投稿者「misakimichi」のアーカイブ

六十間土手  出水市住吉町・今釜町 ( 鹿児島県 )

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六十間土手  出水市住吉町・今釜町

サイト「近世以前の土木・産業遺産」鹿児島県リストによるデータは、次のとおり。国道3号米ノ津小学校近くから海岸道路沿いの老人ホーム鶴寿園正門まで行くと、松原となった六十間土手と水路の犬童川が確認できる。
出水市の付随情報では、「六十間土手は、本市の今釜干拓(名古浦から福之江港)まで約2キロの干拓工事の内最後の潮止工事の場所(約100m)のことをいいます。地元ではこの干拓地の堤防すべてを含めて六十間土手と親しみを込め呼んでいる」そうである。

六十間土手 ろくじゅっけん
出水市 土堤防 長100m 元禄16(1703) 市史跡 市教委 大規模な修復/C化 海水の浸入を防ぐため八代海と今釜新田の間に築かれた堤防 3 C

五万石溝とトンネル群・底水道  出水市大川内〜出水〜米ノ津 ( 鹿児島県 )

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五万石溝とトンネル群・底水道  出水市大川内〜出水〜米ノ津

サイト「近世以前の土木・産業遺産」熊本県リストによるデータは、次のとおり。トンネル群は、国道447号から一本松大橋を渡り、水之頭バス停から用水路跡に沿い取入れ口まで向かうと随所に見られる。
平良川底水道は、国道328号西之口交差点から出水市青年の家への市道に入り、武本小原下まで行くと、平良川の橋脇に史跡説明板がある。
最後の「五万国溝」資料は、出水市教育委員会「出水の文化財」平成14年再改定出版の117〜118頁から。

五万石溝 ごまんこく、みぞ
出水市 (出水麓伝建地区内) 用水路(石積) 長約20㎞→長50m(現存部) 享保19(1734) 市史跡 市教委/現地解説板 昭和52使用停止→ほとんどが埋立てられて道路化/展示保存 施主:薩摩藩4代藩主・島津吉貴/米ノ津川上流の下平野に井堰を築いて取水し、水の頭・折尾野・城山等の山麓を迂回して大野原を横切り、洗切海岸(福之江)に至る用水路

五万石溝のトンネル群 ごまんこく
出水市 <五万石溝> 素掘トンネル(水路) 23ヶ所(総延長878m) 享保19(1734) 市史跡 出水の史跡と文化財p117-18/WEB(みさき道人) 昭和52使用停止/23ヶ所掘られたトンネルの幾つかが可視状態で残っている 写真は、延長は短いが中に入ることのできるもの/個々のトンネルの現状は名称を含め把握されていない 2-4 B

五万石溝の底水道 ごまんこく、みぞそこ
出水市 平良川/<五万石溝> 川底トンネル(水路) 長1.0m,幅1.0m(3連) 享保19(1734) 市史跡 市教委/現地解説板 昭和52使用停止→東側のみ遺構が残る 五万石溝に造られた2ヶ所の底水道(川底を横断する水路)の1つ/石梁に完成年が刻字 3 B

五万石溝とトンネル群・底水道  出水市大川内〜出水〜米ノ津 ( 鹿児島県 )

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五万石溝とトンネル群・底水道  出水市大川内〜出水〜米ノ津

サイト「近世以前の土木・産業遺産」熊本県リストによるデータは、次のとおり。トンネル群は、国道447号から一本松大橋を渡り、水之頭バス停から用水路跡に沿い取入れ口まで向かうと随所に見られる。
平良川底水道は、国道328号西之口交差点から出水市青年の家への市道に入り、武本小原下まで行くと、平良川の橋脇に史跡説明板がある。
最後の「五万国溝」資料は、出水市教育委員会「出水の文化財」平成14年再改定出版の117〜118頁から。

五万石溝 ごまんこく、みぞ
出水市 (出水麓伝建地区内) 用水路(石積) 長約20㎞→長50m(現存部) 享保19(1734) 市史跡 市教委/現地解説板 昭和52使用停止→ほとんどが埋立てられて道路化/展示保存 施主:薩摩藩4代藩主・島津吉貴/米ノ津川上流の下平野に井堰を築いて取水し、水の頭・折尾野・城山等の山麓を迂回して大野原を横切り、洗切海岸(福之江)に至る用水路

五万石溝のトンネル群 ごまんこく
出水市 <五万石溝> 素掘トンネル(水路) 23ヶ所(総延長878m) 享保19(1734) 市史跡 出水の史跡と文化財p117-18/WEB(みさき道人) 昭和52使用停止/23ヶ所掘られたトンネルの幾つかが可視状態で残っている 写真は、延長は短いが中に入ることのできるもの/個々のトンネルの現状は名称を含め把握されていない 2-4 B

五万石溝の底水道 ごまんこく、みぞそこ
出水市 平良川/<五万石溝> 川底トンネル(水路) 長1.0m,幅1.0m(3連) 享保19(1734) 市史跡 市教委/現地解説板 昭和52使用停止→東側のみ遺構が残る 五万石溝に造られた2ヶ所の底水道(川底を横断する水路)の1つ/石梁に完成年が刻字 3 B

船津岸壁石段  天草市牛深町船津 ( 熊本県 )

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船津岸壁石段  天草市牛深町船津

サイト「近世以前の土木・産業遺産」熊本県リストによるデータは、次のとおり。天草市牛深支所西の牛深町交差点から海岸通りに船津へ向かう。画像1〜3は天草市牛深支所総務振興課の提供。

船津岸壁石段 ふなつ
天草市 牛深港 係留施設 (雑割石積) 寛政11(1799) 歴史的港湾施設資料集 泊地:ほぼ竣工当時の規模が残り、保存状態も概ね良好 当時、港へ寄港する旅船等の監督のため、御用船の船着き場となっていた 2 B

ブログ”連載:牛深御番所てんこ盛り!”商船入湊・石垣湊之図 ⑧『牛深御番所絵図 其の八』を参照。
http://gobansyo.kataranna.com/e74198.html

(2015年9月6日 追 記)

天草市牛深港を2015年9月2日再び訪ねる。4枚目以降は、私の撮影画像。船津岸壁石段は、牛深海中公園遊覧・グラスボートの発着場の桟橋から睦橋に向かい海岸通りの遊歩道を歩くと、対岸側に全体を望める。
睦橋からAコープ奥まで辺りに、当時の古い海岸石段を数基確認できるが、Aコープ奥の広い石段は、だいぶん改修の跡があり、コンクリートの劣化石段だった。

大谷町の高台にある「筑州建山」標石の現況  長崎市大谷町 ( 長崎県 )

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大谷町の高台にある「筑州建山」標石の現況  長崎市大谷町

この項は本ブログ次を参照。 大谷町にある「筑州建山」の標石は筑前屋敷の境界柱
https://misakimichi.com/archives/5436
大谷町の現地を、8月23日に再び訪ねた。「筑州建山」の標石は4本残っていたが、カトリック教会手前となる大谷町4−12の空き宅地にあった1本?は、隣家の続き庭となっていた。家人に聞くと自分は標石は知らず、庭工事業者が埋めたのだろうとの話で、所在不明となっていた。

詳しい資料は、本会の研究レポート「江戸期のみさき道−医学生関寛斎日記の推定ルート 第3集」平成19年4月刊の97〜107頁に載せている。
筑前藩の長崎における領境石となるようだから、HP「筑前国境石散歩」氏にも知らせたい。
最後の写真は、水の浦公園近くにある筑前屋敷跡の海岸部石垣や井戸の跡。

浦郷のともづな石  時津町浦郷 ( 長崎県 )

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浦郷のともづな石  時津町浦郷

サイト「近世以前の土木・産業遺産」長崎県リストによるデータは、次のとおり。国道206号時津町役場入口の次の交差点から時津中通りへ入る。中通りの突き当たりに八幡神社はある。神社の後ろ側が中央公園。

浦郷のともづな石 うらごう
(西彼杵)時津町 八幡神社・前 舟繋石 文政年間(1818-30)以前 WEB(みさき道人) 移設(もと、中通り)(昭和
60)現在の中通りの辺りが波止場だった時代(文政年間)に舟繋石として使われていた 2 C

本ブログ次を参照。 時津のともづな石  西彼杵郡時津町浦郷
https://misakimichi.com/archives/447

元・梅香崎の唐船繋場の繋石  長崎市玉園町 ( 長崎県 )

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元・梅香崎の唐船繋場の繋石  長崎市玉園町

サイト「近世以前の土木・産業遺産」長崎県リストによるデータは、次のとおり。長崎歴史文化博物館から玉園町の上の一方通行通りに入る。聖福寺山門前まで進むと、車道対面側に旧迎陽亭はある。
梅香崎天満神社境内の燈籠の棹石は、後ろの2枚。

元・梅香崎の唐船繋場の繋石 うめがさき
長崎市 (玉園町)杉山宅・旧迎陽亭 舟繋石 弘化3(1846) WEB(みさき道人)門柱に転用/西道仙(1836-1913)による「唐船維覧石」の書が刻字 長崎市立博物館「長崎の史跡(歌碑・句碑・記念碑)」(平成16)には、宝暦12に梅香崎に唐船繋場が造られた際、石垣とともに設置されたとされる、との記載がある。しかし、清水寺や梅香崎天満神社境内の燈籠の棹石に転用されているとの記載には疑問があるし、『長崎周辺“石・岩・陰陽石”』(平成
14)では、長崎駅近くの波止場に唐船継纜用の石だとされており、由来は定かでない 3 B

本ブログ次を参照。 梅香崎唐船繋場の繋石とはどんなものか
https://misakimichi.com/archives/182

お高校時代・南アルプスの岩魚  YとTの遺文 ( 長崎県 )

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お高校時代・南アルプスの岩魚  YとTの遺文

高校時代の同窓生で友人、YとTが6月に相次いで逝去した。私の手元に彼らが残したおもしろい母校の思い出と、青春の記録がある。心当たりの方は読んで、彼らを懐かしんでもらいたい。
私もそろそろ認知症の気があり、お迎えが早いだろう。

御用井戸1・2  天草市牛深町船津 ( 熊本県 )

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御用井戸1・2  天草市牛深町船津

サイト「近世以前の土木・産業遺産」熊本県リストによるデータは、次のとおり。天草市牛深支所西の牛深町交差点から海岸通りに船津に向かい、加世浦バス停から手前の真浦公民館の方へ入る。この路地のだいぶん奥の左右の民家に御用井戸が残るが、付近に案内図や案内標識はなくどの家か場所がわかりにくいので、近所で良く聞くこと。天草市に対応をお願いしたい。
「御用井戸1」文化元年(1804)のが、写真1〜4、「御用井戸2」文化9年(1812)のが、写真5〜9。写真10は、大正11年だった。

御用井戸1 ごよう
天草市 牛深港<牛深湊見張番所> 石井戸 文化元(1804) 市史跡 歴史的港湾施設資料集/現地解説板 近所の人がポンプで揚水(飲用には不適) 寛政10(1798)に沿岸監視体制強化のために設置された長崎奉行直轄の番所の専用井戸として掘られたもの/一般住民の使用は禁止されていた 2 C

御用井戸2 ごよう
天草市 牛深港<牛深湊見張番所> 石井戸 文化9(1812) 市史跡 現地解説板 蓋が被せてある/近所の人がポンプで揚水(飲用には不適) 同上/井戸枠に「御/番/所/用/水」と刻字 2 C

現地説明板は次のとおり。

天草市指定文化財  御用井戸
指定年月日 昭和50年6月10日
天草初代代官鈴木重成のときに、富岡、大江、魚貫崎に遠見番所がおかれましたが、その後、寛政10年(1798)、沿岸監視体制強化のため、長崎奉行直轄の牛深湊見張番所が新設されました。湊番所には普請役部屋や水夫部屋があり、この御用井戸は文化元年(1804)に湊番所専用に掘られたもので、一般の人々は使用を禁止されました。井戸は当時数基掘られており、近くには文化9年(1812)のものも残されています。どちらも内部の石組みは当時のままで、水不足の際にも枯れることはなかったといわれています。
平成22年3月 天草市教育委員会

天草市指定文化財  御用井戸
指定年月日 昭和50年6月10日
天草初代代官鈴木重成のときに、富岡、大江、魚貫崎に遠見番所がおかれましたが、その後、寛政10年(1798)に、沿岸監視体制強化のため、長崎奉行直轄の牛深湊見張番所が新設されました。湊番所は御用船を備え、普請役部屋や水夫部屋がありました。この御用井戸は文化9年(1812)に湊番所専用に掘られたものです。一般の人々は使用を禁止されており、石組みの井戸枠には「御番所用水」と刻まれています。当時、井戸は当時数基掘られたらしく、付近には文化元年(1804)のものも残されています。
平成22年3月 天草市教育委員会

三角西港  宇城市三角町西港 ( 熊本県 )

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三角西港  宇城市三角町西港

宇城市HPの国指定文化財による説明は、次のとおり。JR三角駅から天草五橋入口の方へ向かい、そのまま国道57号を進むと、三角西港公園がある。

三角西港  当時の姿をそのまま残したロマン漂う観光スポット

三角西港は、明治20年に明治政府の国内統一殖産振興の政策に基づいて、オランダ人水理工師のローウェンホルスト・ムルドルの設計で建設されました。当時の最新の技術が盛り込まれ、近代国家の威信を懸けた明治三大築港の一つです。良港を持たない熊本県にとって築港は県民の悲願というべきもので、三角港にかけた期待と完成の喜びは数々の逸話として伝えられています。

三角町は有明海、不知火海の二つの海に面し、熊本県の海の玄関港として、物資や人が行き交う海上交通の要地として繁栄。それとともに宇土郡役所(現在の宇城市立九州海技学院)や三角裁判所(現在の法の館)が設置され、宇土地域の行政や司法の中心地でした。

756メートルにもおよぶ石積みの埠頭や水路、建造物などは築港後1世紀の歴史を持ちながら今なお厳然としてたたずまいを見せています。このように当時の都市計画がほとんど無傷のままで残っているのは全国的にも珍しく、文化財的にも国際的にも価値ある生きた港として、平成14年12月、国重要文化財に指定され、港町三角のシンボルとなっています。

また、昭和62年の築港100周年を期に港湾整備事業の指定を受け、当時の建造物の復元や一帯の公園整備に取り組み、観光港として再興しています。小説家・小泉八雲ゆかりの旅館・浦島屋、カフェなど明治の面影を残す建物が残ります。