投稿者「misakimichi」のアーカイブ

長崎歴史文化博物館の長崎奉行所ゾーン  長崎市立山1丁目

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長崎歴史文化博物館の長崎奉行所ゾーン  長崎市立山1丁目

諏訪の森にある「長崎歴史文化博物館」は、平成17年(2005)11月に開館した。黒川紀章氏の設計。
鎖国時代から西欧に唯一開かれた窓口として栄えた長崎。その街の様子や出島で行われたオランダとの貿易など、長崎ならではの海外交流の歴史や文化を身近に学ぶことができる。
また、長崎奉行所を当時の資料をもとに、一部を復元した世界的にも大変ユニークな博物館である。(長崎さるくマップブック施設案内から)

館内は「歴史文化展示ゾーン」と「長崎奉行所ゾーン」に分かれる。1月18日、文政時代の福済寺復元模型を見学に行ったので、このうち撮影ができた「長崎奉行所ゾーン」の様子を紹介する。博物館の裏手には、「長崎県防空本部跡(立山防空壕)」がある。

長崎の古写真考 目録番号:5109 長崎福済寺上からの長崎港(2) ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:5109 長崎福済寺上からの長崎港(2) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」に収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。
確認が済んだものをその都度、最新の写真の状況を添えて報告したい。気の向くままの調査のため、目録番号の順は不同である。

目録番号:5109 長崎福済寺からの長崎港(2)
目録番号:5110 長崎福済寺からの長崎港(鉄道用地工事中)(3)
目録番号:5618 福済寺からの長崎市街(2)
(関連作品)
目録番号:2900 福済寺からの長崎市街(1)
目録番号:4215 長崎港と中町教会

■ 確認結果

フーコの振り子がある「萬国霊廟長崎観音」で有名な長崎市筑後町の「福済寺」。長崎原爆により、本堂・大雄宝殿などすべて焼失した。
文政初年(1878〜)頃の復元模型が、長崎歴史文化博物館2階に展示されている。監修者は、村田明久氏(長崎総合科学大学)。住職から話を聞き、当時の寺の配置と様子を知るため、模型を写しに行った。唐人屋敷の模型もあった。関連作品の前の項も参照。

最初の目録番号:5109「長崎福済寺からの長崎港(2)」は、左下に写っているのが「大雄宝殿」と思われる。甍の鯱・五重塔がはっきりわかる。建物の向きが合い、右下の一段低い屋根は、現在の庭園にあった「開山堂」だろう。

2枚目の目録番号:5110「長崎福済寺からの長崎港(鉄道用地工事中)(3)」は、これも「大雄宝殿」を今度は右下に写していると思われる。左側に続くのは、「斎堂」などの屋根だろう。
長崎駅側の海面が埋め立てられたのは、最初の写真説明にあるとおり、明治37年(1904)。

3枚目の目録番号:5618「福済寺からの長崎市街(2)」は、その左側。右側の松の下に写っている縦向きの建物が、旧本堂の「書院」と思われる。横向きなのは手前が「青蓮堂」、奥のが参道「山門」の屋根とすれば、建物の配列と向きは合うと思われる。

長崎の古写真考 目録番号:2900 福済寺からの長崎市街(1) ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:2900 福済寺からの長崎市街(1) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」に収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:2900 福済寺からの長崎市街(1)
目録番号:4215 長崎港と中町教会
(関連作品)
目録番号:5109 長崎福済寺からの長崎港(2)
目録番号:5110 長崎福済寺からの長崎港(鉄道用地工事中)(3)
目録番号:5618 福済寺からの長崎市街(2)

■ 確認結果

フーコの振り子がある「萬国霊廟長崎観音」で有名な長崎市筑後町の「福済寺」。長崎原爆により、本堂・大雄宝殿などすべて焼失した。
文政初年(1878〜)頃の復元模型が、長崎歴史文化博物館2階に展示されている。監修者は、村田明久氏(長崎総合科学大学)。住職から話を聞き、当時の寺の配置と様子を知るため、模型を写しに行った。唐人屋敷の模型もあった。関連作品の次の項も参照。

参道は現在の位置と違う。山門をくぐって鐘楼・青蓮堂・旧本堂書院・大雄宝殿・開山堂があった。現在の住職宅が旧本堂書院、観音の建った所が大雄宝殿となる。福済寺の甍には、鯱と五重塔があったのが特徴。本蓮寺はない。
目録番号:2900「福済寺からの長崎市街(1)」と目録番号:4215「長崎港と中町教会」とも、福済寺の旧本堂の屋根越しに大村藩蔵屋敷跡(後に中町教会が建つ)と長崎港を撮影しているものと思われる。

最近、目録番号:4215「長崎港と中町教会」の古写真で、福済寺の裏手の道にさるく説明板が設置された。表題を「福済寺からの港風景」と変えている。
現在の寺の屋根が似ているから、この場所に設置したと思われるが、設置場所の間違いでないだろうか。
建物の向きが変っており、説明板の「写真下には、戦前に国宝建造物であった福済寺の大雄宝殿の屋根がみえます」とはならない。書院と左の鯱・五重塔がある横向きの屋根は青蓮堂と思われる。しかも、古写真に写る「中町教会」の位置が、ビルの陰となって全然確認できない。

古写真の実際の撮影場所は、現在の説明板の位置から、まだ左方へ20mほど行ったまだ高い所からと思われる。ここなら現在の中町教会の塔が見え、福済寺の屋根も確認できる。
今の位置の設置板なら、古写真は目録番号:2900「福済寺からの長崎市街(1)」に変え、目録番号:4215「長崎港と中町教会」は、中町教会に設置した方がよいと思われる。

長崎の古写真考 目録番号: 763 大黒町および出島と長崎港口 ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号: 763 大黒町および出島と長崎港口 ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」に収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号: 763 大黒町および出島と長崎港口
〔画像解説〕
ベアトによる1866年2月の書き込み。立山(現長崎駅前)から長崎市内と港口を遠望する。海岸沿いに各藩の蔵屋敷がみられ、旧市内の建物、西役所、出島、大浦居留地、大浦教会がみええる。海上には船舶が多数。

目録番号:2882 長崎立山町からの長崎港(1)

(関連作品)
目録番号:2249 長崎港のパノラマ(2)
目録番号:2899 立山からの長崎港と町並み(1)
目録番号:3814 立山からの長崎港と町並み(2)
目録番号:3851 長崎市街中心部と長崎港(1)
目録番号:5106 長崎市街中心部と長崎港(2)
目録番号:5107 長崎市街中心部と長崎港(3)
目録番号:5108 長崎福済寺上からの長崎港(1)
目録番号:5565 立山からの長崎遠望

■ 確認結果

上記10点の作品は、だいたいアングルが似ている。撮影場所はわずかの違いがあろうが、展望のよい立山の山頂あたりか、墓地から市街地と長崎港口を撮影したものである。
問題は、目録番号: 763「大黒町および出島と長崎港口」の作品。2009年(平成21年)1月1日付朝日新聞長崎地域版に、開港150年の年頭特集記事として飾られた。
1886年に英国の写真家フェリックス・ベアトが撮影した長崎港の古写真。同じ場所から港を見るため、記者が苦労して撮影場所を探した。「山の形や重なりを確認。福済寺裏手が、めざす辺りだった」とし、その場所から写した現在の長崎港を下に載せている。

これは、誤認であろう。新聞の写真を比べてわかるとおり、深堀城山・大久保山・鍋冠山・八郎岳の山の重なりは合わないし、市街地や港を望んだ高度感を感じない。女神大橋が邪魔するが、港口右に香焼島が見えてない。
記者の場所は、福済寺長崎観音の背後の山手。ホテル長崎の展望浴場のすぐ下の墓地からと思われる。直線で結ばれる地点。同場所へ行って、最後の写真のとおり、同じく写してきた。

古写真の場所は、まだ右上の高いところで、約100mほど離れている。ホテルの左横に赤い建物の老人ホーム「プレジールの丘」が建つ。このすぐ下となる「西勝寺の無縁諸霊墓」の一段上、「中山家之墓」あたりからが景色が合う。立山バス停から下った方が近い。
ほぼ「立山山頂」と言って良い。現在の老人ホームの場所から撮影された可能性がある。

目録番号: 763「大黒町および出島と長崎港口」の画像解説は、「立山(現長崎駅前の上手の山)から」と、撮影場所を具体的に説明すべきだろう。
次の目録番号:2882「長崎立山町からの長崎港(1)」も、同じ場所から撮影したと考えられる。竹薮と木立が今もあり、中央下に石塔の頭か、わずかに白く写っているので、参考となろう。

本蓮寺の境内  長崎市筑後町

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本蓮寺の境内  長崎市筑後町

JR長崎駅近く。筑後町の高台にある本蓮寺。境内の日蓮上人像などの風景。奥に見える大きな観音像は福済寺のもの。
長崎市立博物館「長崎学ハンドブックⅠ 長崎の史跡(北部編)」平成14年刊の82頁による説明は次のとおり。

112 本蓮寺(日蓮宗・聖林山)  (所在地:筑後町2番)

本蓮寺は、元和6年(1620)、大村本経寺の住職日恵が開創。同寺はサン・ジヨアン・バプチスタ教会の跡地でもあった。慶安元年(1648)朱印地となる。本堂以下の諸堂は原爆で焼失、戦後、本堂、書院、庫裏などが再建された。境内の南蛮井戸は教会時代の井戸という。
また、塔頭に大乗院と一乗院などがあったが、大乗院は支配勘定役大田直次郎(大田南畝)が文化2年(1805)に約3カ月間、勝海舟が安政2年(1855)から4年間、それぞれ宿舎とした。一乗院には安政6年(1859)に再渡来したシーボルトが宿泊した。…

藤田尾のツバキ (2)  長崎市藤田尾町

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藤田尾のツバキ (2)  長崎市藤田尾町

長崎市指定天然記念物「藤田尾のツバキ」は、2007年8月の次記事を参照。
https://misakimichi.com/archives/220
市内で最大のヤブツバキの木。前の記事は花の写真を添えてなく、ツバキの花が咲いた頃と思い、先日1月7日夕方、自宅から近いので見に行った。

古木のため花がつかないのか、海岸近く風あたりが強く蕾が落ちるのか、花はまったくついていない。先端の枝にかろうじてついていた花を写してきた。
幹囲は今回計測すると、説明板がある上方の木の大幹が1.8m、海岸側30mほど下方の木は1.6mくらいあった。現地説明板は、次のとおり新しくなっていた。

市指定天然記念物  藤田尾のヤブツバキ

指定年月日  平成17年8月22日(旧町指定年月日 平成元年3月16日)
所在地  長崎市藤田尾町472番地
樹齢約300年(推定)、樹高約11m、根回り約2.8mを測る。根元より幹は2つに分かれ、地上約2mのところから大枝を出している。樹勢は極めて旺盛である。
この地域はヤブツバキの古木が多く、その中でもこの木は最大のものである。
長崎市教育委員会 (平成20年2月設置)

最初の「藤田尾」コミュニティーバス停付近と、最後の写真の木はツバキ近くにあるクロガネモチの木。後者の幹囲は2.5mほどある。

現川から虚空蔵山・前岳・津屋岳へ (2)  平成21年1月

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現川から虚空蔵山・前岳・津屋岳へ (2)  平成21年1月

平成21年1月11日(日)曇りのち晴。現川から虚空蔵山・前岳・津屋岳へ。参加6人。
JR長崎駅9時39分発 現川駅ー古窯跡ー虚空蔵山ー三ツ山町上ー前岳(昼食)ーバイパス上県道ー津屋岳ー正念ー市布駅15時30分着

現川駅から標高300m級の尾根を長崎バイパス上の津屋岳まで歩く。前日の積雪が残る。間ノ瀬中山の虚空蔵山は矢上方面の展望が良い。前岳山頂は、1℃、昼食は寒かった。ここも虚空蔵菩薩がある。
津屋岳は山城の跡。標高302.7mの三角点がある。尾根を通して下っていったら、中腹に「五穀社」の広場があった。先の踏跡が不明。谷間へ下りると古賀町正念の石橋に出た。

現川から虚空蔵山・前岳・津屋岳へ (1)  平成21年1月

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現川から虚空蔵山・前岳・津屋岳へ (1)  平成21年1月

平成21年1月11日(日)曇りのち晴。現川から虚空蔵山・前岳・津屋岳へ。参加6人。
JR長崎駅9時39分発 現川駅ー古窯跡ー虚空蔵山ー三ツ山町上ー前岳(昼食)ーバイパス上県道ー津屋岳ー正念ー市布駅15時30分着

現川駅から標高300m級の尾根を長崎バイパス上の津屋岳まで歩く。前日の積雪が残る。間ノ瀬中山の虚空蔵山は矢上方面の展望が良い。前岳山頂は、1℃、昼食は寒かった。ここも虚空蔵菩薩がある。
津屋岳は山城の跡。標高302.7mの三角点がある。尾根を通して下っていったら、中腹に「五穀社」の広場があった。先の踏跡が不明。谷間へ下りると古賀町正念の石橋に出た。

古写真に残る石橋風景  (8)浪の平の「了?福橋」

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古写真に残る石橋風景  (8)浪の平の「了?福橋」

長崎市浪の平町の「長崎市南公民館」先に、右へ入る昔の狭い幅の道がある。金刀比羅(琴平)神社鳥居がある参道口へ出る。
この道が明治期から、石橋より二本松を越えず、浪の平・小菅を経由した一時期の戸町・深堀道となり、「みさき道」となったと思われる道である。
路地に入ってすぐ古河町となり、町境の小川に長い板石を5本渡した桁橋がある。手前左に古い親柱が残り、「寄附者 永井傳之?」と刻んでいる。
橋は「古写真考」の次も参照。 https://misakimichi.com/archives/1546

ところが目録の古写真は、橋をはっきり確認できない。まだ良く写った写真だったはずにと、「長崎古写真集 居留地編」長崎市教育委員会平成7年刊を借りてきて、89・90頁の写真を見た。
ここに掲げた2枚目の古写真「75 浪の平一帯B(彩色) 長崎市立博物館所蔵」には、橋がはっきり写っている。
目録と同じ古写真なのに、橋の下部が少しカットされていたのである。拡大写真を参照。
1枚目の「74 浪の平一帯A(彩色)」は、現在の南公民館敷地にあった「尋常鎮鼎小学校」(長崎市立浪平小学校の前身)校舎が建つ前の古写真。このときは石橋は架かってなかったのか、確認できない。
いずれも、撮影場所は南側高台の金刀比羅(琴平)神社境内からと思われる。

「橋名」がわかった。再び訪ねると、汲み取りホース下の川岸に石柱が2本並べて横たえていた。1本に刻字があるようなので苔をはがすと、「了?福橋」と読めた。
大切に保存してほしい親柱である。架橋年代はない。刻まれていれば、古写真の撮影時期を推定できるのだが…
アーチ式石橋でないが、古写真にはっきり写り、しかもそのまま現存している珍しい桁石橋。すぐ上の支流流れ口にも、小さな桁石橋を確認した。
「長崎古写真集 居留地編」の145頁、林一馬先生稿「図版解説」は次のとおり。

74 浪の平一帯A(彩色)  横浜開港資料館所蔵
75 浪の平一帯B(彩色)  長崎市立博物館所蔵
ほぼ同一地点(浪の平の南側の丘にある琴平神社の参道付近)から類似した構図で居留地の南端と浪の平及び長崎港を望んだもの。遠くに出島や旧市街地、立山や金比羅山などの山々がみえている。

Aは、梅香崎の税関前の埋め立て地の様子や手前の南山手の建物の建ち方(17、18番の2棟はあるが、35番はまだ建っていないなど)からすれば、明治5〜10年頃のものであろう。ポールの立っているところがアメリカ領事館(明治8年4月以降ならばロシア領事館)で、ポール右上の屋根がリンガー邸であろう。南山手の周遊道路はすでにあり、石積みの手すりや石畳も24番地の前あたりまで整備されていたが、大浦地区からの遠さゆえにかこの居留地南端付近はまだ空き地が多かったことが確かめられる。一番手前にみえる洋館が図−4にも記載される24番のものだが、この当初建物ではヴェランダが下屋形式となっておらず、煙突もついていなかったことがわかる。

Bには、明治20年7月に新築移転してきた尋常鎮鼎小学校(のちの浪の平小学校)の校舎があり、その屋根上に明治22年8月上棟の二十五番館の棟頂ものぞくが、一帯の洋館群の様子は図−9よりもかなり前の状態なので、明治20年代中頃の撮影であろう。校舎の背後にみえる洋館2棟は24番の現・荒木茂康・君恵宅と荒木豊治氏宅だが、前者はAにみえた当初建物を明治10年前後に改築または建て直したものだったことがわかる。この頃になると南山手の区画もほぼ満杯状態になり、次には2階建て住宅がこの地区にも登場してくるようになる。

時津の茶屋(本陣)周辺の桁石橋  西彼杵郡時津町浦郷

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時津の茶屋(本陣)周辺の桁石橋  西彼杵郡時津町浦郷

江戸期、時津街道を往来する諸大名、幕府役人の休憩、宿泊にあてられた時津の茶屋(本陣)。古い屋敷が残り、外囲いに堀のような小川が流れる。
祐徳稲荷神社の方まで行って一周すると、桁石橋が3橋あった。大きい板石2つで造った茶屋(本陣)正門橋は、風格がある。裏手の方の上流にある住宅橋は、階段橋のようになっていた。
茶屋(本陣)の現地説明板は次のとおり。

茶屋(本陣)

時津は船待ちの港として神功皇后外征ゆかりの伝説を持つ港町である。殊に元亀2年(西暦1571年)長崎開港後は長崎奉行、学者、文人の往来を始め、中国、オランダ交易品の上方、関西方面送りなど大変、栄えたところである。
その本陣として寛永10年(西暦1633年)市場南に建立されたのが茶屋(本陣)のはじまりである。その後、茶屋(本陣)は、我国の外交内政の激動期、すなわち、徳川幕末近く、文化10年(西暦1817年)大村藩主の命によって、高谷正蔵が旧時津街道に沿い、この地に建てて諸大名、幕府役人の休憩、宿泊にあてたところである。
時津町教育委員会