小ヶ瀬井路の碑  日田市田島 大原八幡宮境内地 ( 大分県 )

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

小ヶ瀬井路の碑  日田市田島 大原八幡宮境内地

小ヶ瀬井路にふれる前に、日田市田島の大原八幡宮境内地に建立されている「小ヶ瀬井路の碑」碑文内容を、古賀河川図書館HP「碑文が語る筑後川(13)」から引用する。
大原八幡宮は、日田市役所の東側の大通りにある。  

碑文が語る筑後川(13)
−小ヶ瀬(おがせ)井路の碑−
碑 銘  小ヶ瀬井路の碑
建立地  大分県日田市田島
(大原八幡宮境内地)
建立者  日田中央土地改良区
建立日  昭和60年3月8日

日田市小渕地点で、九住山を源に発する玖珠川と、阿蘇を源とする大山川が流れ込み筑後川となる。大山川のほうが筑後川の本流である。その玖珠川左岸、国道210号線沿い小ヶ瀬地先に、江戸期に開削された小ヶ瀬井路の取水口がある。この井路は、日田郡代塩谷大四郎の事業の命によって、天領・日田豆田町の豪商廣瀬久兵衛らが尽力して完成した水路である。久兵衛は学者廣瀬淡窓の弟である。
日田市田島に鎮座する大原八幡宮の脇を小ヶ瀬水路は滔滔流れており、八幡宮の境内にその水路のいわれの碑が建立されている。隧道工事における落盤事故対策の苦労等、そして完成の暁には田島等13ヶ村における300町歩が美田となり、石高が増加した。刻文は次のとおりである。

「小ヶ瀬井路の碑
井堰、水路を造り玖珠川の水を利用し始めたのはいつ頃からであろうか。小ヶ瀬井堰より前にあった大井手井堰が造られた初めの年代は分らないが、享保六年(1721)に代官所の御手当(補助)を受けて修復がおこなわれたとの記録があるので、享保以前に造られたことは明らかである。慶長年間にあった井手村の名は、井手すなわち井堰の存在を物語っているので、井堰による玖珠川の水の利用は、さらに時代をさかのぼるものであろう。記録から見ると、大井手井堰は松材、米、銀子などの補助を受けて、上井手・下井手・刃蓮・田島・竹田・庄手・堀田の七ヶ村の農民が協力して造り、また次々修理したことが分る。また城内・中城・陣屋廻・十二町・友田・渡里の六ヶ村は、宝永六年(1709)城内井堰を設けて花月川の水を取り入れたとの記録があるが、それ以前に花月川の水を取り入れていた。

然し両井堰から取り入れる水量は不足勝ちで、前記十三ヶ村は稲作の面積を制限され又干害に苦しんだ。特に田島村は土地が高く、井路の水が殆んど利用できず、天水にたよる有様で水不足のため不作が続き、生活に困った農民は村を去り農家戸数と人口の減少がひどかった。このような状態から抜け出すためには、大井手の上流小ヶ瀬に井堰を設け新しい水路を造り、多量の水を取り入れることが必要であった。文政八年から八、九十年前の代官岡田庄太夫以来、揖斐十太夫、三河口太忠らの郡代は、そのような計画を考えた。然し堅岩の山である源ヶ鼻や会所山に隧道を造り水路とすることは、難工事で多くの経費がかかるので計画に取りかかることが出来なかった。

その難事業に着手する決断をしたのが郡代塩谷大四郎である。塩谷郡代は、中城村の二人の庄屋である博多屋久兵衛・升屋忠右衛門に工事計画について調査を命じた。二人は田島村庄屋と共に以前の計画絵図を調べ、また、実施についても調査し、残る十一ヶ村の庄屋とも相談した上で工事に着手するよう郡代に進言した。こうして新井堰・井路の事業が文政六年四月二十日に始まった。初めは測量をして絵図を作り、なるべく田地を潰さぬように、また水行・水続きを計算に入れて井路のコースを定めることが当面の仕事であった。また必要な労力・資材・資金集め等の計画も立てねばならなかった。それらの計画に賛同した十三ヶ村の庄屋・組頭・百姓代が連印の書附を以って計画の実行を日田御役所に願い出たのは、文政七年二月のことである。そして三月初めから本格的な工事が始まった。久兵衛・忠右衛門の二人が中心となって事業の推進に献身的に当り、工事現場の宰領は竹田村の魚屋長八が勤めた。源ヶ鼻から現在の田島専念院下までの二、二二二メートルの間が工事の中心で、水路を通すため隧道を掘る工事がその大部分であった。

源ヶ鼻の堅岩は一日に僅か二、三寸しか切り貫けないほどの難工事であった。また会所山の隧道工事は酸素不足や落盤事故で苦しみ、竹筒で空気を送り、土砂搬出用の隧道を掘り、また隧道の両側に石垣を造りその上に平石を置き、あるいは合掌式に組み合わせて落盤を防いだ。山すその隧道では明かり取りの穴を掘り、平地では土地を潰さぬため水路を暗渠にする工夫をした。この小ヶ瀬井路の工事には、雇われた石工・石組師・大工・雇いのほか、十三ヶ村はもとより日田郡の他の村々から割り当てられた農民が人足として出て働いた。その人足にも僅かながら賃銭が支給された。人足は多い時には一日に二百人以上出て、定められた分担区域で働いた。日田御役所の役人も亦、ほとんど毎日交代で工事現場を巡視した。人件費や材料・器具の購入費は十三ヶ村の出資と隈町・豆田町及び日田郡の篤志家の寄付金でまかなわれた。御役所からの補助の有無は明らかでない。工事は時には昼夜兼行で進められ、文政八年(1825)四月二十日通水、翌二十一日塩谷郡代出席のもとに大原八幡宮で盛大な通水祝祭がおこなわれた。なお、完工には数年要したと言われる。この井路で十三ヶ村の水掛高は米にして約千三百石増加し、田島一村で五百二十石の増加であった。天保十一年隈町の山田作兵衛(五百両)豆田町の廣瀬久兵衛・草野忠右衛門(各二百五十両)の寄附金千両の基金の利子と十三ヶ村の負担金で、その後、井堰・井路の修理がおこなわれて来た。

大正九年小ヶ瀬井路普通水利組合が設立され、昭和三年大井手井路水利組合と協力し、九州電力株式会社との話し合いの結果、昭和十二年六月からサイフォンによる安定した水量毎秒六十個が確保され、度々の修復に苦しんだ井堰も不要となった。小ヶ瀬井路の管理は昭和二十七年から日田中央土地改良区がおこなっている。

昭和六十年三月八日
日田中央土地改良区   」     (H22.3.7 古賀河川図書館)