投稿者「misakimichi」のアーカイブ

白鬚神社のスギ  九重町大字野上字鹿伏 ( 大分県 )

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白鬚神社のスギ  九重町大字野上字鹿伏

現地説明板は、次のとおり。国道210号JR豊後中村駅入口交差点から県道40号に入り、すぐ左折する町道を谷間奥へずっと登って行くと、後野上の鹿伏公民館に着く。すぐ先に白鬚神社があり、この大スギが見える。

九重町指定天然記念物  白鬚神社のスギ
所在地・九重町大字野上字鹿伏
所有者・白鬚神社
指定年月日・昭和57年2月 日

樹高35.0m・胸高周囲6.44m・根回り8.0mで、町内では一番大きなスギである。
樹齢400年位で、スギは各地に巨木が多く、国指定が40件をこえる。屋久島の「縄文杉」が日本一で、胸高周囲16.1m、樹高30m、2位が高知県大豊町八坂神社の「杉の大杉」で、胸高周囲15m、樹高60mである。
県内では湯布院の大杵社のスギが1位である。屋久島に多数の老巨樹があるが、全国各地の神社・寺院の参道や街道の並木として古くから植えられているものが多く残っている。
県木に選定されたものではスギが最も多く、秋田スギ・立山スギ(富山)、北山スギ(京都)、神宮スギ(三重)、吉野スギ(奈良)、ヤナセスギ(高知)がある。
当町内には、周囲5mを越えるスギが外に10本確認されている。
九重町教育委員会

後野上の地蔵道標1  九重町野上(鹿伏) ( 大分県 )

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野上の地蔵道標1  九重町野上(鹿伏)

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。国道210号JR豊後中村駅入口交差点から県道40号に入り、すぐ左折する町道を谷間奥へずっと登って行くと、野上の鹿伏公民館に着く。
地蔵道標1は、ややこの手前のカーブのところから坂道を集落へ上がると、石垣角に埋め込まれてある。
後野上(猪牟田)の地蔵道標2は、訪問忘れ。後日、画像を追加したい。

後野上の地蔵道標1 うしろのがみ
(玖珠)九重町 (鹿伏) 石道標(舟型) 高52㎝ 天保2(1831) 九重町石造物資料p37/九重町郷土誌p240 練り石擁壁上部に移設 (正面右端)「右ハ うしろのがみ」、(同左端)「左ハ のがみ」/正面中央に地蔵立像を陽刻 2 –

後野上の地蔵道標2 うしろのがみ
(玖珠)九重町 (猪牟田) 石道標(舟型) 天保4(1833) 九重町郷土誌p241 原位置? (正面右端)「右 やま」、(同左端)「左り 田の道」/正面中央に地蔵立像を陽刻 1 –

鹿伏には、公民館前バス停角の祠内に、後ろの写真のとおり地蔵道標はある。九重町郷土誌240頁の説明は、次のとおり。ただし、遺産サイトによると、これは年号不記載、雰囲気から近代の可能性→対象外となった。

道 標(地蔵)
後野上(鹿伏)
(正面)(像の右側)たの (像の左側)ゆのひら
備考 安置の場所は、移動しているという。

相狭間のブンゴボダイジュ  九重町相挟間 ( 大分県 )

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相狭間のブンゴボダイジュ  九重町相挟間

大分県「おおいたデジタルアーカイブ」による説明は、次のとおり。九重町役場から国道387号に出て宝泉寺温泉の方へ向かい、途中から西側谷間の相狭間地区に入る。万年山登山口のよう。

相狭間(あいばさま)のブンゴボダイジュ −天然記念物−
説明
九重町相挟間地区にブンゴボダイジュという県の天然記念物に指定された木がある。高さ約15メートル、直径約30センチメートルの落葉高木である。細い道沿いの疎林の端に自生するこの木が、中国の南西部四川省と雲南省に分布するティリア・イントンサ(中国名 多毛椴樹)と同一種であるとの研究結果が発表されたのは、平成8年3月のことであった。  (1996年7月号 広報おおいた)
場所
九重町

田野の地蔵道標  九重町田野(筌ノ口) ( 大分県 )

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田野の地蔵道標  九重町田野(筌ノ口)

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。飯田高原の北側手前、県道40号の筌の口温泉入口にエッソGSがある。この裏道に入り筌の口温泉へは下らず、鳥居の前(ここが白鳥神社御仮屋境内のよう)を直進すると、すぐの四つ角にこの地蔵がある。

田野の地蔵道標 たの
(玖珠)九重町 (筌ノ口) 石道標(丸彫) 高110㎝ 弘化3(1846) 九重町石造物資料p38/九重町郷土誌p238 移設(地蔵が道路面を向いていない)/首が折損→修復 (台石正面)「南、いおふ山/かんのぢごく/九重山」、(台石右面)「東、ゆの平/ふ奈い/由ふいん/の上/森」、(台石左面)「西、ゆ津ぼ/小ぐに/すじゆ/日田」、(台石裏面中央)「北、の上/町田、近道」/台石上に地蔵坐像の丸彫を載せる 2 C

菅原の地蔵道標  九重町菅原(地蔵原) ( 大分県 )

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菅原の地蔵道標  九重町菅原(地蔵原)

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。九重町役場から国道387号へ出て、宝泉寺温泉へ向かう。県道680号に入り柴やかた峠を越して、地蔵原入口まで行くと、九重緑化産業の事務所があり、県道対面の看板後ろにこの首なし地蔵がある。
地蔵原は涌蓋山の山麓で、この県道は湯坪や筋湯温泉に通じる。

菅原の地蔵道標 すがわら
(玖珠)九重町 (地蔵原) 石道標(舟型) 高166㎝ (うち、塔身65㎝) 天保6(1835) 九重町石造物資料p38 原位置?/頂部欠損 (最上段台石正面右)「右ハ/湯坪 筋湯道」、(同左)「左ハ/田野 寒地獄」、(最上段台石右面)「あ連湯山 苦悩を/のがる/温泉ぞ/筋ゆう/のんで/をどる/ごくらく」の句(中央に袖付き右手差しの陽刻)→温泉遺産(全体写真の下に右面を添付)/参考までに最上段台石左面には「李庭/あそこたの 志つの/在る/身ハ/こと/せん/万/かんのぢごく尓/をちこちの人」の句(中央に袖付き左手差しの陽刻)/3段の台石上に光背付きの地蔵立像(蓮台)を載せる 1 A

瑞巌寺の切通し  九重町松木 ( 大分県 )

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瑞巌寺の切通し  九重町松木

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。JR豊後森駅から玖珠川沿いの県道678号を進む。龍門の滝への県道409号へ左折するとすぐに県道脇にある。
瑞巌寺磨崖仏のやや手前の岩場となり、かつてここに小さい瑞巌寺隧道があったが、県道拡幅工事で開削された。隧道以前の古道は、手前の民家裏から墓地へ上がると、墓地後ろに崖面の切通しが残っている。県道側は鎖で登っていたようだ。瑞巌寺隧道の当時の貴重な古写真は、この民家で写させてもらった。

瑞巌寺の切通し ずいがん
(玖珠)九重町 切通し 長約6m,高約4m 江戸期 WEB 通行困難な廃道 2 C

この項は、tunnel webの「瑞巌寺隧道」も参照。だが、遺産リストの対象は現在も残る「切通し」の方である。
http://www.tunnelweb.jp/kyushu/44oita/ob-road/zuiganji.html

瑞巌寺磨崖仏  九重町松木 ( 大分県 )

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瑞巌寺磨崖仏  九重町松木

大分県観光情報公式サイトによる説明は、次のとおり。JR豊後森駅から玖珠川沿いの県道678号を進む。龍門の滝への県道409号へ左折するとすぐに県道脇にある。
後ろの2枚は、すぐ先の岩面にあった二日市洞穴。

瑞巌寺磨崖仏

かつて、国東半島の六郷満山を開いたといわれる僧・仁聞が、養老年間(717〜723年)に創建したと伝えられる瑞巌寺は、天正年間 (1573〜1592)に大友氏の兵火にかかって焼失し、廃寺となって再建されないままとなっています。境内の高さ約2.3m、横約7.0mの凝灰岩の岩肌に、不動明王(ふどうみょうおう)を中心として、右に矜羯羅童子(こんがらどうじ)・増長天(ぞうちょうてん)、左に制多迦童子(せいたかどうじ)・多聞天(たもんてん)の5体の磨崖仏が半肉彫りされており、平成12年度から3年をかけ、剥落防止や地衣類の除去などの保存修理が行なわれました。今もなお残るベンガラの鮮やかな赤が、往時の繁栄を物語っています。(大分県指定史跡)

製作年代 室町時代中期
所在地 玖珠郡九重町松木
最寄り交通機関 JR豊後森駅からバス20分「松ケ鼻」下車
問合せ先 九重町観光協会 0973-76-3866  九重町生涯学習センター 0973-76-3888

観音の滝  日田市天瀬町合田柚ノ木 ( 大分県 )

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観音の滝  日田市天瀬町合田柚ノ木 

ウィキペディアフリー百科事典による説明は、次のとおり。国道210号により天瀬町へ向かい、その手前、JR豊後中川駅を過ぎた丸山バス停横にある。 

観音の滝 (大分県)
観音の滝(かんのんのたき)は、大分県日田市天瀬町にある滝。慈恩の滝、桜滝とともに天瀬の三瀑のひとつとされる。耶馬日田英彦山国定公園の指定区域内にある。

概要
落差12m幅4mの滝で、起伏のある滝壁に沿って滝水が何段にも流下する。滝壁の中央部の凹凸が観音菩薩のように見えることから観音の滝と呼ばれる。また、別名琵琶の滝(びわのたき)ともいう。
国道210号沿いに位置し、国道210号に並流する玖珠川に向かって流れ落ちる。上流の慈恩の滝から観音の滝までの玖珠川は奇岩が並ぶ渓谷をなし、三洲峡(さんしゅうきょう)と呼ばれる。
慈恩の滝、桜滝、観音の滝の三瀑に、赤岩滝(山法師滝)、楓葉の滝、夕日の滝を加えて天瀬六瀑と呼ばれることもある。

川原隧道前後の石畳・川原隧道  日田市天瀬町女子畑 ( 大分県 )

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川原隧道前後の石畳・川原隧道  日田市天瀬町女子畑

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。国道210号により天瀬町の方へ向かう。旧町境に境橋があり、手前から右折してさかえ保育園前を通って上がって行くと、「川原隧道入口」の案内板がある。石畳の坂道があり、約20分ほど山手へ登ると川原隧道に着く。

川原隧道前後の石畳 かわばる
日田市 <日田往還> 石畳道 天ヶ瀬側:長600m,日田側:長100m,幅1.5m 文政年間頃(1821-31) 県史跡 市教委/WEB 平成2の集中豪雨で石畳が20mにわたり崩壊→翌年度に修復 西国筋郡代・塩谷大四郎正義の命による日田往還改修に伴い川原隧道の前後に敷設された石畳(石敷による荷車等の通行改善が目的)/工事には豆田町の豪商・廣瀬久兵衛が協力 1 A

川原隧道 かわばる
日田市 <日田往還> 石合掌トンネル 長52m(実測値),幅2m,高3m 文政年間頃(1821-31) 県史跡/選奨土木遺産 市教委/WEB/馬場 合掌式の部分と素掘の部分がある/合掌式の部分の保存状態は非常に良い/WEBサイトによりトンネルの延長に様々な数値が記されているため、市教委が2013.10に再実測し公式値を再確認した 西国筋郡代・塩谷大四郎正義の命による日田往還改修に伴い築造された江戸期では稀な道路トンネル(トンネル化による距離短縮が目的)/開削時期を文政年間としたのは、この時期に塩谷大四郎正義が日田往還の改修を行ったとされているため/工事には豆田町の豪商・廣瀬久兵衛が協力/トンネル入口の石柱に「嘉永七年甲寅八月吉日 切抜之内甃寄附 豆田町 広瀬久兵衛 石工 中國助次郎」との刻銘あり、一般的には嘉永7(1854)を川原隧道の竣工年としている→塩谷大四郎正義(1836没)との関連が不明→「嘉永7」は、あるいは、素掘を合掌式に変更した年かもしれない、もしくは、坑口の門型の石材とその脇の石壁を構築した年かもしれない→石工は周防辺りの石工とされているが、周防には合掌アーチの技術は存在しない、従って、中國助次郎が素掘を合掌式に変更した可能性はない(管理者・馬場の意見)/全国で唯一の合掌構造の道路トンネル(水路トンネルでは熊本県の幸野溝・旧貫が唯一現存) 1 A

台神社前の石畳  日田市天瀬町女子畑 ( 大分県 )

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台神社前の石畳  日田市天瀬町女子畑

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。日田市小渕橋から県道674号により天瀬町女子畑へ向かう。廃校となった台小学校の後ろ側に台神社はある。

台神社前の石畳 だい
日田市 <日田往還> 石畳道 長約30m(現存部) 宝暦8(1758)以降 市史跡/歴史の道百選 市教委 日田往還はほとんどが石畳だったとされるが、台神社前は30mほどがCで固定されているだけ 3 –