投稿者「misakimichi」のアーカイブ

猪伏の大トチ  愛媛県上浮穴郡久万高原町

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猪伏の大トチ  愛媛県上浮穴郡久万高原町

四国森林管理局「森の巨人たち100選」管内による解説は、次のとおり。
突き当たりにある公衆トイレの場所は、私の(注)のとおり説明不足なので注意する。車で行ってかなり下の場所にある。
トイレから大トチまで山腹の平坦な山道を歩くが、1時間はかかろう。樹齢の推定は、600年。私は、地芳峠から姫鶴平・五段高原・天狗高原へと向かった。

75.猪伏の大トチ

幹周り 626cm
樹 高 30m
樹 齢 不明
所在地 愛媛県上浮穴郡久万高原町

「猪伏の大トチ」は、四国カルスト・五段高原の中にある国有林にあります。
所在地は、久万高原町ですが、高知県津野町から天狗高原へと公団幹線林道東津野城川線を登り、天狗荘から姫鶴平へ向かい、姫鶴荘手前を右折した(注、広い駐車場の所の角に案内標識があり、林道を約2.1km車で下る。突き当たりに大トチ見学用の駐車場・トイレ・案内図がある)突き当たりにある公衆トイレ横から歩道を歩いていきます。

しばらく歩道を行くと、右に「白亜の湧水」と呼ばれる湧き水がこぼれ落ちるところがあります。また、途中「ケヤキ平」と呼ばれるケヤキの群生地があり、中でも一際大きなケヤキが歩道の右手に姿を現します。
トチノキは、約40分歩いたところにある小さな広場の左に、居(?)を構え、訪れる人々の心を和ませてくれます 。

四国カルスト  愛媛県西予市・上浮穴郡久万高原町ほか

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四国カルスト  愛媛県西予市・上浮穴郡久万高原町ほか

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』による解説は、次のとおり。

四国カルスト

四国カルスト(しこくカルスト)は、愛媛県と高知県との県境にある標高が約1,400m、東西に約25kmに広がるカルスト台地である。
日本三大カルスト(四国カルスト、山口県の秋吉台、福岡県の平尾台)のひとつで、その中でも最も高い標高からは石鎚山などの周辺の山々が一望できる。

西から大野ヶ原、姫鶴平(めづるだいら)、五段高原、天狗高原(てんぐこうげん)(標高1485m)まで、なだらかな山肌には、夏は草に覆われた緑のじゅうたん、秋はススキが一面に広がり、一年を通して四季を楽しむことができる。浸食作用で地表に露出した石灰岩が点在している。乳牛の放牧地帯としても有名で、多くの牛が放牧され、カルスト特有の風景をさらに牧歌的にし、多くの人々が訪れる観光地となっており、愛媛県では1964年(昭和39年)3月21日に四国カルスト県立自然公園として指定された。

アクセスとしては、四国カルストの中央に位置する地芳峠に国道440号が通り、その峠より東に向けて愛媛県道・高知県道383号四国カルスト公園縦断線、高知県道48号四国カルスト公園線が延びており、天狗高原の南側の国道439号に接続している。また、国道440号を地芳峠から北上する愛媛県道36号野村柳谷線と接続する。大野ヶ原から姫鶴平(めづるだいら)にかけては愛媛県道・高知県道383号四国カルスト公園縦断線が通っている。近くの道の駅(国道197号沿い)としては、「道の駅ゆすはら」が高知県の檮原町にある。

所在地  愛媛県:西予市、上浮穴郡久万高原町、喜多郡内子町
高知県:高岡郡檮原町、高岡郡津野町

韮ヶ峠(坂本龍馬脱藩の地)  愛媛県西予市

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韮ヶ峠(坂本龍馬脱藩の地)  愛媛県西予市

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』による解説は、次のとおり。

韮ヶ峠

韮ヶ峠 (にらがとうげ)は、愛媛県西予市と高知県高岡郡檮原町との市町境にある日本の峠である。

概 要  韮ヶ峠は愛媛・高知県境に位置し、愛媛県側は愛媛県道36号野村柳谷線の支線、高知県側は高知県道379号韮ヶ峠文丸線になっている。それとは別に大規模林道が大野ヶ原から檮原町方面へ伸びている[1]。四国カルストの中に位置している。
文久2年(1862年)3月24日坂本龍馬が伊予国境を越えた脱藩の地としても知られており、石碑などが現地に建っている。

河後森城跡  愛媛県北宇和郡松野町

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河後森城跡  愛媛県北宇和郡松野町

国の文化財等データベースによる解説は、次のとおり。愛媛県の文化財による解説は省略。

名称: 河後森城跡
ふりがな: かごもりじょうあと
種別1: 史跡
指定年月日: 1997.09.11(平成9.09.11)
指定基準: 二.都城跡、国郡庁跡、城跡、官公庁、戦跡その他政治に関する遺跡
所在都道府県: 愛媛県
所在地(市区町村): 北宇和郡松野町
解説文:
河後森城跡は、伊予と土佐の国境地帯の山間地に位置し、清流四万十川の支流の広見川に臨む、秀麗な山容の独立山塊上に占地する大規模な城郭跡である。中世に黒土郷河原淵領と呼称されたこの地域は、現在の松野町・広見町の大部分および日吉村で構成され、河後森城跡が領域の中心の地位を占めている。
中世の四国南西地域は、南北朝期に西園寺氏の一族が伊予国宇和荘に、応仁の乱中に摂関家の一条氏が土佐国幡多荘に下向土着し、ともに戦国期に小大名化するという特殊な地域史を共有している。黒土郷河原淵領の領主の渡邊氏の出自は不明だが、暦応3年(1340)の大洲清谷寺諸旦那譲状に道後河野氏、宇和西園寺氏とともに河原淵殿一族の記載があり、このころにはすでに一定の勢力を保持していたと考えられる。
16世紀中ごろの河後森城主の式部小輔教忠は土佐の一条氏からの入嗣であり、一条氏の勢力が西園寺氏を圧迫していたことが知られる。近世文書の「宇和旧記」によれば、渡邊教忠は西園寺15将と呼ばれた国人領主の中で、最も大身の16,500石を領したという。近世の編纂物である「清良記」の記載によれば、天文から天正期にかけてこの地域一帯では一条氏と長宗我部氏の合戦が繰り返され、天正5年(1577)には渡邊教忠も長宗我部氏に降り、家臣の芝源三郎によって河後森城主の地位を追われた。同13年、豊臣氏の四国討伐により長宗我部氏は敗れ、宇和郡は小早川領に組み入れられた。同15年ころには戸田氏、文禄3年(1594)ころには藤堂氏と頻繁に豊臣系大名が入れ替わった。宇和島城築城の際に藤堂高虎は、河後森城の天守を月見櫓として移築したと伝えている。慶長13年(1608)には富田氏、同19年には伊達秀宗が宇和島城に入った。河後森城には各大名の有力家臣が城代として配され、伊達氏以降は家中で最も大身の付家老の桑折中務が7,000石を領して河後森に居城した。
河後森城跡は、本城の標高は171メートルで、麓との比高差は88メートルを測り、急峻な山容である。城跡は南側に開く馬蹄形の尾根線上に、東から旧小字地名でいう古城・本城・新城の各地区が展開し、その内側の風呂ヶ谷の谷部に屋敷群が存在する。古城地区は東西約180メートルの範囲で4つの郭を配し、本城との間を大堀切で切断している。本城地区は東西約180メートル、南北約200メートルの範囲に13の郭を配し、中央部に大堀切を設けている。新城地区は古城地区から南側に延びる約170メートルの屋根上に10を超える郭群を配している。いずれも南側の土佐方面の守りを意識した堅固な構えで、古城、本城、新城と城域が順次拡張されていったものと推測される。松野町教育委員会は平成3年度から発掘調査を開始し、各地区からは15世紀から16世紀にかけての貿易陶磁器・備前焼等の豊富な遺物が出土している。本城地区を中心に瓦も出土し、礎石も確認されていることから、瓦葺き建物の存在が推測される。小規模な石垣遺構も検出されており、天正13年以降に豊臣系の築城技術が一部導入された可能性が考えられる。
河後森城跡は、予土国境の境目の城として、戦国期から江戸初期にかけて大規模城郭に発展した過程を示す遺構がきわめて良好に残っている。よって史跡に指定し、その保存を図ろうとするものである。

雪輪の滝  愛媛県宇和島市野川

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雪輪の滝  愛媛県宇和島市野川

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』による解説は、次のとおり。

雪輪の滝

雪輪の滝(ゆきわのたき)は愛媛県宇和島市野川の滑床渓谷にある滝。日本の滝百選に選定されている。
概 要  滑床渓谷の駐車場より遊歩道を約1200メートル上流にある。四万十川支流の目黒川に注ぐ渓流にある。
花崗岩で出来た一枚岩の緩斜面を全長約300メートル、幅約20メートルにわたって流れるナメ滝である。遊歩道より見えている部分は約80メートルである。流れ落ちる水紋が雪の輪の様に見えることから、この名がついた。但し、水量が多いと雪輪が見えない場合がある。
緩斜面であるので滝の中腹より滑って遊ぶことが可能である。

アクセス
JR予土線松丸駅より車で約25分。観光駐車場で下車。
松山自動車道大洲北ICから国道197号、国道381号を通り約90分。無料駐車場あり。
駐車場より滝まで約1200メートル(徒歩約40分)。

八幡神社のイブキ  愛媛県宇和島市伊吹町

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八幡神社のイブキ  愛媛県宇和島市伊吹町

伊吹八幡神社は、JR北宇和島駅の東方近くにある。国の文化財等データベース及び愛媛県の文化財による解説は、次のとおり。

名称: 八幡神社のイブキ
ふりがな: はちまんじんじゃのいぶき
種別1: 天然記念物
指定年月日: 1943.02.19(昭和18.02.19)
指定基準: (一)名木、巨樹、老樹、畸形木、栽培植物の原木、並木、社叢
所在都道府県: 愛媛県
所在地(市区町村): 宇和島市伊吹町
解説文:
二株あり共に雌株にして一は根元周囲5.45メートル、目通幹囲4.35メートル、樹高約25メートル、一は根元周囲5.34メートル、目通幹囲3.93メートル、樹高約25メートル、いぶきの巨樹の一なり。

(愛媛県解説)
八幡神社の社殿前に左右に並んでいる2本のイブキである。葉は針状と鱗片状とが混合している。
向かって右側のイブキは根回り6m、目通り4.35m、樹高は25mもあり、地上4mの所から3本の大枝に分かれている。左側のイブキは根回り5m、目通り3.65m、樹高は23mもあり、下半部に朽ちた部分が見られる。いずれも長大な枝張りを誇っている。
樹齢は約800年ともいわれ、長寿のこの2本の木にあやかって祭礼行事や結婚式も多いという。また伊吹町の町名もこの木に由来している。
この種のイブキ(ヒノキ科)は「ビャクシン」ともいわれ、伊予路では海岸にも多く自生している。

宇和島城  愛媛県宇和島市丸之内

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宇和島城  愛媛県宇和島市丸之内

国の文化財等データベース及び愛媛県の文化財による解説は、次のとおり。

名称: 宇和島城
ふりがな: うわじまじょう
種別1: 史跡
指定年月日: 1937.12.21(昭和12.12.21)
指定基準: 二.都城跡、国郡庁跡、城跡、官公庁、戦跡その他政治に関する遺跡
所在都道府県: 愛媛県
所在地(市区町村): 宇和島市丸之内
解説文:
鶴島城又ハ板島九串城トモス。初メ西園寺氏ノ部將之ニ居リ、文緑四年藤堂高虎受封後慶長元年、工ヲ起シ、數年ニシテ城郭ノ完成セリ。慶長十九年伊達秀宗ノ所領トナリ、寛文二年二代宗利城郭ヲ改修シ、新ニ天守閣ヲ構築シ同五年竣工セリ。翌年十一月更ニ追手門ノ落成ヲ見、共ニ現存シテ昭和九年一月國寳ニ指定セラレタリ。城構ハ丘陵ヲ利用セル平山城ニ屬シ、宇和島灣ニ面セル景勝ノ地ニアリ。丘頂ニ本丸、二ノ丸ヲ構ヘ北麓ニ三ノ丸ヲ設ケタルモノニシテ附近ニ長門丸、藤兵衛丸、西麓ニ代右衛門丸ノ阯アリ。三層ノ天主閣ヲ始メ舊建築ノ礎石、各所ノ石壁、石段、追手門、上リ立門等ヨリ保存セラル

(愛媛県解説)
宇和島城は、宇和島湾にのぞむ標高80m弱の独立丘陵上に築かれた海城で平山城の形態をとる。慶長元年(1596年)、藤堂高虎が宇和郡7万石の統治拠点として、中世城郭「板嶋丸串城」の近世城郭化を図り、慶長6(1601)年に完成。慶長13(1608)年に富田信高、元和元年(1615年)に伊達政宗の長庶子秀宗が入部、明治まで宇和島伊達家9代の居城となる。2代宗利が寛文4(1664)年から7年をかけ、天守や多くの石垣・矢倉を改修。現在遺存するものは概ね寛文改修のものだが、基本的な城構は藤堂期のままとされる。「宇和島城」と改称されたのは伊達家入部以降で、5代村候の頃から「鶴島城」とも呼ばれる。
近代以降市街化により堀は全て埋没、三之丸など総郭約28haが消失、本丸や二之丸
など約10haは昭和12(1937)年に史跡に指定された。建造物では、当時国宝指定の追手門が第2次世界大戦により焼失したが、現存12天守の一つで重要文化財の天主と南側登城口城門の市有形文化財上り立ち門が残っている。

伊方発電所  愛媛県西宇和郡伊方町

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伊方発電所  愛媛県西宇和郡伊方町

三崎港フェリーを降り、佐田岬半島の国道197号を東へ向かう。観光物産センター伊方きらら館の先に発電所の入口道路があった。近くまで下ると物々しい警戒であった。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』による解説は、次のとおり。

伊方発電所

伊方発電所(いかたはつでんしょ)は、愛媛県西宇和郡伊方町にある四国電力の原子力発電所。
概 要  四国最西部、佐田岬半島付け根付近の北側斜面に位置し、瀬戸内海(伊予灘)に面している。四国電力および四国地方唯一の原子力発電所である。国内原発で唯一内海に面する。
状 況  福島第一原子力発電所事故の影響によって既に定期検査を終えた発電機も運転再開の目途が立たないため、全発電機が定期検査に入った2012年(平成24年)1月13日から送電を停止している[1]。
なお、伊方原発は「四国全体の電力の約4割以上をまかなう」と原発PRでされることがあるが、この数値は発電量ベースにて4割のことがあったというだけであり、実際の四国電力の設備容量では、「伊方原発の割合は2割余り」である[2]。

リスク  伊方原発の間近に巨大な活断層である中央構造線があり、将来大地震を引き起こす危険があることが、伊方原発訴訟にて原告から訴えられていた。ただし裁判当時の国内の地震学界では地震の活断層説には否定的な意見が占めており、受け入れられなかった[4]。
なお、最新の地震研究[5]によると中央構造線の伊方原発近くの活動は以下のように評価されている。

石鎚山脈北縁西部の川上断層から伊予灘の佐田岬北西沖に至る区間が活動すると、マグニチュード8.0程度もしくはそれ以上の地震が発生すると推定され、その際に2−3m程度の右横ずれが生じる可能性がある。
(中略)
石鎚山脈北縁西部の川上断層から伊予灘の佐田岬北西沖に至る区間は、今後30年の間に地震が発生する可能性が、我が国の主な活断層の中ではやや高いグループに属することになる。
— 地震調査研究推進本部 地震調査委員会, 中央構造線断層帯(金剛山地東縁−伊予灘)の長期評価(一部改訂)について 平成23年2月18日

三崎のアコウ  愛媛県西宇和郡伊方町

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三崎のアコウ  愛媛県西宇和郡伊方町

佐田岬半島の伊方町三崎港フェリーターミナルのすぐ近くに生える。国の文化財等データベース及び愛媛県の文化財による解説は、次のとおり。

名称: 三崎のアコウ
ふりがな: みさきのあこう
種別1: 天然記念物
指定年月日: 1921.03.03(大正10.03.03)
指定基準: (十)著しい植物分布の限界地
所在都道府県: 愛媛県
所在地(市区町村): 西宇和郡伊方町
解説文:
天然紀念物調査報告(植物之部)第二輯 四〇頁 参照 天然紀念物解説 二七五頁 本自生地ニハ六株ノあこう Ticus Wightiana Wall. アリ内四株ハ海ニ臨ミ疊積セル岩石ノ間ニ根ヲ下シ氣根ハ垂レテ岩ヲ被フ、他ノ二株ハ前者ト稍〃離レテ畑地ヲナス 海岸ノ傾斜地ニ在リ、皆發育完全ニシテ周圍一丈ニ及ブ

(愛媛県解説)
アコウ樹は、熱帯または暖地性のクワ科植物であり、海岸近くに自生することが多い。幹の周囲から気根を出し、葉は楕円形で先端は鋭尖形、基部は円形である。春に一度落葉するが、すぐ再び新葉を出す。
植物生態学上、その限界地を保存することはきわめて重要なこととされ、自生地の北限として、また巨木として4株(指定時7株であったが枯死)が指定されている。
海岸の人家に接して3株の大木があり、この地をアコギ(アコウの地方名)と呼んでいることでも、アコウがこの地に古くからあったことがわかる。
4株のうち最大のものは根回り7.5m、目通り6m、樹高12mであるこのいずれも発育はきわめて盛んであり、この地がアコウの生育に適していることを示している。 

佐田岬半島  愛媛県西宇和郡伊方町

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佐田岬半島  愛媛県西宇和郡伊方町

2012年7月23日から8月2日まで四国の旅へ。全県のつもりが計画の半分、愛媛県と香川県のみ主に回り、台風接近の悪天候となり帰ってきた。知らない土地では、目的地を探すのに時間がかかった。後は次回に期す。

大分県佐賀関港から愛媛県三崎港へフェリーで渡る。4〜6枚目は、帰りの八幡浜ー別府航路からのの風景。ウィキペディア フリー百科事典による説明は、次のとおり。

佐田岬半島

佐田岬半島(さだみさきはんとう)は、四国の最も西に位置し、愛媛県伊方町にある半島。三崎半島とよばれることもある。八幡浜港付近から西南西へ、中央構造線(メディアンライン)に沿い長さ約40kmにわたって直線的に突き出しており、北の瀬戸内海(伊予灘)と南の宇和海を隔てている。先端には佐田岬があり、瀬戸内海国立公園に指定、半島腹部は佐田岬半島宇和海県立自然公園に指定されている。国道197号の佐田岬メロディーラインは、山桜の名所。日本一細長い半島としても知られる。