投稿者「misakimichi」のアーカイブ

龍神温泉「かやぜの湯」  大村市田下町

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龍神温泉「かやぜの湯」  大村市田下町

大村市田下町に、龍神温泉「かやぜの湯」(天然かけ流し)が、9月1日オープンした。
国道444号大村ー鹿島線沿い。黒木渓谷の入口にある。多良山系への登山者にとって、嬉しい温泉施設。2012年10月7日(日)、郡岳から遠目越の縦走登山帰りに寄ってみた。

ここにもともと、温泉が湧き出ていた。25年前、個人の方が自宅内を300mボーリングすると、展示写真どおり源泉が50mくらいの高さまで噴き出たという。その後、現在の建築業社長が、このような形で営業することになった。
黒木渓谷は、古世紀の多良火山火口底跡と言われる。それを実証する源泉であろう。

近くの中岳町の国有林「萱瀬(かやせ)スギ植物群落保護林」では、森の巨人たち100選「萱瀬スギ 大名杉」(樹高:47m、幹周:4.9m、樹齢:推定約240年)の巨樹を見学できる。
本ブログ次の記事を参照。  https://misakimichi.com/archives/586

多良山系の郡岳から遠目越へ縦走  2012年10月

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多良山系の郡岳から遠目越へ縦走  2012年10月

2012年10月7日(日)快晴。多良山系の郡岳(標高826.0m)から遠目越へ縦走。参加9人。みさき道歩会の例会。
西登山口8:37—坊岩10:05—郡岳10:38—遠目越11:44(昼食)12:30—県道出合
13:26—西登山口14:10(徒歩距離 約8km)

多良山系の全山縦走で、一部はしょった郡岳山頂から遠目越の区間1.5kmを歩くのが、きょうの主な目的。大村市野岳湖先の西登山口に車2台を駐車し歩き出す。
長崎くんち日和の絶好な快晴。坊岩から大村市街、野岳湖、大野原方面の展望は、抜群だった。坊岩から郡岳山頂まではあと10分。経ヶ岳方面は山頂からでも望めない。

郡岳山頂から遠目越まで下って昼食。雑木林内の縦走路。アップダウンはなく、徐々に下る区間であった。前回は北川内から遠目越へ登っていたので、反対の大野原方向へ下る。
すぐ未舗装の林道終点と出合い、地形図どおりその林道を近道しながら歩いて行くと、九電64号鉄塔前を通り、野岳湖への県道へ出た。西登山口までは、あと40分の県道歩きだった。
郡岳一周のまた違った新しいルートが見つかった。

黒木入口に龍神温泉「かやぜの湯」が、9月1日オープンしている。近くなので希望者のみ温泉へ入って帰った。新温泉の紹介は、次の記事で。

宮さんの参加ブログ記事は、http://blogs.yahoo.co.jp/khmtg856/30163809.html

赤内田4・5・6・7・9・10号橋梁  福岡県田川郡赤村内田

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赤内田4・5・6・7・9・10号橋梁  福岡県田川郡赤村内田

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」福岡県の石橋によるデータは、次のとおり。

写真  1〜  2  №1,877   赤内田4号橋梁

田川郡赤村大字内田 小柳
橋幅:m  径間:2.7m  拱矢:1.35m
架設:明治28年(1895)頃
平成筑豊鉄道田川線

通行止めのフェンスがしてあります。

写真  3〜  4  №1,878   赤内田5号橋梁

田川郡赤村大字内田 小柳
橋幅:m  径間:m  拱矢:m
架設:明治28年(1895)頃
平成筑豊鉄道田川線

東側 水路だけ残して埋め殺してあります。

写真  5〜  7  №1,879   赤内田6号橋梁

田川郡赤村大字内田 小柳
橋幅:5.0m  径間:2.7m  拱矢:1.35m
架設:明治28年(1895)頃
平成筑豊鉄道田川線

鉄骨で補強してあります。西側は下駄歯。

写真  8〜  9  №1,983   赤内田7号橋梁

田川郡赤村大字内田 前ヶ原
橋幅:14.0m  径間:1.86m  拱矢:0.93m
架設:明治28(1895)年頃
平成筑豊鉄道田川線

前回見落とし、今日は周辺の草刈作業でよく見えます。西側は下駄歯。

写真  10〜 11  №1,882   赤四郎丸9号橋梁

田川郡赤村大字内田
橋幅:9.5m  径間:2.7m  拱矢:1.35m  環厚:35cm
架設:明治28年(1895)頃
平成筑豊鉄道田川線

10号橋梁から北へ約100m地点です。東側ポータル切石造。

写真  12〜 13  №1,883   赤四郎丸11号橋梁

田川郡赤村大字内田
橋幅:13.0m  径間:2.7m  拱矢:1.35m
架設:明治28年(1895)頃
平成筑豊鉄道田川線

大祖神社前の橋から西側に見えます。

内田三連橋梁  福岡県田川郡赤村内田

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内田三連橋梁  福岡県田川郡赤村内田

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」福岡県の石橋によるデータは、次のとおり。

№1,880   内田三連橋梁

田川郡赤村大字内田
橋幅:10.5m  径間:3.3m  拱矢:1.65m  環厚:46cm
架設:明治28年(1895)8月
平成筑豊鉄道田川線

内田三連橋梁(通称 みつあんきょ)
文部科学省登録文化財
「筑豊地方の石炭運送鉄道網拡充のために設立された豊州鉄道株式会社が油須原‐香春(現在勾金)間の一部として建設された。
三連式アーチの中央のアーチ下に川が流れ、両わきアーチ下は道路となっている。材質は、下流側が煉瓦造り、上流側とアーチ基部は切石造である。これは水流圧を受けやすい上流部分とアーチ基部を、石積みで強化したものと考えられる。一方、下流側の煉瓦の積み方は、基本的にはイギリス式であるが、アーチと周辺部分の煉瓦の積み方に特徴がある。アーチ部分は4層の煉瓦を市松模様に凹凸をつけながら積み、周辺部分はイギリス積の小口層を壁面から少し突き出して全面に、水平の帯を強調している。下流側は複線化を考慮し凹凸をつけて煉瓦が継ぎ足せるように積まれており、複線化が完成に至らず未完成部分が下流側に残り、結果として装飾的になっている。
明治時代中期の工法などの技術を知る上からも貴重な近代化遺産である。」
平成14年11月  赤村  赤村教育委員会

田川市石炭・歴史博物館  福岡県田川市伊田

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田川市石炭・歴史博物館  福岡県田川市伊田

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』による解説は、次のとおり。

田川市石炭・歴史博物館

田川市石炭・歴史博物館(たがわしせきたんれきしはくぶつかん、Tagawa City Coal-mining Museum)は福岡県田川市にあり、筑豊地方最大の炭鉱であった三井田川鉱業所伊田坑の跡地に1983年オープンした、かつて日本のエネルギーを支えた筑豊炭田の石炭産業に関する資料を展示した石炭鉱業史の専門館である。

概 要  田川市の石炭記念公園内にあり、地上2階建て。
筑豊地区の石炭の生成の地質学的な解説から始まり、原始的な採掘から近代的な採掘までの、炭鉱で使われた道具や機械類の変遷を展示解説している。また炭鉱労働者の労働風景や生活を描いた絵画、写真や文学の展示もある。屋外展示スペースには実際に炭坑での作業に使われた電気機関車やトロッコ、炭坑用機械などが展示され、当時の炭鉱夫が暮らした標準的な炭鉱住宅が再現されている。現在の日本のエネルギー事情まで解説した内容の濃い博物館である。また、石炭採掘中に出土したものなどを中心とする歴史的資料も展示されている。

博物館の向かいには“『炭坑節』発祥の地”の記念碑が建っている。この公園内には三井田川炭鉱の二本煙突と伊田竪坑櫓、筑豊地区で使われた蒸気機関車9600形(59684)と貨車(石炭車)1両が保存されている。収蔵している実際の炭坑労働者だった山本作兵衛作の絵画697点が、2011年5月25日、国際連合教育科学文化機関(UNESCO)により日本で初めて“世界記憶遺産”(世界の記憶)に登録された。

秋月のクスノキ・イヌマキ  福岡県朝倉市秋月

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秋月のクスノキ・イヌマキ  福岡県朝倉市秋月

秋月で見かけた巨樹・名木。田中天満宮のイヌマキについて、朝倉市HPによる解説は、次のとおり。

田中天満宮のイヌマキ
朝倉市 天然記念物 平成6年8月22日指定
朝倉市下秋月

樹高24.0m、胸高周囲3.2m。樹齢400年を超える大木。田中天満宮は、もと中世秋月氏の家臣 古賀平左衛門の屋敷内にあったといわれる。島原の乱出陣の際の藩祖長興の武運祈願が成就されたため、長重の代になって島原の方向に社殿を向けて再建され、歴代藩主がたびたび参拝に訪れた。また、明治9年(1876)に秋月士族(秋月党)の集合場所として、幕末明治の動乱の歴史舞台となったところでもある。

秋月眼鏡橋・キリシタン橋  福岡県朝倉市秋月

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秋月眼鏡橋・キリシタン橋  福岡県朝倉市秋月

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」福岡県の石橋によるデータは、次のとおり。

写真  1〜 7    №1,045  秋月眼鏡橋

福岡県朝倉市(旧甘木市)秋月
野鳥川
橋長:17.9m  橋幅:  径間:13.9m  拱矢:  環厚:52cm
架設:文化7年(1810)

「この石橋は文化七年(1810)に架けられたもので、ことに花崗岩使用は国内でも珍しく、昭和31年4月県指定有形文化財(建造物)に指定されている。
ところで、この橋が架けられる以前は、板橋でありそのため、一度大雨が降れば野鳥川が氾濫し、橋の流されることが度々で、其の都度、藩では橋の架け替えに手を焼いたものである。
その頃秋月藩は長崎警備の代番を命ぜられ、長崎へ赴く者が多かった。それらの人々は中島川に架かる石橋に目をとめて、あんな橋が秋月にも、と思わない者はなかった。これに裁断を下したのが首席家老の宮崎織部舒安である。かくて長崎の石工に頼み工事は着々と進められた。完成までに数年を要し、一度は竣工間際に崩壊するという事態もあったが、さらに慎重を期し再度着工、見事に完成したのが現在の橋である。橋名は初め長崎橋、だが今は眼鏡橋に定着している。」   甘木市教育委員会

写真  8〜 11    №2,064  キリシタン橋

朝倉市秋月
橋長:2.5m  橋幅:1.6m
単径間桁橋

「この上にはキリシタン畑というキリシタン関連の伝承が残る場所がある。秋月にキリスト教が伝わるのは、元亀元年(1570)。最盛時には2千人以上の信者がいたという。慶長12年(1607)に建てられた天主堂は、この伝承の地にあったのかもしれない。」
案内板より
鳴渡観音を過ぎ、山道を230mほど上ったところに架かっています。花崗岩の一枚岩です。
裏側にマリア像があるそうです。立て札には「今は見えず」とありました。がっかり。

秋月城下町  福岡県朝倉市秋月

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秋月城下町  福岡県朝倉市秋月

国の文化財等データベースが現在臨時メンテナンス中、利用できないため、福岡県の文化財による解説を載せる。

甘木市秋月伝統的建造物群保存地区
国・重要伝統的建造物群保存地区
【詳細】
名称 甘木市秋月伝統的建造物群保存地区
所在の住所 朝倉市秋月及び秋月野島の各一部
所在の場所
指定年月日 平成10年4月17日

【説明】
秋月は甘木中心部より北へ約7km、古処山の麓に位置し、盆地をなす町のほぼ中央を野鳥川が西流するという恵まれた自然環境の中にある。 秋月の歴史は古く、平安時代には秋月庄として、その名が史料にあらわれる。中世になると古処山城を本拠とした秋月氏が、勢力を強め、移封される天正15年(1587)までこの地を支配した。江戸時代に入った元和9年(1623)には、福岡藩黒田家の支藩として、黒田長興が5万石を分与され、翌年の寛永元年(1624)には城下の縄張りが行われて、城下町としての骨格がほぼできあがった。 江戸時代の間、町は経済的成長をつづけ、拡大したが、明治時代に入り、秋月藩が廃止されると、町の人口は減少し、武家屋敷の多くが田畑へ転じた。さらに、町の中心は通りのある町場へと移り、秋月はその後、山間の小規模な集落として存続することとなった。幸い、秋月は今日に至るまで、大きな災害や開発もなかったため、城下町の構造を失うことなく、その姿を継承することができた。 甘木市秋月伝統的建造物群保存地区は、江戸時代に区画された地割と街路、町中をめぐる水路網など近世城下町の基本的構造を良く伝え、武家屋敷、町家、社寺建築などの伝統的建造物群が各所に残されている点が貴重であり、また、これらが周囲の自然環境と一体となって、地方の小城下町として豊かな歴史的環境を形成する点が評価される。

長崎の西空の夕日  12− 9

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長崎の西空の夕日  12− 9

長崎市南部の団地、わが家から見た夕日。電柱と電線は邪魔なので近くにも出かける。夕日シリーズは以降も続く。

写真  1〜 2  2012年 9月 3日の18時43分頃
写真  3〜 4  2012年 9月 4日の 6時45分頃  朝空けの虹
写真  5      2012年 9月 5日の 18時 6分頃
写真  6〜 8  2012年 9月 6日の18時17分頃
写真  9      2012年 9月 7日の18時36分頃
写真 10〜12  2012年 9月10日の18時30分頃

明治時代地形図の「烽火山番所道」

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明治時代地形図の「烽火山番所道」

国土地理院の明治時代の旧版地図上で、「烽火山番所道」を確認してみよう。

上の地形図が明治17年(1884)測図。中央上に烽火山の高いピークと南肩鞍部に大荷床。西側谷間の鳴滝奥から細い点線の小径が、大荷床まで上り表示されている。これが長崎市史に記す新番所跡と旧番所跡を通る旧時の正道「烽火山番所道」であろう。

この地形図で、「烽火山番所道」のルートを確認できる。この頃までまだ道が残り、利用された形跡がある。
本ブログの誤って削除した書庫の記事に、昭和30年代、越中哲也先生が「烽火山番所道」を歩かれた資料を載せていた。その資料が何だったか、今、思い出せず調査中。

下の地形図が明治34年(1901)測図。前記の番所道の小径はもう表示されていない。大荷床を越し、東側の秋葉山や妙相寺へ下る道は、明治17年測図と同じく描かれている。この道も廃道となっていたが、私たちは江越先生と復元し、道の分岐上下にプレートを付けた。