投稿者「misakimichi」のアーカイブ

沈堕の滝  豊後大野市大野町矢田‎ ( 大分県 )

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沈堕の滝  豊後大野市大野町矢田‎

ウィキペディアフリー百科事典による説明は、次のとおり。国道502号岩戸橋手前の下辻交差点から県道26号に入る。

沈堕の滝
沈堕の滝(ちんだのたき)は、大分県豊後大野市大野町矢田‎にある滝。2007年7月26日に、国の登録記念物として登録されている。
概要
大野川の中流にある雄滝と、その支流の平井川の合流口にある雌滝とからなる。雄滝は高さ約20m、幅約100mで、雌滝は高さ約18m、幅4mである。柱状節理が並ぶ景観は、「豊後のナイアガラ」、「大野のナイアガラ」とも呼ばれる(なお、同市緒方町にある原尻の滝は「東洋のナイアガラ」と呼ばれている)。
古くからの名瀑であり、室町時代の1476年(文明8年)には、雪舟が訪れ「鎮田瀑図」を描いたことでも知られる。なお、「鎮田瀑図」は関東大震災で焼失しており、狩野常信による模写(京都国立博物館蔵、画像)が現存するのみである。
1909年(明治42年)に豊後電気鉄道株式会社によって別大電車のために沈堕発電所が建設されて、雄滝のすぐ上流に取水用の堰が設けられ、1923年(大正12年)には堰がかさ上げされたため水量が減少して往時の景観が損なわれた。しかし、1996年(平成8年)からの堰堤強化工事に伴い、常に一定量の放流が行われるようになり、かつての壮大な景観を取り戻した。
雄滝と雌滝の間には、石造の沈堕発電所跡地(近代化遺産)がある。

岩戸一里塚  豊後大野市清川町臼尾 ( 大分県 )

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岩戸一里塚  豊後大野市清川町臼尾

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによる説明は、次のとおり。国道502号清川町岩戸橋手前から右折して旧国道の広地まで出る。右側の細い坂道の方が日向街道。しばらく登って進むと、岩戸一里塚に着く。所在図参照。

岩戸一里塚 いわど
豊後大野市 <日向道> 一里塚(1基) 高約2m,径約5m 江戸期 市史跡 市教委/歴史の道・日向道p38 お椀状から相当形態が崩れている/塚木なし 4 C

現地説明板は、次のとおり。

市指定史跡  岩戸一里塚
一里塚とは、街道の一里ごとにその目印として、道の両側に設置された塚で、例外もあるがふつうその上には榎が植えられ、遠くからも望見でき旅行者の便をはかったものである。
一里は三十六町を原則としており、これは古来六町、四十町あるいは五十町をもって一里とするなどまちまちであったのを天正(1573〜91)年間、織田信長(1534〜82)が三十六町を一里に定めたものを踏襲している。
こうして構築された一里塚は、旅人にとっては里程の目安また日ざしの強い日には木かげの休憩所となった。
一里塚のある道路は、貢祖道路(年貢を運ぶ道)として、また旧岡藩、旧臼杵藩の藩内各組への連絡道として人々の往来に使用されていた道で、通称殿様道とも呼ばれていた。
豊後大野市教育委員会

木野の道標  豊後大野市緒方町木野 ( 大分県 )

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木野の道標  豊後大野市緒方町木野

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによる説明は、次のとおり。県道7号新赤川トンネルを過ぎた緒方町下徳田の先、米山交差点から県道410号に入り、西へ木野入口まで向かう。右へ坂道を登ると木野集落があるが、集落への途中、左側奥に木野天満神社が見える。
神社前まで行き、左へ回り込む里道をなお進むと、三叉路の角にこの道標が立つ。現緒方町尾平へと、現清川町宇田枝の御嶽神社方面への分岐道標のよう。

木野の道標 きの
豊後大野市 <岡城〜尾平鉱山> 石道標 (尖頭角柱) 高71㎝ 江戸期 市有形 市教委 原位置? (正面)「右 おひら/左 おん多け」(=尾平鉱山,御嶽神社) 1 –

豊後大野市HPの市指定文化財による説明は、次のとおり。

木野道標
総高71cmの石塔で「右おひら 左おんたけ道」と刻まれている。岡城より尾平鉱山に続く街道の御嶽神社方面への分岐点を示すために設け建てられたと考えられる。
所在地:緒方町木野978
指定年月日:平成17年3月31日市指定(平成17年1月26日緒方町指定)

亀 甲 橋  豊後大野市緒方町下徳田 ( 大分県 )

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亀 甲 橋  豊後大野市緒方町下徳田

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」大分県の石橋によるデータは、次のとおり。県道7号新赤川トンネルを過ぎて緒方町下徳田の先、米山バス停から左折したところに架かっている。私は冬原監物の石畳から帰りにこの道へ下った。

№88   亀甲(かめのこう)橋

緒方町下徳田
徳田川
橋長:15.5m  橋幅:4.0m  径間:11.0m  拱矢:4.0m  環厚:70cm
国道502号線緒方町から県道7号線へ約7km行くと「米山」バス停、左折したところに架かっています。

監物の石畳・冬原の里塚石(三里)(監物の道標)  豊後大野市緒方町冬原 ( 大分県 )

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監物の石畳・冬原の里塚石(三里)(監物の道標)  豊後大野市緒方町冬原

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによる説明は、次のとおり。県道7号新赤川トンネルを出て左折、またすぐ右折して徳田川の橋を渡り、まっすぐ登って行くと、高台に監物の石畳の史跡案内板があり、里塚石も脇に立つ。

監物の石畳 けんもつ
豊後大野市 (冬原) 石畳道 江戸期 市教委 道路工事→石畳を移設・復元(出土した石材を利用したが、原形と異なる形状になった) 3 –

冬原の里塚石(三里)(監物の道標)
ふゆばる 豊後大野市 <岡城〜木浦鉱山> 一里石 江戸期 市教委 毀損した部分を復元 (正面)「岡ヨリ 三里」/岡藩の岡城からの距離を示す里塚石 C

現地説明板は、次のとおり。

冬原監物の石畳
江戸時代に岡城を起点とし、三重方面、宇目方面、木浦方面、尾平方面に街道が延びていた。
この街道の一つである監物の石畳は、平成8年のの農道建設により発掘されたものである。ここは岡〜木浦間の主要道路で、県道緒方高千穂線が整備されるまでは、地域間を結ぶ主要道路であった。「殿様道」とか「木浦街道」とか地元の人々は呼んでおり、約30年ほど前までは里道として使用されていた。
石畳は、砂利を敷いたり開墾したりしたため地下に埋っていたが、表土をどけると、幅約1.5m、延長約50mにわたり、整然と並んでいた。材質は、阿蘇溶結凝灰岩の比較的軟らかい部分で、石の厚さは約15cm〜20cm位である。石畳の下は赤土で、雨が降ると非常に滑りやすいため、急な部分に石を敷きつめたものと考えられる。
石畳を登りつめた峠には茶店があったとの伝承があり、発掘により石の間から多数の磁器片が出土した。ほとんどの磁器片は18世紀後半の肥前系(佐賀・長崎地方)の物で、1点だけが萩焼の破片であった。
宗旨奉行井上快助の紀行文「踏絵紀行」(天保12年:1841年)によると、「監物の出店に出て」との記述があり、19世紀後半に茶店が営業していたことがわかる。
茶店があった所は、畑になっており、畑の端には「○○○○里 冬原村 監物」と刻まれた道標がある。上部が欠損しているが、地元の人々によると「岡より三里」の道標とのことである。現在の石畳は、移転し復元したものである。 

柚木寺原橋  豊後大野市緒方町柚木・寺原 ( 大分県 )

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柚木寺原橋  豊後大野市緒方町柚木・寺原

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」大分県の石橋によるデータは、次のとおり。県道7号新赤川トンネル手前、柚木入口バス停から柚木方向へ入り、約1.3km進む。

№87   柚木寺原橋

緒方町柚木(ゆぎ)−寺原(てらばる)
橋長:53m  橋幅:3.7m  径間:16.3m
架設:昭和3年
連数:3
石工:高瀬笹一
県道7号線を長瀬橋より1.3km位先にトンネルあり。手前の3差路(柚木入口バス停)を柚木方向に約1.3km進む。

寺原の里塚石(一里)(寺原楠ノ木一里塚)  豊後大野市緒方町寺原 ( 大分県 )

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寺原の里塚石(一里)(寺原楠ノ木一里塚)  豊後大野市緒方町寺原

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによる説明は、次のとおり。県道7号長瀬橋先の上年野から右折し牧原入口から牧原に入る。さらに進むと寺原入口があり寺原集落奥まで行って小富士への道路標識により、この道を登って行くと、田の角にこの里塚石がある。

寺原の里塚石(一里)(寺原楠ノ木一里塚) てらばる
豊後大野市 <岡城〜木浦鉱山> 一里石 高80㎝ 江戸期 市有形 市教委 (正面)「岡ヨリ 壹里」/岡藩の岡城からの距離を示す里塚石 C

豊後大野市HPの市指定文化財による説明は、次のとおり。

寺原楠ノ木一里塚
総高80cmの石塔で「岡ヨリ壱里」と刻まれている。岡城より木浦鉱山に続く街道沿いの1里目を示すために設けられたと考えられる。
所在地:緒方町寺原
指定年月日:平成17年3月31日市指定(平成17年1月26日緒方町指定)

小宛の里塚石(一里)(小宛古畑一里塚)  豊後大野市緒方町小宛 ( 大分県 )

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小宛の里塚石(一里)(小宛古畑一里塚)  豊後大野市緒方町小宛

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによる説明は、次のとおり。国道502号草深野交差点から南西の高台に上がると草深野公民館があり、すぐ先から二俣は左へ、あとは道なりに字境を過ぎて約500mほど下ると小さな集落に出る。ここが緒方町小宛古畑である。
地元で聞くと一里塚は一時、集落上の車道脇電柱のところにあったが、豊後大野市が指定時、本来の場所である集落家並み下の旧道場所に戻して指定したという。
所在地・緒方町草深野469(車道から入り込みわかりにくい道なので、所在図を良く参照。車不可)。

小宛の里塚石(一里)(小宛古畑一里塚) おあて
豊後大野市 <岡城〜宇目> 一里石 (尖頭角柱) 高80㎝ 江戸期 市有形 市教委 (正面)「岡ヨリ 壹里」/岡藩の岡城からの距離を示す里塚石 C

豊後大野市HPの市指定文化財による説明は、次のとおり。

小宛古畑一里塚
総高80cmの角柱状の石塔で「岡ヨリ壱里」と刻まれている。岡城より宇目に続く街道沿いの1里目を示すために設けられたと考えられる。
所在地:緒方町小宛2134
指定年月日:平成17年3月31日市指定(平成17年1月26日緒方町指定)

「移情桜樹碑」?の標石  豊後大野市緒方町草深野 ( 大分県 )

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「移情桜樹碑」?の標石  豊後大野市緒方町草深野

前記事の「草深野の地蔵道標 (草深野薬師の道標)」から、次記事とする「小宛の里塚石(一里) (小宛古畑一里塚)」へ向かう途中の車道で見かけた標石。草深野と小宛の字境付近だった。
桜の木が傍らにあり、標石の正面は「移情桜樹碑」?と刻む。右面は由緒書きか「朝命待韓使杉備之鞆津?猛?記室従大夫備後…、明和八年、天明六年」の文字が拾えると、入江氏の画像判読。
ウェブ検索に表れず、詳しくは不明。豊後大野市へ問い合わせる必要もない標石。本ブログで一応、記録しておく。

草深野の地蔵道標 (草深野薬師の道標)  豊後大野市緒方町草深野 ( 大分県 )

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草深野の地蔵道標 (草深野薬師の道標)  豊後大野市緒方町草深野

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによる説明は、次のとおり。国道502号草深野交差点から南西の高台に上がると草深野公民館があり、すぐ先から二俣は左、左、左と行くと、水道水槽のある共有地広場に出て、奥に移設された地蔵道標がある。所在地・緒方町草深野469(所在図参照)。

草深野の地蔵道標 (草深野薬師の道標) くさぶかの
豊後大野市 石道標 高111㎝ 文政5(1822) 市有形 市教委/歴史の道・日向道p39 移設 (台石正面右)「みぎ うめ」、(同左)「ひだり うすき」 2 C

豊後大野市HPの市指定文化財による説明は、次のとおり。

草深野薬師道標

総高1.11m、草深野の近世岡城と臼杵城間の街道沿いにあったが、圃場整備のため共有地に移動している。台座に「ひだりうすき みぎうめ」と刻まれており、臼杵方面と宇目方面への分岐点を示す道標であったと考えられる。
所在地:緒方町草深野469
指定年月日:平成17年3月31日市指定(平成17年1月26日緒方町指定)