大田南畝(蜀山人)の茂木北浦紀行 (1) 文化2年(1805)
本ブログ前の記事「大田南畝(蜀山人)の烽火山歌碑と従者増田長蔵の墓碑銘」に続き、森岡久元氏の小説『崎陽忘じがたく—長崎の大田南畝』(1999年澪標発行)から、大田南畝(蜀山人)の茂木北浦への珍しい紀行の部分を紹介する。138〜142頁の記述は次のとおり。
もぎ歴史懇談会の参考としてほしい。
大田南畝は、長崎奉行支配勘定役として、江戸から赴任していた。茂木北浦の道筋や状景がのどかに描かれている。紀行は、文化2年(1805)4月のことである。
(2)に記す「にぎたづの浦」は、「北浦」にかけて詠じているようなおもしろい歌であろう。
茂木街道変遷図は、小島町正覚寺前の説明板から。柳山石橋の長崎大水害流失前写真はもぎ歴史懇談会資料から。遠望は茂木若菜川河口付近。北浦は弁天崎左奥の入江となるが、全体は写っていない。
文化2年(1805)
四月五日、俵物庫の立会を終えてから、用達方の中村李囿、唐通詞柳屋新兵衛とつれだって、かねて約束の北浦の藤を見物にでかけた。
道は鍛冶屋町崇福寺の下を南に下り、愛宕山の山すそをめぐって茂木へと向う。途中の谷川沿いの道を行くと、水の音、山のたゝずまいは木曽路を行く心地がした。やがて田上という村へ入る。右に古寺がある。葷酒山門に入るを許さずと石表があるので禅刹なるべし。桜の古木があり、「古木は朽て、根より六ツ七ツばかり出し枝のかげ多くさしかわし、青葉しげれる枝に余花の二ふさ三ふさ残りたる、さすがに春の名残りなるべし」
書院の庭によど川つゝじ、紅紫椿などが咲き乱れている。
「神傷山行深、愁破崖寺古の漢詩のふぜいがあるな」と南畝が云った。
この禅寺の裏に百六歳になる老女が住んでいると柳屋が云うので、その農家をたずねてみた。しかし家人から、その媼は近頃亡くなったと聞いた。
「この田上村のとなりに十料村というところばあるとです。今は茂木村も天領になっちょるばってん、以前は島原の御領所にて、その村が天領と島原御領所の境にあたって、つまり御料と御料、五料と五料で十料と名のついたとですよ」と柳屋が話す。
「面白いな。江戸にも後藤と後藤の間にある橋を五斗と五斗の音をかりて、一石橋と呼ぶのがあるが、それと同日の談だな」と南畝が応じた。
田上村を出て、再び谷川を右に見ながら南へ行く。やがてその川にかゝる石橋を東へ進むと天草灘の海面がひらけてきた。海岸へと下れば入海となったあたりは潮の干潟が広がって、マテという貝を拾う人達の姿がみえた。北浦である。南畝の足で半とき足らずで着いた。
その藤の棚は海岸沿いの農家の庭先にあり、根は岸辺から生え出ている。樹齢はかなりのものに見えた。花の藤色はもはや色あせて、盛り時は過ぎたらしい。藤棚の岸から干潟に下りて潮干狩の人影にまじって、めずらしい小石や貝を拾った。
「孫の鎌太郎が居れば喜んではしゃいだことであろう」と云うと、
「大田様は四人のお孫のじじ様でおられたとですね」と中村李囿が云った。
「向うの岸が茂木の浦かな」
「はい。あの高台が注連が崎で、上に月見の台ばあって、八月十六日の月はひとしおの観月の勝地ですばい。あれに登りますとな天草列島から遠く東に島原半島の望めるとです」
藤棚の陰に戻って農家で水をもとめていると、その横の樹陰に毛氈を敷いて、「女あまた酔しれて、三線のことかきならし、かしがましきまで、歌うたう」一団がある。中村李囿が、あれは長崎の富裕な商家の妻女たちの遊山だと云った。みれば数挺の駕籠もあり、下僕や婢がかいがいしく酒肴の世話をしている。
「長崎の女達ののびやかなる遊びっぷりを見れば江戸の妻女どもの羨むことうけあいだ」
と云ってから、ふとあの女達の中に艶に酔を発した薬師寺百合の顔があるのではないかと思って、何をわしは考えていることかと、柳屋と李囿のあとについて岸伝いに茂木の浦へと向う。
以下、(2)へ続く。