投稿者「misakimichi」のアーカイブ

西海道(西路)の道路遺構  福岡県小郡市・佐賀県鳥栖市 ( 福岡県 )

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西海道(西路)の道路遺構  福岡県小郡市・佐賀県鳥栖市

サイト「近世以前の土木・産業遺産」福岡県リストによるデータは、次のとおり。私はここかどうかわからないが、県道14号曾根崎・端間間の福童付近の福岡県小郡市・佐賀県鳥栖市の県境ラインで確認した。この用水路が概ね現在の県境らしい。

西海道(西路)の道路遺構 さいかいどう
小郡市・佐賀/(三養基)基山町 <西海道(西路)> 道路 古代(律令期) 古代道路研究会 畑となっており、判別が困難 筑後と肥前の国境沿いに西海道西路が通っていた 4 C

中村太一氏研究紀要HP「地理資料にあらわれた古代駅路」(PDF)3〜4頁は、次のとおり。掲載図も同HPから。

3 地図②—行政境界線
古代の主要道路は、しばしば国郡郷の境界線として利用される。これは、計画道路が大地に刻まれた明瞭なラインを形成しており、境界線に活用しやすかったためと考えられる。このことから逆に、現在の直線的な行政境界線を探し、古代道路の路線を復原・想定する方法がある。
図4は、肥前・筑後国境と西海道駅路との関係を示したものである。大宰府から南下する駅路は、基肆駅家で肥前方面への駅路と、筑後・肥後方面に向かう駅路に分岐する。そして、肥後方面への路線のうち高原川付近から宝満川以南までの区間が、現在の佐賀県基山町・鳥栖市と福岡県小郡市の県境となっている。
この県境は、古代以来の肥前と筑後の国境になる。この路線は、幅15m前後の帯状の窪地(A・B地点)や、幅22m程度の堤防状地割(C地点)が見出され、駅路の痕跡である可能性が非常に高い5)。

(2015年2月22日 追 記)
サイト「近世以前の土木・産業遺産」福岡県リストによるデータが、次のとおり修正された。本ブログ記事も、現地再調査のうえ近日中に差し替えしたい。

西海道(西路)の道路遺構 さいかいどう
(三養基)基山町 <西海道(西路)> 道路 長約60m 古代(律令期) 木下 良 畑となっており、判別が困難/現在確認できる場所は、甘木鉄道と小郡市との境界線の交差する南側の60m程度のみ 筑後と肥前の国境沿いに西海道西路が通っていた 4 C

宮ノ陣の道標  久留米市宮ノ陣2丁目 ( 福岡県 )

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宮ノ陣の道標  久留米市宮ノ陣2丁目

サイト「近世以前の土木・産業遺産」福岡県リストによるデータは、次のとおり。所在場所がわかりにくいので、地図を載せる。

宮ノ陣の道標 みやのじん
久留米市 思案橋北 石道標 高143㎝,24㎝角 天保14(1843) 小郡市教育委員会/WEB(みさき道人) 原位置?/下3分の1で水平に折損→修復 (正面)「右 於古”ふり さ以ふ/左 たしろ 左可”」(=小郡,佐賀) 2 C

HP「豊前街道・道中記」松崎〜府中(久留米)による記録は、次のとおり。

長崎街道・田代宿から追分けて久留米へ至る「くるめ道」(久留米では肥前道と呼ぶようです)は、新宝満川の支流の思案橋川の河口に架かる思案橋、そして築後川の宮ノ陣橋の袂にあった宮地の舟渡しを経由して久留米へ入っていました。新宝満川の支流の思案橋川の河口近くに架かる思案橋の北側の袂・正面に「思案橋北側追分石(名前そのままです)」が残っていて、追分石には「左たしろ さが、右おごふり さいふ」と彫られています。なお、思案橋のすぐ東側(向かって右側)には西鉄天神大牟田線の線路、そして県道88号線が並行して走っています。

長崎街道・田代宿から思案橋までの区間はJR田代駅やJR鳥栖駅、そして鳥栖商工団地の開発により、その面影はほとんど消えてしまったようですが、田代が久留米のほぼ真北に位置することから、現在の国道3号線からそれほど離れずに続いていたものと思われます。

五反三歩の堤  鳥栖市村田町五反三歩 ( 佐賀県 )

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五反三歩の堤  鳥栖市村田町五反三歩

サイト「近世以前の土木・産業遺産」佐賀県リストによるデータは、次のとおり。国道34号西部工業団地入口交差点の少し手前から右の市道へ入る。村田公民館五反三歩分館があり、裏側に「五反三歩の堤」が見える。堰堤は佐賀競馬場西側の駐車場あたりにある。

五反三歩の堤 ごたんさんぶ
鳥栖市 溜池 元和年間(1615-24)? みやき町教育委員会 排水用の「尺八」と呼ばれる石樋管が白石神社に移設 成富兵庫茂安/佐賀藩で最初の堤(?) 2 C

中原水道  みやき町蓑原 ( 佐賀県 )

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中原水道  みやき町蓑原

サイト「近世以前の土木・産業遺産」佐賀県リストによるデータは、次のとおり。国道34号東中原交差点から南へ入る。次の通りが旧長崎街道で左へ進むと中原宿東に「祇園社」がある。神社手前西脇を道路は挟んで流れる用水路が「中原水道」である。東寒水にも「祇園神社」があるが、ここは場所が違う。

中原水道 なかばる
(三養基)みやき町 寒水川 上水路 寛永11(1634)以前 町教委 堰の付近は当時の石組が残る/大部分がC改修 一の瀬井堰から取水し、宿場の飲用と灌漑用に用いた/成富兵庫茂安 2 C

お茶屋の堤と象の鼻  みやき町白壁 ( 佐賀県 )

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お茶屋の堤と象の鼻  みやき町白壁

サイト「近世以前の土木・産業遺産」佐賀県リストによるデータは、次のとおり。国道34号白石東交差点から南の茂安通りに入る。白石神社分岐は上がらずそのまま市道を進むと、すぐ右手上に「お茶屋の堤」の堰堤がある。ここの左は白石神社参道口鳥居があるところである。

お茶屋の堤の「象の鼻」は、2枚目写真の堤対岸に見える石垣部分。接近できる林間の道がある。象の鼻は、写真6枚目以降。

お茶屋の堤 おちゃや
(三養基)みやき町 <通瀬川> 溜池 堤長約150m 寛永11(1634)前後 町教委 保存状態良好/締切堤中央にあった石樋管は残存していない 白石鍋島藩の成立(1633)後に茶屋が造られたため、成富兵庫茂安(1634没)の関与の可能性は不明 1 C

お茶屋の堤の「象の鼻」 おちゃや
(三養基)みやき町 <通瀬川> 水制(取水用) 長約50m 寛永11(1634)前後 町教委 先端部を除き用水はC化 用水の取水部は溜池東部にあり、嘉瀬川の石井樋にある「象の鼻」と同じ構造をしている→こちらの方が時代が後のため、何らかの理由で真似たとされている 2 B

白石神社と宝物展示館  みやき町白壁 ( 佐賀県 )

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白石神社と宝物展示館  みやき町白壁

国道34号白石東交差点から南の茂安通り市道を山手へ上がって行くと、白石神社がある。みやき町観光情報サイト「みやき」による説明は、次のとおり。

白石神社

佐賀藩の歴史を彩る、白石鍋島家ゆかりの神社
白石神社は北茂安校区・白石地区にある歴史ある神社です。文政6年(1823年)白石鍋島家第6代鍋島直章公により創建され、祭神は白石初代邑主鍋島直弘公、白石焼の先覚者である鍋島直暠公、土木治水の神・成富兵庫茂安公の御三体が合祀されています。
神社の境内へ続く参道の石段は、広い横幅に比べ、一段の高さは15cm程度で、警護の侍が馬に乗ったままで参拝できるよう、馬の脚に合わせて造られています。

由来
佐賀藩は肥前国の佐嘉・神埼・小城・杵島・藤津・三根全域と養父・松浦、高来、彼杵の一部を合わせ持った
(35万7千石を領有していた)外様大藩でした。
この領地を3支藩(蓮池、小城、鹿島)と鍋島4庶流家(白石、川久保、村田、久保田)、龍造寺4家で守っていました。

この白石神社に祀られている鍋島直弘公は、初代佐賀藩主・鍋島勝茂の四男で、初代白石邑主(ゆうしゅ)です。父、勝茂の信頼厚かった家臣の成富兵庫茂安は、直弘の教育係として見込まれ、直弘は幼少の頃に養子として成富家で育てられました。
寛永11年(1634)茂安が75歳で没すると翌年白石邑(現在の北茂安校区・白石地区)に居をかまえ、のちに鍋島姓に戻った直弘はこれよりのちを白石鍋島家と称しました。(ちなみに「白石」という地名は成富兵庫茂安がかつて杵島郡白石(現在の杵島郡白石町)に知行地をもっていた事に由来するそうです。)
文政6(1823)白石鍋島家6代目邑主、直章公はこの地に邑祖直弘公を祭神とした社殿を建立し、その後、筑後川の治水土木事業に功績を残した成富兵庫茂安公を合祀しました。

成富兵庫茂安公とは…
白石神社は、治水事業に多大な功績を残した成富兵庫茂安公を合祀しています。茂安公は龍造寺家家臣、成富信種の次男として現在の佐賀市鍋島町増田で生まれました。
若い頃は勇猛果敢な肥前武者として広く名が知られており、豊臣秀吉、福島正則、浅野長政、藤堂高虎、黒田如水らそうそうたる戦国武将が文献の中で茂安公を褒め称えています。

白石神社宝物館
白石神社宝物館にある、走破焼の流れを汲んだ一対の三月堂形の磁製灯ろうは、高さ225cm、幅60cmの巨大なものです。明治18年(1885年)、「五十崎芳太郎作」と銘記されていて、宝珠、宝珠台、笠、火袋中台、台座、基礎台からなり、生きているように灯篭にまつわりつく龍の象がんなど、美術的に焼成された逸品で、町の重要文化財に指定されています。

江口地先の荒籠1〜5  みやき町江口 ( 佐賀県 )

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江口地先の荒籠1〜5  みやき町江口

サイト「近世以前の土木・産業遺産」佐賀県リストによるデータは、次のとおり。国道264号沿い筑後大堰の下流側がみやき町江口となるが、荒籠らしいのは詳しく調査しなく不明だった。付近の状況写真のみ載せる。筑後川河川事務所の文献・写真で位置確認が必要だろう。

江口地先の荒籠1 えぐち
(三養基)みやき町 筑後川(右岸) 石水制 長約35m 江戸中期 筑後川河川事務所 保存状態良好 筑後川の荒籠群(小型) 2 –

江口地先の荒籠2 えぐち
(三養基)みやき町 筑後川(右岸) 石水制 長約19m 江戸中期 筑後川河川事務所 保存状態良好 筑後川の荒籠群(小型) 2 –

江口地先の荒籠3 えぐち
(三養基)みやき町 筑後川(右岸) 石水制 長約25m 江戸中期 筑後川河川事務所 保存状態良好 筑後川の荒籠群(小型) 2 –

江口地先の荒籠4 えぐち
(三養基)みやき町 筑後川(右岸) 石水制 長約19m 江戸中期 筑後川河川事務所 保存状態良好 筑後川の荒籠群(小型) 2 –

江口地先の荒籠5 えぐち
(三養基)みやき町 筑後川(右岸) 石水制 長約90m(うち、70mが堤防上) 江戸中期 筑後川河川事務所 保存状態良好 筑後川の荒籠群(中型) 2 C

なお、HP「筑後川 治水事業の歴史1(明治維新前)」には、次の説明がある。
http://www.qsr.mlit.go.jp/chikugo/kizon/chikugo/histry1.html

江戸時代においても筑後川の舟運は盛んであり、干満を利用してかなりの舟が江口(現北茂安町、河口より20km)まで遡航し貿易を行なっていた。そこで、舟運の水深を維持するために、慶長年間、徳川幕府の中期(1700年)頃、両岸から河心におよぶ荒籠(長大なT型の透過水制)が随所につくられ、その一部は今なお当時の姿を残している。

当時の築堤概要について「石原家記」に「大川筋御領分村々で、荒籠23ヶ所、水刎3ヶ所ご座候」と、久留米領の荒籠の数が記され、享保元年(1716年)6月、小森野荒籠竣功の記事がある。また、久留米から河口に至る「肥前の荒籠数は15ヶ所」であったこともあわせて明記されている。

諸富日吉神社の参道橋  大川市諸富 ( 福岡県 )

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諸富日吉神社の参道橋  大川市諸富

サイト「近世以前の土木・産業遺産」福岡県リストによるデータは、次のとおり。大川市の北部。県道710号本木室交差点などから行く。

諸富日吉神社の参道橋 もろどみ、ひよし
大川市 諸富日吉神社 石桁橋(花崗岩) 長2.3m(G),幅1.9m 文久2(1862) WEB 装飾高欄以外は、小規模 1 –

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」福岡県の石橋によるデータは、次のとおり。

№3,456 諸富日吉神社参道橋

大川市大字諸富(もろどみ)
橋長:2.3m  橋幅:1.9m  単径間桁橋
架設:文久2年(1862)

幡保の里塚石(礎石)  大川市幡保 ( 福岡県 )

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幡保の里塚石(礎石)  大川市幡保

サイト「近世以前の土木・産業遺産」福岡県リストによるデータは、次のとおり。国道208号兼木町交差点から北へ県道765号へ入る。田口小学校の隣りに大川市田口コミュニティセンターがあり、「幡保の里塚石(礎石)」は、折れた上部のみ玄関横に移設し展示されていた。
大川市教育委員会「おおかわの歴史」平成23年発行94頁にこの現在の写真があり、「柳川城辻門から一里を示します。もとは国道208号沿い幡保の江頭エーザイ前に設置されていました。」と説明している。

幡保の里塚石 はたほ
大川市 田口コミュニティセンター 一里石(尖頭角柱) 江戸期 市教委/WEB(みさき道人) 再移設/下半分折損→紛失 (正面)「柳河…」/柳河藩では一里塚の代わりに一里石を置いた(柳川市に残る一里石とは書体が異なる→全国でも一里石を用いたのは、松山藩と柳川藩くらいしか見当たらないが、この点が、同一の揮毫を用いた松山藩と大きく異なる) 4 –

北古賀天満神社のクスノキとクロマツ  大川市北古賀 ( 福岡県 )

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北古賀天満神社のクスノキとクロマツ  大川市北古賀

国道208号兼木町交差点から北へ県道765号へ入る。田口小学校を過ぎ北古賀交差点先の左側に北古賀天満神社がある。
境内のクスノキとクロマツは、かなり大きい。大川市名木・古木百選に選ばれている。樹齢などは記録忘れた。