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大田南畝(蜀山人)の茂木北浦紀行 (2)  文化2年(1805)

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大田南畝(蜀山人)の茂木北浦紀行 (2)  文化2年(1805)

本ブログ前の記事「大田南畝(蜀山人)の烽火山歌碑と従者増田長蔵の墓碑銘」に続き、森岡久元氏の小説『崎陽忘じがたく—長崎の大田南畝』(1999年澪標発行)から、大田南畝(蜀山人)の茂木北浦への珍しい紀行の部分を紹介する。138〜142頁の記述は次のとおり。
もぎ歴史懇談会の参考としてほしい。

大田南畝は、長崎奉行支配勘定役として、江戸から赴任していた。茂木北浦の道筋や状景がのどかに描かれている。紀行は、文化2年(1805)4月のことである。
(2)に記す「にぎたづの浦」は、「北浦」にかけて詠じているようなおもしろい歌であろう。
写真は、現在の茂木港航空写真(左が茂木、右が北浦海岸)。茂木玉台寺上からの遠望(北浦は弁天崎左奥の入江となるが、全体は写っていない)。茂木観音崎(注連が崎)の月見台。裳着(茂木)神社の由緒と石段。

文化2年(1805)
四月五日  前の記事(1)の続き

先日は蘭館のカピタンが茂木で海中に入って遊んだと聞いたが、いまも子供らが素裸で岩場のあたりで遊んでいる。
「暖国だけに水遊びの時季も早いことだ。李囿さんは泳ぎは出来るかな。わしも子供の時分は水練をしたよ」
「それは意外なことです」
「御徒づとめの頃は城のお堀で水練の披露もあってな…」
石の鳥居があった。その社について、南畝の記録には、
「石の鳥居の額をあおぐに、八武者大権現とあり。石磴(石段)を上りて社の前にぬかづく。いかなる神という事をしらず」とある。
ものゝ本によると神功皇后が三韓征伐から凱旋の途次、この浦に仮泊せられたとき、この場所で武者たちと夜着を共にして臥せられたので「群着の浦」と呼ばれたという。後にその音が転訛し、文字を変えて茂木の浦となったとある。

まだ日は長くいまだ黄昏にも及ばぬながら、ゆるゆるともとの道を長崎へ帰ることにした。帰り道は上り坂がいくつもあり、三人は時々足をとめては汗をふいた。
「あの天草灘の海の色を眺めたら、鰹が食べたくなったよ。東都にあれば初鰹のころだ」
「今朝、市で鰹ば見ましたよ。あれを一尾もとめ南畝先生のもとで鱠につくって酒ばくむとすべし。な、どがんな李囿さん」と柳屋。
「そーりゃ、けっこなことで」と李囿が云う。
三人は石の多い山道を田上村へと曲って行った。その時、後から駕籠が五挺、南畝たちに追いついた。女中や下僕が五、六人従っている。南畝たちより足が早く、軽く会釈しながら追いこしてゆく。
「北浦遊山の一行だな」
と思ったところで、最後にゆく駕籠が、中の女客の声でとめられた。駕籠かきが巻きあげた垂れの内側に座っている女は薬師寺百合であった。

中間の平助が鰹を鱠につくった。柳屋新兵衛、中村李囿と岩原官舎の部屋で初鰹を食う。
にぎたづの浦よりをちをつるかつほ
またの卯月のいつかいふべき
鰹を食いながら歌を詠んでみたが、もの足りぬ気分がある。
南畝先生がご一緒なら、いっそたのしか女の酒盛りになったとに、艶然と笑ったお百合の顔を思い出す。
狂歌を詠んだ。
鍋のふた明けてくやしく酔ぬるは
浦嶋が子がつるかつほかな
南畝はこの狂歌の通り鰹を鍋にして食べたのであろうか。くやしい気分で酔ぬるとは何の故にか。 (第二章 終)

大田南畝(蜀山人)の茂木北浦紀行 (1)  文化2年(1805)

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大田南畝(蜀山人)の茂木北浦紀行 (1)  文化2年(1805)

本ブログ前の記事「大田南畝(蜀山人)の烽火山歌碑と従者増田長蔵の墓碑銘」に続き、森岡久元氏の小説『崎陽忘じがたく—長崎の大田南畝』(1999年澪標発行)から、大田南畝(蜀山人)の茂木北浦への珍しい紀行の部分を紹介する。138〜142頁の記述は次のとおり。
もぎ歴史懇談会の参考としてほしい。

大田南畝は、長崎奉行支配勘定役として、江戸から赴任していた。茂木北浦の道筋や状景がのどかに描かれている。紀行は、文化2年(1805)4月のことである。
(2)に記す「にぎたづの浦」は、「北浦」にかけて詠じているようなおもしろい歌であろう。
茂木街道変遷図は、小島町正覚寺前の説明板から。柳山石橋の長崎大水害流失前写真はもぎ歴史懇談会資料から。遠望は茂木若菜川河口付近。北浦は弁天崎左奥の入江となるが、全体は写っていない。

文化2年(1805)

四月五日、俵物庫の立会を終えてから、用達方の中村李囿、唐通詞柳屋新兵衛とつれだって、かねて約束の北浦の藤を見物にでかけた。
道は鍛冶屋町崇福寺の下を南に下り、愛宕山の山すそをめぐって茂木へと向う。途中の谷川沿いの道を行くと、水の音、山のたゝずまいは木曽路を行く心地がした。やがて田上という村へ入る。右に古寺がある。葷酒山門に入るを許さずと石表があるので禅刹なるべし。桜の古木があり、「古木は朽て、根より六ツ七ツばかり出し枝のかげ多くさしかわし、青葉しげれる枝に余花の二ふさ三ふさ残りたる、さすがに春の名残りなるべし」
書院の庭によど川つゝじ、紅紫椿などが咲き乱れている。
「神傷山行深、愁破崖寺古の漢詩のふぜいがあるな」と南畝が云った。
この禅寺の裏に百六歳になる老女が住んでいると柳屋が云うので、その農家をたずねてみた。しかし家人から、その媼は近頃亡くなったと聞いた。

「この田上村のとなりに十料村というところばあるとです。今は茂木村も天領になっちょるばってん、以前は島原の御領所にて、その村が天領と島原御領所の境にあたって、つまり御料と御料、五料と五料で十料と名のついたとですよ」と柳屋が話す。
「面白いな。江戸にも後藤と後藤の間にある橋を五斗と五斗の音をかりて、一石橋と呼ぶのがあるが、それと同日の談だな」と南畝が応じた。
田上村を出て、再び谷川を右に見ながら南へ行く。やがてその川にかゝる石橋を東へ進むと天草灘の海面がひらけてきた。海岸へと下れば入海となったあたりは潮の干潟が広がって、マテという貝を拾う人達の姿がみえた。北浦である。南畝の足で半とき足らずで着いた。
その藤の棚は海岸沿いの農家の庭先にあり、根は岸辺から生え出ている。樹齢はかなりのものに見えた。花の藤色はもはや色あせて、盛り時は過ぎたらしい。藤棚の岸から干潟に下りて潮干狩の人影にまじって、めずらしい小石や貝を拾った。
「孫の鎌太郎が居れば喜んではしゃいだことであろう」と云うと、
「大田様は四人のお孫のじじ様でおられたとですね」と中村李囿が云った。

「向うの岸が茂木の浦かな」
「はい。あの高台が注連が崎で、上に月見の台ばあって、八月十六日の月はひとしおの観月の勝地ですばい。あれに登りますとな天草列島から遠く東に島原半島の望めるとです」
藤棚の陰に戻って農家で水をもとめていると、その横の樹陰に毛氈を敷いて、「女あまた酔しれて、三線のことかきならし、かしがましきまで、歌うたう」一団がある。中村李囿が、あれは長崎の富裕な商家の妻女たちの遊山だと云った。みれば数挺の駕籠もあり、下僕や婢がかいがいしく酒肴の世話をしている。
「長崎の女達ののびやかなる遊びっぷりを見れば江戸の妻女どもの羨むことうけあいだ」
と云ってから、ふとあの女達の中に艶に酔を発した薬師寺百合の顔があるのではないかと思って、何をわしは考えていることかと、柳屋と李囿のあとについて岸伝いに茂木の浦へと向う。

以下、(2)へ続く。

大田南畝(蜀山人)の烽火山歌碑と従者増田長蔵の墓

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大田南畝(蜀山人)の烽火山歌碑と従者増田長蔵の墓碑銘

「わくわく亭雑記」は、昭和30年代の少年たちの生活ぶりを書いた尾道小説から、江戸時代の狂歌師や文人たちの伝記小説までを書いている著名な小説家・森岡久元氏のブログである。
森岡氏は、昭和15年(1940)生まれ。4歳から18歳まで尾道で生活した。現在は東京都練馬区在住。「姫路文学」「別冊関学文芸」「酩酊船」各同人。
大田南畝(蜀山人)の研究もされている。長崎関係では、小説『崎陽忘じがたく—長崎の大田南畝』を1999年澪標から発行された。

大田南畝は、文化元年(1804)年9月、56歳のとき、長崎奉行支配勘定役へ1年間の出役を命じられ、江戸から赴任した。南畝はその号で、本名は大田覃、通称を直次郎。狂歌名の四方赤良、蜀山人として知られる。
江戸期の超一流文人であり、長崎でもさまざまな足跡を残されている。長崎市東部の山、烽火山(標高426.0m)山頂の長崎県指定史跡かま跡近くに、山頂からの雄大な景色を詠んだ「南畝石」と呼ばれる大田南畝の漢詩の石碑がある。
山頂広場の登山道に対し、石碑は後ろ向きに立っているため、これまでほとんど人に知られていなかったが、私は長崎市史の記録から、平成19年1月に見つけたいきさつがあった。

私と森岡氏との関係は、森岡氏へこのとき烽火山の歌碑資料を何かお持ちではないかと照会したのに始まり、現在もブログ上で交流している。最近、同氏から自著名入りの本『崎陽忘じがたく—長崎の大田南畝』を「恵存」として寄贈を受けた。
74頁の記述は次のとおり。文化2年(1805)大田南畝は57歳の元旦を長崎奉行所の岩原官舎で迎えた。

「五日は奉行所役人の新年会があった。六日は舟で飽之浦へゆき、山越えして福田浦へ出て岩洞を見物した。翌七日は烽火山へ登った。寛永年間まで山頂に烽火台が築かれていて、その遺址があった。そこから長崎の市街が眼下に一望された。
滄海の春雲紫瀾を捲く、崎陽の囂市一彈丸、西のかた五島に連なり南(東?)は天草、烽火山頭目を極めて見る。(囂市はさわがしい市街)
山をくだり高岳院にて酒食。「薄暮帰酔いたし候」と日記にある」

私にとっては、大田南畝が烽火山に登頂した正しい日がわかり、本ブログ名勝図絵の風景や古写真考で紹介した福田の岩洞まで見物していたとは、うれしい記述があった貴重な本となった。

さて次は、同じ本において別に目新しい記述を見つけた。145〜146頁の記述は次のとおり。大田南畝の従者の一人、増田長蔵の墓碑銘についてである。

「文化二(1805)年の陰暦四月十日、大田南畝の従者増田長蔵が病死した。…行年三十歳、伊豆の人であった。当時多かった脚気によるものではなかったか。…
南畝は自分が長崎着任時に重篤な病気にかかり、なんとか命びろいをしたが、いま長蔵が身がわりに立ったのではないかと、ひとしお哀れに思われて、彼の葬儀に出費を惜しまなかった。
葬儀は立山奉行所と岩原川をはさんで隣接する禅寺永昌寺でとり行った。奉行所からは勘定方、普請役、用達方、筆者たちが裃を着して参列した。墓地は寺の後背の山中にあり、崩れるおそれのないよろしき所を選んで埋葬した。墓石の背面に行書で南畝が書いた墓碑銘がいれられた」

永昌寺後背の山中の墓地に、増田長蔵の墓が残ってないか。「墓石の背面に行書で南畝が書いた墓碑銘がいれられた」とあるから、墓碑銘の存在を確かめたかった。
長崎市玉園町の永昌寺は、正保3年(1646)、晧臺寺伝法一祖一庭融頓が、法嗣の洲山泉益と共に創立した寺院。寺地は平戸道喜の別荘だったが、その妻が喜捨した。鎖国時代、長崎奉行所の遠見番所が置かれた。
そんな広い墓地ではない。本堂左の下段からあるが、中段部分に聖福寺領を一部挟み、上段の山近くも永昌寺の墓地である。

原爆の被害はここまで及ばなかったので、山中すなわち上段墓地あたりに、増田長蔵の墓が残っていて良さそうなものだが、見当たらなかった。古い「増田家」の墓が、状況に似た高台の場所に1区画あった。上段の方の阿蘭陀通詞西家墓地のまだ上となる。
ただ、刻まれた氏名は、明治36年4月没の完全な別人の墓。明治44年作成の寺墓地図で確かめたが、番地では142番2。所有者は大村の人。戦後に142番の荒木家から分筆された墓地だった。付近は新旧の墓が混ざった場所となっている。

寺の先代住職が2年前亡くなり、墓地の事情がわからなくなっている。せっかく南畝が書いた墓碑銘があった墓なのに、従者増田長蔵自身はそれほど有名人ではなかったため、墓が撤去された可能性がある。出身地伊豆へ移されたこともあるかも知れない。
まことに惜しい墓碑銘の結末となった。どなたか事情を知る人、または別の記録がないものだろうか。

最後は、森岡久元氏の新刊本『尾道物語・旅愁編』の案内。尾道は純情編、幻想編から3編目。人生というドラマの深淵を探る集玉6作品の短編集。紀伊国屋書店などで発売している。

(弁 解)
2012年9月13日、きょうパソコン操作を誤り、書庫「烽火山のかま跡・番所道・南畝石」を削除してしまった。全ての記事や画像が消えたため、これから数日、主な記事の復元作業に入る。
記事の再掲となって見苦しいが、しばらく付き合いください。

長崎の西空の夕日  12− 8

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長崎の西空の夕日  12− 8

長崎市南部の団地、わが家から見た夕日。電柱と電線は邪魔なので近くにも出かける。夕日シリーズは以降も続く。

写真  1      2012年 8月 2日の19時13分頃  佐賀平野の夕日
写真  2〜 5  2012年 8月 3日の19時24分頃
写真  6〜 8  2012年 8月16日の19時12分頃
写真  9〜10  2012年 8月17日の 5時50分頃  朝明けの雲
写真 11〜13  2012年 8月18日の18時59分頃

多良山系の大原越から鳥甲山へ  2012年9月

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多良山系の大原越から鳥甲山へ  2012年9月

2012年9月2日(日)晴。多良山系の大原越から鳥甲山(標高769.47m)へ。みさき道歩会の例会。参加8人。
南川内しゃくなげ公園8:25—とりかぶと生活科学研究所8:40—林道分岐9:16—大原越9:45—摩利支天宮10:28—鳥甲山11:00 昼食 12:00—南西尾根—林道出合12:25—二の鳥居12:39—南川内しゃくなげ公園12:53(徒歩距離 約8km)

多良山系の全山を小分けして縦走中。各登下山路の現況確認がある。野岳湖の郡岳から始めた縦走調査は、2年かかって今回の鳥甲山が最後。一部省略区間は、後日考えたい。
長崎を車2台で7:30発。南川内しゃくなげ公園に駐車、8:25から歩き出す。
「とりかぶと生活科学研究所・自然学校」は、自然に親しむため長崎市内民間会社社長の篤志によって、20年がかりで整備された施設とのこと。

林道をつめて行き大原越に上がったが、赤い桁橋先の植林地で左の登山ルートへ登るところに道標がなく間違いやすい。林道左側木立のテープ巻きに注意。ここが入口である。
大原越9:45着。摩利支天宮と鳥甲山への登りにかかる。雑木林内の道で、経ヶ岳がかろうじて見える場所が、2か所しかなかった。鳥甲山手前の展望岩場は、にせピーク。三角点がある山頂は、まだ少し先である。展望はないが、山頂で早めの昼食。

夏場のため楽なコースを組んでいた。午後は下るだけ。南西尾根を下り林道と出合う。林道で寸断されたが、昔の国体コースはこの尾根を萱瀬の田下まで下った。先を確認したいが、歩く人はいなく荒れているだろう。
林道を左へ下って行くと、正規なルートである二の鳥居前登山口に出る。南川内しゃくなげ公園へ12:53戻った。東屋でコーヒーを沸かし、ゆったりした時間を過ごし、長崎へ帰った。
宮さんの参加ブログ記事は、 http://blogs.yahoo.co.jp/khmtg856/30040526.html

山の田貯水池と田代川の石橋  佐世保市桜木町・田代町

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山の田貯水池と田代川の石橋  佐世保市桜木町・田代町

山の田貯水池などの「九州の近代土木遺産」国土交通省九州地方整備局ホームページによる説明は、次のとおり。
本ブログ次も参照。  https://misakimichi.com/archives/1239

山の田浄水場群(やまのたじょうすいじょうぐん)
佐世保市  第一砂倉庫  所在 長崎県佐世保市
文化財等 選奨土木遺産  ランク A  管理者 佐世保市

日露戦争直後、佐世保市の海軍施設の増強に伴い、水道施設の拡張が必要となり建設された山の田貯水池(明治41年完成)が山の田浄水場の始まりである。以来、数回の拡張工事を経て、様々な施設が設けられた。存在そのものが珍しい砂倉庫や浮彫を多用し装飾的な(旧)量水池上屋、ゴシック風の第2配水池入口など、これらの構造物は明治期、大正期の建物の様式を残しており意匠的な工夫が見られる。
佐世保市の水需要を支えてきた施設群であり、貴重な遺産であることは言うまでもないが、その施設群の一部が今なお現役で活躍していることに賞賛を送りたい。

山の田自然歩道に残るアーチ式石橋(写真4)を前の記事に載せたところ、「昨日行ってきましたが、山の田自然歩道にはもう一つ、アーチ式の石橋がありますよね。途中から、別の道に入り込んだ先です。 2012/8/26(日) 午前 9:06 [ 溶岩君 ] 」とコメントがあった。
私は現地は今度が初めてで、この石橋を知らない。石橋研究の末永先生(吉井町)へ念のためお知らせした。次のとおり返信をすぐもらった。

「昨日(8月29日)、山の田自然歩道へ行ってきました。『別の道』というのはかつて貯水池ができる前の、田代町から桜木町へ通う道だと思います。5年ほど前に私が得ていた情報はおそらくこの橋のことでした。…
添付している写真(最後の画像)は、このむかしの道に架かっている橋です。(田代橋)。アーチ状にはなっていますが、基礎の石垣の形状や拱矢比、親柱(コンクリート)から判断すると、石造アーチをコンクリートで覆ったとは考えにくいです。RCアーチ橋だと判断しました。

私が以前に得た情報では、石橋はまだ上流側にあるようです。インターネットの地図を拡大すると、この田代橋の更に上流に2つほどの橋がかかっています。石橋は次の橋ではないかと思っていますが、前記したように前へ進める状況ではありません。
したがって調査は10月以降になるかと思います。ひょっとしたら私の判断の誤りもあるかと思いますので、情報を待っています」

コメントした[ 溶岩君 ]は、連絡先不明。詳細が聞き出せないので、私もきのう8月31日、「田代橋」を確認のため訪ねた。山の田自然歩道の中ほど、②の橋の手前に、「田代橋」まで歩ける分岐道があり、田代川の橋まで10分くらいだった。
地形図に示した③の場所で、コメントがあった橋に間違いないだろう。親柱に「田代橋」「大正十四年四月」とあった。ただし、残念なことにコンクリート製の「RCアーチ橋」だった(写真8,9)。

橋を渡ると、道が荒れ判然としなくなるが、道脇の要所に低い石柱が立ち、道筋を示す。山腹を左側へ進み、いったん古ショベルカーを放置した林道終点に出、先に小沢があるが、石橋はない。竹林の急斜面を登ると、下から上がってきた烏帽子岳への登山道路へ出た。田代町の民家下だった。
山の田貯水池堰堤右の場外が、「桜の里公園」。自然歩道の入口である。一万図が掲示され、これによると田代川には3つの橋(②③④)が表示されている。
「田代橋」③がわかったので、その上流の④を調べることとした。

登山道路を少し進むと、右下の谷間へ下るコンクリート舗装の道路がある(太陽商事貸物件の看板が立つ)。途中で舗装は切れ廃道となっているが、広い砂利道である。
かつて谷間に住家が3軒ほどあったためだが、倒壊している。田代川に出たが、架かっている橋はコンクリートの分厚い一枚橋(写真13)だった。付近の川はどこも全面改修されている。
田代川の現況は、以上のとおり。せっかくの情報だったが、[ 溶岩君 ]や末永先生、石橋HP贄田さんへ報告します。ご足労かけました。できたら再確認をお願いしたい。

豊後森機関庫  大分県玖珠郡玖珠町

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豊後森機関庫  大分県玖珠郡玖珠町

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』による解説は、次のとおり。国指定文化財等データベースには、まだ掲載されていない。

豊後森機関庫

豊後森機関庫(ぶんごもりきかんこ)は、大分県玖珠郡玖珠町の国鉄(現JR九州)久大本線豊後森駅の東側にあった機関庫である。2009年(平成21年)2月6日に「旧豊後森機関区の関連遺産」として扇形機関庫と転車台とが近代化産業遺産に認定されている。2012年(平成24年)、国の登録有形文化財に登録された。

概 要
大分県玖珠郡玖珠町の豊後森駅の東側に、1934年(昭和9年)の久大線全線開通とともに完成。同時に、豊後森機関区も発足した。鉄筋コンクリート造で1,785m²の面積を有し、最盛時には蒸気機関車21台が所属する大規模な機関庫であった。
太平洋戦争中には、米軍機の機銃掃射によって職員3人が死亡する被害を受け、機関庫の壁面にはその際の弾痕が残っている。
蒸気機関車には前後の区別があったため、方向転換のために大規模な扇形機関庫や転車台が必要であったが、ディーゼル機関車やディーゼルカーへの移行が進んだことにともない、1970年(昭和45年)に廃止された。

その後、2001年(平成13年)に地元の有志によって保存委員会が結成され、登録有形文化財の登録を受けるべく活動した。その一環として行われた「一万人の署名運動」では、目標を上回る約23,000人分の署名が集まった。その結果、2012年に登録された。
2006年(平成18年)3月には、玖珠町が旧機関庫と敷地(10,200m²)を3,466万円でJR九州から買収。2008年(平成20年)には、鉄道記念公園整備計画を策定しており、将来的には鉄道記念公園として整備する計画である。

佐世保市に残るアーチ式石橋 (4)

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佐世保市に残るアーチ式石橋 (4)

佐世保市(世知原町・吉井町・宇久町を除く)に残るアーチ式石橋10橋を、先に紹介していた。
https://misakimichi.com/archives/793 ほか。
その後2011年、別に2橋が見つかっているので、きのう確認してきた。HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」によるデータは、次のとおり。

写 真  1〜  8  山の田自然歩道の石橋
佐世保市桜木町
橋幅:3.3m  径間:1.8m  拱矢:0.9m
環厚:要石45cm  輪石:11列
基礎H:左岸下流側80cm、上流側44cm  右岸下流側70cm、上流側44cm

東側(山の田貯水池奥)からアクセスしました。800mくらい進んだところにそれらしき場所。
上流側は一見すると桁橋ですが、中は石造アーチ橋。
内部は自然石に近い荒い加工ながら、列はきちんと整っています。
川床には敷石。すぐ下流は山の田貯水池の排水口。

写 真  9〜 16  野中町の石橋
佐世保市野中町
橋幅:2.15m  径間:1.6m  拱矢:0.8m
環厚:要石35cm  輪石:7列
基礎部H:0.49m
架設:明治38年(1905)

MR野中駅の佐世保側約60m。目印は旧国道の線路側に露出した壁石のプレート。
「明治三十八年三月竣工」
下流側から潜り込み、桁橋の奥に石造アーチ橋。奥はMR西九州線のRC橋梁。
末永さんのコメント「このような輪石の削り方が長崎県の橋にあったことに仰天。まるで京都の石橋のようだ。しかしなぜこの作り方が広がらなかったのか。少なくとも県北で見ることはできない。」
長崎縣技師 東島權次郎 設計  長崎縣屬 松本松之丞  長崎縣 工手 木村廣楠 董工
上記HPも参照。  http://5.travel-way.net/~niemon/nagasaki/sasebosi/hasi/nonaka.html

佐世保の弓張岳から将冠岳縦走  2012年8月

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佐世保の弓張岳から将冠岳縦走  2012年8月

2012年8月19日(日)晴。佐世保の弓張岳(標高364m)から将冠岳(標高445.1m)縦走。参加6人。みさき道歩会の例会。長崎を車1台で7:30出発。
弓張岳展望台9:30—但馬岳—但馬越10:14—但馬神社10:26—反射塔10:43—将冠岳11:45(昼食)12:15—参道登山口12:36—車道で弓張岳展望台へ戻る13:25(徒歩距離 約7km)

西海橋パールラインなど通り、鹿子前から弓張岳へ登山道路を上り、展望台駐車場へ車を置く。弓張岳は西海国立公園の有名な展望台。市街地と佐世保港、九十九島、西海を一望できる。砲台跡や市民の森の公園から縦走を開始する。

尾根沿いに木立の中に縦走路があり、アップダウンで但馬越や但馬神社、九電反射塔をなんなく通過。将冠岳への最後の登りは、鞍部三叉路から軍用道路跡のようなジグザクな林道が続き、黒姫神社の鳥居まで着くと、すぐ上が将冠岳山頂だった。
岩のある山頂。展望がやっと広けるが、弓張岳から相の浦火力発電所方面だけだった。

昼食後、参道登山口の方へ下る。横尾町から上がってきた車道で、「金乃比羅神社」の赤鳥居がある。帰りはこの車道により弓張岳へ戻る。九州自然歩道の標識がある所から木道の坂道を上がると、弓張岳展望台の駐車場へ出た。

後ろの写真は、山の田貯水池自然歩道でアーチ式石橋を確認(別記事とする)後、瀬戸越町の名所「眼鏡岩」を見学に行った。海食洞穴の隆起。自然にできた見事な造形だろう。
眼鏡岩は、本ブログ次を参照。 https://misakimichi.com/archives/773

高知城跡  高知県高知市丸ノ内

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高知城跡  高知県高知市丸ノ内

国指定文化財等データベースによる解説は、次のとおり。

名称: 高知城跡
ふりがな: こうちじょうあと
種別1: 史跡
指定年月日: 1959.06.18(昭和34.06.18)
追加年月日: 2007.07.26(平成19.07.26)
指定基準: 二.都城跡、国郡庁跡、城跡、官公庁、戦跡その他政治に関する遺跡
所在都道府県: 高知県
所在地(市区町村): 高知市丸ノ内
解説文:
慶長5年山内一豊は土佐国に封ぜられ、翌6年1月掛川城から浦戸城に移ったが、大高坂山の地を選んで築城することとなり、9月鍬初を行い、同8年8月入城した。城の成ったのは子忠義のとき、同16年頃と思われる。
大高坂山は、南に鏡川が、北に江ノ口川がそれぞれ東流する間に挾まれた平地中に屹立する独立丘陵であって、南北朝時代には大高坂松王丸が、降って天正年間には長曽我部氏もここに拠ったことがあり、要地であったことがうかがわれる。
最高所を本丸とし、その北に通路を兼ねた空堀を隔てて稍々低く2の丸を配し、2の丸の東に一段低く3の丸を置く。本丸、2の丸の西から北をめぐり、3の丸の東にわたって獅の段や帯郭状等の平地を連ねている。城壁はすべて石垣をもって固められ、大手口は南東麓に東に向って開き、搦手口は西麓に位する。堀は山裾をめぐって北方江ノ口川の邊に達していたが、いま追手門から南麓居館跡をめぐってその面影をとどめている。
規模必ずしも雄大と称すべきものではないが、その郭、通路等の配置は巧みで、要を得、就中詰門を構えた本丸、2の丸間の通路の設計はひろく賞讃されているところである。
もとより変改のあともあるが、縄張は略々全容をとどめ、天守を始め、本丸書院、詰門、追手門等建物も多く、近世城郭の遺構として、学術上貴重である。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』による解説は、次のとおり。

高知城
高知城(こうちじょう、Kōchi Castle, Kōchi-jo)は、高知県高知市(土佐国土佐郡高知)にあった城。別名、鷹城(たかじょう)。
江戸時代、土佐藩の藩庁がおかれた。江戸時代に建造された天守や追手門等が現存し、城跡は国の史跡に指定されている。日本100名城に選定されている。

概 要
高知市のある高知平野のほぼ中心に位置する大高坂山(標高44.4m)上に築かれた、梯郭式平山城。山の南を流れる鏡川、北の江の口川をそれぞれ外堀として利用している。

戦国時代以前には大高坂山城(おおたかさかやまじょう/おおたかさやま-)[1]または大高坂城と呼ばれる城が築かれていた。現在見られる城は、江戸時代初期に、土佐藩初代藩主・山内一豊によって着工され、2代忠義の時代に完成し、土佐藩庁が置かれた。4層6階の天守は、一豊の前任地であった掛川城の天守を模したといわれている。一豊により河中山城(こうちやまじょう)と名付けられたが、高智山城と名を変えたのち、現在の城名となった。

高知城は本丸の建物が完全に残る唯一の城として知られている。明治6年(1873年)に発布された廃城令や、第二次大戦による空襲を逃れ、天守・御殿・追手門など15棟の建造物が現存し、国の重要文化財に指定されている。現在これらは高知県の所有物となっている。また、この15棟の現存建造物に加えて、土佐山内家宝物資料館に丑寅櫓の一部であると伝わる部材が収蔵されている。

城全域は高知公園として開放されており、本丸御殿・天守は懐徳館という資料館として利用されている。城の周辺には、高知市役所、高知県庁、地方裁判所、地方検察庁などの行政機関や司法機関が立ち並び高知県の行政の中心地となっている(県庁舎のみ実質的には公園内にある)。
また、城内には山内一豊と妻・千代(見性院)、板垣退助の銅像が立つ。

長崎への帰路は、須崎市から国道381号などにより愛媛県八幡浜港へ出て、別府港へフェリーで渡った。