投稿者「misakimichi」のアーカイブ

さが名木100選  75 田野のアコウ   唐津市肥前町田野

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さが名木100選  75 田野のアコウ   唐津市肥前町田野 

国道204号線が玄海町へ曲がる肥前町古保志気交差点から左折して、標識のある海岸の高串温泉を目指す。魚市場前を通り奥の田野浦入口の左方砂岩の高い崖に、アコウが根を垂らしている。
アコウは大きくないが、日本の北限のものといわれ、国天然記念物である。
佐賀県同パンフレットによる説明は次のとおり。

75 田野のアコウ
・所 在 地  肥前町田野甲2966−3他
・推定樹齢   180年
・大 き さ  樹高 5m  幹回り 0.5m  根張り 5m
・登録番号   34003
アコウは、クワ科の亜熱帯植物で、この地のものが日本の北限といわれている。岸壁を這う根が、樹齢180年といわれている植物の力強い生命力を物語っている。
国天然記念物(昭和3年1月18日指定)

東松浦半島の風景  (2)

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東松浦半島の風景  (2)

平成20年4月27日、伊万里市から肥前町(唐津市)・福島町(長崎県松浦市)・玄海町・鎮西町(唐津市)・呼子町(唐津市)へ行く。
(2)は、玄海町・鎮西町・呼子町。
海岸高台の風車、玄海町体育館と役場、浜野浦棚田、名護屋城跡、呼子大橋、唐津駅などと、途中見た海岸風景。

東松浦半島の風景  (1) 

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東松浦半島の風景  (1)

平成20年4月27日、伊万里市から肥前町(唐津市)・福島町(長崎県松浦市)・玄海町・鎮西町(唐津市)・呼子町(唐津市)へ行く。
(1)は、伊万里市・肥前町・福島町。
伊万里湾大橋、いまり夢みさき公園とビーチ、福島大橋、同白岳公園、ぼたんと緑の丘公園などと、途中見た伊万里湾の海岸風景。

松ノ森神社の風景  長崎市上西山町

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松ノ森神社の風景  長崎市上西山町

長崎市上西山町の松ノ森神社は、くんちで有名な諏訪神社参道下段の右手奥の方にある。神社には「従是西諏訪社境内」の標石、大楠、高欄に四神レリーフがある御神橋(桁橋)、県指定有形文化財「職人尽」(現地説明板は次のとおり)があるから、まとめて紹介する。
御神橋は、長崎の石橋の項を参照。 https://misakimichi.com/archives/814

県指定有形文化財  職 人 尽

松森神社外囲いの瑞籬(垣)の欄間にはめこまれた30枚の板に薄肉浮彫りされたもので、図柄はいわゆる職人尽である。正徳3年(1713)、社殿改修の際に奉納されたもので、彫刻者は御用指物師喜兵衛、同藤右衛門である。下絵を描いた画家は不詳であるが、当時の長崎奉行御用絵師小原慶山ではないかと考えられている。天保3年(1832)には、唐絵目利石崎融思が彩色を施した。
職人風俗が精緻に描写されたこの彫り物は、歴史民俗資料としての価値とともに美術品としても高く評価されている。
長崎市教育委員会 (平成18年3月設置)

松ノ森神社の御神橋  長崎市上西山町

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松ノ森神社の御神橋  長崎市上西山町

長崎市上西山町の松ノ森神社は、くんちで有名な諏訪神社参道下段の右手奥の方にある。神社の御神橋は桁橋であるが、長崎市内では造りが大きく高欄の四神レリーフが珍しいから、特に紹介する。
N氏HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」の中「長崎県の石橋」による説明は次のとおり。

№2,874  松ノ森神社の御神橋  2007.08.13

長崎市上西山町
橋長:5.8m  橋幅:2.7m  2径間桁橋
架設:文化15年(1818)
石工:原田喜兵衛
高欄には四神のレリーフ。北に玄武、東に青龍、西に白虎、南に朱雀。
神社外囲いの瑞籬(垣)欄間にはめ込まれた「職人尽」は県指定有形文化財である。

2008 長崎帆船まつり  4/27の夜景

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2008 長崎帆船まつり  4/27の夜景

2008長崎帆船まつりは、4月24日(木)から28日(月)まで。会場は、長崎港水辺の森公園、長崎出島ワーフ。参加帆船は、海王丸、日本丸、観光丸、あこがれ、飛帆、コリアナ(韓国)。
船内一般公開や体験クルーズなどある。夜はライトアップ・イルミネーション。26日(土)と27日(日)は、20:50〜21:05に打ち上げ花火、各夜1000発。

上の写真は、4月27日夜の打ち上げ花火とライトアップ・イルミネーション。佐賀の帰り、たまたま時間に通りかかった。
4月24日の昼景は次を参照。 https://misakimichi.com/archives/806

問い合わせは、長崎帆船まつり実行委員会(事務局:長崎市さるく観光課内 TEL095−829−1319 公式HPあり)

楠公神社のクスノキ  長崎市かき道1丁目

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楠公神社のクスノキ   長崎市かき道1丁目

佐賀県武雄市の川古の大楠など3大巨樹を見て、たいていのクスノキには驚かなくなったが、長崎市内ではこのクスノキは大きい方だろう。
矢上の八郎川沿い右岸は長崎市かき道1丁目である。ジャスコと東望橋を過ぎ矢上団地へ上がる交差点もまっすぐ行くと、すぐ左手に高木が見える。

すずらん薬局から曲がると、クスノキである。神社の鳥居は「楠公神社」。やはり蛎道地区で昔から大切にされた大木であった。幹回り6m、樹高16m、枝張り10mほど。根元5mから2つの幹に分かれる。上はだいぶん伐採されている。
周りはもう新興住宅地である。隣に大星稲荷神社。
このクスノキは、ちょうど長崎自動車学校のクロガネモチ大木と、八郎川を挟み相対立するように高くそびえている。

小菅修船場跡に残るアーチ石橋  長崎市小菅町

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小菅修船場跡に残るアーチ石橋   長崎市小菅町

またまた立派なアーチ石橋が長崎市内に残っていた。場所は、国指定史跡「小菅修船場跡」。明治元年にできた我が国最初の近代的ドック。船台の形から”ソロバンドック”と呼ばれている。
長崎市南部方面へ行く国道499号線の戸町トンネル北入口の手前が修船場跡。奥深い入江の地形をよく利用してドックが造られている。

石橋の情報を教えてくれたのは、九州・京都・東京など石橋巡りに熱中されるHP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」の制作者N氏。この方のアンテナには驚くしかない。
「ドックの右側。干潮時しかよくわからない」と聞き、探しに行った。
戸町トンネル口が正門で、ドックへ入ると今は左手は小菅マリーンセンターがある。まずこの先の桟橋まで行って、対岸の海岸石垣を見てみた。ポッカリと丸い穴が空いていた。

次は日本最古の赤煉瓦建物という船台捲上げ小屋の前を通り右手へ。ここは三菱長崎造船所の大きな小菅倉庫建物が立ち塞がる。奥に行けないと思っていたら、海岸際は見学者通路の標識があり、ドックの港入口の方へ行けた。
100mほど歩いて小川を跨ぐ道下に写真のとおりの石橋が残っていた。小菅の谷水を集めた小川が国道沿いに流れ、ここで港へ出していたのである。
長さ2m、幅員9m、アーチ下の高さは1.8mほどの見事な石橋。海面が普段は1.3mまで来るため牡蠣殻がこの高さまで着いている。

橋の先は右手へ古い石段が上がる。国道がカーブしたラーメン店「一麺亭」駐車場の外側塀に突きあたる。ここは西琴平の岬の突端であったろう。明治元年創立時の小菅修船場正門口は、ここでなかったかと思わせる古い石段と立派な石橋である。
国指定史跡「小菅修船場跡」現地説明板は次のとおり。石橋はまったく知られていないのか、観光情報やHPなどにも記したものは見あたらない。
ドックの先まで見学通路を設けているので、ドックに付随した歴史遺産として石橋の存在をもっと広めてよいのではないだろうか。
N氏へ画像を送った。長崎市さるく観光推進課の馬見塚氏は、石橋を知っておられた。

国指定史跡  小菅修船場跡

指定年月日 昭和44年4月12日  所有者 三菱重工業株式会社長崎造船所
薩摩藩士五代才助(のち友厚)が小松帯刀・英人グラバーの協力を得て建設した洋式スリップ・ドックで、明治元年(1868)12月竣工した。船台がソロバン状であったから、通称ソロバンドックとよばれた。船体引揚げ用蒸気機関その他施設一切は、グラバーの仲介で英国から輸入された。
明治2年(1870)3月政府が買収、対岸の官営長崎製鉄所の所管とした。のちこの官営は民営に移管され、三菱造船所となる。
長崎県教育委員会・長崎市教育委員会

シシトキ川に残るレンガ造石橋  長崎市銀屋町

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シシトキ川に残るレンガ造石橋  長崎市銀屋町

次は布袋厚著「長崎石物語」(2005年刊長崎文献社)24〜25頁の”石張りの川 シシトキ川”から。最後の図とも。

長崎では道ばかりでなく、川のなかまで石が張られている。中通り商店街と寺町のあいだを流れる「シシトキ川」がそれである。この川は中島川の支流となっている銅座川の、そのまた支流である。…
川幅は約二メートルで、大きな溝という感じにちかい。上流にさかのぼるにつれて、しだいに川幅がせまくなる。写真でわかるように、両脇の板石が斜めに張られ、水量がすくないときに、流れをまんなかに集めるしくみになっている。
このような川は、桶屋町から築町をへて出島橋にいたる「地獄川」(公会堂の裏、および中央公園裏で川底がみえる)、樺島町、館内町などもある。地獄川の名は、公会堂裏にある市役所別館の場所に、むかし、牢屋「桜町牢」があったところから来ている。

地獄川の桜町、栄町に残るレンガ造石橋2つについては、この前この抜粋によりすでに報告している。 https://misakimichi.com/archives/787
今度は本家のシシトキ川にもレンガ造石橋があった。場所は眼鏡橋のひとつ下流、袋橋からまっすぐ寺町の方へ行った通り。逆にいうと幣振坂から寺町通りを突き切って下り、シシトキ川と合う所。
銀屋町5街区にくんち出し物鯱太鼓倉庫を兼ねた銀屋町公民館がある。長崎市さるく観光推進課馬見塚氏から聞いたこの角の橋。地獄川と同じレンガ造石橋が、写真のとおり立派に残っていた。長さ1.8m、幅員5.7mほど。

シシトキ川やこれに架かる橋についてHPやブログは少しある。さるくマップも通称・裏めがね橋(以前、めがね屋だった時に架けられためがね形の最近の橋)は紹介しているが、銀屋町公民館角のこの橋が、明治時代の本物の石橋であるとまったくふれてない。
上流と下流をたどった。上流の諏訪小学校表通りと裏通りは古い桁橋だった。長崎さるくマップブック30頁の「ししとき川」説明は次のとおり。

⑤ ししとき川
1600年代に長崎奉行により、火事対策として作られた人工の川。明治には川底に石畳が敷かれ、清らかな水流が保たれるようになったといいます。当時の長崎の下水道技術の高さがしのばれます。かつては「川端通り」と呼ばれ。共同井戸などもあったそう。

(追 記 平成20年6月19日)

銀屋町公民館角のこのレンガ造橋の名前がわかった。史料はまた長崎楽会西山3丁目中尾氏が見つけてくれた。長崎手帖社「長崎手帖 No.13」昭和33年7月10日発行5頁の「茶のみ話」の中に次のとおりあった。長崎手帳編集者の田栗杢作氏文と思われる。
長崎手帖によると、この橋名は「稲荷橋」と出てくる。川端に稲荷神社があり昭和60年頃、鯱太鼓倉庫を兼ねた公民館をここに新築したため、稲荷神社は屋上へ祀り直したことを、私は職務上から記憶していた。
一 目 七 橋

これは橋好きの私に、岩永さんがわざわざ明治二十一年刊行の長崎年表を見せて下さったものです。昔は編笠橋附近から川下の眼鏡橋の方を眺める石橋風景を「一目七橋」と言ったらしいので、見せて貰った年表の鍛冶屋町裏の屠鹿川に架った七つの小さな橋も、昔は一目におさまったのではないかと思って、表題を借りました。
屠鹿川に架った橋は、その名はおろか姿すら薄くなっていますが、七橋とも鍛冶屋町に架って、上流から言いますと、磨屋町のは屠鹿(とろく)橋、銀屋町のが稲荷橋、東古川町のは川添橋、本古川町のは鍛冶橋、榎津町の孕(はらみ)橋、萬屋町のは斜(ななめ)橋、アーケードの下の東浜町から架っているのは浜口橋です。   (西古川町 金物店 岩永関夫氏)

あやめ東幼稚園のアコウ  長崎市戸石町

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あやめ東幼稚園のアコウ  長崎市戸石町

平成20年4月20日、長崎学さるく行事で牧島へ行った。牧戸橋を渡る前、川向いにあやめ東幼稚園がある。園庭に大きく傾いたアコウの幹が見えた。
戸石六地蔵から池下へ向かう途中には、幼稚園の正門にも遠くから大きな木が見えた。

幼稚園へ帰りに寄って確かめた。この日は行事コースで、池下大久保家の諌早市指定天然記念物「アコウの巨樹」を見ていたから、そんな巨樹に感じられないが、小さいながら2本とも樹形が独特なアコウである。
正門のは幹回り4.5m、樹高12m、枝張り10mほど。園庭のは幹回り4.6m、樹高11m、枝張り11.4mほどあった。

なぜ、ここに生えているのか、幼稚園で聞き忘れたので、近所の人たちに聞いた。もともとこのアコウは、大久保病院の通りから幼稚園へ入る道路入口近くの空地に生えていた。根元で2本に幹分かれした大きな木であった。
昭和56年、あやめ東幼稚園を開園する時に園が買い取り、2本にするよう根元を切って、正門と園庭にそれぞれ植えた。そのため樹形がこんな傾いた格好になったらしい。

幼稚園に大木があるのは珍しい。今では園児にすっかりなじまれ、おもしろい木でないだろうか。