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長与町に残るアーチ石橋  西彼杵郡長与町岡郷ほか

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長与町に残るアーチ石橋  西彼杵郡長与町岡郷ほか

西彼杵郡長与町の舟津橋からまっすぐに大草へ通じる国道207号線を行く。長与総合公園は埋立地にできているので、これを回り込むように、この手前、浜崎バス停から右折する。前国道の道で下岡バス停で合する。岡郷に残るアーチ石橋の3橋は、この途中で見られる。
「四釜(しかま)橋」は、新四釜橋のすぐ右手。つづいて「おこ川橋上流の橋」は、新おこ川橋のすぐ上流の里道。「旧国道の現役の橋」は、岡バス停手前の「琴の尾岳登山口」標識のある側の川である。拡幅され、左半分は昔の石橋の上に乗っているから、現役の橋となるのだろう。

長与町に残るアーチ石橋について、HP「長崎県の石橋を訪ねて」による説明は次のとおり。
岡郷の3橋の外に、「百合野橋」がある。この橋は現在、吉無田郷中尾城公園内の町民文化ホール駐車場脇の小池に移築、復元されている。

写真 1  第 135 番  四釜(しかま)橋   西彼杵郡長与町岡郷前田川内
年代は未確認  長さ 約3.5m 幅員 約2.0m
ほぼ架橋時の状態を残していると思える。旧国道207号線に架かる四釜橋の旧橋。今は役目を終えて上流側に残る。位置的には長与総合グランドの裏手の旧国道に架かる。車は写真の通りゴミステーションに2、3台は駐車できる。

写真 2  第 134 番  おこ川橋上流の橋   西彼杵郡長与町岡郷
年代は未確認  長さ 約7.0m 幅員 約2.5m
コンクリートで拡幅はされているが、充分に姿を楽しめる。
旧国道207号線に架かる「おこ川橋」から上流に50mほど上る。田んぼの中に架かる橋。地元出身の役場にお勤めの久松係長から教えていただいた。
輪石は多少不揃いだがアーチに乱れは見られない。径間5.0mの扁平な橋で乱れが無いのは施工の確かさだろう。この規模の橋なら親柱が有ってもおかしくないのだが周囲には見られなかった。

写真 3  第 136 番  旧国道の現役の橋   西彼杵郡長与町岡郷
年代は未確認  長さ 約5.0m 幅員 約2.5m(拡幅)
約二倍に上流側は拡幅されているので下流からしか見れない。
旧国道207号線に架かる橋。今は下流側で役目を果たして残る現役の石橋。ここから出たら、現在の国道207号線。下岡のバス停がある。

写真 4  第 137 蕃  中尾城公園の百合野橋 西彼杵郡長与町吉無田郷
大正15年9月 長さ 約5.0m 幅員 約2.2m
高田郷の百合野から道路拡張の為に移築したもの。
町の中心部にある中尾城公園は町民文化センターを含め公園整備が進んでいる。この文化センターの正面を過ぎて二つ目の駐車場の奥に移築されている。長与町役場の久松係長様から、すでにアップした橋に引き続き教えていただいた。感謝!

この後、見つかった長与町のアーチ式石橋は、次の記事としている。
○川平道路長与インター入口の「洗濯工房」裏の川に壊れたアーチ式石橋が残る。
https://misakimichi.com/archives/708
○岡郷「四釜橋」及び「旧国道の現役の橋」上流のアーチ式石橋
https://misakimichi.com/archives/2855

あぐりの丘に移築されている畦別当の二号橋  長崎市四杖町

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あぐりの丘に移築されている畦別当の二号橋  長崎市四杖町

前の項でふれたように、畦別当のアーチ石橋「二号橋」は、県道拡幅工事のため解体され、平成10年(1998)に長崎市四杖町”あぐりの丘”の西側池に移築、復元されている。
HP「長崎県の石橋を訪ねて」による説明は次のとおり

第 106 番 アグリの丘2号橋  アグリの丘街のゾーン
大正中期に架橋された畔別当から移築された橋。 長さ 約7.0m 幅員 約3.0m
五島灘をバックに良い雰囲気です。長崎在住のyoukoさんがメールで教えてくれました。移築に関与された、布袋 厚氏から掲示板で教えていただいた。感謝!!

石橋の検索をやっていて,たまたま貴サイトに行き当たりました.石橋一覧表を拝見したら,あぐりの丘の二号橋のことが調査中と書かれておりました。
この橋は浦上川上流の畦別当橋のシリーズのひとつだったもので,県道拡幅工事に伴って,1996年に解体され,1998年にあぐりの丘内に復元されたものです。

中尾城公園の風景  西彼杵郡長与町吉牟田郷

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中尾城公園の風景  西彼杵郡長与町吉牟田郷

平成20年2月19日、長与町の中尾城公園に行く。中世の山城址。珍しいすべり台は先日、NCCテレビ「ナニコレ珍百景」に映っていた。めざましテレビにも出たとのこと。
HP「ながさき旅ネット」による説明は次のとおり。

中尾城公園  なかおじょうこうえん

中世の山城(中尾城)があったという小高い丘陵地に、自然を生かした公園として、平成9年に整備された。
JR長与駅(公園口)より逆三角形の赤い脚や橋が見えてくるが、中尾城公園のシンボル、エアロブリッジ及びスパイラルスライダーである。このスパイラルスライダーは、らせん状のすべり台で高低差26m(7階建てビルに相当)、全長63mを滑り降りるスリルは子供達をとりこにしている。
また、四季おりおりの花に囲まれ、長与の町を眺望できる公園として、町民に親しまれている。

三ツ山・畦別当に残るアーチ石橋  長崎市三ツ山町・畦別当町

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三ツ山・畦別当に残るアーチ石橋  長崎市三ツ山町・畦別当町

浦上川の最上流となる三ツ山・畦別当に残るアーチ石橋が、3橋ある。長崎バイパスに沿った県道45号東長崎長与線の流合橋から畦別当のバス停間。改良前の廃道に残る。
同じ名の新橋が脇に架けられ、そこから前の石橋は川へ下りよく見ないと石橋とわからない。橋の番号は上流側から付けられているようだ。
五号橋は昭和52年撤去されている。新橋は「昭和55年3月架」とあった。二号橋はあぐりの丘の西側池へ移築されている(次項へ)。
HP「長崎県の石橋を訪ねて」による説明は次のとおり。四号橋は「畦別当四号橋」としているが、三ツ山町である。

写真 1  第 54 番  畦別当4号橋  長崎市畦別当町
大正中頃  長さ 7.2m 幅員 3.0m
みつやま4号橋隣の旧道に架かる。コンクリートで拡幅して使用していたが、現状は廃道同然の状態。農作業中の地元の方から付近の石橋について親切に教えていただいた。なお、この下流の5号橋は昭和52年に撤去となった。

写真 2  第 55 番  畦別当3号橋  長崎市畦別当町
大正中頃  長さ 6.0m 幅員 2.8m
3号橋向かいの旧道に架かる。コンクリートで拡幅して使用していたが、現状は廃道同然の状態。農作業中の地元の方から付近の石橋について親切に教えていただいた。橋の上は駐車場になっていた。

写真 3  第 56 番  畦別当1号橋  長崎市畦別当町
大正中頃  長さ 5.5m 幅員 2.9m
畦別当橋向かいの旧道に架かる。コンクリートで拡幅して使用していたが、現状は廃道の状態。農作業中の地元の方から付近の石橋について親切に教えていただいた。橋の上は駐車場同様になっていた。蛍の里の看板が有る。

写真 4  現在の五号橋の写真。石橋は昭和52年撤去。

写真 5  あぐりの丘池へ移築された二号橋

薬師院跡のケンポナシ  長崎市平間町

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薬師院跡のケンポナシ  長崎市平間町

国道34号線滝の観音入口から長崎バイパス間ノ瀬IC近くまで行く。大カーブのところで左へ入ると新田頭バス終点へ着く。薬師院跡へは左から上に登る車道があり、長崎バイパスのガード下をくぐってから、すぐ左上の荒れた広場。ブランコがある。この広場を作ったため、石塔などは道路側へ移したらしい。Otoji.K氏HP「長崎の名木」リストの中の説明は次のとおり。
最後の写真は、タウン誌すまいる東長崎「ひがなが瓦ばん」第18号(2008.4−5)に掲載された記事。

ケンポナシの大木

長崎市平間町・間の瀬の薬師院跡に、ケンポナシの大木がある。ブランコのある小さな広場に2本ある。入口そばに1本( 幹周り1.79m、樹高21m )。イヌマキの側に1本( 幹周り2.35m、樹高24m )。 いずれも樹齢は不詳。ケンポナシの大木として貴重。1月中旬、果実をつけた肉質の果柄があちこちに落ちていた。薬師院跡まで車で行くことができる。

なお、この木の発見した下田尚昌氏のいきさつは、次のとおり。長崎歴史文化協会「ながさきの空 No.11」平成15年4月5日発行に掲載がある。

東長崎(矢上)間ノ瀬・新田頭にあるケンポナシの大木   下 田 尚 昌

昨年7月「第15回ながさき巨樹を見る集い」が東長崎地域で実施された。その準備で6月頃より約20か所の下調べをした折、矢上神社の宮司より貴重木のケンポナシ(クロウメモドキ科)が境内にあると知らされ、しかもシーボルトが江戸参府(1826年)のとき、見たのではないかと聞き、さっそく、シーボルト記念館へ出向く。担当学芸委員が出張、後日関係資料数枚を送付していただいた。
上記のことを、県薬草会長高橋貞夫氏(元中学校長)に連絡。同氏著「長崎の薬草」に記載されていると指示あり、「自分は故外山三郎長大名誉教授より戦時中矢上地域にあると聞き、今まで捜していた。それが矢上神社境内にあるとは」と驚かれ、さっそく、自宅に育ているケンポナシの写真数枚を送っていただいた。後日先生は92才の老体にむち打って見学に出かけられ、私に電話連絡された。

7月15日(日)、東長崎地域の巨樹を見る集いには、ケンポナシがある関係か全国巨木の会長、伊藤秀三(長大名誉教授)、佐賀県から2名計25名で調査。その時、会長さんは下調べのケンポナシ(幹周り0.97m、樹高9.0m)より大きいのを同境内で見つけられた。
昨年5月下旬、東公民館で「わが町の歴史散歩」織田武人講師案内で、県指定名勝の地となっている「滝の観音」の上手、長崎バイパスの上り車線、間ノ瀬インター付近の山側薬師院(元禄元年〈1688〉滝の観音開基、鐵巌和尚の法子一有建立)の跡地にケンポナシの巨木2本があることを偶然にも見つけた。
さっそく、「県巨樹を見る集い」の世話人、宮崎正隆氏(前諫高理科教諭)に連絡、5月28日滝の観音松本普成住職も同席、測定した結果は、幹周り2.35m、樹高24mと、幹周り1.79m、樹高21mの2本、どちらも樹の高さが20mを超しており、隣接して植え込まれているイヌマキの大木以上に大きな枝を伸ばして成長し、また樹勢も極めて良好であった。松本住職の話しでは、先年の長崎水害で寺の資料等は流されたので、いつごろ植えられたか判明できないとの由。

ケンポナシは平成13年発行の「長崎県植物版レッドリスト」では絶滅危惧IB類にランクされている。(絶滅危惧IB類とは、ごく近い将来における野生での絶滅の危険性が高いもの)かつて岩屋山(長崎市北部)にかなり大きなケンポナシの老木が2本あったそうだが、枯死して今はないので、高橋会長は枯らさないようにと念をおされた。
余談だが、岩屋山のケンポナシについては、現在オランダの国立植物標本館にシーボルト自筆の「1827年3月29日岩屋山」(原文はラテン語)と書かれた標本の中にシキミ、モミ、イヌガヤなどと一緒にケンポナシが採集され残されている。
シーボルト記念館より送付された資料によると、遠目にはヨーロッパの野生のセイヨウナシにそっくりだが、この大きな高木の原産地はおそらくインドで、インドでは野生状態のものが見られる。日本ではすでに数百年も前から栽培されており、たぶん中国から移入されたものと思われる。

大きな葉は一年生で、斜形状の心形になり、その色合いや作りからするとクワの葉に似ている。小さな白っぽい花が6月になると現れ、分岐して八方に広がる集散花序につく。花が散ると、花序の枝が肥厚し、やがて肉厚になる。これは食べることができるが、甘くよい香りがして、イナゴマメの風味かまたは、ケンペル(出島商館医、1690年渡来)がいみじくも指摘したようにベルガモットの風味によく似ている。
薬用としても用いられ、喘息やそれ以外の肺疾患に他の植物と一緒に煎じて飲むように奨められている。さらに、日本の常用の飲み物である米から作られるビール(酒)に酔わないように飲んでおくと予防薬として大変評判よい。

○「注記」ラテン文の記載。図解は川原慶賀で詳細をきわめている。ケンポナシによほど興味を抱いたに違いない。酒酔いの防止にケンポナシが用いられていたことが記されているが、ケンポナシには酒の味そのものを変えてしまう効果もあるらしい。
佐賀県伊万里市のケンポナシ(幹周り2.43m、樹高25m)は、佐賀県の名木・古木に指定されている。長崎市でも間ノ瀬のケンポナシも長崎市の文化財に指定していただき、大事に保護されることを念願している。
○「補則」日本一のケンポナシは幹周り3.6m、樹高18m、推定樹齢200年 青森県弘前市下銀町 弘前公園内 藩政時代から有用樹木として大切にされてきたらしい。

〈参考資料〉
・シーボルトが出版した「日本植物誌」の解説文を紹介した本 講談社
・シーボルト「フロラヤポニカ」解説 講談社
・シーボルト旧蔵日本植物資料展 シーボルト記念館
・長崎の薬草 高橋貞夫著 長崎県生物学会
(長崎市住・植物学研究家)

白山大権現のモチノキ  長崎市田中町

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白山大権現のモチノキ  長崎市田中町

東長崎タウン情報”すまいる東長崎 ひがなが瓦(かわら)ばん”の2008年2月発行第17号が、東長崎に残る巨木にスポットをあてて紹介していた。最後の3本目の紹介となる田中町白山大権現のモチノキの大木。
田中町交差点から国道34号線を矢上の方へ向かう。マルキョウを過ぎてホンダカーズ手前で、右手に焼鳥「勝」や「田中自動車板金」の看板がある細い車道へ入る。奥には広い駐車場があり、上は長島宅。この庭上の高台にモチノキの大木が見える。東長崎スイミングクラブの裏手となる。白山大権現の根元には左右路地を伝う。

東長崎タウン情報”すまいる東長崎 ひがなが瓦(かわら)ばん”第17号によるモチノキの説明は次のとおり。
もちの木  白山大権現

戦時中、爆風で一瞬のうちに葉っぱが全部散ったというもちの木。今でもなお、大きくそびえる姿は自然の偉大さを感じます。

なお、東長崎地区には、今回この”瓦ばん”情報により紹介したこれまでの3本の木の外に、次のような大木がある。すでにブログの先項において紹介済みのため参照。
矢上町  長崎自動車学校のクロガネモチ
https://misakimichi.com/archives/469
現川町  山の神神社のアラカシ
https://misakimichi.com/archives/464
中里町  長崎街道のフジ
https://misakimichi.com/archives/432
平間町  滝の観音の伏樹(イチイガシ?)
https://misakimichi.com/archives/403
松原町  赤瀬邸庭園の日本一のラカンマキ
https://misakimichi.com/archives/288
矢上町  矢上八幡神社の大クス
https://misakimichi.com/archives/283
平間町  薬師院跡のケンポナシ
https://misakimichi.com/archives/624
(この木は入力し忘れに気付き、本日記事にした)   

船石町二双舟のタブノキ  長崎市船石町

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船石町二双舟のタブノキ  長崎市船石町

東長崎タウン情報”すまいる東長崎 ひがなが瓦(かわら)ばん”の2008年2月発行第17号が、東長崎に残る巨木にスポットをあてて紹介していた。その2本目の紹介となる船石町二双舟のタブノキの大木。
国道34号線船石入口交差点から右の船石町へ入る。川沿いに左奥の谷間をずっと目指す。途中は道案内標があり、二双舟公民館前を過ぎ、最奥の人家あたりから右へ橋を渡ると、坂上の屋敷の石垣にタブノキの大木が見える。

長崎wabマガジン ナガジンHP「発見!長崎の歩き方 長崎の町名なるほど大辞典」は次のとおり書いていた。
コラム★発見!長崎オモロイ小字名
●二双船/にそうぶね(船石町)=古賀エリアの中でも最も田園が広がる地。つまり海辺でもないのに“二双船”という不思議な名前なのだ。ちなみに船石町は地内にそびえる船石岳によるもの。

この立派な屋敷は本田邸。昔は現川焼の窯元だったらしい。「二双舟」があると近くの人から聞いた。舟の実物か、焼き物の舟か聞き忘れ、今、調べてもわからない。
東長崎タウン情報”すまいる東長崎 ひがなが瓦(かわら)ばん”第17号によるタブノキの説明は次のとおり。そんな大木でないが樹形よく、格式ある石垣とともに映える。

タブノキ  古賀 船石

樹齢200年以上といわれ、石垣からにょきっと生えたその姿は何ともいえない存在感です。

河内神社のスギ  長崎市川内町

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河内神社のスギ  長崎市川内町

東長崎タウン情報”すまいる東長崎 ひがなが瓦(かわら)ばん”の2008年2月発行第17号が、東長崎に残る巨木にスポットをあてて紹介していた。以下、載っていた3本の木を紹介する。いずれも地元しか知られていない大木である。
まず、長崎市川内町にある河内神社の大スギ。長崎市内で言えば、岩屋神社の最大のスギが幹周り5.4m。これに次ぐ大スギが市内にあったのだ。幹周り5m、樹高30m。行って大きさに驚いた。

国道251号線が戸石小学校を過ぎ、諌早市飯盛町との市境に川内町はある。川内入口交差点から左へ入り、川内公民館前を通りまだ奥へ行く。川向かいの鳥居は八幡神社で、ここではない。河内神社はこのまだ裏手の山。右へ曲がる吹田集落の橋で川を渡り、橋脇から人家の間を通って歩く。大スギの高い枝が目立つ。
”すまいる東長崎 ひがなが瓦(かわら)ばん”第17号の説明は次のとおり。側にムクノキの大きいのもあった。大スギに相対して、参道の右に大きな腐りかけた切株があった。地元で聞くと大きなマツ。枯れたので伐り、その板を使って、諌早市八坂町「森長おこし」本店の看板が作られたそうである。
大 ス ギ  河内神社

表紙でも紹介しているこの杉は、なんと幹周り5m、根周りが7m、樹高30mもある巨木の中の巨木。実際に目の前にすると圧倒されます。

(追 記)
Otoji.K氏HP「長崎の名木」リストの中に、平成20年3月24日に次のとおりの説明で載った。

河内神社の大スギ

長崎市川内町にある。幹周り5m、樹高30m。大村市萱瀬の「大名スギ(4.9m)」と肩を並べる大スギ。大名スギは樹齢240年なのでこのスギは樹齢300年ほどはある。大スギの左に、ムクノキとヤブニッケイの大木がある。

戸石の六地蔵塔  長崎市戸石町

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戸石の六地蔵塔  長崎市戸石町

長崎市にあるものでは一番古い。市指定有形民俗文化財。長崎市戸石地区事務所のすぐ裏手の山中高台にある。地区事務所入口の消防建物の左角から細い道を上がって行くとすぐである。現地説明板は次のとおり。
最後の写真は、諌早市唐比天満社の六地蔵塔を参考のため。

市指定有形民俗文化財   戸石の六地蔵塔    指定年月日 昭和52年7月20日

この戸石の六地蔵塔は、肥前東部旧佐賀領を中心に分布する重制石幢(とう)の六地蔵で、この型式の六地蔵は、筑後肥前型と呼ばれ室町時代中期以後、江戸時代前期にかけて流行したもので、長崎市にあるものでは一番古い。
基礎と竿石は連続二石積みの角柱である。竿石には円・角・月型の彫り抜きがあり、各地蔵は蓮台に立つ厚肉彫りの立像である。
島原の乱(1637〜1638)後、この地に宝瑞庵が創設されたといわれるが、六地蔵銘は慶長9年(1604)であるから、これよりも古く、もともとこの地に存在していたものか、宝瑞庵創設後他から移したものかは不明である。
長崎市教育委員会  (62.12設置)

雪浦の目一ッ坊岩の石鍋跡と山中の境石を見る  平成20年2月

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雪浦の目一ッ坊岩の石鍋跡と山中の境石を見る  平成20年2月

雪浦の目一ッ坊岩の石鍋跡と山中の境石を見ようという大瀬戸歴史民俗資料館の江越先生の企画行事。平成20年2月13日に参加14人で実施した。コースは、県民の森西ゲートー目一ッ坊岩ー原山ータンポ山ー御用堤ー自然歩道ー西ゲート。
いつもの調子で、のんべんだらりと後から歩いていたら、最初から道がわからなくなり、また置いてきぼりされた。街道歩きの人は足が早い。携帯は通じない。この日私は何の目的を達せず、時間つぶしだけした。みじめ…。

快晴の2月16日。ひとりでリベンジ。地図も持たず位置勘だけ。目一ッ坊岩の石鍋跡はわかりにくい場所にある。岩の周辺を3回まわってやっと見つけた。何のことはない。自然歩道を九電鉄塔の方まで行って登ればすぐで、また弁慶岩洞窟や頂上へ立てる。
石鍋跡は岩裏側の中腹の離れた岩面にある。歩道に今つけている標識は不親切だ。ただ、岩の真下で岩が眺められるからその標識。手前すぎる。ここから登ると石鍋跡まで遠く踏跡不明でたどれない。初めての人は、誰でも迷って探しきれないのでは。

目一ッ坊岩の尾根を歩き、鞍部で崖面工事中の林道へ出る。左、左と林道を進むと、植林の伐採地で行き止り。先は尾根の作業山道。「大村郷村記」雪浦村・神浦村に記す村境石を連続して8基ほど見る。
先は踏跡不明となったので、やや明瞭だった小沢へ下り、本流との合流点から今度は本流を遡った。植林地内で作業道があり、つめるとタンポ山広場だった。境石はこの谷にもあった。
コンクリート林道が御用堤まで出る。林道の途中からは県民の森小道がある。後は九州自然歩道を歩き岩瀬戸渓谷の車道を下って、出発の西ゲートへ戻った。西ゲート付近は「西彼杵半島ふるさと林道」の橋脚架設中。一帯で道路工事が進められている。

国地院地図は郷土誌から理解のため掲げるが、国有林内がほとんどで一般人は歩いてはいけない。道もわからないだろう。大瀬戸町「大瀬戸町郷土誌」平成8年刊228〜229頁から次の話だけ紹介する。
目一ッ坊の洞窟

目一ッ坊は、河通川の南岸に聳える、標高三三〇メートルの、峻険な山塊の頂上に近い急斜面にあり、その頂上にある岩山を目一ッ坊岩と呼んでいる。この岩山を遠くから眺めると、ちょうど帽子をかぶったように見える。
この周辺には、かつての石鍋製作所跡があり、現在もその未完成品が散在し、滑石露頭面にはその痕跡をとどめている。
なおこの近くには、高さ約六〜七メートルの断層間の間隔に、「弁慶岩」という洞窟があるが、この洞窟については、次のような話が伝えられている。
「巨岩の内には洞窟があり、この洞窟に近づくと、その身に凶禍が及ぶ」といわれ、この洞窟には誰一人入った者はいないという。また「この洞窟の奥には石棺が置いてある」とも伝えられるが、それをまた見た者はいないといわれる。
一説には、かつての古代人の住居であったとか、キリシタン信者の隠れ場所であったとかいわれるが、いずれも定かではない。