皇産霊神社参道の石畳 由布市狭間町北方
サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。JR向之原駅近く、国道210号狭間郵便局先交差点から県道51号へ入る。山手へ上がって行くと大カーブ地点に宮田保育園入口の標識があり、この道を進むと、妙見宮ともいう皇産霊神社参道の中段に着く。
皇産霊神社参道の石畳 こうさんれい
由布市 (北方)皇産霊神社・参道 石畳道 長106.6m,幅1.64m 江戸期 市有形 市教委 市道により一部切断 1 C
▶⑩2008.12 UFU City 情報広場「由布市文化財探訪 その.35」による記事は、次のとおり。
『皇産霊神社の参道・石畳・石段』
挾間町北方地区の、ほぼ中央の高いところに、皇産霊神社があります。寛弘8(1011)年10月に豪山和尚が妙見大菩薩を祀ったのが最初といわれています。妙見宮(妙見様とも)と呼ばれていましたが、明治になって皇産霊神社と呼ばれるようになったそうです。
この神社の参道や石段は、スガメ石造りの石畳と石段になっていて、貴重な石造文化財として市指定になっています。石畳は旧道から全長106.6m,幅1.6mで、神殿までは石段が続いています。
この参道が、いつ造られたものか記録がないのではっきりしませんが、狹間氏の祖である狹間直重が氏神として厚く信仰し、その後代々にわたり信仰したことから、狹間氏が栄えたころに造られたとものと考えられます。
妙見宮は、天正14(1586)年の島津氏との戦いで兵火にあい社殿・宝物・縁起等を失いますが、江戸時代に臼杵藩主稲葉氏により修復されて現在にいたっています。
古代中国では北極星を「天帝」とみなし信仰していましたが、これに仏教思想が入り妙見菩薩と言うようになりました。妙見とは「善悪・真理を見通すもの」という意味で、長寿延命や除災招福の仏として信仰したものでした。
のちに武士の間で、北極星を戦いの神として戦勝祈願をするようになり、狹間氏もこの妙見宮を氏神にしたものと思われます。
なお、このほか皇産霊神社には、妙見石、水神体、稲荷鳥居、灯籠、寶筐印塔等にまつわる縁起も多く残されています。 参考文献 『挾間町の文化財 第5集』