投稿者「misakimichi」のアーカイブ

高田町濃施の道標  みやま市高田町濃施 ( 福岡県 )

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高田町濃施の道標  みやま市高田町濃施

サイト「近世以前の土木・産業遺産」福岡県リストによるデータは、次のとおり。JR渡瀬駅近く、国道208号起路免喜交差点から西の楠田川に出る。楠田川に沿う三軒家集落は、三池街道のうちでも大変賑わった所。柳川橋の川岸に街道の旧橋の場所から移設した追分道標が建っている。

高田町濃施の道標 たかた、のせ
みやま市 (三軒屋)<三池街道> 石道標(凝灰岩) 高90㎝,幅22㎝,厚25㎝ 江戸期? 市有形民俗 WEB 移設/基部は大きなCブロック (正面)「や奈かわ道」、(右面)「セたか道」 2 C

高田町下楠田の里塚石 (三里)  みやま市高田町下楠田 ( 福岡県 )

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高田町下楠田の里塚石 (三里)  みやま市高田町下楠田

サイト「近世以前の土木・産業遺産」福岡県リストによるデータは、次のとおり。西鉄渡瀬駅の北方、国道208号沿い福正寺の入口にある。

高田町下楠田の里塚石 (三里) たかた、しもくすだ
みやま市 福正寺<三池街道> 一里石 高140㎝,30㎝角 1630年代以降 WEB(みさき道人) 移設/中央で斜めに折損→修復 (正面)「三里」/同上 2 C

(以下は、ブログ「千寿の楽しい歴史・みやま市高田町の有形民俗文化財」による説明)
…下楠田渡瀬南町の福正寺の参道入り口に「三里石」の石柱がある。地上高さ140㎝、縦横各30㎝余の砂岩角柱で、正面上部に「三里」、下部に「江浦道」と陰刻してある。また、地上80㎝余の箇所で折れているものの、修復されて昔の面影をとどめている。
文献によれば、「倉永の市場山下の少し北の位置に、三里石あり」と記されているので、街道の三里石は、現在地より南の隈川のほとりに建てられたのではなかろうか。

鎮守明神祠堂の造営由来  佐世保市赤崎町庵崎 ( 長崎県 )

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鎮守明神祠堂の造営由来  佐世保市赤崎町庵崎

佐世保市高橋輝吉氏から送付された。佐世保市赤崎町庵崎の「鎮守明神祠堂の造営由来」碑文と、高橋氏稿「同石文を読んで」は、次のとおり。祠堂と石碑所在場所は、軍用タンク群がある航空写真のあたりだろう。

祠堂造営由来
大正七年七月ヨリ庵崎ニ於テ海軍ノ工事始マリ職員職工二百余名此ノ地エ居住由ツテ一同記念ノ為メ鎮守明神ノ祠堂ヲ造営シ恵比須神ヲ合祠ス
大正十年四月十日

高橋輝吉氏稿  「鎮守明神祠堂造営由来の石文を読んで」

軍の仕事。海軍は秘密の事が多い。事に此の地での仕事は、僻地の所であった。重油タンクを「コンクリート」で造る事で、大変だったと思う。さて、工員の方は、どこからどうやって来たのかなー。三年有余。現在はウラ道より行けるが、当時は海からだけです。
海軍式で、五?分前となー。体も一回り大きな人が。後はどうなったのかなー。コンクリートだけで重油タンクの造り。並の仕事ではない。当時は「ミキサー」なんてなく、手造りだったと思う。針尾無線塔も人海造りだ。同じような事かなー。
今にして思えば当地方、地震帯がなく完成した。工事関係者は安堵にて、石文の事となったと思うが、一つ洗脳の事もあったと思うので、恵比須神と二つの神を祀ったと思う。

佐世保市愛宕山に残る戦前の炭鉱標石 ( 長崎県 )

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佐世保市愛宕山に残る戦前の炭鉱標石

佐世保市高橋輝吉氏から送付された。2015年2月7日(土)付読売新聞佐世保地域版の掲載記事あらましと、高橋氏稿の資料は次のとおり。

尾根中心に20本 「日炭」や「相浦炭坑」刻印  採掘示す貴重な資料  (読売新聞)

佐世保市の愛宕山(259m)で戦前のものとみられる炭鉱の標石が見つかった。同市木宮町の高橋輝吉さん(87)が「日炭」や「相浦炭坑」などと刻まれた20本を確認した。旧日本軍の要塞地帯を調べている高橋さんは「軍事施設を一望できる愛宕山は戦前、立ち入りが規制されていた。炭鉱開発を円滑に進めるため置かれたのではないか」と推測している。

高橋輝吉氏稿  「第二要塞地帯内の愛宕山炭坑標石」

地元、佐世保市愛宕山の西側に有った。陸第25号を探していたとき、「相浦炭坑」と刻したコンクリート柱を発見す。10年前である。陸軍の石が一息ついたので、思い出してみた。調べている内に「日炭」とも刻された石も有り「コンクリート」。元は昭和14年頃。発電所、日産炭坑と佐世保西側の町が揺れ動いた時代。炭坑史誌の記録あり。
昨年4月より、愛宕山の中を廻り廻った。棚方町の新住宅地あたりが境とみた。石の間隔は30m〜50mの間が有ります。一部は崖崩れで石なし。10月に一歩踏み出し、山の上方面へ。有りましたぞ。4本の石発見。これより下方面を探す。航空写真の図を参照。
昭和14年、朝鮮の方が「相浦中学校」へ入校して来ました。吉田君、ガク君、周君と入って来ました。吉田君の父は「ヤンバン」でした。町にもチョゴリの方が。鱈の干物等も有りました。朝鮮の方は、伍=コ、拾=チと、発音してました。炭坑の石より、当時を思い出してみた。

伊能忠敬長崎測量の止宿は、諏訪神社下の地 ( 長崎県 )

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伊能忠敬長崎測量の止宿は、諏訪神社下の地

次は前伊能忠敬研究会入江氏の作成資料。「長崎町の止宿、炉粕町の大同庵(皓台寺の末寺)」跡とは諏訪神社下。現在の炉粕町7番地「立正佼成会長崎教会」の地である。全国的にもこれほど長期間滞在した止宿(ししゅく)は珍しい。NHK大河ドラマは、2年後に「伊能忠敬」が予定されているという。
長崎市観光政策課へ次の内容の「伊能忠敬長崎測量止宿」さるく説明板を早く設置するよう要望しているが、まだ実現しない。
佐世保市ではすでに2014年5月、「伊能忠敬相浦地区測量二百年記念之碑」が建てられている。

「伊能忠敬長崎測量止宿説明文」
伊能忠敬(いのうただたか。測量時は伊能勘解由・かげゆ)は全国測量の内、第八次測量(九州第二次測量)に於いて、文化十年八月十八日(1813年9月12日)から九月二日(9月25日)と九月十六・十七日(10月9・
10日)の16日間、ここに在った大同庵(だいどうあん)を止宿(ししゅく)とした。
この期間、新大工町から測量を始め、海岸線や町中を縦横に測量した。

伊能忠敬『測量日記』  八月十八日(9月12日)
晴天。六っ半頃(午前7時頃)に稲佐郷、又浦を出立。乗船して五っ時後(午前8時過ぎ)に長崎町へ着く。 乙名の春野半兵衛と横瀬半三郎が出る。四っ半頃(午前11時頃)立山役所(現:長崎歴史文化博物館)へ届けに出る。当時(この時)の御奉行遠山左衛門尉(景晋。江戸町奉行遠山金四郎景元の父)の用人の福田仁右衛門と手付の豊田源治左衛門に挨拶する。長崎町の止宿、炉粕町の大同庵(皓台寺の末寺)に一同で泊まる。

伊能忠敬『測量日記』  九月一日(9月24日)
晴天。前と同じ(同所に逗留、地図並びに諸帳を調べる)。 阿蘭陀出島館(この時のオランダ商館長はヘンドリック・ドーフ)、並びに象(セイロン産の象1頭。版画が残されている)を見た。唐館(忠敬の手紙によると、唐船も見学している)を見る。 夜は曇り(夜間の天文測量が出来なかった)。

2月27日から「完全復元伊能図全国巡回フロア展in唐津」開催 ( 佐賀県 )

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2月27日から「完全復元伊能図全国巡回フロア展in唐津」開催

「伊能図全国巡回フロア展」は今回限りとなった。2月27日(金)から3月1日(日)まで唐津市文化体育館で開催される。残念ながら長崎県内での開催は県や市の予算の関係で実現できなかったそうである。佐賀県が最後となるので、この機会に伊能図の全貌をご覧いただきたくご案内します。
唐津市HPイベント情報は、次のとおり。

完全復元伊能図全国巡回フロア展in唐津

今からおよそ200年前に作られ、精度の高さにヨーロッパの技術者も感嘆した伊能忠敬の日本地図。
その全貌を唐津で公開します。
■ と き 平成27年2月27日(金曜日)〜3月1日(日曜日)  午前9時〜午後5時(最終日は午後4時30分まで)
■ ところ 唐津市文化体育館(和多田大土井)
■ 入場料 無料です
伊能図の鑑賞は地図上を歩きながら行います。必ずくつ下を着用してご来場ください。
■ 同時開催イベント
•特別講演会
•歩測大会
•DVD展
•不動産鑑定
•測量機器展示、実測体験
•ハザードマップをみてみよう
•伊能図フロア展開催記念ウォーキング
•楊柳観音像(国重要文化財)の展示
問い合わせ 唐津市文化振興課 TEL 0955-53-7129

祇園神社の参道橋  小郡市祇園1丁目 ( 福岡県 )

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祇園神社の参道橋  小郡市祇園1丁目

サイト「近世以前の土木・産業遺産」福岡県リストによるデータは、次のとおり。国道500号により小郡市街へ入る。小郡小学校前交差点の角に祇園神社はある。

祇園神社の参道橋 ぎおん
小郡市 祇園神社 石桁橋(凝灰岩) 長2.8m(2G),幅1.9m 天明年間(1781頃) WEB(石橋) /WEB(みさき道人) 中央を除いて、橋面がアスファルト舗装/水路が埋められていて橋の機能なし 小規模だが、立派な高欄/石桁と橋面石の二重構造/土に埋もれて見えないが、周辺の同規模の太鼓橋がすべて2径間なので、恐らく2径間だと思われる 4 C

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」福岡県の石橋によるデータは、次のとおり。

№2,440 祇園神社参道橋

小郡市祇園1丁目
橋長:2.8m  橋幅:1.9m  円弧桁橋
架設:天明年間(1781年頃)

国道500号線のすぐ脇
左手前の壊れているところに横たわっている石には、「天明」の文字が刻まれています。

菖蒲坂溜池  基山町大字小倉 ( 佐賀県 )

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菖蒲坂溜池  基山町大字小倉

サイト「近世以前の土木・産業遺産」佐賀県リストによるデータは、次のとおり。県道300号により行き、基山町役場から基山総合公園の方へ上がる。公園の北西部に菖蒲坂溜池はある。

菖蒲坂溜池 しょうぶざか
(三養基)基山町 基山総合公園 溜池 長約50m 寛文4(1664) 町教委 公園として修景整備 2 –

田代代官所跡  鳥栖市田代上町 ( 佐賀県 )

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田代代官所跡  鳥栖市田代上町

現地説明板は、次のとおり。現在は鳥栖市立田代小学校の敷地となっている。

田代代官所跡

江戸時代、鳥栖市の東半分は対馬藩領でした。対馬藩は田代領を治めるために代官所を設置し役人を派遣しました。田代上町に所在する西清寺の記録によると元和年間(1615〜1624年)に建築されたと思われます。
「御勘定所田代覚書」には代官所の建物は田代上町にあり「御屋舗」と呼ばれていたことが書かれています。また、長崎街道に沿って南面し、表間口が四八間、奥行きは東八二間、西七七間、裏は六八間の広さであったことがわかっています。
田代代官所は嘉永4年(1851年)に改築されたことが記録に残っています。この指図はその時の設計図に当たるものと思われ、弘化4年(1847年)の作成と考えられます。指図には全部で60の部屋が記されています。また、建物の一部は2階建てになっていたようです。
指図の本家は代官が公務を行った建物で、中庭の奥は住まいとして使われていました。
この他に、享保9年(1724年)の指図も現存してあり、これらの指図は平成11年に鳥栖市重要文化財(歴史資料)に指定されました。            鳥栖市教育委員会

田代宿の追分石  鳥栖市田代昌町・田代外町 ( 佐賀県 )

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田代宿の追分石  鳥栖市田代昌町・田代外町

サイト「近世以前の土木・産業遺産」佐賀県リストによるデータは、次のとおり。所在場所は地図のとおり(「とすの文化財解説シート」から)。

田代昌町の道標(追分石) たしろ、しょう
鳥栖市 <長崎街道・田代宿東口> 石道標(自然石) 高約1m 享和2(1802)以前 市重文 WEB 原位置? (正面)「左、こくら/者加多、へ」(=博多)、(右面)「右 ひこ山道」/尾張の商人・菱屋平七の旅日記『筑紫紀行』(享和2(1802))に記載がある 1 C

田代外町の道標(追分石) たしろ、かん
鳥栖市 <長崎街道・田代宿西口> 石道標(自然石) 高約1m 享和2(1805)以前 市重文 WEB 原位置? (正面)「右 さか/左 くるめ、道」/太田蜀山人の『小春紀行』(文化2(1805))に記載がある 1 C

鳥栖市HPの市内の文化財による説明は、次のとおり。

市指定 重要文化財(石造建造物)
田代宿の追分石(2基)
【所在地】 鳥栖市田代昌町・田代外町
【指定日】 昭和49年5月13日

街道が左右に分かれる道標として建てられた石を追分石(おいわけいし)といいます。
江戸時代に田代宿は轟木宿とともに長崎街道の重要な宿場でした。その田代宿の東口(田代昌町)と西口(田代外町)にそれぞれこの追分石があります。それぞれ高さは約1mほどの自然石が利用されています。
東口のものは「右‐ひこ山、左‐こくら、はかた道」と彫られており、享和2年(1802)の尾張の商人菱屋平七(ひしやへいしち)の旅日記「筑紫紀行」にこの追分石の記述があります。 また、西口のものは東口と同じ書体で「右‐さか、左‐くるめ道」と彫られており、文化2年(1805)の太田蜀山人(大田南畝)(おおたしょくさんじん;おおたなんぽ)の「小春紀行」に記述があります。
これらの記録から、現存する追分石は1800年頃には建立されていたことがわかります。