九州(沖 縄 県)」カテゴリーアーカイブ

金丸の逆田  伊是名村内花 ( 沖縄県 )

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金丸の逆田  伊是名村内花

サイト「近世以前の土木・産業遺産」沖縄県リストによるデータは、次のとおり。仲田港から県道178号などにより伊是名村役場などある村の中心部高台へ上がる。県道177号に入り伊是名小学校の右から左折、村道を伊是名生コン(有)まで進むと、あと0.5kmの案内標識がある。次の0.1kmで左折してバラス道を谷奥まで行くと、下部が説明銘板となっている史跡「逆田」碑が立つ。
場所は、観光協会観光マップ参照。 http://www.izena-kanko.jp/detail.jsp?id=48814&menuid=10463&funcid=1

金丸の逆田 かなまる、さかた
(島尻)伊是名村(伊是名島) 棚田 面積946㎡ 15世紀前半 村史跡 WEB/村教委 現役の水田 第二尚王統の開祖尚円王が、伊是名島で耕作していた水田/水飢饉の際にも枯れなかったと言われる(尚円王のために村の娘達が密かに下流から水をくみあげた、という言い伝えがある) 1 C

現地説明板は、次のとおり。

史 跡  逆   田 (さかた)
尚円王は、1415年に首見邑・今日の字諸見において生誕され若き頃を「北の松金」と呼ばれ、後に、名を「金丸」に改め、1470年「尚円王」となり、琉球国の王様となった。
この逆田は、尚円王が島を離れるまで耕作したと伝えられており後世になってから「御持ち田」という敬称で呼ばれるようになった。
伊平屋島旧記によれば、この逆田は、毎年のように豊作がつづき、又、いかなる大旱魃のときでも、決して水が涸れることはなかった。これを見た下の田主達は、「水をよこし入れた」と思い違いをし、それならばと、ある晩のこと、下の田圃に水を流れるように、畦を切り開きました。
ところが、翌朝いって見ると、我が田圃の水は涸れ、上の北の田圃だけが、水を満々と堪えていました。
これは不思議なことだ、さては「水が逆さに流れたんではないか」と巷に噂がながれ、「水が逆さに流れた田圃」ということで「逆田」の名がつけられたと伝えられている。
平成4年7月17日 村文化財指定   伊是名村教育委員会

潮 平 井  伊是名村諸見 ( 沖縄県 )

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潮 平 井  伊是名村諸見

サイト「近世以前の土木・産業遺産」沖縄県リストによるデータは、次のとおり。名護市の北、今帰仁村運天港から伊是名島仲田港へ、1日2便のフェリーがある。「尚円王御庭公園」は仲田港からすぐ北の高台にあり、その途中、園内の修景された水路へ下る遊歩道脇のところに、「潮平井」の石積井(湧水、半月型)がある。
小さな目の硬い鋼製網で覆われ、石積井の内部は写せない。

潮平井 スンジャ・ガー
(島尻)伊是名村(伊是名島) 尚円王御庭公園 石積井(湧水、半月型) 径約3m 1415年以前 村史跡 WEB/村教委 全体が金網で覆われている/内部は未調査で詳細不明 第二尚王統の開祖尚円王が生まれてすぐ浸かったとの伝承がある 3 C

辺戸大川  国頭町辺戸 ( 沖縄県 )

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辺戸大川  国頭町辺戸

サイト「近世以前の土木・産業遺産」沖縄県リストによるデータは、次のとおり。国道58号により沖縄本島の北端、辺戸岬の分岐まで行く。国道は辺戸御嶽の麓を回り込むように続くので、そのまま進むと辺戸集落入口のバス停に着く。
集落内に入ると、平屋ビルの辺戸共同売店があり、手前角の電柱に消えそうなマジック字で、「大川→100m」と書いている。左折して急坂を登ると、神屋の堂と広い駐車場あり。その先の最後の民家の手前の山道を谷間まで下る。2つの小川が合流し、左の沢がお水取り行事写真の「辺戸大川」水汲み場だろう。夕方の谷間となり、写真は暗くなった。

辺戸大川 ヘド・ウッカー
(国頭)国頭村 水汲み場 琉球王国時代 WEB 首里王府と関わる重要な祭祀場/5月と12月に御水取りが行われる 1 B

主な参考HPは、次のとおり。

「健康長寿の島・沖縄」
【沖縄タイムス】2011年12月19日/ 沖縄県内ニュースから現地写真 http://nuchi.ti-da.net/e3661692.html
■ 祈り捧げお水取り 国頭 王朝儀式を再現
琉球王朝時代、国王の年始儀式に使うために行っていた「大川のお水取り」(主催・同実行委員会)が18日、国頭村辺戸区で再現された。女優の美良樹(みらい)吟呼さんが神女役を務め、集落各地で神々に祈りを捧げ、長命の水が流れるとされる大川(アフリ川)から水をくみ取った。那覇市首里当蔵町自治会の会員、県立芸大の学生、辺戸区の住民らが参加した。
「お水取り」は国王の年始儀式「お水撫で」のため、大川の清らかな水を首里城に献上する行事。1999年に120年ぶりに復活し、今年で13回目。25日には、大川の水を首里公民館から首里城まで運ぶ「美御水(ぬーびー)奉納祭」が執り行われる。

辺 戸 岬  国頭村辺戸 ( 沖縄県 )

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辺 戸 岬  国頭村辺戸

ウィキペディアフリー百科事典による説明は、次のとおり。辺戸岬は沖縄本島にある最北端の岬。那覇空港からは沖縄自動車道(高速)と一般道(国道58号など)を利用しても、車で約2時間30分以上のロングドライブとなる。最後の写真は、ヤンバルクイナ展望台から望んだ辺戸岬。

辺 戸 岬
辺戸岬(へどみさき)は、沖縄県国頭郡国頭村辺戸に属し、太平洋及び東シナ海に面する岬(東経128度15分56秒、北緯26度52分18秒)。沖縄島の最北端(「沖縄県」の最北端は、久米島町の硫黄鳥島)にある。好天の日は、22km離れた奄美群島の与論島や沖永良部島を望むことができる。沖縄海岸国定公園に含まれる。
地理
・サンゴ質の絶壁から成り、岬上は広い台地となっている。
・沖縄県がアメリカの統治下にあった頃、本土復帰を願って、ここからのろしを上げた。また年に1度、辺戸岬と与論島との間(北緯27度の海上)で、本土との交流集会も行われていた。
・1972年(昭和47年)の沖縄返還にさいして建立された「日本祖国復帰闘争碑」がある。
・茅打バンタの北側に位置する辺戸岬ドームは、世界的にも珍しい海底の鍾乳洞で、ダイビングスポットとして知られる。
周辺の観光地
・茅打バンタ – 岬へ至る南西岸の絶壁。かつては交通の難所だったが、現在は国道58号のトンネルが短絡している。
・奥集落 – 古くからの民家が引き継がれている。奥ヤンバルの里(資料館・宿泊施設)あり。
・辺戸岬灯台
・ヤンバルクイナ展望台
・金剛石林山
交通
自動車 国道58号利用が便利である(南は80km以上離れた恩納村山田から、東海岸ではうるま市石川東恩納の国道329号から国道58号経由での距離案内が表示されている)。

嘉陽層の褶曲  名護市底仁屋ほか ( 沖縄県 )

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嘉陽層の褶曲  名護市底仁屋ほか

現地説明板は、次のとおり。名護市の南東部、国道329号の二見北交差点から分岐、国道331号により東海岸を大浦から東村の方へ向かう。嘉陽小学校を過ぎて、しばらく山間部を行くところが底仁屋である。
名護市「嘉陽層の褶曲」は、このあたり写真とおりの入口案内標識がある県道70号の旧道箇所崖面で主に見られる。1993年(平成5年)4月、名護市二見−東村平の約30kmの区間は国道331号に昇格している。
天仁屋からバン崎にかけての海岸にみられる嘉陽層も、国道その先に入口案内標識があった。

国指定天然記念物(地層) 平成24年9月19日指定  名護市 嘉陽層の褶曲

嘉陽層という地層は、沖縄島中部以北の東側に分布しています。砂岩・泥岩・層内礫岩および礫岩をともない、それらが交互にかさなっている地層のことで、新生代古第三紀始新世(約5400万年〜3700万年前)に2000mを超える深海底に堆積したものです。
底仁屋にある嘉陽層の褶曲は、東海岸の東端近くに位置する嘉陽から底仁屋にぬける県道70号線の旧道にみられます。その旧道の削り取られた崖に、大きく褶曲した地層が現れています。褶曲というのは、地層が曲がりくねった状態をいいますが、底仁屋の褶曲のように、曲がりくねり、さらにおりたたまれ横倒しになっている褶曲を横臥褶曲といって、大変珍しいものです。
琉球列島の成り立ちを示す地層現象が保存された極めて重要な露頭であることから、天仁屋からバン崎にかけての海岸にみられる嘉陽層とともに、平成24年(2012)9月19日に国の天然記念物(地層)に指定されました。
現在は、県内の各高校の地学実習の場としても利用されています。
平成25年(2013)12月設置     [底仁屋区・名護市教育委員会]

長崎市小ケ倉の褶曲地層(長崎県指定天然記念物 昭和38年7月23日指定)は、本ブログ次を参照。
https://misakimichi.com/archives/124

大浦アサギ庭(みゃー)のガジマル  名護市大浦 ( 沖縄県 )

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大浦アサギ庭(みゃー)のガジマル  名護市大浦

現地説明板は、次のとおり。名護市の南東部、国道329号の二見北交差点から分岐、国道331号により大浦まで行く。大浦橋を渡った先から少し北の大浦集落センター・区事務所前広場に「大浦アサギ庭(みゃー)のガジマル」はある。

名護市指定文化財(天然記念物)
大浦アサギ庭(みゃー)のガジマル   平成18年2月15日指定
和名は、ガジュマル(Ficus microcarpa L.f.)。漢名で「榕樹」と書く。
クワ科の常緑喬木で屋久島以南・沖縄・台湾・亜熱帯アジア・オーストラリアに分布する熱帯性樹木で、防潮、防風林や緑陰樹としても広く植栽されている。
「大浦アサギ庭のガジマル」は大浦区のアサギ前広場に生育しており、幹は全体的に東に傾き、南東に2m隔てて垂下した気根が大径木のフクギを締めつけ、北東に伸びた幹が直角に曲がり上部樹幹を形成している。多くの気根は幹や枝に巻きつき、垂下する気根は少なく、幹にはアコウが着生している。
アサギ庭を囲むようにアサギとニガミヤーが向かい合い、広場は、エイサー・村踊り・ウシデーク・アブシバレーなど村の行事を行う大切な空間となっている。その広場に涼しげな陰を作り生育するガジマルは、古くから区民に親しまれ大切にされてきた樹木であり、これからも、大浦区をはじめ名護市を代表するガジマルの一つとして、大切に保護すべき樹木である。
樹齢約110年、樹高約16m、胸高周囲約3.3m     平成20年(2008年)3月

以下は、HP【調査報告】沖縄本島 チリ地震津波を伝承する石碑を訪ねてから。

…地域から親しまれているガジュマルの下に石碑がある。津波を体験した大浦地区出身の比嘉勉氏が寄贈したものである。石碑裏には崩落した「大浦橋」の写真もはめ込まれ、伝承の工夫がなされている。

津波襲来の碑
1960年5月 南米チリ中部近海でM8.5の巨大地震が起き大津波が発生 時速700kmの速さで太平洋を横断 5月24日未明 日本近海を襲った
当地では午前5時半頃から数回に亘り襲来 津波高5mにも及び大浦橋が全壊 護岸も決壊 全家屋浸水し 生活用品 家畜等が流失 消滅した
この被害を教訓として地震津波の防災に活かし後世に伝えるためこの碑を建立した

大浦のイチョウ  名護市大浦 ( 沖縄県 )

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大浦のイチョウ  名護市大浦

名護市教育委員会社会教育課「なごわらびーネット なごしキッズサイト」による説明は、次のとおり。名護市の南東部、国道329号の二見北交差点から分岐、国道331号により大浦まで行く。大浦橋を渡った先の公園に「大浦のイチョウ」があった。

■ 大浦のイチョウ
市指定天然記念物
指定年月日 平成18年2月15日

イチョウはイチョウ科の落葉樹(らくようじゅ)で、葉は扇形(おおぎがた)をしていて秋になると美しく黄色に変化(へんか)し、冬に落葉します。また、秋になると黄色い実をつけますが、これは「ぎんなん」といって食べることができます。
大浦のイチョウは明治35年8月から大正3年3月までの12年間、久志の尋常(じんじょう)高等小学校で校長をしていた志々目新太郎(ししめしんたろう)氏が、当時の久志村の収入役(しゅうにゅうやく)をしていた比嘉浩(ひがひろし)氏と親交(しんこう)を深め、その記念として、沖縄ではめずらしいイチョウを出身地の鹿児島県喜入村(かごしまけん、きいれむら、現在の鹿児島市)から3本持って来て植えたといわれています。
太平洋戦争のころまでは2本が残っていましたが、そのうちの1本も戦後になってかれてしまいました。たった1本残ったこの木も、戦争中には幹(みき)の上の部分を焼き失ってしまいましたが、奇跡的(きせきてき)に生育(せいいく)を続けて現在の姿(すがた)になりました。高さは13m、胸(むね)の高さでの周囲は約1.9m、樹齢は93年ぐらいだといわれています。沖縄県では他にはない巨木(きょぼく)で、区民から親しまれ大切にされている樹木です。

旧大宜味村役場庁舎  大宜味村大兼久 ( 沖縄県 )

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旧大宜味村役場庁舎  大宜味村大兼久

大宜味村HPの県指定文化財による説明は、次のとおり。国道58号塩屋橋を渡り大宜味村に入る。約4km先の右奥に現在の大宜味村役場があり、この現庁舎手前に「旧大宜味村役場庁舎」が残る。

旧大宜味村役場庁舎
公共建築物としては、県内初の本格的な鉄筋コンクリート造の建築物で、大正14年に竣工。大正期にメートル法を用いた画期的設計で意匠的に沖縄の気候・風土を十分に考慮に入れ、特に台風による風圧を軽減するため、八角の平面形状を取り入れるなどすぐれた特徴を有している。
大正時代のコンクリート建築物として県内に存在する唯一のもので、鉄筋コンクリート造技術の導入や、構造法の歴史を知るうえで貴重とされている。
指定年月日 平成9年11月18日
設計者 清村勉(熊本出身者)

なお、「沖縄タイムス+プラスニュース」2016年10月21日記事は、次のとおり。

国の重要文化財に大宜味村役場旧庁舎 沖縄で最も早い鉄筋コンクリート造り 文化審答申

国の文化審議会(馬淵明子会長)は21日、沖縄県大宜味(おおぎみ)村役場旧庁舎(村大兼久)を重要文化財(建造物)に指定するよう松野博一文部科学相に答申した。旧庁舎は県内で最も早い時期に建てられた鉄筋コンクリート造りで、現存では最古。近く官報に告示され、正式に認められる。県内の国指定有形文化財は32件目(国宝含む)で、建造物としては2009年指定の津嘉山酒造所施設に次いで22件目。現庁舎に隣接する位置にある旧庁舎は、1925年(大正14年)に竣工(しゅんこう)した。木造建築が主流の時代に、台風や白アリ対策のために鉄筋コンクリート造りを採用したとされる。設計は国頭郡の建築技師の清村勉氏。

中央ホールの周囲に執務空間を配し、ホール上方には屋上から突き出すように八角形の塔屋があるなど、役場庁舎としては独創的な造りになっている。新庁舎建設に伴って72年に役場機能を終え、その後は関連団体の事務所などとして使われた。現在は村史編纂(へんさん)室が利用している。
米須邦雄村教育長は「旧庁舎から現庁舎に移転した際、取り壊さずに残すという選択をした当時の判断が今につながった。旧庁舎には、建設した大工をはじめ先人たちの思いがこもっている。今後は国や県と連携し、大切に保存・継承していきたい」と話した。

大宜味村の猪垣  大宜味村押川六田原ほか ( 沖縄県 )

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大宜味村の猪垣  大宜味村押川六田原ほか

サイト「近世以前の土木・産業遺産」沖縄県リストによるデータは、次のとおり。国道58号塩屋橋を渡り大宜味村に入る。すぐ先の塩屋入口交差点から国道331号へ右折、屋古の宮城新昌翁(世界初牡蠣養殖の父)頌徳碑前まで行く。案内標識が消えてわかりにくいが、左折する車道が六田原展望台への入口。急坂の車道をかなり上がる。
展望台広場に着き休憩舎・WCのところに、猪垣史跡説明板と遊歩道詳細ルート図(拡大のこと)がある。遊歩道登り口から約30分ほど塩屋富士先の③地点まで登ると、長い石塁が現れる。ここが村指定史跡区間「大宜味村の猪垣」の一部で、古い集落写真の説明板があった。この先は時間がなく引き返した。

大宜味村の猪垣 おおぎみ・いがき
(国頭)大宜味村 猪垣(石塁) 総延長約1.5㎞ (指定距離1.3㎞),高2.1m-1.2m 1782年改修 村史跡 WEB 樹林中に明瞭に残る 塩屋、屋古前田、田湊・渡野喜屋・根路銘の住民が1776-85年に大改修当時「万里の長城」にちなんで、「十里の長城」とうたわれた 2 B

大宜味村HPの村指定文化財による説明は、次のとおり。

大宜味村の猪垣(ヤマシシガキ)第1号 村指定文化財
【種 別】史跡
【指定名称】大宜味村の猪垣(オオギミソンノヤマシシガキ)
【所在地】大宜味村全域を囲むように喜如嘉〜津波まで 全長約31km
【村指定区域】字押川六田原(前ホテルシャーベイ跡地付近)〜根路銘棚原山林間(上原ハキンジョウ)
【村指定距離】約1.3km(詳細地図)
【猪垣の説明】
私達大宜味村の先祖は、杣山(現在村有地)と農耕地(畑)との境界に猪垣を築き、畑地へのヤマシシの侵入を防ぎ、畑を守ってきた。殊に猪垣に隣接する土地の所有者は代々自分の畑を守るためにも、大宜味村全域の畑を守るためにも、自分の土地に接する猪垣を責任を持ってその保全に努め、崩れたら直ぐに補修をして猪垣を維持してきた。
1776 年から 1782 年にかけて、塩屋、屋古前田、田湊・渡野喜屋・根路銘等の住民が各むらの役人の指揮のもとに、猪垣の大々的な補修工事が行われ、高さ七尺(約 2.3メートル)より四尺(約 1.3メートル)の石垣を完成したところであり農閑期や月夜に石を集めてつんだとも記録されている(『球陽』尚穆王〔ショウボウオウ〕より)。そのため、1605年に野国総監が沖縄に芋苗を持ってきて、作物として定着した頃、初めて猪垣が構築されたと思われる。

その後も代々の私たちの先祖は、生きるために猪垣を維持し、戦後も村民を最大動員して大宜味村全域を囲い込む猪垣の補修を行ってきた。戦後60年、今も村有地と個人有地の境界に、その猪垣が残っている。
私達の先祖は何世代にもわたって、個人としても、むら全体としても猪垣の保全に万全を期してきた。大宜味間切としては内法を定め、むら役人は猪垣を巡回し、猪垣が壊れた箇所があればそこの猪垣管理者に修繕を命じ、次に巡回したときになお修繕がなされていない者には科料米ニ升の拠出を命じたものであった。
畑へのヤマシシの侵入は、主食であるイモやすべての作物を失うことにもなり、農民の生存にかかわることだけに、猪垣をもってヤマシシの侵入を防ぐことは農民の生きるための戦いでもあった。
猪垣には私達村民の先祖の歴史が刻まれている。大宜味村全域を囲い込む猪垣は「十里の長城」とも呼ばれ、構築から改修・保全と大宜味村に住んでいた人々の長い歴史の証しである。私達村民の先祖の歴史を語ってくれる貴重な文化遺産である。

三府龍脉碑記  名護市東江1丁目 ( 沖縄県 )

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三府龍脉碑記  名護市東江1丁目

サイト「近世以前の土木・産業遺産」沖縄県リストによるデータは、次のとおり。「三府龍脉碑記」1750年の石碑は、名護市立名護博物館(東江1丁目)に現物が保管・展示されている。
複製された現在の碑は、名護の市街地、ひんぷんガジュマルの下に立つ。昭和37年(1962)に新しく建てられたもの。

三府龍脉碑記 さんぷりゅうみゃく
名護市 名護博物館 石碑(隅丸型) 1750年 県有形 (歴史資料) 名護博物館/WEB(みさき道人) 沖縄戦で所在不明→幸地川の河床から破片の一部が発見 /18世紀中頃に名護湾〜羽地内海を結ぶ運河開削を望む声が上がったのを制止するため蔡温が建てた碑文 3 B

(正面)「三府龍脉碑記/竊惟天分星宿地列山川而天地列相孚之美誠莫切焉故在地成形者峙而為山岡瓏阜散而為/平原郊濕皆莫非二氣之凝布矣是以察岡瓏之所来則知平原之發跡所謂萬山一貫是也吾/國三府四十一縣岡瓏平原分合向背成乎虎伏龍蟠之勢得乎同幹異枝之宜而龍脉綿綿大/顯天然之姿是誠萬世洪福之國也前古/天孫氏首出闢國始建/王城於首里府是由神眼之所相豈係常人之臆度奈至後世妄懐愚見或有言曰首里嶇岨不若/名護平担之為愈或有言曰屋部港自西横東古我地港自東横西而其間唯有一丘爲隔矣國/頭羽地及大宜味三縣船隻遠經郡伊二嶋屢爲海風所阻何不劈開是丘而與船隻往還之便/也云爾鳴呼/王城及是丘悉皆微茫龍脉之所累豈可妄移/王城於他方乎豈可妄劈是丘而作水路乎今帰仁本部二縣唯頼是丘一脉而爲三府一體三府/亦頼是丘一脉而保球陽雄勢若劈是丘而作水路則二縣龍脉不唯不相属球陽却失大體雄/勢也必矣方今/君主生質天縦徳學日新思之深慮之切特命臣温以鐫斯文於碑石永俾後人知龍脉之係乎邦家/景運而有萬山一貫之理矣 旹」

名護市教育委員会社会教育課「なごわらびーネット なごしキッズサイト」による説明は、次のとおり。

■ 三府龍脉碑(さんぷりゅうみゃくひ)
県指定有形文化財(歴史資料)
指定年月日 平成3年1月16日

三府龍脉碑(さんぷりゅうみゃくひ)は、名護の市街地(しがいち)の中に立つ、ひんぷんガジュマルの下に建っています。現在建っている碑(ひ)は、昭和37年(1962年)に新しく建てられたものです。乾隆(けんりゅう)15年(1750年)に建てられた元の碑は、太平洋戦争の時に破壊(はかい)されましたが、あとでその一部が幸地川(こうちがわ)から見つかり、現在(げんざい)は名護博物館で保管(ほかん)されています。
この碑が建てられた当時、琉球王府(りゅうきゅうおうふ)では首都を首里(しゅり)から名護に移(うつ)す意見(いけん)や、屋部(やぶ)と古我知(こがち)の間の丘(おか)を切り開いて水路を作る意見がありました。碑は、当時琉球王国の三司官(さんしかん、今のだいじん)だった具志頭親方蔡温(ぐしちゃんうぇーかたさいおん)がこのような意見をしずめるために建てたものです。
碑には「琉球の国土(こくど)は一つの山脈(さんみゃく、龍脉)のようなものである。丘を切り開くのはこの山脈を切ることになってしまい良くないので、国家の繁栄(はんえい)に悪い影響(えいきょう)を与える」という内容の文が刻(きざ)まれています。