川原隧道前後の石畳・川原隧道 日田市天瀬町女子畑
サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。国道210号により天瀬町の方へ向かう。旧町境に境橋があり、手前から右折してさかえ保育園前を通って上がって行くと、「川原隧道入口」の案内板がある。石畳の坂道があり、約20分ほど山手へ登ると川原隧道に着く。
川原隧道前後の石畳 かわばる
日田市 <日田往還> 石畳道 天ヶ瀬側:長600m,日田側:長100m,幅1.5m 文政年間頃(1821-31) 県史跡 市教委/WEB 平成2の集中豪雨で石畳が20mにわたり崩壊→翌年度に修復 西国筋郡代・塩谷大四郎正義の命による日田往還改修に伴い川原隧道の前後に敷設された石畳(石敷による荷車等の通行改善が目的)/工事には豆田町の豪商・廣瀬久兵衛が協力 1 A
川原隧道 かわばる
日田市 <日田往還> 石合掌トンネル 長52m(実測値),幅2m,高3m 文政年間頃(1821-31) 県史跡/選奨土木遺産 市教委/WEB/馬場 合掌式の部分と素掘の部分がある/合掌式の部分の保存状態は非常に良い/WEBサイトによりトンネルの延長に様々な数値が記されているため、市教委が2013.10に再実測し公式値を再確認した 西国筋郡代・塩谷大四郎正義の命による日田往還改修に伴い築造された江戸期では稀な道路トンネル(トンネル化による距離短縮が目的)/開削時期を文政年間としたのは、この時期に塩谷大四郎正義が日田往還の改修を行ったとされているため/工事には豆田町の豪商・廣瀬久兵衛が協力/トンネル入口の石柱に「嘉永七年甲寅八月吉日 切抜之内甃寄附 豆田町 広瀬久兵衛 石工 中國助次郎」との刻銘あり、一般的には嘉永7(1854)を川原隧道の竣工年としている→塩谷大四郎正義(1836没)との関連が不明→「嘉永7」は、あるいは、素掘を合掌式に変更した年かもしれない、もしくは、坑口の門型の石材とその脇の石壁を構築した年かもしれない→石工は周防辺りの石工とされているが、周防には合掌アーチの技術は存在しない、従って、中國助次郎が素掘を合掌式に変更した可能性はない(管理者・馬場の意見)/全国で唯一の合掌構造の道路トンネル(水路トンネルでは熊本県の幸野溝・旧貫が唯一現存) 1 A