出すると推定されている[2]が確定的なものは未だにない。

これまでの調査により明らかになっているのは、塩川の湧出量は那覇港の潮位と連動しており、満潮時に湧水量が増加し干潮時に湧水量は減少する。また、湧水量と塩分濃度は反比例の関係にあり、水量が多いと塩分濃度は低くなり水量が少ないと塩分濃度は高くなる。加えて降水量も塩分濃度に影響を与え、24時間降水量が200ミリを超えるような大雨が降ると、約1日遅れて湧水量が急激に増加し塩分濃度は低下する。これは海水と混合する塩川湧水の淡水の供給源が、降雨の影響を受ける鍾乳洞の水を主体としていることを示している[3]。

生物的自然
希少種の海藻が生息しているとして、日本の重要湿地500に選定された[4]。特に危急種に指定されているシオカワモッカは、日本国内では唯一塩川でのみ生息しているが、大雨による赤土流入の影響で、生育環境が悪化している。また近年、塩川周辺を通る国道449号の道路拡張整備により、日当たりが良くなり、アオノリやアオサ等の他の海藻が繁殖し、日陰を好むシオカワモッカの生育を妨げている[5][6]。

参考文献
・加藤陸奥雄他編 『日本の天然記念物』、講談社、1995年3月20日 第1刷 p.918、pp.920-921 ISBN 4-06-180589-4

宜野座村のカチバ  宜野座村松田・漢那 ( 沖縄県 )

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宜野座村のカチバ  宜野座村高松・漢那

サイト「近世以前の土木・産業遺産」沖縄県リストによるデータは、次のとおり。猪垣とは、方言「カチバ」と呼ばれ、宜野座地域では明治以前からどこの集落も、集落周辺の畑と山の間に廻らせていた。現在、確認できるのは、「宜野座村の文化財分布地図」によると、松田地区と漢那地区の3箇所に表示されている。
私が訪ねたのは。村の東部・松田地区「高松の猪垣(カチバ)」。国道329号宜野座大橋を過ぎて、左上高台へ上がる町道に入り、松田地区高松の交差点手前に史跡説明板があった。赤線の猪垣跡を神社手前まで辿った。
村の西部・漢那地区は、漢那原平松原ハウス団地組合の高台農道脇に残るようなので、これが猪垣か断定できないが、農道沿い左側の主な土盛り跡を写してきた。漢那福地川右岸のは、はっきり確認できなかった。

高松のカチバ たかまつ(カイクン)
(国頭)宜野座村 松田地区 猪垣(土塁) 約2.3㎞→ 1.2㎞,高約1m 琉球王国時代 市教委/
WEB(みさき道人) 猪垣→保安林 土塁の上にテーブルサンゴ石や竹槍を刺し、島竹を植え、猪が土塁を越えないよう工夫されていた 2 B

漢那のカチバ かんな
(国頭)宜野座村 猪垣(土塁) 集落全体,高さ約1m 琉球王国時代 市教委/WEB 集落内なので途切れ途切れに残る 低い土塁と密生した木だけの簡単な構造 3 C

名古川の泉(ナコウガー)  金武町金武 ( 沖縄県 )

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名古川の泉(ナコウガー)  金武町金武

国道329号金武大橋を渡り、金武町中川区の中川バス停まで行く。右側にローソンあり、左右どちらの町道から入ってもよいが、合流するところの草原奥に「名古川の泉(ナコウガー)」の井泉がある。
現地説明板には「国頭方東宿道に隣接した井泉は、往時の役人や旅人が労を癒したところであったと伝えられている」とある。

金武町HPの金武町指定文化財による説明は、次のとおり。

ナコウガー(名古川)の泉 [記念物(遺跡)]
中川区名古川原10408番地に位置し、部落の先人達が生活の中で造り利用した掘り下げの井泉で、南西約350mの地内に背からの集落が多く見受けられます。近年まで地域住民の飲料水であり、元旦の若水を汲み、産水として利用された井泉です。井泉の下方には野菜・芋・農具の洗い場や牛馬の洗い場などがあり、近くの子供たちの遊び場でもありました。
花城文進氏(83才)によれば、泉の近くの畑に花城、屋比久両家の藍つぼがあり、付近の畑では昭和初期頃まで藍の栽培が営まれ、藍つぼは昭和50年代までその跡をとどめていたそうです。昭和37年に上水道が地域に普及し、生活様式の変化と共に泉も生活用水として利用されなくなり、今日まで至っています。
指定年月日 :平成6年4月28日
所在地 :金武町字金武10408番地

茶 川 (サーガ)  金武町金武 ( 沖縄県 )

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茶 川 (サーガ)  金武町金武

サイト「近世以前の土木・産業遺産」沖縄県リストによるデータは、次のとおり。慶武田川(キンタガー)から離れた東側にあるが、場所がわかりにくいから、国道329号にいったん戻る。金武大橋の手前、県道104号入口の金武交差点から反対側の南へまっすぐな町道に入る。
しばらく進むと広い四つ角あり、左折して谷間へ下ると左奥にうなぎ養殖場のハウスが見える。「茶川 (サーガ)」がこの養殖場の水源となっているので、場内に入れてもらい奥に行くと「茶川(サーガ)」の湧水がある。
所在図㉟のところ。坂段上はヤブとなって道から入れない。

茶川 サーガ
(国頭)金武町 湧水 琉球王国時代? 町史跡 WEB 四角の囲いはコンクリート製 石灰岩基盤の多孔質より湧出る水を、囲いに引いた井戸 3 C

金武町HPの金武町指定文化財による説明は、次のとおり。

茶川(サーガ) [ 記念物(遺跡)]
茶川(サーガ)の泉は、琉球石灰岩基盤の多孔質より湧出る自然的な古い形態をとどめた囲い井泉です。金武の古謡に「神人来りて、福蔵の水清し・・・」とあり、水清しは茶川の泉からの清流を謡ったのではないかと暗示されています。
豊富な湧水は、茶川の水田から水田へ送る「田越灌漑」により、福花原の水田に利用されていました。
また、イジュイダカリや美里原の地域住民の飲料水として昭和38年頃まで利用され、地域住民の生活と深い関わりを持った泉です。
指定年月日 : 平成3年12月24日
所在地 : 金武町字金武12041番地2

慶武田川(キンタガー)  金武町金武 ( 沖縄県 )

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慶武田川(キンタガー)  金武町金武

国道329号金武町の中心部、金武町役場入口の交差点まで行き、南東へ町道の坂道を下る。並里公民館の右下に「金武大川(ウッカガー)」の井泉である。この町道をまだ下って行くと、並里部落南東の端に「慶武田川(キンタガー)」の井泉がある。
現地に案内標識や説明板は特にない。「金武大川(ウッカガー)」にある所在図から参照㉞

金武町HPの金武町指定文化財による説明は、次のとおり。

慶武田川(キンタガー) [ 記念物(遺跡)]

慶武田川の泉は並里部落南東の端に位置し武田原を前に控えた大きな井泉です。森を背にした井泉は夏場でも渇水することがなく、慶武田川の水は底から湧出ると伝われるくらい、豊富な水量を有しています。昔は樋からあふれ出る水を利用して、「もやし作り」が行われていた時期もありました。
昭和38年頃に各家庭に水道が普及するまでは、泉は地域住民の飲料水として、また洗濯・水浴場・農産物洗い場として利用され、地域住民の日常生活に欠くことのできない井泉でした。地域住民の生活感情や風習との関わりを持ち、長い歴史をとどめた希有な井泉です。
指定年月日 : 平成3年12月24日
所在地 : 金武町字金武919番地