投稿者「misakimichi」のアーカイブ

鮒川の里塚石(二里)(野仲二里塚)  豊後大野市緒方町鮒川 ( 大分県 )

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鮒川の里塚石(二里)(野仲二里塚)  豊後大野市緒方町鮒川

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。国道502号緒方町ファミマ角三郎大橋北交差点から南へ行く。途中の鮒川集落五差路を二の宮社の方へ、水路に沿い左折して進むと、すぐの民家入口前にこの里塚石がある。所在地・緒方町鮒川1145

鮒川の里塚石(二里)(野仲二里塚) ふながわ
豊後大野市 一里石 江戸期 市教委 (正面)「岡ヨリ 二里」/岡藩の岡城からの距離を示す里塚石 C

野 仲 橋・野仲井路橋  豊後大野市緒方町鮒川 野仲 ( 大分県 )

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野仲橋・野仲井路橋  豊後大野市緒方町鮒川 野仲

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」大分県の石橋によるデータは、次のとおり。国道502号緒方町ファミマ角の三郎大橋北交差点から南に行く。宮迫磨崖仏の方へ向かうと、途中の野仲集落に井路記念碑あり、右へ曲がった井路のところに架かる。
野仲橋の下流側から写しているので、上流側の野仲井路橋部分は確認忘れ。

№639 野仲橋

緒方町鮒川 野仲
橋長:7.6m  橋幅:4.0m  径間:5.3m
架設:大正8年
二の宮社から北へ1Km先に架かっています。

№640 野仲井路橋

緒方町鮒川 野仲
橋長:6.5m  橋幅:3.8m  径間:5.0m  拱矢:2.7m
架設:明治14年
野仲橋と接して架かっています。
野仲橋の上流側は野仲井路橋

豊後大野市歴史民俗資料館  豊後大野市緒方町下自在 ( 大分県 )

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豊後大野市歴史民俗資料館  豊後大野市緒方町下自在

豊後大野市HPによる施設案内は、次のとおり。

歴史民俗資料館概要

大分県豊後大野市及びその周辺の歴史民俗に関する資料の保存と活用を図り、旧緒方町立歴史民俗資料館(昭和59年3月20日建築)を利用し、平成17年3月31日に豊後大野市歴史民俗資料館が設置されました。 資料館では、考古・古文書・民俗・鉱石・化石など様々な資料を収蔵・展示しており、ふるさとの文化・産業の発展や先人たちの知恵を学ぶことができます。

また、平成25年9月に日本ジオパークの認定を受けたことに伴い、おおいた豊後大野ジオパークの拠点施設も兼ねています。

※豊後大野市は平成17年3月31日に大分県旧大野郡の5町2村(三重町・清川村・緒方町・朝地町・大野町・千歳町・犬飼町)が合併し、生まれた広大な自治体です。江戸時代には市中心部を流れる大野川を挟み、豊後国の岡藩(今の竹田市を中心とする藩)と臼杵藩(今の臼杵市を中心とする藩)と2つの藩に分かれている時代もありました。

所在
豊後大野市歴史民俗資料館
〒879-6643  豊後大野市緒方町下自在172番地
TEL 0974-42-4141 市内無料TEL 9-42-4141  FAX 0974-42-2705

【開館時間】 9時から17時まで(入館は16時30分まで)
【休館日】  月曜日(祝日・休日の場合はその翌日)、国民の休日、年末年始(12月28日から1月3日)
※展示替えのため臨時休館となる場合もあります。
【入館料】  無 料

交通アクセス
中九州横断道路 朝地ICより車で約10分
JR緒方駅より 徒歩約10分
緒方支所前バス停(大野竹田バス)より 徒歩約5分
チューリップガーデンバス停(コミュニティバス)より 徒歩約2分

丸山八幡神社楼門  大分市大字今市 ( 大分県 )

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丸山八幡神社楼門  大分市大字今市

現地説明板は、次のとおり。県道412号沿い今市宿の石畳道の南端、突き当りに丸山八幡神社がある。

丸山八幡神社楼門   大分市指定文化財
この丸山八幡神社の楼門は江戸時代の享5年(1720年)に創建されたものである。今市在住の豪商であった松田庄右衛門尉長次が父母の長命、子孫繁栄を祈願して、神社に楼門の寄進を思いたったという。
最棟高は8メートル余り、入母屋造の銅板葺唐破風付である。この近郷にまれな立派なもので豊後における数少ない楼門の1つである。
記録によればその後、文化10年(1813年)、天保2年(1831年)、安政2年(1855年)に屋根葺替修理をしている。最近では一昨年の平成3年(1991年)に全面修築を行った。
この楼門には創建当初の彫刻とみられる、数々の彫刻が施されている。内側面に透彫りで酒造りの過程、24孝(中国で古今の孝子24人を選定したもの)の人物や12支の動物などが巧みに彫られている。
大分市教育委員会

今市宿の石畳  大分市大字今市 ( 大分県 )

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今市宿の石畳  大分市大字今市

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。私は由布市狭間町から県道
690号と県道412号により豊後街道を行った。

今市宿の石畳 いまいち
大分市 <肥後街道> 石畳道 長660m,道幅8.5m(うち、中央の敷石幅2.1m) 文禄3(1594)以降 県史跡 市教委/WEB 保存状態良好/石畳の両側の土道は舗装 中川秀成が文禄3の岡城主として移封されてから、岡領の宿場として整備したというのが県の『歴史の道調査報告書 肥後街道』のスタンス。その際に、上・下町からなる一筋道の宿場、中央の両町境で道路をクランク状に曲げ、境の上に「火防藪床」と呼ばれる竹林を設けたとある。庄屋・伝兵衛の祖先が整備した説や、加藤清正の関与説などが流布しているが、ここでは中川氏の関与を正説としたい。石畳の敷設は当初からの可能性もあるし、「元禄四年ゟ往還道床ニ成」という記載に意味があるとすれば元禄4(1691)以降かもしれない。 1 A

現地説明板は、次のとおり。

今市宿場
今市は七瀬川と芹川との間の台地(標高450m)にできた集落で、古くからの物資の集散地でした。文禄3年(1594)中川秀成が岡藩7万石の領主として入部。今市も岡薄の領地になりました。中川氏はやがて野津原村以西の肥後街道を参勤交代道路の一部として利用するようになったのです。今市が宿場として整備されたのは慶長年間(1596〜1615)のことで、庄屋伝兵衛の祖先が藩命により開発したと伝えられています。岡蒲のお茶屋は元禄8年(1695)、上町に移されて西の御茶屋と呼ばれるようになり、延享元年(1744)に廃止されました。肥後薄の御茶屋は、寛永10年(1633)下町に移りました。宿場の東西には上構、下構と呼ぶ門があり、警護に当たっていました。

参勤交代道路(今市石畳)
道幅8.5mの中央部に幅2.1m、長さ660mにわたり、全面平石が敷き詰められている。更に6ヶ所、家屋に出入りするための敷石もある。
この石畳は豊後鶴崎と肥後熊本を結ふ肥後(豊後)往還の一部であり、江戸時代、肥後藩細川氏の参勤交代道路として利用されていた。(豊後中川氏も一時期利用していたようである。)
道路の両側には町屋が立ち並び、今市町(同藩の宿場)としてにぎわっていた。ここの宿場は一筋通の町並だったため、宿場の中が見通されるのを防ぐ意味から、町の中央を鉤の手に二度曲げている。
県内に現存する石畳道は少なく、貴重な交通遺跡として、昭和47年に県史跡に指定された。

栗野の自然石道標  九重町栗野(本村) ( 大分県 )

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栗野の自然石道標  九重町栗野(本村)

九重町郷土誌の石碑が語る道づくり240頁による説明は、次のとおり。遺産リストになかったが訪ねた。
国道210号ガソリンスタンドがある恵良交差点付近から西へ上がる。九州電力水路が横切るが、そのまだ下あたりに右へ入る里道があり、この奥の人家が栗野村元庄屋、森秋夫宅である。
入口角に横90cm、高さ80cmくらいの自然石あり、地名刻みがあったが、建立年は不明。
遺産サイトによると、これは年号不記載、旧県道沿いの表現から近代の可能性→対象外となった。

(10)道 標(自然石)
栗野 本村
(正面)右えら・まつぎ、左もり・ひら川
備考 旧佐賀?県道の道路沿い。栗野村元庄屋宅入口にある。

九州電力水路を渡ってなお進むと、三叉路に地蔵、奥に大旧家があったが、この家前の石ではなかった。

町田の地蔵道標  九重町町田(作草) ( 大分県 )

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町田の地蔵道標  九重町町田(作草)

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。引治から四季彩ロードにより九重高原へ向かう。宝泉寺温泉分岐を過ぎ、しばらくすると栗原集落への標識がある。左折して進むと作草バス停に着く。近くに地蔵堂あり作草地蔵尊を安置している。
「嘉永八年夘三月」とありこの地蔵に間違いないが、左右の地名の刻みがどこにあるのかかわからない。台石の後面は、隙間が狭く確認できなかった。

町田の地蔵道標 まちだ
(玖珠)九重町 (作草) 石道標(舟型) 安政2(1855) 九重町石造物資料p39 RC覆屋内→移設(移設された際に、上段台石の向きが反転した可能性あり)/3段ある台石の1段目はC製 (上段台石裏面右)「左 ほうせんじ/町田」、(同左)「右 梅ノ木/森」/正面に地蔵立像を陽刻/「嘉永八年夘三月」と刻字があるが、嘉永は7年までなので3月なら安政2年 2 C

(2015年10月11日 追 記)
遺産サイトから連絡があり、「九重町の町田の地蔵道標ですが、地元の文化財調査員の方が見に行かれ、先ほどリストを修正しました。背面にあったそうです」とのことである。

皇産霊神社参道の石畳  由布市狭間町北方 ( 大分県 )

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皇産霊神社参道の石畳  由布市狭間町北方

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。JR向之原駅近く、国道210号狭間郵便局先交差点から県道51号へ入る。山手へ上がって行くと大カーブ地点に宮田保育園入口の標識があり、この道を進むと、妙見宮ともいう皇産霊神社参道の中段に着く。

皇産霊神社参道の石畳 こうさんれい
由布市 (北方)皇産霊神社・参道 石畳道 長106.6m,幅1.64m 江戸期 市有形 市教委 市道により一部切断 1 C

▶⑩2008.12 UFU City 情報広場「由布市文化財探訪 その.35」による記事は、次のとおり。

『皇産霊神社の参道・石畳・石段』
挾間町北方地区の、ほぼ中央の高いところに、皇産霊神社があります。寛弘8(1011)年10月に豪山和尚が妙見大菩薩を祀ったのが最初といわれています。妙見宮(妙見様とも)と呼ばれていましたが、明治になって皇産霊神社と呼ばれるようになったそうです。
この神社の参道や石段は、スガメ石造りの石畳と石段になっていて、貴重な石造文化財として市指定になっています。石畳は旧道から全長106.6m,幅1.6mで、神殿までは石段が続いています。
この参道が、いつ造られたものか記録がないのではっきりしませんが、狹間氏の祖である狹間直重が氏神として厚く信仰し、その後代々にわたり信仰したことから、狹間氏が栄えたころに造られたとものと考えられます。
妙見宮は、天正14(1586)年の島津氏との戦いで兵火にあい社殿・宝物・縁起等を失いますが、江戸時代に臼杵藩主稲葉氏により修復されて現在にいたっています。
古代中国では北極星を「天帝」とみなし信仰していましたが、これに仏教思想が入り妙見菩薩と言うようになりました。妙見とは「善悪・真理を見通すもの」という意味で、長寿延命や除災招福の仏として信仰したものでした。
のちに武士の間で、北極星を戦いの神として戦勝祈願をするようになり、狹間氏もこの妙見宮を氏神にしたものと思われます。
なお、このほか皇産霊神社には、妙見石、水神体、稲荷鳥居、灯籠、寶筐印塔等にまつわる縁起も多く残されています。      参考文献 『挾間町の文化財 第5集』

右田井路橋  九重町右田 ( 大分県 )

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右田井路橋  九重町右田

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」大分県の石橋によるデータは、次のとおり。水分PA近く。国道210号の妙見橋先にトンネルがあり、出口に古い案内板「通水橋」とあるが、なかなか接近できない。

№1,210 右田井路橋

九重町右田(みぎた)
町指定有形文化財
橋長:10.3m  橋幅:3.3m  径間:5.4m  拱矢:3.0m
架設:明治40年頃
妙見橋から国道210号線ですぐ東にトンネルがあります。
トンネルを抜けて左手に「通水橋」の看板が立っています。高速道路の下に見えます。

野上の地蔵道標  九重町野上(中巣と猪伏の三叉路) ( 大分県 )

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野上の地蔵道標  九重町野上(中巣と猪伏の三叉路)

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。国道210号ローソンをかなり過ぎた城ノ尾付近の交差点先から中巣川沿いの町道に入り登って行くと、中巣の落合橋に着く。
この橋を渡る手前に地蔵道標はあるが、基礎台石正面の刻字は、線香ローソク台と花立と動かさないと確認できない。左面に建立年と願主名がある。

野上の地蔵道標 のがみ
(玖珠)九重町 (中巣と猪伏の三叉路) 石道標(舟型) 高108㎝ 文政13(1830) 九重町石造物資料p37/九重町郷土誌p240 原位置 (台石正面右)「右、麦ノ平/奈かす」、(同左)「左、ゆふいん/ゆノひら」、その下中央最下部に「道」/中央正面に地蔵立像(蓮台)を陽刻 1 C