桂 林 橋 日田市城町
HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」大分県の石橋によるデータは、次のとおり。豆田町の東側、城内川に架かっている。月隈幼稚園の手前、桂林園近く。下流の橋は最近のコンクリート橋のよう。
№1,046 桂林橋
日田市城町
城内川
橋長:6.4m 橋幅:0.65m
4径間桁橋
豆田町の東側、城内川に架かっています。
月隈幼稚園の西側、桂林園近くです。
桂 林 橋 日田市城町
HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」大分県の石橋によるデータは、次のとおり。豆田町の東側、城内川に架かっている。月隈幼稚園の手前、桂林園近く。下流の橋は最近のコンクリート橋のよう。
№1,046 桂林橋
日田市城町
城内川
橋長:6.4m 橋幅:0.65m
4径間桁橋
豆田町の東側、城内川に架かっています。
月隈幼稚園の西側、桂林園近くです。
小ヶ瀬井路の取入口跡と改修碑 日田市小ヶ瀬町
サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。小ヶ瀬井路はこれまでふれてきた。私の現地写真はここでは、国道386号日田市小ヶ瀬町の小ヶ瀬橋先にある「小ヶ瀬井手取入口跡」及び「小ヶ瀬井路改修碑」を撮影している。
小ヶ瀬井路 おがせ
日田市 玖珠川→日田盆地 用水 長2754m 文政8(1825)→天保2(1831) 市教委 文政8(1825)竣工→文政11までに破損箇所の修復と拡張・延長→最終的に天保2に完成/玖珠川洪水による井堰の決壊により何度も損傷/護岸C改修 西国筋郡代・塩谷大四郎正義の命により、豆田町の豪商・廣瀬久兵衛と草野宗内が工事の実現性を調査、工事着工を進言/廣瀬久兵衛は、文政6(1823)から測量・実施設計に入るとともに、工事資金として周辺13村・郡内50余村からの出資・寄付を集めた/延べ3万人の人夫/全体の約1/3がトンネル/日田盆地の13ヶ村で120haの新田が創生→約1300石増加/塩谷代官と豪商・廣瀬のペアによる社会事業の第1号 3 B
日高町一帯の小ヶ瀬水路 日田市日高町
小ヶ瀬水路の会所山隧道入口を探して、日田市日高町のJR九大本線の日高町踏切まで来ると、周辺案内図に水路が切れて記されていた。正しくはわからないが、このあたりのことだろう。
なお、水路の上流へ進むとJR線路下をくぐり、田の中を山手へ続き、素掘りトンネルで丘を越して、国道側へ出た。これから国道沿いに左道脇をくぐり、小ヶ瀬町の「小ヶ瀬井手取入口跡」まで続いていた。
筑後川の水刎 日田市日高
国道386号の日田市日高「小渕橋」下流の筑後川右岸で見た水刎。古い石積みのようだが、文献不明で築造年代はわからない。
遺産サイト馬場先生の見解は、次のとおりだった。
「石刎は、江戸期のものは必ず石が組んであります。バラバラになっているものも、元は組んであります。川原の丸い石をそのまま積むことはまずありません。特に、小型の石刎の場合は。
ですから、昭和戦後のものだと思います。」
会所山の隧道 日田市小ヶ瀬井路
サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。県道672号により日田市田島団地前バス停まで行くと、県道側に小ヶ瀬井路「堀貫口」見学路の入口案内板がある。
会所山の隧道 よそやま
日田市 小ヶ瀬井路 <石合掌トンネル(水路)> 長320m 文政8(1825) 市教委/WEB(みさき道人) 平成24の九州豪雨で被災→C改修→モニュメントとして2本のみ展示(1本が約500㎏)/坑口は修景改修 落盤、水漏れ、酸素不足に苦しめられた難工事→当時の記録に、石に穴を開け、その上からフイゴで風を送ったが内部は灯火がほとんど届かないほど濁っていた旨が記されている→こうした記録のあることが貴重 3 A
小ヶ瀬井路の碑 日田市田島 大原八幡宮境内地
小ヶ瀬井路にふれる前に、日田市田島の大原八幡宮境内地に建立されている「小ヶ瀬井路の碑」碑文内容を、古賀河川図書館HP「碑文が語る筑後川(13)」から引用する。
大原八幡宮は、日田市役所の東側の大通りにある。
碑文が語る筑後川(13)
−小ヶ瀬(おがせ)井路の碑−
碑 銘 小ヶ瀬井路の碑
建立地 大分県日田市田島
(大原八幡宮境内地)
建立者 日田中央土地改良区
建立日 昭和60年3月8日
日田市小渕地点で、九住山を源に発する玖珠川と、阿蘇を源とする大山川が流れ込み筑後川となる。大山川のほうが筑後川の本流である。その玖珠川左岸、国道210号線沿い小ヶ瀬地先に、江戸期に開削された小ヶ瀬井路の取水口がある。この井路は、日田郡代塩谷大四郎の事業の命によって、天領・日田豆田町の豪商廣瀬久兵衛らが尽力して完成した水路である。久兵衛は学者廣瀬淡窓の弟である。
日田市田島に鎮座する大原八幡宮の脇を小ヶ瀬水路は滔滔流れており、八幡宮の境内にその水路のいわれの碑が建立されている。隧道工事における落盤事故対策の苦労等、そして完成の暁には田島等13ヶ村における300町歩が美田となり、石高が増加した。刻文は次のとおりである。
「小ヶ瀬井路の碑
井堰、水路を造り玖珠川の水を利用し始めたのはいつ頃からであろうか。小ヶ瀬井堰より前にあった大井手井堰が造られた初めの年代は分らないが、享保六年(1721)に代官所の御手当(補助)を受けて修復がおこなわれたとの記録があるので、享保以前に造られたことは明らかである。慶長年間にあった井手村の名は、井手すなわち井堰の存在を物語っているので、井堰による玖珠川の水の利用は、さらに時代をさかのぼるものであろう。記録から見ると、大井手井堰は松材、米、銀子などの補助を受けて、上井手・下井手・刃蓮・田島・竹田・庄手・堀田の七ヶ村の農民が協力して造り、また次々修理したことが分る。また城内・中城・陣屋廻・十二町・友田・渡里の六ヶ村は、宝永六年(1709)城内井堰を設けて花月川の水を取り入れたとの記録があるが、それ以前に花月川の水を取り入れていた。
然し両井堰から取り入れる水量は不足勝ちで、前記十三ヶ村は稲作の面積を制限され又干害に苦しんだ。特に田島村は土地が高く、井路の水が殆んど利用できず、天水にたよる有様で水不足のため不作が続き、生活に困った農民は村を去り農家戸数と人口の減少がひどかった。このような状態から抜け出すためには、大井手の上流小ヶ瀬に井堰を設け新しい水路を造り、多量の水を取り入れることが必要であった。文政八年から八、九十年前の代官岡田庄太夫以来、揖斐十太夫、三河口太忠らの郡代は、そのような計画を考えた。然し堅岩の山である源ヶ鼻や会所山に隧道を造り水路とすることは、難工事で多くの経費がかかるので計画に取りかかることが出来なかった。
その難事業に着手する決断をしたのが郡代塩谷大四郎である。塩谷郡代は、中城村の二人の庄屋である博多屋久兵衛・升屋忠右衛門に工事計画について調査を命じた。二人は田島村庄屋と共に以前の計画絵図を調べ、また、実施についても調査し、残る十一ヶ村の庄屋とも相談した上で工事に着手するよう郡代に進言した。こうして新井堰・井路の事業が文政六年四月二十日に始まった。初めは測量をして絵図を作り、なるべく田地を潰さぬように、また水行・水続きを計算に入れて井路のコースを定めることが当面の仕事であった。また必要な労力・資材・資金集め等の計画も立てねばならなかった。それらの計画に賛同した十三ヶ村の庄屋・組頭・百姓代が連印の書附を以って計画の実行を日田御役所に願い出たのは、文政七年二月のことである。そして三月初めから本格的な工事が始まった。久兵衛・忠右衛門の二人が中心となって事業の推進に献身的に当り、工事現場の宰領は竹田村の魚屋長八が勤めた。源ヶ鼻から現在の田島専念院下までの二、二二二メートルの間が工事の中心で、水路を通すため隧道を掘る工事がその大部分であった。
源ヶ鼻の堅岩は一日に僅か二、三寸しか切り貫けないほどの難工事であった。また会所山の隧道工事は酸素不足や落盤事故で苦しみ、竹筒で空気を送り、土砂搬出用の隧道を掘り、また隧道の両側に石垣を造りその上に平石を置き、あるいは合掌式に組み合わせて落盤を防いだ。山すその隧道では明かり取りの穴を掘り、平地では土地を潰さぬため水路を暗渠にする工夫をした。この小ヶ瀬井路の工事には、雇われた石工・石組師・大工・雇いのほか、十三ヶ村はもとより日田郡の他の村々から割り当てられた農民が人足として出て働いた。その人足にも僅かながら賃銭が支給された。人足は多い時には一日に二百人以上出て、定められた分担区域で働いた。日田御役所の役人も亦、ほとんど毎日交代で工事現場を巡視した。人件費や材料・器具の購入費は十三ヶ村の出資と隈町・豆田町及び日田郡の篤志家の寄付金でまかなわれた。御役所からの補助の有無は明らかでない。工事は時には昼夜兼行で進められ、文政八年(1825)四月二十日通水、翌二十一日塩谷郡代出席のもとに大原八幡宮で盛大な通水祝祭がおこなわれた。なお、完工には数年要したと言われる。この井路で十三ヶ村の水掛高は米にして約千三百石増加し、田島一村で五百二十石の増加であった。天保十一年隈町の山田作兵衛(五百両)豆田町の廣瀬久兵衛・草野忠右衛門(各二百五十両)の寄附金千両の基金の利子と十三ヶ村の負担金で、その後、井堰・井路の修理がおこなわれて来た。
大正九年小ヶ瀬井路普通水利組合が設立され、昭和三年大井手井路水利組合と協力し、九州電力株式会社との話し合いの結果、昭和十二年六月からサイフォンによる安定した水量毎秒六十個が確保され、度々の修復に苦しんだ井堰も不要となった。小ヶ瀬井路の管理は昭和二十七年から日田中央土地改良区がおこなっている。
昭和六十年三月八日
日田中央土地改良区 」 (H22.3.7 古賀河川図書館)
大波羅神社参道橋ほか 日田市大字田島
HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」大分県の石橋によるデータは、次のとおり。日田市役所の東側の通りに大原神社はある。
№1,985 大波羅神社参道橋
日田市大字田島
小ヶ瀬井路
橋長:4.2m 橋幅:6.5m
単径間円弧桁橋
装飾された高欄
№1,047 神池(しんいけ)橋
日田市田島町
橋長:5.7m 橋幅:2.7m
2径間円弧桁橋
架設:文化11年(1814)
日田市役所の東側、大波羅八幡宮境内にあります。
親柱 文化11年
№5,108 大原神社南参道橋
日田市大字田島
橋長:1.5m 橋幅:2.0m 桁5列 桁厚:19cm
単径間円弧桁橋
中城川の水門群・跡 日田市豆田町ほか
サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。私の現地写真は、豆田町の中城橋から中城川水路を遡り、慈眼山西の花月川取水口までを撮影している。
中城川の水門群・跡 なかじょう
日田市 <日田川通船> 運河 文政9(1926) 市教委 堰の痕跡を留めない 日田玖珠郡内の天領の年貢米の輸送は、関村まで山越えの道を馬で運んでいた→下記「小ヶ瀬井路」の完成が契機となり、西国筋郡代・塩谷大四郎正義が豆田町の豪商・廣瀬久兵衛と草野宗内に命じて中城川通船を可能にするような工事に着手、翌文政9に完成/中城川通船にあたっては、数百mごとに計9ヶ所の堰を設け、「最初の堰を閉じて水を貯め、次の堰を閉じて最初の堰を開くと十分な水量のまま舟が下流に流れ…」という方式を採用したとされる→9ヶ所に離散的に設置された単独の堰を閘門と考えることは原理的におかしい→連続閘門の場合 各扉の間隔は木製の場合10m前後が限界であるし、離散的な堰の間をもし「閘室」と考えると、仮に水位差50㎝、堰間距離300m、水路幅1mとすると1回の開け閉めに150㎥の水を必要とするが、これだけの量の水を短時間で「閘室」内に供給し、かつ、木製扉で水密性を維持することは物理的に不可能(管理者・馬場の意見)→結果的に、恐らく、ある程度水位を高めておいて、その水位差で押し流す程度の役割しかなかったのではないか→遡上する場合はこの方法では機能しないので、荷下ろしした後なので曳き舟をしていたと推測される(管理者・馬場の意見) 5 A
日田の町並み 日田市豆田町一帯
文化庁「文化遺産オンライン」による説明は、次のとおり。私は中城川に用件があり立ち寄った。
日田市豆田町(商家町 大分) ひたし まめだまち(しょうかまち おおいた)
その他 / 安土・桃山 / 大分県
大分県西部に位置する日田市豆田町は、近世初期に建設された城下町から商家町へと変遷した。寛永16年
(1639)に幕府の直轄地となってからは、九州における政治・経済の中心地として発展した。南北2本の通りと東西5本の通りによる整然とした町割を残し、各時代で特色ある多様な建築様式は、変化に富んだ町並を形成している。
加々鶴新道・跡 日田市高井町川下
サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。かんぽの宿日田を出発し、日田バイパス国道210号により西へ日田市高井町川下の加々鶴トンネルまで行く。
日田側のトンネル入口約300m手前の街道登り口に、高さ1.5mほどの「加々鶴新道碑」(文化2 (淡窓)廣瀬簡撰、雲霞道人書)が立っていたはずだが、地元に聞くとどこかへ移設されていて見当たらない。
http://hizou.30maps.com/map/65504
石畳道はトンネル反対側からの道にわずかに残っているらしいが、もう荒れても歩けない道になっているという。筑後川側のトンネル外となる歩道を進むと、出口先に宗像神社があった。
加々鶴新道・跡 かかづる
日田市 (高井町川下) 道路・石畳道 文化2(1805) 市教委 わずかに痕跡が残る 日田代官・羽倉權九郎が、石井村の豪農・樋口安左衛門謙言に命じ、費用も支給して新道を開設→嘉永6(1853)に隈の田中町の豪商・山田常良が石畳に改修 4 B