投稿者「misakimichi」のアーカイブ

太田尾の大クス  長崎市太田尾町

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太田尾の大クス  長崎市太田尾町

長崎市太田尾町の県道34号野母崎宿線の沿道にある。現地説明板は次のとおり。

市指定天然記念物 太田尾の大クス
指定年月日 昭和53年3月20日  所在地 長崎市太田尾町2112番地
所有者 野口 昭治
クスノキは、暖地に自生する常緑高木で、日本の樹木では最大の幹回りとなる。九州には国の天然記念物に指定された巨木も多い。
このクスノキは、胸高幹囲5.80m、樹高20mで、第一級の巨樹ではないが、地上2mで分かれた3大支幹は更に大小の枝を伸ばし、見事な球状の樹形をつくっている。
もともと狭い雑木林内にあったもので、この木の根元にはツバキ・ハゼノキが、幹にはオオイタビ・カカツガユ・ノキシノブが着生している。
長崎市教育委員会(平成17年1月設置)

岩屋山の風景

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岩屋山の風景

平成19年8月6日、長崎市北部の岩屋山(標高475m)に行く。小江原林道の終点から約1km。九州自然歩道の急な道を35分ほどゆっくり登った。山頂にあった説明板は次のとおり。

岩 屋 山 標高475m
「長崎図志」によれば「大権現」の三字を刻んだ碑があり、かたわらに数十人が入れる石窟があったので、これにより岩屋山の名がつけられたものです。
また伝説によれば行基菩薩が開山した岩屋山神宮寺もこの山にあったといわれます。
江戸時代には長崎七高山の一つに数えられ大村純長が建立した神宮寺があったものです。
自然を美しく大切に 環境庁・長崎県

岩屋山の地形
岩屋山、稲佐山、金比羅山、英彦山の山々はもともと広い台地状の大きな火山であったと云われています。約200万年前から活動を始め、約60万年前には長崎市の中心部を埋めつくすような溶岩台地ができあがりました。
この火山は、活動が終ると侵食されて山体のほとんどを失ってしまいました。残った部分が、今、長崎市の周辺部を取り囲む山々であると云われています。
環境庁・長崎県

田手原町重篭の「轟の滝」

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田手原町重篭の「轟の滝」

田手原町重篭の下の沢に「轟の滝」という滝があることは聞いていたが、なかなか行くことはなかった。どんな滝か確かめたく、平成19年8月5日の午後訪ねた。甑岩や飯香浦に行くバス道路で重篭のバス停を過ぎ、最後の家の下のコーラ自販機のあるところから、右手へ下る車道分岐がある。この道は沢沿いに高速道早坂インター横に出る。

その途中、分岐から600mほど下ると、青フェンスのあるハウスが石垣上にあり、ここが滝道の下り口で、ゴーゴーと滝の音が聞こえ、こどもの手製か小さな標識があった。竹林の中を5分ほど下ると滝に出る。薄暗い沢。落差8mくらい。滝壺を有し、小さいながらまとまっている。下にも1段ある。長崎近郊では珍しい滝である。この沢は茂木若菜川の上流となる。

滝道途中には、茂木河平「戸町ヘ至ル」の標石のところで見た同じ「指指し」のコンクリート石柱があった。滝場は霊場で地蔵などが多く祀られ、滝の右手岩場には不動明王が立っていた。

HPの古書長崎銀河書房によると、長崎人文社刊「季刊・長崎人」17号(1998/1)に「長崎重篭の滝」の掲載記事があるが、確認していない。

なお、岩永弘著「歴史散歩 長崎東南の史跡」2006年春刊、63〜64頁が次のとおり紹介している。
(4)重篭・轟の滝
古書長崎名勝図絵に載っているのに辺鄙な所のため、知る人のみぞの感があります。バス停から150m先の右に下る農道を10分余り歩き、数本目の電信柱に記された718・ヒ341号の手前8mの所にある山道を200m下ると川があり、目前に滝があります。落差10m位。15体の石仏と儚き礎石が残っています。
伝 説
a:元禄15年(1703)田上の観音寺(私寺徳三寺の前身)開山・天州和尚が滝側に轟山観音寺普門院なる仏堂を建てた。いつの頃か毎夜一人の美女が堂上に現れ、怪異な事が起こり、このため住僧も恐れて逃げ出し、以来住む人も無く享保20年(1735)廃庵となった。
b:滝壺には神竜が潜み、旱魃の時、里人が祭り事を行い長竿で釣りの動作をして祈ると雨をもたらしたという。
c:二人の水練者が底を極めようとしたが達せず、一人は耳が聞こえなくなり、一人は髪が抜けてしまった。

「長崎名勝図絵」32頁の説明は次のとおり。
77 轟潭 とどろきのたき 衛鹿峰の東。川の源になっている。広さは僅かに二三歩であるが、深さは底知れない。その上から水が湧いて、小瀑布となってこの潭に落ちている。高さは十数仞。車のわだちのような音を立てて落ちるので、轟潭というのである。神龍が潜んでいると言伝えられ、霊異が多い。…以下は岩永氏紹介のとおり

鳴滝と鳴滝岩

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鳴滝と鳴滝岩

長崎市立博物館「長崎学ハンドブックⅡ 長崎の史跡(南部編)」98頁の説明は次のとおり。

鳴滝は、もともと平堰と呼ばれたが、延宝年間(1673〜81)に長崎奉行牛込忠左衛門勝登が鳴滝と命名したという。かつては「春は桃花水に流れて錦繍を洗うが如し」などと詠まれ、長崎十二景の一つに数えられた名勝の地「鳴滝浣花」であった。現在でも岩面には「鳴瀧」と刻まれているが、これは林道栄の字とも晧台寺21代住職黄泉の字とも伝えられている。

林正康先生の「長崎県の山歩き 新版」(葦書房2000年)209頁にまた詳しい説明があった。

桜馬場中学校前をすぎて左に曲がると、シーボルト通りです。鳴滝川に橋がかかっています。この橋の下に「鳴滝岩」があります。旧地名は「平いで」と言っていましたが、延宝年間(一六七三〜八一)長崎奉行牛込忠左衛門が「鳴滝」と命名して、儒者の林道栄が書いた「鳴滝」の二字を川の中の岩に刻んだそうです。その後「鳴滝」の文字がよく見えなくなったので、文政十一年(一六二八)に庄屋の森田氏が、晧台寺の住職黄泉の書を再刻したということです。

下2枚の写真の碑は、記念碑、シーボルト通り、鳴滝橋の碑。

豊前坊(飯盛神社)の両国力だめし石と蛤石

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豊前坊(飯盛神社)の両国力だめし石と蛤石

林正康先生の「長崎県の山歩き 新版」(葦書房2000年)豊前坊(標高340m)の項、18〜19頁に次のとおり紹介がある。

…石段を登ると、飯盛神社があります。社殿の背後の山は飯を盛った形をしているので、飯盛山といい長崎七高山の一つにあげられています。豊前坊というのは、英彦山にある社寺の豊前坊の名をもらったものです。…
社殿の左横には、両国梶之助土俵の力だめし石があります。地元本河内出身の両国関は、昭和三年(一九二八)、国技館で初土俵を踏み、小結、関脇と昇進し、十三年春には四八連勝中の横綱双葉山にうっちゃりをかませ、観客をわかせましたが、結局物言いがついて敗れました。

碑は「両国関初土俵力験之石 昭和二年十一月」とあり、石はその右の丸石であろう。
なお、両国碑の右側には、「蛤石」を飾っている。後の「蛤石の由来」碑文は次のとおり。

昔より当山に蛤石のあること傳説ありしが、昭和二十八年秋発見せり 此蛤石の頭をなで祈願すれば万病不思議になをる
昭和二十八年十月 発見者 五島作太郎ほか6名を連記 管理者 本河内町中

豊前坊(飯盛神社)へ行くには、田手原バス停先に案内標識があり、参道口の広場まで車が入ってすぐである。

彦山の昭和十三年長崎アルカウ會「質実剛健」の碑

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彦山の昭和十三年長崎アルカウ會「質実剛健」の碑

林正康先生の「長崎県の山歩き 新版」(葦書房2000年)彦山(標高386m)の項、19〜20頁に次のとおり紹介している。この碑のことはミラン山の会のHPにも写真があった。

彦山へ登るには、飯盛神社の石段を少し下がった所から左におれ、広場の右端から製材作業所の前を通って行きます。
頂上にある英彦山神社へ登る石段のわきに、珍しい石碑があります。「質実剛健」と達筆で刻まれた文字の右横に「大正十一年九月十八日創立」、下に「長崎アルカウ會」、左横に「昭和十三年十二月十八日二百回登山記念」と刻まれています。
山の上には、ロボット雨量計の中継局やマイクロウエイブの巨大なバラボラアンテナがたっています。
山頂からの眺めは長崎の町が一望に見渡せ、稲佐山にそって深く湾入した長崎港の港口には、香焼や伊王島が浮かんでいます。

実際行くには、田手原バス停の先に「豊前坊神社」の標識あり、車が広場まで上る。これから左へ山道を登って20分、山頂の「英彦山神社」参道石段にかかった左脇にある。横幅4m、高さ2mほどある大きな石面。まさに達筆である。山の先駆団体の記録が見あたらないのが残念である。

彩雲(さいうん) 長崎の西の空に見た

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彩 雲(さいうん)  長崎の西の空に見た

平成18年6月15日午後7時57分、長崎市南部晴海台団地から五島灘の西の空に見た。いつもの夕焼けと違う見事な彩雲であった。

彩雲は、太陽の近くを通りかかった雲が、緑や赤に彩られる現象である。この現象は、日光が雲に含まれる水滴で回折し、その度合いが光の波長によって違うために生ずるもので、大気現象の1つである。。巻積雲や高積雲、風で千切れた積雲などに見えることが多い。
彩雲は昔から吉兆とされるが、実際はありふれた気象現象である。古くには「景雲」「慶雲」「端雲」などとも呼ばれた。(HPフリー百科事典『ウィキベディア』から)

太平洋戦争中期から使われた大日本帝国海軍の艦上偵察機が「彩雲」と名づけられた。

国道202号線沿い (3)東樫山海岸風景

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国道202号線沿い (3)東樫山海岸風景

平成19年8月4日、外海方面の藩境石塚の写真撮影のため出津まで行った。途中で見た海岸などの風景。式見沖神楽島の変化を主に撮る。

東樫山の天福寺は深堀領主が創建か。これより少し登ったところに皇太神宮がある。境内に十字架をつけたキリシタンの碑あり。如何にも樫山らしい。「殉教者茂重翁之碑」は、昭和49年8月吉日、地元関係者が建立。顕彰碑文は次のとおり。墓は三重崎墓地内にあった。

殉教者茂重翁之碑  顕 彰
慶応三年より明治初期に至る信者に対する幕府の迫害は浦上四番崩として有名でペートロ茂重翁も当時聖像隠匿の疑ひにより長崎奉行に連行され厳しい拷問責苦も同志をかばう一念から堪え忍んで牢死なされた信念の人であり殉教者である。依って吾等は百有余年の歴史を顧みて翁の徳望を讃え慰霊の誠を捧げます。