投稿者「misakimichi」のアーカイブ

「みさき道」の道塚 ⑫ 三和行政センター「みさき駅」前

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正面「みさき道 今魚町」 三和行政センター前広場
(県養護学校近くにあったのを、移設展示)

[説明板文面] みさき道の道塚
みさき道とは、唐人屋敷があった長崎市館内町から野母崎町脇岬の観音寺までの7里(28km)の古道をいいます。
江戸時代から盛んになった観音信仰の道で、その道筋に当時の今魚町(現在 魚の町・桜町)が道標として50本寄贈したといわれ、11本が現存しています。そのうちの1本がこれで、およそ180年ほど前のものです。
また、世界に開かれた長崎の防備のため、数多くの台場(砲台)をつなぐ道でもあり、唐貿易に係わっての抜け荷(密貿易)の道だったとも言われています。
平成16年1月   三和町教育委員会

(川上氏HPから修正作成)

現川・間の瀬古道と虚空蔵神社  平成19年1月

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現川・間の瀬古道と虚空蔵神社  平成19年1月

JR長崎新線の長崎トンネルが、帆場岳の下を通り、矢上の現川方面に行きやすくなった。長崎駅から現川駅まで15分足らず運賃200円で、電車はあっという間に着く。間の瀬に抜けるこの古道は、「長崎県の山歩き」林正康先生が見つけた道である。

昨秋、NNK文化セミナーで歩くこととなり、草刈りの手伝いに行った。権現堂の奥に現川の古窯跡(市指定)があり、道はこの上を行く。いったん荒れた林道に出、つき切って尾根を越す。駅から30分くらいの登りで着く。
ここに「虚空蔵神社」と書いた木の鳥居がある。間の瀬へは、同じようにそのまま下り、滝の観音の上に出る。当時の集落を結ぶ道。郵便配達や分校の子も交流のため通った。まだ情緒残る古道であった。

その折、先生からこの鳥居から上に行く道は、帆場岳へ行けると聞いていたので、1月14日会の行事で歩いてみた。20分ほどさらに登って着いた2つのピークに「虚空蔵神社」は祀られ、日見・矢上・多良見と前面の眺望は抜群である。神社脇に「間の瀬中山共有林」の石柱があった。

道は高圧線鉄塔の下を通り、三ッ山の純心大学建物が対面に見える聖ヨゼフの家の上の尾根に出た。昼食の後、いったん道を少し戻り、植林地の中を長崎バイパストンネルのある舞岳に向かい、折り返しとなるトンネル上の車道まで行った。
予定は多良見普賢岳へさらに縦走し、大草に下るつもりであったが、道を知らない者ばかりで時間を食い、後日の楽しみに残した。間の瀬に下ってまた鳥居から山越えし、現川駅に帰ることとしたが、また道を間違え、駅のホームで到着した電車に慌ててすべり込んだ。

長崎市と旧香焼町の境界標石

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長崎市と旧香焼町の境界標石

平成の市町村大合併により、香焼町も平成17年1月4日長崎市に合併された。無用のものとなったが、立派な旧境界標石が残っている。三菱長崎造船所の工場などが進出するため、深堀と香焼島の間の海を埋め立てた。

莫大な固定資産税が入る土地の境界線引きが必ず必要だった。今、この標柱がわびしく残る。歩道工事で埋められたか、わずか10cm位。「長」と「香」の字しか読まれない。場所は、埋立地大通り、三菱研究所先の信号手前の左側歩道隅にあった。

熊本県玉名 小岱山(筒ガ岳 標高501m)  平成19年3月

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熊本県玉名  小岱山(筒が岳 標高501m)  平成19年3月

平成19年3月18日(日)快晴。手軽に行ける県外の日帰り山行としてまず熊本県玉名の小岱山へ行った。車3台で14人が参加。有明フェリーを利用。玉名温泉から上がり笹千里Pに車を置き、丸山展望台、観音岳、筒ガ岳と九州自然歩道を歩いた。

小さなアップダウンがあったが、植林を全然見ず、岩稜と大きな雑木自然林の中の縦走路は気持ちがよかった。筒ガ岳まで約2時間。帰りは観音岳からキャンプ場へいったん降り、丸山手前の縦走路に出る山道があり、ガイドブックにない良い周回コースを見つけた。

野母崎ゴルフ場内の道塚「庄五郎地蔵」  高崎市郎さん「郷土誌余聞」から

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野母崎ゴルフ場内の道塚「庄五郎地蔵」

高崎市郎さん「郷土誌余聞」その36”切り捨て御免”平成5年から。

元禄の頃ある冬の日に、みさき街道を一人の武士が西方に向って駆けて行った。余程の急使とみえ袴の裾をしぼりあげての鉢巻姿は只の使者とも思われない。街道とは秋葉神社の北側で岬村へ通じる当時の本街道みさき道である。
この使者には邪魔者は切り捨て御免の許可が出ていた。何のための急使だったのか、長崎で起きた深堀騒動に関係したものだったのか、或いは領主に何かの異変があっての急使者か?

高浜と川原の別れ道に差しかかった時、一人の老母が孫の手を引きながら、石楠の花が咲いた山道をとぼとぼ歩いていた。「ドケ、ドケ、道をあけろ」と怒鳴ってみたが、この老母は耳が遠かったのか道をあけなかった。武士はエイッとばかりに斬り捨てたのである。
そして半里程も西へ行った所の延命地蔵の湧水でその血刀を洗い、渇いた喉をうるほして目的地へと消えて行った。

切り捨てられた老母と孫はまだ息はあったので、通りかかった庄五郎が家まで送り届けたものの、その刀傷が原因で程なく死んでしまった。庄五郎は其の後地蔵を建てて人々の道安全と死者の霊を弔らったので、人々はこの地蔵を庄五郎地蔵と言った。(略)

近くに住む古老から伝え聞いた物語である。場所は川原道と高浜道との石の道標のある近くにあって、今では詣でる人もなくひっそりと草むらの中に西日が当っていた。(略)
血刀を洗った延命地蔵には現在もきれいな湧水が流れておりその昔、岬の観音参りの人々も、ここでのどをうるほしたものと思われる。

こおろぎの鳴いて 刀禍の風化墓碑   龍池

深堀有海の森節男様宅中庭にある水準点

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深堀有海の森節男様宅中庭にある水準点

深堀5丁目の深堀漁協近く、大籠町へ行く海岸通りの道路沿い森節男様の宅地内、中庭にある昔の型の珍しい石柱水準点。今は頭だけしか覗かせていない。氏はこれに乗って遊んだという。深堀陣屋跡の海岸側。森家は藩家老であった。
どじょう会「長崎の碑(いしぶみ) 第二集」平成6年によると、(正面)水準點、寸法は27×27×50cm。

明治34年測図国土地理院旧版地図から、この場所に水準点の記号「□」があり、現行地図でもある。まだ使われているのは驚きだ。標高のみ「3.05」mが、「2.8」mとなっている。

南山手ホテルグラバーヒル近くにある水準点

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南山手ホテルグラバーヒル近くにある水準点

深堀と同じような古い石柱型の水準点が、南山手の「長崎全日空ホテルグラバーヒル」(前東急ホテル)左スロープ入口の駐車場、ジュース自動販売機の裏に忘れさられてある。
どじょう会「長崎の碑(いしぶみ) 第二集」平成6年によると、(正面)水準點、寸法27×27×50cm。埋設され、番号は「五三九」までは読み取れる。

明治34年測図国土地理院旧版地図は、この位置に水準点はない。現行地図では「□3.0」mとなっている。

小菅町公民館前道路上の水準点

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小菅町公民館前道路上の水準点

上の写真は、鶴見台森田氏が5年ほど前に写した。車が今の車だから、年数は間違いない。小菅町公民館は、戸町トンネル手前、ソロバンドックのすぐ上の道路沿いにある。公民館玄関前の道路を写した写真。側溝がある側に突出した石柱。これが以前の水準点である。

車が通るのに邪魔となる。人は歩きにくい。現在はどうなっているか。真ん中の写真のとおり、地下に埋設され、マンホールの蓋がかぶせられている。蓋は重く、開けてまで中を確認していない。おそらく真鍮製丸型の新しい水準点に変わっていると思う。森田氏は以前の写真をよく撮っていた。

どじょう会平成6年「長崎の碑(いしぶみ) 第二集」に、この水準点の記録があった。当時の記録では、(正面)水準點(裏面)五三九五号。寸法は24×14×29cm。

みさき道(御崎道)とは  平凡社「日本歴史地理体系43 長崎県の地名」2001年刊から

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平凡社「日本歴史地理体系43 長崎県の地名」2001年刊から

御  崎  道

江戸時代、長崎市中と御崎(前野母崎町、現長崎市)の七里の間を結ぶ道。脇御崎村(前現同じ)の観音寺に至る信仰の道でもあり、その創建が古代にさかのぼるということから、路程の整備は後代に属するにせよ、古代から用いられた道と想定される。寛永15年(1638)野母崎(前現同じ)の日野山頂に遠見番所が設置されて異国船監視の要所として重視されるに伴い、遠見番ら交替役人の往還としていわば軍用路として整備されていったと考えられる。

正保2年(1645)長崎代官末次平蔵のもとで国絵図作製のために村境が定められるが、「野母道」「大道」などするのが(「御書其外抜」菩提寺文書)、当道に相当する。道筋に多数の道塚が立つが、野母村の浜辺に元禄10年(1697)建立された道塚に「従是観音道」「山道十丁」と刻まれ、観音寺への道として道標が必要なほど往来が多かったらしい。

天明4年(1784)今魚町(現長崎市)町中が道塚50本を建立(観音寺境内石碑碑文)、高浜村(前野母崎町、現長崎市)内に文政7年(1824)長崎より五里、御崎より二里という同じく今魚町建立の道塚があり、同村中に「みさき道」「御崎道」「川原道」と刻まれる塚がある。ほかに前三和町(現長崎市)域では「みさき道」とあるもの、長崎市小ヶ倉地区では「御崎道」とする文政6年建立のものが残され、御崎道の称の定着ぶりがうかがえる。

天明8年司馬江漢が当道を用いて御崎観音を訪れている(「西遊日記」)。寛政6年(1794)の「西遊旅譚」では戸町・深堀(現長崎市)を経てこの参拝道を進み、「其路、山をめぐり、岩石を踏て行事、二里半余、山乃頂人家なし。右の方遥に五島見是(中略)。左の方天草島、又島原、肥後の国見て、向所、比国無、日本の絶地なり」と記される。この戸町は「長崎名勝図絵」に長崎要路として記される六ヵ所の一つ東泊口にあたる。文久元年(1861)長崎医学伝習所生が当道を通っている(「関寛斎日記」長崎談叢)。

(注) 『長崎談叢19撰』(昭和12年発行)所収の林郁彦稿「維新前後における長崎の学生生活」に引用された関寛斎「長崎在学日記」の紀行文は、彼の晩年の地、北海道足寄郡陸別町資料館にある日記と字句が一部相違していることが判明し、日記の原文写しを、研究レポート”江戸期の「みさき道」—医学生関寛斎日記の推定ルート”第1集・第2集に収録している。