監物の石畳・冬原の里塚石(三里)(監物の道標)  豊後大野市緒方町冬原 ( 大分県 )

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監物の石畳・冬原の里塚石(三里)(監物の道標)  豊後大野市緒方町冬原

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによる説明は、次のとおり。県道7号新赤川トンネルを出て左折、またすぐ右折して徳田川の橋を渡り、まっすぐ登って行くと、高台に監物の石畳の史跡案内板があり、里塚石も脇に立つ。

監物の石畳 けんもつ
豊後大野市 (冬原) 石畳道 江戸期 市教委 道路工事→石畳を移設・復元(出土した石材を利用したが、原形と異なる形状になった) 3 –

冬原の里塚石(三里)(監物の道標)
ふゆばる 豊後大野市 <岡城〜木浦鉱山> 一里石 江戸期 市教委 毀損した部分を復元 (正面)「岡ヨリ 三里」/岡藩の岡城からの距離を示す里塚石 C

現地説明板は、次のとおり。

冬原監物の石畳
江戸時代に岡城を起点とし、三重方面、宇目方面、木浦方面、尾平方面に街道が延びていた。
この街道の一つである監物の石畳は、平成8年のの農道建設により発掘されたものである。ここは岡〜木浦間の主要道路で、県道緒方高千穂線が整備されるまでは、地域間を結ぶ主要道路であった。「殿様道」とか「木浦街道」とか地元の人々は呼んでおり、約30年ほど前までは里道として使用されていた。
石畳は、砂利を敷いたり開墾したりしたため地下に埋っていたが、表土をどけると、幅約1.5m、延長約50mにわたり、整然と並んでいた。材質は、阿蘇溶結凝灰岩の比較的軟らかい部分で、石の厚さは約15cm〜20cm位である。石畳の下は赤土で、雨が降ると非常に滑りやすいため、急な部分に石を敷きつめたものと考えられる。
石畳を登りつめた峠には茶店があったとの伝承があり、発掘により石の間から多数の磁器片が出土した。ほとんどの磁器片は18世紀後半の肥前系(佐賀・長崎地方)の物で、1点だけが萩焼の破片であった。
宗旨奉行井上快助の紀行文「踏絵紀行」(天保12年:1841年)によると、「監物の出店に出て」との記述があり、19世紀後半に茶店が営業していたことがわかる。
茶店があった所は、畑になっており、畑の端には「○○○○里 冬原村 監物」と刻まれた道標がある。上部が欠損しているが、地元の人々によると「岡より三里」の道標とのことである。現在の石畳は、移転し復元したものである。