投稿者「misakimichi」のアーカイブ

春徳寺のクスノキ  長崎市桜馬場1丁目

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

春徳寺のクスノキ  長崎市桜馬場1丁目

長崎市新大工町商店街からシーボルト通りへ向かう。長崎市立桜馬場中学校の角に出て、学校の石垣に沿った道を上がると「春徳寺」へ着く。
高台の寺の門前にあるクスノキは、市中から眺めても目立つ。石垣の上に立ち幹囲は測れないが、6m近くある大木である。越中先生が書いていたので写しに行った。
県指定史跡「ドウドス・オス・サントス跡」の春徳寺は、史跡の項を参照。 
九州文化図録撰書3「長崎街道」のぶ書房2002年刊、越中哲也氏稿「天領長崎」74頁による説明は次のとおり。
四、桜馬場郷

…石垣の終わる所より右に上る道がある。春徳寺へ行く参道である。このあたりが旧城下町で、長崎氏がキリシタンであった時代、長崎に最初の宣教師として永禄10年(1567)に訪れたポルトガル人のルイス・デ・アルメイダの記念碑が坂の上に建っている。
春徳寺は、その時代、長崎に建てられた教会ドウドス・オス・サントスの跡地に建てられた寺院であり、このあたりには当時のキリシタン遺跡も多く、県の史跡地に指定されている。
寺の門前にある大楠は、樹齢500年というのであるから、当時のことは全て良く見知っているはずである。…

桜馬場天満神社の御神橋  長崎市桜馬場1丁目

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

桜馬場天満神社の御神橋  長崎市桜馬場1丁目

長崎市新大工町商店街からシーボルト通りへ向かう。商店街を出た交差点のすぐ先の通りの左に鳥居があり、奥へ行くと「桜馬場天満神社」がある。
史跡の項も参照。御神橋の両側面は家が建てみ、構造確認ができない。暗渠は新大工市場前から入れるが、遠すぎる。

親柱に「大正十三年一月」の銘。御神牛の手前に「石橋改修費寄附連名」碑があった。
fwd−net長崎・諫早HP「石造アーチ橋以外の石橋たちを訪ねて」による説明は次のとおり。

第 k-025 番   桜馬場天満神社の御神橋        長崎市桜馬場1丁目
最初の架橋年は不明。大正13年1月改修  長さ m 幅員 m  スパン m
参道一杯で側面からの確認は困難。

桜馬場と言うより、大手橋からシーボルト通りを歩いて、左手。(05/22/2002)
【神社由来記から】
大生山宝生院威福寺の開山なる射福院高順に源を発する。慶長元年に早岐から長崎に至り、同12年に筋違橋の袂に小堂を構え天満宮の尊像を祀ったのが起源という。
【祭 神】 菅原道真公
【創 建】 慶長12(1607)年
【境内社】 稲荷神社、竃神社、出雲神社

御神牛は道真公の生まれ年の縁と、大変可愛がられた牛が、天満宮をお参りしたことから、天満宮のシンボルのようになっている。
大正6年建立の一の鳥居は、建立当時はこのあたりもスペースが充分あったのであろう。今では写真の通り。
となりのビルは鳥居に遠慮したのか、建物を引っ込めて建設されている。今はこうして近隣の方からも崇敬される天満神社も、創建当時は切支丹の時代。多くの迫害も受け一時は現在の八幡町に疎開もしたが、元和8(1621)年に長崎奉行の肝いりで現在地に敷地を与えたという。
それ以来、長崎街道の起点にあたるところから、多くの参拝者を擁した。

桜馬場天満神社  長崎市桜馬場1丁目

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

桜馬場天満神社  長崎市桜馬場1丁目

長崎市新大工町商店街からシーボルト通りへ向かう。商店街を出た交差点のすぐ先の通りの左に鳥居があり、奥へ行くと「桜馬場天満神社」がある。
天満神社大祭の準備をしていて、社殿内部の天上絵を写せた。御神橋は石橋の項を参照。
九州文化図録撰書3「長崎街道」のぶ書房2002年刊、越中哲也氏稿「天領長崎」75頁による説明は次のとおり。
四、桜馬場郷

…長崎の町の入口である新大工町大門に着く。その門のすぐ近くに天満社威福寺があった。この寺は僧高順が慶長12年(1607)に創建した長崎最初の神社で、中に立派な本殿も建ち、寺の名は威福寺といった(現在の桜馬場天満宮)。
その威福寺が有名になったのは、江戸参府のオランダ人が長崎の町を離れる時、必ずこの寺に立ち寄らされ、道中の安全を祈らせられたからである。
このことは『紅毛通詞年番行事』や、シーボルトの『江戸参府旅行記』に詳しく記されている。…

松の森通り・松森神社  長崎市上西山町

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

松の森通り・松森神社  長崎市上西山町

諏訪神社の二の鳥居手前から右方へ広い道を松森神社へ行く。この通りが「松の森通り」。長崎歴史散歩道。手づくり郷土賞の通りである。
長崎通詞に英語を指導したインデェアン系「ラナルド・マクドナルド顕彰之碑」ができていた。
古い水路に桁橋が残る。松森神社にも見事な参道橋と職人尽彫板、大楠などがある。

長崎諏訪神社・長崎公園 (2)  長崎市上西山町

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

イメージ 14

長崎諏訪神社・長崎公園 (2)  長崎市上西山町

諏訪神社は鎮西大社と称えられる長崎の総氏神様。諏訪・森崎・住吉の三社を祀る。長崎くんちの舞台。隣に長崎公園がある。石造物を主に見に行く。
石造橋、石門、噴水池などは、石橋の項を参照

(1)は、肥前鳥居、陰陽石の敷石、山本健吉文学碑、珍しい狛犬など。
(2)は、常夜灯、まよひ子志らせ石、太鼓楼、ピェール・ロチ碑など。

長崎諏訪神社・長崎公園の石造橋と石門  長崎市上西山町

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

イメージ 14

イメージ 15

イメージ 16

長崎諏訪神社・長崎公園の石造橋と石門  長崎市上西山町

諏訪神社は鎮西大社と称えられる長崎の総氏神様。諏訪・森崎・住吉の三社を祀る。長崎くんちの舞台。隣に長崎公園がある。
石造橋や石門を見に行く。小さな桁橋しかない。最初のは日本銀行長崎支店の通用口。石門の葵紋とおり、東照宮はこの上の長崎県神社庁のところにあった。
風景・史跡の項も参照。

長崎諏訪神社・長崎公園 (1)  長崎市上西山町

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

イメージ 14

長崎諏訪神社・長崎公園 (1)  長崎市上西山町

諏訪神社は鎮西大社と称えられる長崎の総氏神様。諏訪・森崎・住吉の三社を祀る。長崎くんちの舞台。隣に長崎公園がある。石造物を主に見に行く。
石造橋、石門、噴水池は、石橋の項を参照。

(1)は、肥前鳥居、陰陽石の敷石、山本健吉文学碑、珍しい狛犬など。
(2)は、常夜灯、まよひ子志らせ石、太鼓楼、ピェール・ロチ碑など。

長崎出身の山本健吉文学碑「母郷行」(ぼきょうこう 詩碑)は、踊り場のすぐ左下、祓戸神社のところにある。裏面に井上靖の顕彰文。立ち狛犬・逆立ち狛犬もここ。
文学碑はタッちゃんブログを参照。  http://blogs.yahoo.co.jp/turbobf1516/34987618.html

母 郷 行

長崎の町を行く、雨が洗った石畳の坂道 西日のさす白壁の土蔵の前、物の匂ひのこめる市なかに、ふと少年のままたたずむ私を見る。遠い記憶の故里のかけらの中に少年はいる。
私が町を憶えてゐてくれる。それが身を何か大きなものの手に、すっぽりと委ねてゐる。寛く深い母の懐にあるような。
その時遠く潮騒やよに聞えてくる、子守歌は、うぶすな祭の笛の音、秋空に韻く太鼓の音
一九八八年(昭和六三)建立

田原の六地蔵石幢  諌早市小長井町田原

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

田原の六地蔵石幢  諌早市小長井町田原

国道207号線により諫早市役所小長井支所手前の小長井交差点まで行く。ここから左折し山茶花高原へ向けて県道195号線を上って行くと、大きな田原溜池に出る。
池沿いの集落中ほどに田原口バス停があり、隣りに「田原の六地蔵石幢」がある。
現地説明板は次のとおり。

諌早市指定文化財(有形民俗文化財)  田原の六地蔵石幢
昭和54年9月26日指定

地蔵菩薩は、釈迦入滅後、弥勒仏が出世するまでの無仏期に、六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)の衆生を救済する菩薩とされ、末法思想の流布とともに広く信仰されるようになりました。六道に赴く地蔵の姿が六つに変化していることから「六地蔵」と呼ばれています。
六地蔵が造られた時期は、本市では天文期(1532〜54年)のものが多く、小野の六地蔵石幢群(小野町・赤崎町、県指定)、天祐寺の六地蔵石幢(西小路町、市指定)、関の辻の六地蔵石幢(下大渡町、市指定)などがあります。
田原の六地蔵は、笠頂部の宝珠部分が欠損していますが、ほぼ完形です。正面には、月輪の中に「阿弥陀如来」を示す梵字と、左記の銘が刻まれています。
逆修   □□   天文十七年戌申   十月十三日
平成20年3月  諌早市教育委員会

藤津郡太良町に残る桁石橋

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

イメージ 14

イメージ 15

イメージ 16

イメージ 17

イメージ 18

イメージ 19

藤津郡太良町に残る桁石橋

藤津郡太良町に残る桁石橋。大字太良の諫早街道太良道沿い、「開の庄屋屋敷」(田中宅)周りの水路に4橋がある。
国道207号線により太良町に向かう。町の中心を過ぎ多良川の橋を渡ると、国道左に「大魚神社」があり、左折してこの道をまっすぐ進む。
円教寺横を通り長崎本線のガード下をくぐると、田んぼの中の道となりすぐ右手に大きな屋敷が見える。ここが「開の庄屋屋敷」である。多良連峰がよく望める。

未舗装のこの道が今の正門か。屋敷入口の橋はコンクリートになっているが、下を覗くと桁橋であった。
裏木戸門に立派な石橋があるので、車道を少し戻り右の住宅地の方から回りこんで見に行く。屋敷が安政3年(1856)の建築だそうだから、その頃の古い橋である。

親柱が菱型に造っていて珍しい。周辺の水路に2つの板石橋を渡している。
屋敷に入らず、右手の坂段道を行くと稲荷神社があった。
fwd−net長崎・諫早HP「石造アーチ橋以外の石橋たちを訪ねて」による説明は次のおり。

第 k-043 番   開の庄屋屋敷の石橋       佐賀県藤津郡太良町開
架橋年は未確認だが、後日、宮崎のニエモンさんの確認に寄れば、屋敷が安政3年(1856)の建築だそうだから、その頃か?   長さ 4.3m  幅員 1.8m  スパン m
周辺に二基の石桁橋、諫早街道太良道の脇に架かる。

諫早街道の矢筈峠から太良宿に下るときに、本来なら、この庄屋(田中邸)屋敷の庭先を通らなければいけないのだが、個人の敷地に入る訳にはいかないので今まで迂回していて、この橋の存在に気がつかなかった。
今回、諫早から入ってきて、庄屋さんの玄関?前に立派な水場と石橋に気がついた。水場周辺には使い勝手のためか二基の桁橋も架かっている。

丸尾古墳  諌早市小長井町牧

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

丸尾古墳  諌早市小長井町牧

国道207号線により諌早市小長井町まで行く。長里の道路公園を過ぎしばらく行くと、入江に帆崎橋が架かる。
橋のたもと、小深井バス停に古墳の案内標識があり、左上の金刀比羅神社へ石段を登って、神社先の小道を少し行くと、畑地の中に「丸尾古墳」がある。

ここはどうも急傾斜面の方に、古墳内部への入口があったようだ。崖崩れで入口が損壊し、現在は工事中。ブルーシートにより覆われ、何も見学できなかった。
入江の対岸、有明海に面した帆崎の先端部には、前項の「長戸鬼塚古墳」がある。
現地説明板は次のとおり。丸尾古墳にも線刻画があるらしい。

文化財名  丸尾古墳

小深井港の東側、帆崎の丘陵に位置するここ丸尾山に、鬼のすんだという岩屋がある。しかし、これは昔の豪族の古墳であって円墳だと言われている。
円墳の高さは、前の室が横1.7m、高さ1m余。奥の室が横2.3m、高さ2.5m、奥行が3.3mで四壁や天上は、幅の広い巨石を積み重ねてある。
千数百年の間に石室の中のものは、運び去られたとみえ、空洞で鬼の岩屋のように見える。
諌早市教育委員会  諌早市文化財保護委員会